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虹の記憶  作者: 湯浅 裕
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虹色の記憶2

何度来ても、ここが個人の自宅という気がしない玄関。いや、ロビーと言った方がふさわしい。を入ると凱さんが笑顔で廊下の奥から現れた。相変わらず、その本心は哀しみと罪悪感でいっぱいだ。

えりりんと黒川君が、目を丸くして玄関ロビー内を見渡す。柴崎は、そんなリアクションにうんざりという顔をして、用意されているルームシューズに履き替えながら、出迎えた林さんに飲み物とおやつを頼んだ。

凱さんの誘導で亮達はロビー左手の間近にある、昔の字で会議室と書かれたこの屋敷で一番広い部屋に通される。会議室というだけあって、中央に大きなテーブルが置かれている。部屋の周囲にアンティークのキャビネットが設置されていて、その中と上には骨とう品が置かれている。壁には西洋風景の油絵。そして部屋の後方で大きな柱時計が重そうに振り子が動いている。

えりりんと黒川君が唸り交じりのため息を吐いた。

カーテン、シャンデリアなどの調度品のすべてが、重厚で豪華。なのに、上座の片隅にテレビとホワイトボードが置かれている。以前遊びに来た時に、ここで常翔学園経営者会議が行われると聞いた。テレビとホワイトボードはその為に必要なものらしい。

凱さんが、黒いビジネスバッグから、一台のノートパソコンを出した。

亮はその特徴ある形状および柄を見て、目を見張った。

「それって、アメリカ軍用の・・・」

凱さんは亮に微笑みを向けて、一本指を口に立てた。

言うな、もしくは、それ以上は聞くなってことの意味に捕らえた。

そのパソコンが一般には流通しないはずの代物であるから、入手経路などは間違いなく違法だろう。

「さて、これを使用する前に、説明してくれるかな?藤木君。」

「はい、その前に、りのちゃんの状況をお話しした方が、いいかもしれません。まだ、ご存じないですよね?」

「あぁ、りのちゃん、どう?」柴崎とえりりんが顔を曇らせたのを凱さんはいち早く悟った。「悪いのか?」

「俺たちにとっては、最悪です。でもりのちゃんにとっては、幸せなのかもしれません。」

亮は、病室で見てきた光景を話す。柴崎とえりりんは思い出し、涙ぐんむ。

黒川君は初めて知ったりのちゃんの様子に愕然としている。凱さんもショックを隠し切れないで、眉間に皺寄せてテーブルを睨み、白くなるほど拳を握った。

「くそっ、あの時の事がなければ、りのちゃんは。」いつも穏やかな凱さんの口調が崩れる。

「凱さん、精神科医の村西先生は、それだけが原因ではないと言っています。いろんなことが複合的に合わさって、りのちゃんが生きようとした結果だと。解離性意識障害は、患者独自が現状からの回避という処置をした結果、言ってみれば治療が終わっている状態。村西先生は、うつ病で死なれるよりはマシだと言っていますが、確かに同意はできるけれど、それでは、あまりにも俺たちは・・・辛い。」

亮の言葉に凱さんが無言でうなづく。そしてより一層に本心に哀しみが染まる。

「凱さんだけじゃない。新田も俺も、皆が少しづづ、りのちゃんの助けになれなかった事を悔いています。今からしたいのは、りのちゃんに何かをしてあげたいんじゃない。自分たちが納得したい。何もできないで終わりたくない。何かをしてあげたいのかもしれまん。」

潤んだ強い目の柴崎と目が合う。同意にうなづいてくる。

そこで、部屋がノックされる。林さんが茶器とクッキーを乗せたカートを運んでくる。

一つずつカップに注ぎ淹れようとする林さんを凱さんが、「自分たちでするからいい。」と制して林さんの退出を促した。

「りのちゃんが精神障害を患ったのは、1年前の事件が始まりではなくて、始まりは、もっと先、俺たちの知らない過去にあります。」

「ん?1年前の事件って何?ニコちゃんが頭に怪我した事?あれは、階段から落ちたって、え?違うの?」

「えり、後でちゃんと話すから、今は・・・・ごめんね」

柴崎が機転を利かせて、えりりんを黙らす。えりりんが残念そうに黙るのを見てから亮は話を続けた。

「りのちゃんは、自分が父親を死なせたと思い込んでいます。この思い込みがある限り、どんな治療も、誰の言葉も、りのちゃんは受け入れない。こちらがどんなに手を差し出しても、その手は拒否されます。罪の意識が強くて。だから、その罪の意識の始まりを調べようと思います。」

「罪の意識の始まり?」

「はい、りのちゃんのお父さんが本当に自殺だったのかどうか。」

「!」 ここに居る全員が目を見開いて俺に注目する。

「りののお父様は、電車に飛び込んで、賠償責任で財産を全部持って行かれたって、前にりの自身が言ってたわ。自殺じゃなければそんな賠償も要らなかったって事?そんなの、鉄道警察も調べて決定したから請求したんでしょう。」

「警察という名の組織に完璧の正義はありません。調べる価値はあると思います。」

柴崎の話を塞ぐように口を開いたのは意外にも黒川君だった。黒川君の本心に哀しみの混じった怒りが沸騰したやかんのように急に噴き出した。だけど皆からの注目に、恥じらいうつむく同時に、それらも治まる。

「調べて、本当に自殺に間違いはないとわかっても、何か、りのちゃんの意識を変えられるヒントがつかめるかもしれない。」

「そうね、何もしないよりは、いいわね。」

「あぁ、俺たちはりのちゃんを置いていかない、どんな事があっても。そう誓った。何もつかめなくても、りのちゃんの罪を共有するだけでもいい。俺たちは、いつもそうやって乗り越えて来た。辛い事は1/4に楽しい事は4倍に。」

「うーん。」凱さんは、腕くみをして、考え事をする。視線の先がPC。このパソコンを使う事にすごく躊躇していて、眉間に皺を寄せて黒川君の方にチラッと目線を移した。

「理事補、お願いします。もう一度、これを使わせてください。真辺さんを救う為に。」

もう一度?亮は黒川君の言葉に疑問を抱く。前にも、黒川君はこれ使ったことがある、何のために?電話の時に、このPCの存在を言ったのは黒川君だった。世に出回るはずのないパソコンを凱さんが持っている事も含めて、黒川君と理事補は何をした?

疑問を少しでも知ろうと、亮は目に力を入れ黒川君を視る。

さっき沸き起こった哀しみの含んだ怒りは薄れていて、今は強い正義感、そして歓喜は、そのパソコンに対する物だった。挑戦的な意識も読み取れる。

「何もハッキングしなくても・・・」凱さんは、亮に視線を移動して話す「僕で何とかできる。警察庁に知り合いが居てね。鉄道警察の事故調査書ぐらいなら、頼めば出してきてくれると思うよ。」

「今すぐに可能ですか?」

「今すぐにってのは無理だけど、うーんそうだな、なんとか一週間ぐらいで」

「それじゃ、遅すぎます。」

「えっ?」

「りのちゃんをあのまま、5歳児の精神のままで、一週間もほっとけません。新田もです。あいつは、りのちゃん以上に限界です。それにりのちゃんのお母さんも。」

あーもどかしい。えりりんと黒川君が居るから、亮が読み取った事を言えない。凱さんと柴崎だけなら、はっきり読み取ったと言えるのに。亮は凱さんを、まっすぐ見つめ、心で叫んだ。「わかってくれ、凱さん。」

凱さんは、亮と黒川君へ視線を交互に移動してから、軽くため息を吐いた。

「・・・わかった、これの使用を許可する。但し、無茶はするな、いいね、黒川君。」

「はいっ!」歓喜の返事をして目を輝かせる黒川君、とは対照に哀しみの罪の意識を色濃くする凱さん。

一体、この二人は何をしたのだろう。

そういえば、えりりんと二人で新田をだました嘘の誘拐事件の頃は、黒川君の心の底に憎しみと世の中に対する疎ましさが濁って沈んでいた。ありがちな思春期の抑えきれない感情が、お兄さんを亡くしたことで重く沈み溜まったのだと思っていた。だから、嘘の誘拐事件を起こした、と。だけど、今は沈んだ汚泥は、無くはないけれど、それほど重くはない。

事情を知った凱さんが、黒川君の為にこのパソコンを用意して、二人で何かをした。きっと、そうだろう。常翔学園に関わる悪い噂を精査し払拭するのが、凱さんの本当の仕事なのだから。

凱さんは、その珍しいパソコンの起動ボタンを押す。亮は好奇心が抑えきれず、画面の見える位置に移動した。

PCから聞いたこともない高音の回転音がして、画面が深い緑に変化する。英語の文字が小さく表示される。

凱さんが左手の親指以外の4本を載せると、すぐに認証OKの次にパスワード入力を求められる。凱さんは、とても長い暗証番号を打ち込んだ。30桁英数のランダム、亮が呆れて思わず唸ると、黒川君も首をすぼめて苦笑する。

世に出回らない高性能すぎるパソコンは、亮が使っているOSのスタート画面と同じレイアウトが表れるが、画面の色相がすべて迷彩色で派手さがないのは、戦場で使うものだから仕方ないのだろう。でもある意味これが格好いいと亮は、今度は感嘆の唸りを上げる。

「じゃ、本当に、無理しないように。」と言って凱さんは会議テーブルの上座を黒川君に譲る。

「大丈夫です。」そう言って指を柔軟しながら本心から子供のように喜んでいる黒川君に、凱さんが窘める。

「大丈夫じゃないんだよ、そもそも、ハッキングは犯罪だからね」

あぁ、そうか。亮はそこで初めて、自分がとんでもないことを後輩に頼んでいる事を実感する。

「ごめん。俺、そういう意識なく、とんでもないこと頼んだ。」

「藤木さん、やめてください。僕は藤木さん達と出会う前からすでにハッカーですから。逆にうれしいです。この腕を皆さんの為に使えることが。」

凱さんが口をゆがませて唸る。


「心配はありません。皆さんに迷惑のかかる失敗はしません。もし足がついたとしても、僕には完璧の正義はない組織が後ろにありますし、それに、理事補も何とかしてくれますよ、ねっ」と無邪気に見上げる黒川君。随分と親し気なやり取り、そうなるまでの何か秘密めいた事をした、と亮は確信した。

「まぁね。僕は、学園の生徒を守るのが仕事だからね。」凱さんは、大きなため息をつき、首の後ろを掻く。

「えりには全く話が見えないんだけど。」

「えりは、そっちで、おやつでも食べてなさい。」と柴崎が窘める。

「えー!」

皆が笑って、始めるハッキング

「じゃ、何から調べますか?」

「まずは、4年前の11月6日東京で起きた人身事故の詳細を。鉄道会社はわからない。被害者の名前は芹沢・・・」

「芹沢栄治」凱さんが補足する。

「まずはこれだけで行けるかな?」

「十分です。」

ピアノでも弾くように黒川君はキーボードを動かす。





事故の詳細をセキュリティのかかってないところから集めて、そして警察のデーターベースに侵入すると言う。

「新聞記事の情報なら、凱兄さんの頭に入ってるんじゃないの?」と麗華が言うと「4年前は日本に戻ってきていない、新聞記事を記憶し始めたのは、理事長補佐になってから、バックナンバーの新聞記事は無い」と言われてしまった。

何分もかからないうちに、黒川君は、4年前の人身事故の詳細をあらゆる新聞社の記事や、ネットニュースを拾い集め、記事を読み上げる。

「この日は東京で人身事故件数は一件ですから、この記事で間違いないですね。鉄道会社は帝都電鉄。2010年11月6日午前8時12分長瀬駅2番ホーム、東京発浜松行き特急スカイライナーが人身事故を起こし緊急停車したとあります。」

「長瀬駅って、都営環状に乗り換えの出来る大きな駅だ。」と藤木

「はい。通勤ラッシュの客5万人に影響が出たと書いてあります。」

「5万人!」と全員が上ずった声を出す。

「都営環状の方も遅れが出たと。当時のネット速報は、2時間後の段階で、まだ復旧のめどが立っていないとなっていて・・・・復旧したのはそれからさらに1時間後ですね。」

賠償金が凄くて、ほぼ全財産を鉄道会社に持って行かれて、無一文でって、りのが言ってたのを思い出す。

5万人に影響がでる事故の、それらのかかった費用の一切を遺族に請求されたら、そりゃ無一文になるわ。と大きなため息をついた。

「じゃ、このデーターを元に・・・」

そう言って黒川君は凱兄さんに顔を向けた。凱兄さんも無言で、うなづいて了解した旨を告げる。

一旦、新聞記事をすべて画面からなくすと。黒川君は柔軟でもするように、手をグーとパーを何度か繰り返してから「行きます。」と宣言してキーボードを叩き始めた。さっきとは全然違う、その指の速さと、麗華にはただのスクロールする縦じまにしか見えない画面にポカンと見つめていたら、黒川君は画面から目を離さず、指のスピードも落とさず、微笑んで言う。

「少し時間が、かかりますから、お茶でも飲んで待っていてください。」と。

藤木や新田が、サッカーボールを追いかけている時のように、この子はハッキングを楽しんでいると、麗華は思った。

ハッキングは犯罪。

凱兄さんが、躊躇して中々パソコンを使わせなかった意味を、麗華は今になってやっと理解する。

犯罪をする現場に自分は居る。

いつもいい加減にへらへらしている凱兄さんが、険しい顔で黒川君のすることをから目をそらさない。

普段とは違う状況を視認して、麗華はじわりと不安が胸に生じた。

警察のデーターベースにハッキングする事になるなんて、思ってもみなかったことだ。

犯罪をする人は、特別の、そういう人種なのだ、自分がその人種であるはずがない。考えるほどに馬鹿馬鹿しく分かり切った事だと思っていたはずが、こんな風に簡単に、自分が犯罪の一端を担う事になるなんて。

「お茶、入れてくれるか?」藤木が麗華の背を押して部屋の隅に置かれたカートへと促す。

林さんが淹れてくれた紅茶は、ちょうどいい飲み頃の温度になっている。

「悪いな、巻き込んじまって。」細めた目のまま麗華に見る藤木。不安を読まれた

「巻き込んだって、おかしい日本語よ。すべて了解済みで、私はこの場に居るのだから。」強がっているのを自覚。それすらもきっと藤木は読み取っているだろう。

「もしもの時は、俺がすべての責任を持つ。」

「もしもの時?責任って何よ?」麗華は4つ目のカップに紅茶を注ぐ。

「言い出したのは俺。お前は何も知らないを通せばいい。」

犯罪をすると事前に言われていたら、強く反対し、ほかの方法を探そうとしただろうか、麗華は瞬時に答えを出せる。

りのが元に戻るのなら、何でもする。

今まで、それが麗華の役割だった。そしてやるべきことだ。

りのに起きている事があまりにも衝撃的だったから、今からやることがあまりにも大事だから、頭と気持ちが置いてきぼりなだけ。

そんな麗華に対して、藤木は冷静に何をするべきかを考え、そしてすぐに行動を起こしている。覚悟も流石だ。

「そんなこと、できるわけないでしょう。」

「できないんじゃない。しなければならない。それが柴崎麗華の役割だ。」藤木はまっすぐ麗華を見つめる。何時になく神妙で、それが余計に不安を助長する。麗華は、ティーポッドを手に取り、カップへと注ぎ淹れる。

いい香りがして、少しだけ麗華の心を癒す。

「うわっ!嘘!?まずい!」黒川君の叫び。麗華はその声に驚いて、持っていたディーポッドをカップにぶつけてガチャンと音を鳴らしてしまった。

振り返ると、黒川君は一段と早くキーボードを打ち込み、エンターキーを壊れる勢いで叩いた。

「どうした?」藤木が駆け戻る。

「監視員が常勤しています。相手は、ビッドではなさそうですが、人数が半端ない数で、自動監視の陰に隠れて、分散して監視されています。見たことのないセキュリティプログラムでした。侵入後すぐだったんで、攻撃する間もブロックする間もなく、強制終了で身を消滅させて逃げましたが。ギリギリで。」

凱兄さんが、ちっと口を鳴らす。

「あれか、この間の、中国からのハッキング事件で、警察は新しい防御システムを開発したか。」

「おそらく。それから防御ではなくて、防御が攻撃を兼ねているって言った方が適切です。」

「防御が攻撃を兼ねる?どういう事だ?」

「今回は、入った途端に竜巻のような嵐に遭遇しました。来る者をその凄い回転で防御して守って、攻撃にもなる、竜巻のように渦巻いているプログラム、その渦巻く力は巨大で、自動監視プログラミングの陰に人による監視員が、かなりの人数、隠れていたんです。」

「・・・・・やるな、日本の警察も。」

「自動監視も一つだけの癖ではありませんでした、数えきれない、きっと、警察の情報処理課、全員の頭脳を結集してプログラミングしたんだと思われます。凄い数のタイプが複雑に絡み合っていましたから。僕自身は逃げ切れましたが、軌跡消しプログラミングを置いてきちゃいました。多分、竜巻に弾かれて、粉々になっていると思いますけど、あれだけの人数が居たら、欠片を拾われて、解析されてしまいます。多分、そのための多人数配置でもあると思われます。」

黒川君の言っている意味が全く分からない。竜巻?何なの?

「解析されたら、こちらの場所、IDもバレてしまうか」

「えぇ、時間をかけたら。一日二日では無理だと思いますが。いずれ。解析される前にもう一度潜って、重要な部分でも拾って消してきたいですね。ですが、あの竜巻の中で拾うのは・・・・」

「もう一度、侵入するのは無理って事か?」凱兄さんが渋い顔をして言う。

「無理というより。別の方法を考えないと、向こうも緊急警戒になってしまっているでしょうから。正面侵入は流石にちょっと。」

そう言って、黒川君はうーんと考え込んでしまった。

「ねえ、お茶、休憩入れない?」えりが麗華の方を指さして言う。

「そうね、お茶と言うより、晩御飯食べてからの方がいいかも。」大きな柱時計を見ると、7時になろうとしていた。

「よし、戦略を練る時間が必要そうだから、先に腹ごしらえするか。出前とるよ。何がいい?寿司か?うな重か?ピザか?あっ、忘れてた。麗香、文香さんに、りのちゃんの様子を伝えてくれるか?心配していたから。」

「わかったわ。」

麗華がりのと友達になったことを知ったお母様は目を細めて、良い子と友達になったわね、大事にしなさいと言った。お母様が麗華の友達関係に口を出した事も初めてなら、特定の子を良い子と褒めることも初めてだった。

去年、教頭が起こした事件のせいで、りのは身体も心も傷つけられた事を、お母様はとても悔いている。

同じ年のお子さんを持つ親として、真辺さんの気持ちを考えたら当然の事だと。

しかも女手一つで育てている大事な娘さんを、預かっておいて、学園の落ち度で傷つけさせたとなったら土下座じゃすまされない。訴えられても仕方のない事なのに、真辺さんのお母様は、特待制度を受けられた事だけでもありがたい事ですから、と逆に頭を下げられたという。それ以来、お母様は真辺家の事を何かと気にかけていて、頻繁に麗華に様子を聞いてくる。

りのの病状を話せば、お母様もショックを受けるだろう。それが安易に想像できるから、気が重い。

麗華は大きな深呼吸をしてから部屋をノックした。






相手はVIDブレインじゃない。一つ一つのプログラム構成は柔いけれど、数が多くなれば、とんでもない強固となるのはこの世の常識で。プログラミングの世界でも同じというより、基本だ。最初つむじ風程度だった渦巻は、数、力を増して、竜巻になった。警察のデーターベースを保護しているシステムはそんなイメージだ。それは和樹がVID脳を通して作られている三次元イメージ。特別な世界らしいけれど、その特別の意味することがわからない。初めて、ネットの画面をターミナルコマンド表示にした時から、和樹は頭の中では、きらめく電飾の近未来な世界があったからだ。その世界はとても美しくて、自分の思い通りになる。和樹は夢中になった。

ネット世界を泳ぐ、和樹独自の表現だが、それが一番しっくりきた。

最近では、皆が見ている普通のインターネット画面では、面白くなくなってきている。自由にイメージを作れないからだ。

あぁ、やっぱり、あのPAB2000scはすごい。

イメージの創作が早い、泳ぎのスピードもとてつもなく速い。

和樹は、早くもう一度、PAB2000scを使いたくて仕方がない。もう、それは麻薬のようだと思う。

だが、あれは長時間使うことができない。体力の消耗が激しい。指の動きだけじゃなく、目から入る情報を処理する脳に影響する。

前にレニーウォールに挑戦した時は、2枚目の壁で登場したVID脳を持つ相手と戦って、ぶっ倒れた。ハッキングとしては失敗し、敵前逃亡して、あのざまだ。あれから、和樹は体力をつける為に柔道の練習を再開した。

あっそうだ。おじいちゃんに出かけている事を言わなくちゃ。

和樹が携帯電話でおじいちゃんにメールを送り終えると、藤木さんがすぐそばに立っていてびっくりした。

「黒川君、ちょっといいかな。」

「あっ、はい。」

「さっき、相手はビッドじゃないとか言ってたけど、もしかして、ビッドブレインの事?」

「あぁ、はい、そうです。」

流石、藤木さん、何でも知ってる。和樹は、自分がそのVIDのハッカーなのに、ついこの間までその用語を知らなかった。教えてくれたのはバラテンさんだ。

「もしかして、黒川君自身がその、VIDブレイン?」藤木さんは、目を細めて和樹の逃さず捕まえるように、じっと見つめてくる。

「あっ・・・えーと」ごまかす言葉をうまく見つけられない。そもそも既にVIDという単語に、はいと答えているうえに、竜巻やらそれらしい話もしてしまっている。「その~、そう、らしいです。僕、この間まで知らなかったんです。その名称も。」

「マジ?驚いたなぁ。」藤木さんは驚いて、感嘆の息を吐いた。

「あのー、あまり他には言わないで貰えますか。」

バラテンさんや篠原さん、マスターにあの後、自分がVIDブレインである事を言いふらすな、気づかれるな。ネット上でも発するな、と注意されていた。めったに開花しないVIDブレインを欲しがる人間が出てくる。この先、普通の生活がしたければ、絶対に気づかれるな、と念押しされていた。

「あぁ、大丈夫、言わない。そうだよね、バレたらその筋からお呼びがかかって大変な事になるよね。」博識の藤木の異名があるだけある。そこまで知っている事に和樹は感嘆の感情を抱くと同時に、若干の萎縮。

「すみません。」

「いや、謝らなくていいよ、こっちこそ、危険な事を頼んじゃったんだから。」

部屋には、藤木さんしか残っていない。柴崎先輩は、翔柴会の会長である自分のお母さんの所へ報告に行って、凱さんもさっき電話が鳴って部屋から出ていったきり戻ってこない。えりは、お屋敷探検に行っている。

あのいたずら誘拐事件で、和樹がハッカーだと知った藤木さんが、力を貸してくれと言ってくれたのはうれしい限りだけど、部活の先輩でもない、そもそも接点のない人と二人きりになるのは、緊張する。

「やっぱり、このパソコンだと、違う?」藤木さんはPAB2000scをなでるように触ってから和樹の方に顔を向けた。

「そりゃ、もう、全然ですよ。CPUの処理速度が違いますから、思い通りの世界を作れますし、何よりもそんな世界を自由自在に泳ぐのはとても気持ちがいいです。」このパソコンの良さ聞いてもらえる事に、和樹は嬉しくなった。

「へぇー、面白そう。凱さん、黒川君がVIDと知って、このパソコンを用意したんだ。」

「いいえ、このPABを使った時に判ったんです。僕のハッキング速度が速すぎるって。」

「凱さんに頼まれて?」

「えっ、あっ」

「前のいたずらの時には、このパソコンは使ってなかったよね。その後、何かハッキングをしなければならない事があったから、このパソコンを凱さんが用意した。」藤木さんは、微笑むように目じりに皺を作って和樹を見据える。けれど、どこか冷たく、尋問されている感覚を覚える。和樹が言い淀んでいると、藤木さんは続ける。

「もう一度、使わせて下さいって言ってたから、何をしたのかなって。」

「それは・・・」言えない事だ。常翔学園の名誉と理事補との約束で。何故、常翔の生徒4人と理事補だけが、常翔学園のデーターから個人情報を盗まれたのか、レニーのウオールをハッキングして、レニー・グランド・佐竹という人の情報をかき集めなければならなかったのかを、和樹は絶対に誰にも言わない約束で教えられていた。

藤木さんも個人情報を盗まれていた生徒の内の一人あるのに、絶対に言えない。

「ごめん。言えない事だったみたいだね。」

「えっ・・・」

「興味本位に聞いて悪かったよ。」

何だろう。この違和感。確かに言い淀んだ和樹ではあったが、心の声を見透かされているみたいに言葉が重なる。

扉が開いて理事補が携帯を片手に戻ってくる。和樹はほっとする。

「理事補・・・藤木さんに知られてしまいました。僕がVID脳である事。」

「あぁ、まぁそうだろね。藤木君なら。」と理事補は軽く受け流す。

まぁ、そうだろうね、藤木君ならってどういう意味?

「藤木君、悪いけど、VIDの事は他言なしで。」

「はい、わかってます。口外する事のリスクを知っていますから。大丈夫、言いません。」

「悪いね、で、何かいい方法、思いついた?」理事補は二人に目配せをする。そうだ、警察のデーターベースのセキュリティを突破する方法を考えないといけない。

「まだ、何も。」

「さっきは、どういう手法でハッキングしようとしていたの?」と藤木さんはさっきのような尋問するような口調ではなく、普通に聞いてくる。

「手法・・・」

「ほら、侵入型とか破壊型とかあるじゃん。」

和樹は自分がハッカーのくせに、そういった専門的用語に乏しい。兄さんが死んだ事件の捜査資料を警察のデーターベースから盗もうとハッキングをし始めた時から、感覚だけで突き進んできたからだ。

「えっと、特に具体的にどうしようか考えてハッキングはしてないので、何型とかはちょっと。」

「そうなんだ。」藤木さんは若干呆れたような表情をして、うなづいた。

「すみません。」和樹は恐縮して、うつむく。

「いや、ごめん。謝ることないよ。そうだね。それがVIDだよね。」

「今の何型とかで言うと、黒川君のは、どっちもって事なるかな」と理事補。

「そうですね。相手と対峙して攻撃するのが破壊で、鍵を作って情報を盗んでくるのを侵入と言うなら。」

「できる事なら、攻撃、破壊はしないで盗んで来てほしい。」

「うーん。それはちょっと無理かもしれません。あれだけの監視員が待機していると。」

「攻撃は身体に負担がかかるだろう。今日はバラテンも居ないし」理事補は眉間を寄せて腕を組む。

「身体に負担って?」藤木さんが聞いてくる。

「VIDブレインってのは、視覚から得た二次元の情報を、三次元の世界に変えてプログラムする能力。高度なハッキングほど脳内で莫大な量のプログラムの創作、処理をしていかなくてはいけない。脳内の神経伝達も電気信号によるもので。」

「シナプスと呼ばれるものですね」

「そうそう、そのシナプスは、こっちの」理事補はPAB2000SCを指さして「ネット空間と同調して、身体に影響を及ぼす。攻撃プログラムは普通にネットサーフィンするより身体への負担が大きい。」

「大丈夫です。あれから身体を鍛えていますし。」和樹は即答した。その言葉の中に、内密を示唆するものが含まれている事に気付かない。藤木さんが、ちらりと目を細めて和樹を見る。

「でも、その攻撃すら出来る間もなかったんだろう。」

「あぁ、そうなんですよねぇ。」肩を落とした和樹。

部屋の扉が開いて、柴崎先輩が入ってくる。

「えりーどこ行くのぉ、そっちじゃないわよ。」

「えー!もう、広すぎて、どこだかわかんないっす!」

「別の部屋に運んで、どうすんのよ~」

頼んだ寿司が届いた様子。

「別の部屋・・・」というキーワードで和樹は思いつく。「そうだっ!別の部屋で僕のダミーをいっぱい作って、送り込めば、常駐のハッカーを惑わせられる!」

「へい、お待ちー!特上寿司でーす♪」

えりの明るい声が、部屋に響いた。





慎にぃから柴崎先輩の家はデカイと聞いていたけど、想像を超えた大きさに、驚いてあんぐりしてしまった。

届いた特上寿司の器の名前を見ても驚く。高級も高級、有名なガイドブックの二つ星を取っている、神奈川では数少ない超有名なお店。芸能人も利用したりする。当然、新田家では行ったことないし、まかり間違って食べたこともない。あぁ、柴崎先輩と知り合いでよかったぁ。えりは、誰よりもり味わってお寿司を堪能した。こんな幸せな事ってあるだろうか、満足感に浸っていると、藤木さんに声を掛けられる。

「えりりん、お家に電話した?」

「うん、したよ。柴崎先輩の家だから、遅くなってもオッケー」

「そう、新田は家に帰ってるって?」

えりはつい先ほど家に電話していた。お母さんと慎にぃは家に帰っていた。

「うん。お母さんと一緒に帰って来たみたい。でも、部屋にこもったきり、ご飯だよって言っても降りて来ないって」

「そっか・・・」藤木さんは顔を曇らせ、えりから離れていく。いつも優しく微笑んで、えりりんと呼んでくれる藤木さんのそんな姿をはじめてみる。今日は、いろんな初めてが沢山だ。ニコちゃんの5歳児の姿、柴崎先輩のお屋敷、二つ星のお寿司、そしてとんでもない秘密。

お屋敷探索をしているときに、1年前のニコちゃんの頭の傷が事故じゃなく事件だった話を聞いた。その殴ったのが前の教頭だったとの詳細を聞いて、えりはショックを受けた。絶対に誰にも言うなと柴崎先輩から念を押され、えりは知ったことを後悔する。口が軽いとは言われたことないけれど、何かの拍子にポロっと言ってしまわないだろうかと思う。

秘密を知るというのは、その特別感との代償に、言わないリスクを負うもの。

言わない制約に縛られる負担を強いられるぐらいなら、知らない方が良かった。

えりは、軽くため息をつきながら、部屋を見渡す。

黒川君はパソコンの前に座り、藤木さんも加わって凱さんとハッキングの戦略をして、柴崎先輩は、一つ向こう隣の席で姿勢よく食後の紅茶を飲んでいる。けれどいつもの元気がない。食欲がないとお寿司も半分を残し、それも貰って食べたえりだった。

口うるさい姉以上母未満のような存在の柴崎先輩が静かだと、何だが調子が狂う。

人の背丈以上に大きな柱時計が重厚な音を8回鳴らせた。何もかもが重厚でゴージャス。まるで2時間ドラマに出て来る超お金持ちのお屋敷みたいだ。柱時計がボーンと12時を知らせ終えたと同時に女性の悲鳴が響き渡る。声のした方へと屋敷の住民は駆け付けると、お屋敷の主が頭から血を流して倒れていた。息をしていない。そばには血の付いた真鍮の置物。そう、これなんかまさしく凶器の設定、と、えりは後ろのキャビネットの上に飾られている馬の置物に触れる。本当に重くて簡単には持ち上げられない。

こんなに重いんじゃ、犯人は男じゃないと振り上げられないよね。と妄想は続く。

犯人は女性の方がミステリアスでいい、となれば重すぎる凶器は駄目だ。えりは馬の置物の横に飾られている首が長くて細くなっている壺へと手を移した。高さのわりに底の小さい壺は不安定で、えりの手からすり抜けるように隣の壺へと倒れ込み、ドミノ倒しのようにそれも倒れそうになるのを、えりは慌てて抱え込み、かろうじて下に落ちるのを防いだ。

「ひゃーあ、わわわわ」

「何やってるの!」

「あーん、ごめんなさぁーい。っていうか、誰か早く助けて~、持ちきれない~落ちる~。」

「もう!」柴崎先輩が、壺を引き取ってくれて、落下破壊は免れる。

「危なかったー。えり一生お小遣いなしになる所だった」

「あははは、大丈夫だよ。そんなの大した、もんじゃないよ。」と、凱さんは笑うけれど、そんなことない、この屋敷にあるすべての者が絶対に高価な物に違いない。ボールペン一本でも。

「っていうか、えり、一生お小遣い貰うつもりなの?」

「えー、そこ突っ込みます?それだけは、柴崎先輩に言われたくないんですけど。」

「なに?」

「言えてる。」

皆が、笑う。

あたし、何やってるんだろ・・・

黒川君と一緒に居たいがためについてきたけれど、何の役にも立たないし、若干の場違いで迷惑を振りまいている気がしないではない。

えりは、軽いため息をついて皆から離れた椅子に大人しく座った。





特上のお寿司を食べた後、また、藤木さんと凱さんとで、戦略を考える。

和樹のダミーを作って惑わす案は、凱さんに待ったをかけられた。それは和樹個人のパソコンを使う案だからだ。

和樹が家から持ってきたノートパソコンをPAB2000のパソコンに繋げ、竜巻の部屋に入る事前で、別世界で和樹のダミーを作り、ドア・ツー・ドアで竜巻の部屋に入ると言うもの。ダミーを作るのは簡単だけど、常駐して監視している目とあれだけの自動監視の数の目をごまかそうとしたら、かなりの数のダミーが居る、そのかなりの数のダミーがドアを通り抜けるのに時間がかかり、長い時間ドアを開けぱなしでいたら、逆侵入されて和樹のパソコンは破壊されてしまうだろう。破壊されること自体は特に問題がないけれど、警察のデーターベースに侵入したのが和樹であることがバレてしまう。一応ばれないようにセキュリティはしてあるが、相手もその筋のプロだ。突き止められればバレるのは時間の問題。ハッキングをし始めた時から、ある程度の覚悟をしている和樹だったが、自分は良くても、常翔学園に通っている生徒がハッキング犯罪を犯したとなれば、大問題だ。

「俺のPCを使って、今から寮に取りに行けば。」と藤木さん。「俺が言い出したことですから、俺が罪を背負うのは当たり前です。」

「いや、この件に関して藤木君が責任を感じる必要は」理事補の言葉をかぶるように藤木さんは強い口調で続ける。

「俺ならバレても、藤木家の力であいつがなんとかするでしょう。何とかできなくても、それで藤木家が失墜するなら願ってもない。」

和樹は耳を疑う。藤木家が失墜するのを願ってもない、とはどういう事だろう。藤木さんの家は、内閣総理大臣を務めた由緒ある家なのに。

「藤木君、そんな事、言うもんじゃないよ。」

「でも!警察官一家の黒川君がバレてしまうと、世間の衝撃は大きい。」

「藤木君、家の問題じゃないんだ。このパソコンは藤木君の物より、世間で売っている物より、格段に性能を高くしてある。このPABとの連動に付いていけるのは今の所、この黒川君のパソコンだけだね」と理事補は和樹に顔を向けた。

「はい。」

「そうですか。すみません稚拙な事を言って。」

「いや、いいよ。それと、藤木君、君が背負う事はないから。何かあればすべて僕が責任を取るからね。」

「・・・・・・。」

「あれ、信用ならない?藤木君や黒川君のバックもすごいけど、僕も負けない伝手があるんでね。それに僕は、柴崎家の血統じゃない。柴崎家とも無縁に切り捨てごめんできるからね。一番の大役だろ」そう言って、理事補はニッコリ笑う。

この間のレニーのハッキング時に和樹が見つけた宝箱に入っていた情報が何であったか、それをどう使ったのか、和樹は詳しくは知らない。理事補からは、『とても役にたったよ、ありがとう』とお礼を言われただけだった。あの頃、世間ではレニー・ライン・カンパニー台湾が盗品売買と密輸ルートを秘密裏に行っていた事が発覚して、世界的に非難をされていた。日本支部もそのルートに関係あるんじゃないかと疑われて、日本全国にある事務所や倉庫が一斉家宅捜査が行われて、テレビでも生中継されて話題になった。和樹がハッキングして来た情報が、それらに関係した物で、理事補は、レニー・ラインの日本支部代表であったレニー・グランド・佐竹と言う人と何らかの取引をし、真辺さんをはじめ藤木さんも加えた4人の生徒と自分を守った、ということは簡単に予測できた。和樹がハッキングしてきた情報の価値が、まだまだ有効であれば、あの世界のレニーの日本支部を受け持つレニー・グランド・佐竹という大きなバックを使える。それに理事補には米軍時代のマスターやラストさん達の伝手もあれば、警察庁捜査一課の篠原さんの伝手もある。

改めて、理事補の交友関係の大きさに驚く。

突然、ガチャ,ガチャンという音に顔を向けると、えりが変な体制で壺2つを抱えこんでいた。

「ひゃーあ、わわわわ・・・」

「何やってるの!」と柴崎先輩が立ち上がる

「あーん、ごめんなさぁーい。っていうか、誰か早く助けて~、持ちきれない~落ちる~。」

「もう!」

「危なかったー。えり一生お小遣いなしになる所だった」

「あははは、大丈夫だよ。そんなの大した、もんじゃないよ。」

「っていうか、えり、一生お小遣い貰うつもりなの?」

「えー、そこ突っ込みます?柴崎先輩に言われたくないんですけど。」

「なに?」

「言えてる。」

重苦しくなった空気をえりが払しょくする。えりはいつも和樹に、いろんなことが出来ていいなぁと羨ましがる。

和樹だけじゃなく、真辺さんの頭脳をはじめ、クラスメイトの突出した才能を見るたびに羨ましがり、自分は何一つ自慢できるものがないと嘆く。

でも和樹は思う、えりは、空気を和ませる力がある。それは努力して何とかなるもんじゃない、生まれ持った気質か、育った環境がそうするのか、えりは新田家でのびのびと育ったんだなぁと。





寿司が届く間に、文香さんが真辺さんに電話をした。真辺さんは沈んだ声で、もう特待を返上しなければならないかもしれませんとおっしゃったと聞く。文香さんは心を痛め、警察のデーターベースにハッキングする事に反対をしていたのを、苦渋に許可を出した。文香さんにも一年前の教頭が起こした不祥事には、責務と悔いがある。それは自分も同じだった。一年前、もうすでにこの学園で理事の手伝いをしていたのに、学園を利用された盗品売買の悪事に気づくことが出来なかった。あの事件がなければ、りのちゃんは頭に傷を作る事もなくて、二度目の辛い過去をなぞる事もなくて、父親の死にもう一度向き合う事もなく病状はよくなりつつあったのに。真辺りのちゃんは、精神障害を悪化させてしまった。真辺親子は、そういう事を学園に責めはせず黙秘してくれている。

罪責が募っていく。

償うべき子らは、既にいない。生徒を守る事が自分に与えられた任務。それは転嫁的に罪滅ぼしでもある。有難かった。それができる環境を与えられた事に。強くその任務を果たそうと意気込んで、ふと気づく。自己満足にすぎないのだと。

与えられた平穏の生活は、罪責の重さを薄れさせて、身も心も鈍化していく。

俺は何をしていたのか?

守らなければならない生徒に迫る危険を見逃し、傷を負わせ、精神的苦痛も気付いてやることもできず。

何が『何かあればすべて僕が責任を取るからね。』だ。

それをしても、彼らの生活は守られるが、心に残る罪は消えないだろう。藤木君がやらなければと思った時点で手遅れなのだ。

誰よりも先立ち、生徒たちの手を煩わすことなく、凱斗自身でやらなければならなかったことだ

人より秀でた能力を持ち合わせても、どれだけ訓練を重ねスキルを得ても、それらを使い熟せなければ意味がない。

それは子らの方が早く行動的だ。

いつもそうだ。

紛争地で、町と信念を守っていたリーダーも自分より年下だった。

自身のパソコンの性能を説明している黒川君。

興味を示して説明を聞いている藤木君。

どんな時も凛とした気品を失わない麗華は、椅子に戻りため息一つも乱れることなく、またティーカップを手にする。

どこまでも明るいえりちゃんは首をすぼめて、居心地悪そうに椅子に座り、そして麗華に耳打ちする。

「ねぇ、先輩、この家、何LDKなんですか?」

「知らないわよ。部屋数なんて数えたことないわ。」

「えー先輩、自分の家なのに?迷ったりしないんですか?」

「自分の家で迷って、どうするのよ。」

「これだけ沢山の部屋あったら、知らない人が、住んでてもわかんないじゃないですか?怖わー、開かずの扉あったり?あーもしかして、地下室とかあります?で、使用人に成りすました犯人が、財産を狙って、殺人事件が起きて、ご主人様が殺されて、その地下室に隠すんですよ。」

えりちゃんの想像力豊かな空想に、笑いが込みあげるのを必死で抑える。

「馬鹿っ!気持ち悪い空想しないでよ。テレビの視すぎ」

「成りすまし・・・」藤木君がつぶやく。「黒川君、警察の監視員に成りすまして、侵入するってのはどう?」

「えーと、やったことはありませんが、そうですね、やってみます。」






藤木さんが思いついた案は、和樹がネット空間と同調できたら、わざと常勤の監視員を一人だけ、こちらに引き寄せて、そいつのIDを乗っ取り、その監視員に成りすましてから、ドアツードアで竜巻に向かうと言うもの。そんな器用な事をやったことがない。だけど、攻撃よりは楽にできそうな気がする。ってのはもう予測、予感でしかない。理事補も、緊急の時は停止するという約束で、この案にはオッケーを出した。

常勤の監視員に成りすました後は、沢山のダミーを作り竜巻の中へ突入、防御システムを攪乱させている間に、和樹は入り口を探す。その先は戦略では対応できない。ぶっつけ本番で対応していくしかない。

理事補が強制終了の電源ボタンを何時でも押せる位置で待機する。仕方ないとは思うけれど、皆の注目がやりにくい。

レニーの時、和樹は気を失ってしまった。バラテンさんが言うには、あれ以上、ネット空間と同調していたら、戻ってこれなくなっていたと言った。あの美しい世界をずっと泳いでいられるなら、それはそれでよかったと思う。

えりが、おずおずと近寄って来て、遠慮がちに声をかけてくる。柴崎先輩に、叱られるのを警戒しているようだ。

「えり、帰った方がいいかな?」

「どうして? 」

「だって、ここに居ても何もできないし、壺、割るところだったし・・・」えりは、しょんぼりとする。

「ぷっふふふふ」和樹は、変な体制で抑えていたえりの姿を思い出して吹き出した。

「もう!また思い出し笑いして!」

「くくく、ごめん、ごめん。うっぷぷ。何も出来ない事はないじゃん。皆に笑いを提供している。」

「えーお笑い担当?そんなの要らないじゃん!」

「そんな事ないよ、大事だよ。リラックスできる。」

そうだ、集中も大事だけど、リラックスは最も必要だ。和樹の意識が海流と同調した時、身を任せた状態がとても気持ち良くて、この上ないリラックスをしていた。集中力だけでは、このvid脳や手は動かない。

「それに、えりの言葉が作戦のアイデアになったよ。ありがとう。」

「ん?えり、作戦会議に参加してないよ?」

何が何だかわからない顔で、きょとんとするえりが可愛いと思った。

えりの為にも、成功させなければ。えりがお姉ちゃんと慕う真辺さんを救うために。

ここに居る皆の心に沈む後悔を取り除くために。

和樹は念入りに指をほぐして、もう一度、椅子とPCの位置を微調整する。袖のボタンがカチャカチャと邪魔になる。和樹は両の袖のボタンをはずして腕をまくった。何だが、とても気合を入れているみたいで、小恥ずかしい

「そろそろ、始めます。」

全員が和樹に顔を向ける。誰もが成功を信じている目、それが妙にうれしかったりする。

両方の画面にハッキング専用の画面を立ち上げる。この画面がVIDブレインに入る入り口。相手の監視員に成りすますなら、軌跡消しの作業は要らない。その分、PCの動きに余裕が出る。そのことを考えても藤木さんが考えた方法は最高最適の案だと思う。

そういう戦略を考えられるのは、流石、サッカー部の参謀と言われて、主将の新田さんを支えているだけはある。

「では、行きます。」

見えている文字が脳で映像変換される。

世界は、蛍光色豊かに、光り輝く近未来のビル群、空を覆いつくすほどの高い高層ビルが際限なくそびえたつ。

無機質のビルの壁を無数の細い光線が虹色の輝きをして走り抜けていく。そのスピードはまちまちだ。駅ので高掲示板のように遅い物もあれば、新幹線のように速いものもある。たまに光が集積されて球のようになったものが走っていく。それは自転車ぐらいの速さものから、車のスピードぐらいのものが最速だった。和樹はこの世界に来ると、いつもその早い方の玉を追いかけて、ウォーミングアップをする。でも今日はそんな遊びをやっている暇はない。まずは、僕のダミーをいっぱい作らなければならない。

分身を作る事も初めてだけど、なんとなくこうすればという感覚は思い描いていた。

和樹はビルの合間を空に向かいながら飛び、そして広い空間がないか探す。

沢山のダミーを作れる場所、広い場所で、球の軌道が来ている場所がいる。

左右にそして上昇して、球の軌道を監視しながらそれを探す。低いビルの屋上を見つけた。低いと言っても現実世界に置き換えるとゆうに二キロはあるたろう。この世界は日に日に高く深く広がっている。

和樹はその低いビルの屋上に降り立ち、周囲を見渡す。残念ながら光の玉の軌道は屋上までは来ていなかった。ここより300メートルほど下の階層を光は走っていく。軌道を変えるしかないか。これ以上に広い場所が見つかりそうにない。

和樹はビルを落ちるように降下し停まる。身体をくるりと起き上がり、球が走り抜けていった壁の軌道を触る。横に走っていた軌道を上へと変える。普通に光る光線が次に来て、思った通りに目の前で上昇に転じて走っていく。和樹は追ってまた屋上へと降り立つ。光は屋上の手すりのような配管を走り抜けていく。

光の玉を待つ。虹色に光る無数の細い光線は、このネット世界を構成するデータの入出力による高エルネギー磁場である。光の球は磁場の集積あるいは帯電。和樹は、初めてこの世界に入り込んだ時、その美しさに走る光の玉に触れた。和樹は一瞬で現実世界にはじき出されて、身体と脳は痺れて、数時間ほど茫然としていた。それ以来、光の玉には触れないようにして、この世界を泳いでいたのだが、あれからもう何年も経った。自分のスキルは格段に上がった。レニーウオールの二つを突破した実績。体力もつけた。

これしか思いつかない。

和樹は足元からビルの側面を上がってくる光る球の速度を観察して、手すりを走り抜けようとしている球を掴んだ。

球は和樹の左手を虹色に光らせて、腕を昇ってくる。光の玉は和樹の右脳をめぐり左脳へ、視野が発光で真っ白になった。眩み、身体が揺れ、右手で手すりを掴んだ。心臓をめぐった光は右半身から左半身を駆け抜けまた心臓に戻り左腕へと流れていく。和樹の身体は全身が虹色に輝く、左手から光は手すりへと出ていく。と同時に和樹の分身が、ずらりと形を成して創られていった。

何千、何万体と和樹と同じ姿をしたコピーが並び、和樹と同じように両手を手すりを握り後ろを向いている。

和樹が左を向けば、同じく左に、右手で頭を掻けば、同じように右手で頭を掻いた。

あぁ、皆、同じ行動しちゃ駄目だ。ダミーは一人一人意思をもって違う行動ができなくてはならない。もう一度、巡ってくる光の玉を待った。下を覗き込む仕草すらもダミーたちは一斉に同じ動作をする。

和樹は苦笑した。その笑いすらも同じ、すぐに笑えなくて、気持ち悪くなる。

ダミーたちを見ないようにして、光の玉が駆け上ってくるのに集中してタイミングを計る。

光の玉を再びつかんだ。左手から入った光は、和樹の全身を駆け巡り、和樹の思考を拾って出力していく。

光は手すりから同じ格好をしている何千体のダミーたちに入力されると、瞬時にそれぞれが自由に違う動きを始めた。

「よし、ダミーが出来た。」

「えっ、もう?」藤木さんの驚いた声を聞く。

「はい、これからが、時間がかかります。」

相手の監視員をおびき寄せて、そいつと成りすますには、監視員が僕の姿を見つけられない様に、この世界と同調しなければならない。集中の中のリラックス・・・・・あぁ、数万体の自分が、限られたビルの屋上で所せましに思い思いに動いて、視界に五月蠅い。集中なんてできない。

「あぁ、もう!君達、ちょっと、じっとしてて。後で嫌と言うほど動いてもらうんだから。」

「えっ?」

実際に声に出ていたようで、実世界の皆が驚いて、和樹を見た。

「あ、すみません、皆さんの事じゃなくて、こっちの電脳世界のダミーに言ったんです。」

「本当に、ネット空間を創造しているんだ・・・」藤木さんが僕を凝視してつぶやく。

「すみません。あの~多分、これから、もっと独り言が多くなると思います。時間もかかると思いますし・・・」

PCに向かってブツブツと言っている姿を、えりには見せたくないなと思った。世界と同調した時、自分がどんな感じになっているのかもわからない、特に目が、もしかして寄り目になっていたりして、わーヤダな、そんな顔を見られるのは、ってこんな事を思っている時点で、まだまだこの世界との同調は無理だ。

「あぁ、そうだね。柴崎、えりりん、集中に邪魔しちゃ悪いから、向うの部屋で待とう。」

えっ?またもや、和樹の考える事とリンクする。もしかして藤木さんは、人の考えている事がわかるのだろうか。あまりにも頻度の多い符合点。和樹は言い知れない気持ち悪さを感じる。だけど、えり達を別の部屋に連れていってくれたのは助かる。

「じゃ、これから、しばらく漂いますから」

「ん。無理しないように。」

「はい。」

理事補の頷きを確認して、画面に集中する。現実世界の景色がほぼ消失して、和樹はビルの谷間にある屋上で、無数の自分のダミーと向かい合う。ダミー達は、和樹が大人しくしてと言ったから、体育座りでおとなしく座っていた。ずらっと何万体ものの体育座りをしている自分。気持ち悪い。

これらが居る限りこの世界との同調は無理に思われた。もっと静かな、視覚にも心地よい場所。和樹は思いついた場所を頭の中で想像した。瞬時に無機質なビル群は消えて、淡くどこまでも続く青緑の草原が広がった。それは和樹がはじめて抽象画を描いた、えりが一番好きと言ってくれた絵の世界。ひざ丈の草か水かわからないさらさらとした物が風になびいて、やさしい光を放っている。

あの頃、なぜ、こんな抽象画が頭に浮かび描こうと思ったのか、もう思い出せないけれど、

この絵を描いた時は、まだ兄さんは生きていて、いつもの通りに和樹の絵を褒めた。お母さんも、和樹が絵の具や画用紙を部屋いっぱいに広げ、部屋を汚すのを怒らず、微笑んで画用紙を覗き込んでいた。

おじいちゃんは、ワシには絵はわからんと言いながらも、和樹は絵を描いている時が一番、集中しているなと、柔道もそれぐらい集中てくれたらいいのにと笑っていた。

お父さんは、相変わらず家にいないことが多かったけど、和樹の絵が展覧会に出展した時は、必ず時間を作って見に行っていたらしい。絵を携帯で撮って、待ち受けにして息子の絵だと同僚に見せていると、それはお母さんから聞いていた。

黒川家がまだ幸せだった頃を表したのが、この世界。

和樹は涙が出そうになってこらえる。

風が強くなり和樹の髪を乱していく。

駄目だ。こんなに荒れた世界ではだめだ。

和樹は大きく胸いっぱいに吸い込んで、ゆっくり長く息を吐いた。風はそよ風のようにやさしくなり、足元の波紋をなびかせていく。

あぁ世界は

美しい。

優しい。

何時までも眺めていたい。

和樹は両手を手を大きく広げ、この世界の広さを全身で感じる。

ふわっと身体が浮いた感覚がした。しかし、足元を見ても高さは変わっていない。感覚だけがふわふわと浮上降下を繰り返す。ゆりかごのように心地よい、荒波を公開する根のように心地悪い、相反する感覚に身を任せているうちに何も考えられなくなった。

何をしようとしていたっけ。それを思い出そうとするのも億劫だ。

どうでもいいや。時間の感覚もない。どれぐらいそうしてただそこに居たのだうか。

ふいに、何かが聞こえたような気がした。和樹は気怠い意識で辺りを見回す。

それは微かな気配のような。

『・・・・・キ・・』

風のなびかせが、その音を運んでいる。

おかしい。この世界に音は設定していない。ハッキングに必要のない機能はすべて停止していた。

だから、どこまでも静か。なのに。

『・・ ・ズキ・・』これは幻聴だ。

幻聴?

幻覚か?

どこからか吹いてくる風、交じって聞こえてくる幻覚。

『カズキ』

この声は、兄さん

『凄いなぁ』とても懐かしい。『カズキは、お母さんに似たんだなぁ。その絵の才能は。』

和樹の身体を取り巻くように風がすり抜けていく。

『いいんじゃん別に、警察官になるのが嫌だったら、ならなくても』

すぐそこに兄さんが要るようだった。

『どっちか一人が警察官になってたら、お爺ちゃんやお父さんは、文句を言わないだろ。』

「兄さん!」

『カズキ、ほら見ろ!警察官採用試験に合格したよ。これでカズキは、絵描きさんになれるよな。』







藤木に促されて、会合室を出る。

「えり、黒川君のハッキング見たいなぁ」名残おしそうにつぶやくえり。

「見ても、わかんないでしょ。」

「そうそう、どれだけ時間が、かかるか予想もつかないし、黒川君には難しい作業をしてもらうんだから、邪魔しないようにね。」

と藤木が冷静にえりを諭す。

会合室の向かいにある、テレビがある部屋、我が家ではリビングとして使って居る部屋に移動した。

外窓が濡れていた。雨が降り始めたようだ。麗華はカーテンを閉めて、ガラスを滴る雨の雫を視界から消した。

えりが、テレビの大きさに喜々の声を上げる。ソファに座り、弾力にまた声を上げる。まるで小学生のようだ。麗華は呆れて、首をすぼめた。えりだけが、今やっている事の重要性をわかっていない。

えりの興奮を鎮める為に、テレビをつけた。早速麗華から受け取ったテレビのリモコンで番組を変えて、おとなしくなる。

部屋にはテレビを見るために配置されたソファと、わずかに離してもうひとセットのソファが置いてある。

藤木は、テレビとは離れたソファの一人掛けに座り足を組んだ。ひじ掛けに置いた手で顔を覆い、目を瞑った。

藤木の涙。一瞬でもそれは麗華にとって衝撃だった。

冷静で策士、それが麗華の最初から変わらない藤木の評価。女にマメで優しいのも、策士的であることに含まれる。

感情的な事で状況判断などしない。そう思っていた。

だけど、暴れるニコ、いやりのか?この際どっちでもいい。に涙を流して諭したとき、「約束」という言葉が決定打となったと見てとった。それがとても気になる。そして、昨日の帰り際、麗華はたまらなくなって藤木に聞いた。

『ニコとの約束って何?』藤木は小さく息を吐くと麗華に顔を向けることなく話し始めた。

『話しただろ、ニコちゃんが俺達4人が一緒になったクラスを喜べないで、お前が裏から手を回した事を「私のせいかな」って言ったの。』

『えぇ、進級式の時の事ね』

『あの時、あの後、ニコちゃんは俺に「そうまでして、皆がそばに居ないと私は駄目か?藤木の目にはどう映っている?」と聞いてきたんだ。無表情の裏には不安が詰まっていたんだろうな。度重なる発作、そのたびにわからなくなる記憶に不安だと。だから、約束したんだ。ちゃんと見てるから、駄目な時はちゃんと教えるから。と。』

『ニコ、そんなに思い詰めていたんだ。私、傍に居ながら、何も気づいてあげられなかった。』

『いいんだ柴崎は。あの時にも言っただろ。ニコちゃんは柴崎に対等の親友で居てほしいと思っているって、だからニコちゃんは、お前にじゃなく俺に頼った。俺のこの能力を使って、私を監視していて欲しい。と』

あの時も指摘された。私が心配しすぎると、親友でなくなってしまうと。だけど、寂しい。悩みを打ち明けてくれる事こそが親友というものではないか。それをしてくれないのは、麗華が親友として役不足だと言われている気がする。

『ニコちゃんは、俺達4人に求める役割を明確に変えていた。柴崎には、特待の肩書に気後れしない、普通の女の子と同じ、おしゃべりしたり、買い物をしたりを楽しめる友達関係を求めて。お前もそうだろ、幼稚舎から作られた柴崎麗華像を意識しないニコちゃんだったから、一緒に居て楽だった、楽しかった。違うか?』

そうだ、そうだった。ニコと一緒の部屋になったグアム旅行、小学部からの馴染みある友達より楽だと思ったのが、ニコと友達になれるきっかけだった。

『違わない。そう。私は内部進学組の友達といるよりニコと居る方が楽だった。』

藤木が、頷いて話を続ける

『新田には、傍に居てくれる安心を求めて。新田の過剰な心配が時に本気でウザイと思っていても、赤ん坊の頃から双子のように育てられた二人には、俺らには想像を超える繋がりある。そして俺には、父親が死んで埋まらなくなった知識欲を求めた。その知りたい、教えてほしいことの延長で、あの約束をも求めた。俺なら的確に視たことを教えてくれる。と、なのに、俺は視れなかった。視れない事に危機を感じながらも、踏み込む事に躊躇したんだ。それをするのは新田やお前の仕事だと。いつもそうだったから。ニコちゃんが助けてほしいと求めていたのに、俺は・・・俺のせい。ずっと早くに気づいていたのに。』

藤木は歩道に転がっていた空き缶を、憎憎しげに足で踏んで押しつぶした。

『藤木だけのせいじゃないわ。・・・大丈夫よ。ニコは疲れているだけよ。1週間も寝てなかったんだから、ぐっすり眠ったら良くなるわ。』

昨日まではまだ、痛みを感じない、英語が話せない、ただそれだけの異変で、それらはただ睡眠不足でそうなっていると思っていた。だから、眠れるようになったのなら、すべて元に戻る。安心した麗華だった。

なのに。

えりがリモコンを操作し、サスペンスドラマに変えたドラマは始まって20分が経過していて、被害者はもう殺されている模様。どういう関係かわからないけれど、刑事と女子高生が聞き込みをしている。えりは他のチャンネルに変える気なく、それを食い入るように見ている。どういう殺され方をしたのかを見逃しているのに、よく見る気になるわ。こんなテレビを好んで見ているから、さっきのような気持ち悪い妄想をするのだと、麗華は呆れたため息を吐いた。

後ろの棚からひざ掛けを取り出す。一つをえりに渡し、もう一つを手にして藤木へ、近寄ると、顔を覆っている手とは反対の左手の人さし指が、しきりにトントントンとひじ掛けを叩いている。

待っているだけの時間が心苦しいのだろう。何かしていた方がマシだ。何もできない自分に苛立っている。

麗華はひざ掛けを、苛立ちを表す手ごと覆った。麗華は藤木の隣のソファに座る。藤木の人差し指は布の下で止まらない。

麗華は腕を伸ばしてひざ掛けの上から藤木の左手をギュっと握った。

力が抜けたように動きを止めた指。

胸に詰まっていたものが少しだけ、晴れた気がする。

いつ、誰から言い始めたのかは忘れた。

楽しいことは4倍に、

苦しいことは1/4に

が麗華たちの信念になっている。

不安も二人で分かち合えば、楽になる。





『これで、カズキは絵描きさんになれるよな。』

涙が頬を伝い、落ちた。落ちた波紋が和樹を中心に広がって行き、そして、声と共にまた戻ってきた。

『・・・カズキ・・・凄いなぁ』

波紋の風波は和樹に向かって足元から這い上がってくる。そして兄さんの声と共に和樹の身体を空へと舞い上げた。

『これで、カズキは絵描きさんになれるよな。』

身を任せた。

そうだ、僕はこの世界の絵描きだ。

手の先、髪の先に無限の広さを感じた。

いつの間にか和樹は風になって飛んでいた。意識が世界の隅々にまで行き渡っているのを感じる。

そう、僕はこの世界の創造主。

「黒川君!駄目か?停止か?」理事補の慌てた様子が草原の世界と重なって見える。

涙が頬を伝う感覚がある、どうやら現実世界でも和樹は涙を流してようだ。

「大丈夫です。兄さんが同調を手伝ってくれました。」

「兄さんって・・・」理事補は顔を顰め和樹の顔を覗き込む。和樹の言葉を疑い、その手はすぐにでもパソコンの電源を落とせるように指を置いたままだ。

「今、電源を切ったら、意識が飛びます。やめてください。」

もうわかる。前回は強制的にこの同調の状態を断ち切ったから意識を失った。

意識を失わずに現実世界に戻るには、ちゃんと段階を踏んで脳を戻さなければならない。

「大丈夫です。これで行けます。」

草原をすれすれに駆け抜け、元の蛍光電色が走る近未来のビル群の世界に戻した。

体育座りしている何千、何万もの和樹のダミーが、おとなしく待っていた。

「さぁ、皆行くよ。」

和樹の姿はこの世界に同調していて、ダミー達には見えていない。声が世界のその物として響き渡る。

ダミー達が一斉に立ち上がる。

「警察のデーターベースへ、扉を開けます。」

「わかった。この先、変調があればすぐに落とすよ。」

「はい。できるなら、ちゃんと段階を踏んで戻ってきたいですけどね。」

言いながら、ネット世界の和樹は手を一振りして、屋上の手すりを無数の扉に変えた。

心地いいぐらいに何でもできる。

「さぁ、皆、行け!自動監視を欺いて」

扉を開けた。何万体のダミー達が我先にと扉から出ていく。全員が出ていくのに一分の時間がかかった。

一つだけ扉を残して閉じ、扉自体も消滅させる。あいた扉から向こうの様子を覗き見た。ダミー達が竜巻の中を泳いで、監視員をかき乱している。激しく動いている者や、だるそうに逃げている者、異常に怯えている者、怒っている者、ふざけながら鬼ごっこを楽しんでいる者。和樹のコピー体であっても、それぞれ違う個性が突出している。目の前を横切ったダミーは、監視員に追いかけられ、先で捕まり消滅してしまった。それを見てお腹を抱えて笑っている者がいる。そいつも攻撃されて消滅してしまった。

和樹は苦笑する。自分を客観的に見つめる、そんないい機会なのだろうけれど、それをする必要を感じられるほど和樹は年を重ねていない。

渦巻いていた竜巻の勢いが弱くなった。ダミー達の登場に警察のプログラミングが混乱して、防御プログラミングが追いついていないのだろう。しかし竜巻が停止するほどにはなりそうにない。あちこちで、ダミー達が攻撃されて消滅している。

さっさと、なりすましの対象者を見つけて、こっちにおびき寄せないと。

和樹は自分の姿を表示させてから、一歩、扉の外へと出てみる。

弱まったとは言え、竜巻の風はまだ強い。表示した和樹の姿をはぎ取って行きそうだ。

数十メートル先にいる常勤の監視員が、和樹の存在に気付いて振り向いた。まっすぐこちらに向かって来る。

よしよしそのまま、和樹は元の部屋に戻り、また姿を消し監視員が入ってくるのを待った。

「入って来た。」独り言に現実世界の理事補が、いぶかし気に和樹の顔を覗き込む。

扉を閉じた。入って来た監視員は、不安げな様子でキョロキョロとあたりを見回している。どうしたら、そいつに成り代われるのか、明確なやり方は知らないけれど、感性のまま、監視員に正面から体当たりしてみた。衝撃はなく、ただ通り過ぎだだけ、だけど瞬間に監視員と同じ、警察官の服装をした姿格好をした自分が実体化していた。振り返った元の監視員は、対面した自分自身に驚愕におののく、和樹はその一瞬を見逃さず、衿を掴んで背負い投げをした。模範のように技が決まった。背中から落ちた監視員は虹色の光を発行し消滅した。

「成り代わり成功。」

「ほんとか?早いな。」と理事補

「そうですか?スタートから、どれぐらい経ってますか?」

「一時間ちょっとだよ。」

以前は世界を2時間漂ってやっとレニーウォール一番目の壁を破った。そのあと更に2時間をかけて宝箱一つを見つけた事を思えば早くなっている。

「スキルの向上を喜んでいいのか、どうか。」理事補はそう言って、渋い表情のため息をはくた。「僕は君にとんでもない事を頼んでしまっているのかもしれない。」

「理事補、やめてください。僕は僕の意思でハッキングをしているんです。僕は理事補に感謝していますよ。このPCを用意してくれたこと。」

「黒川君?」

「やっと、行ける!」和樹は体の向きを変えて、PAB2000のパソコンの操作を開始した。「やめてくださいよ、今、電源を落としたら、僕の現実の脳は吹っ飛びます。」

「黒川君、君は!」

「この間は相手もVIDで強敵だったけど、世界はこの上なく洗練されていた。無駄のない洗練された世界。ビッドブレインだけが創造し居られる特別の世界。だからこそバラテンさんが強制終了しても、僕は一瞬の気絶だけで済んだ。でもここは違う。雑に無駄な物が多すぎる。その無駄な物も渦巻いて防御が攻撃になって飛んでいる。」

吹き荒れる風に乗って数多くのゴミが飛んでくる。中には僕のダミーだった欠片までが、目の前をかすめていく。

「やっと兄さんが死んだ真実を知ることができる!」

和樹は竜巻の中で手を広げ、叫んだ

「やっとだ!」

生き残っているダミー達が、和樹の叫びに呼応するように活発になった。

「やめろっ!黒川君!」理事補は椅子を倒して立ち上がる。苦悶の表情の理事補。やっぱり理事補もそうやって和樹を真実から遠ざけようとする。何故だ。「やめるんだ、黒川君」

騒ぎを聞きつけて、藤木さんが部屋に飛び込んでくる。

「どうして、僕は真実を知りたいだけ。」

「知っても、何も得られるものなんてない。知らないままの方がいい」

「何?どうしたの?」と柴崎先輩とえりも遅れて部屋に入ってくる。

「得られるものなんてない?知らないままの方がいい?やっぱり理事補は知っているんですね。」

「いや、俺は、知らない。康太が言わないから、それが最善だと。」

「矛盾していますね。真辺さんのお父さんの事は、何もつかめなくても、共有するだけでもいいと、ハッキングを許可する。なのに僕の兄さんの事は駄目って。あんまりじゃないですか?」

「種類が違うんだ。りのちゃんのお父さんと、君のお兄さんの事件とは。」

「知りたい気持ちは違わない。」

「黒川君!やめよう。なっ」理事補が和樹の身体に触れようとしたのを、肩で振りほどいた。

「ここまで来て、やめるんですか?真辺さんのも?」

今、和樹の視界は、ネット上の吹き荒れる竜巻の世界と、現実である柴崎邸の豪華な会議室の世界の情景が二重に重なって見えていた。唇を噛んで苦悶する理事補の顔が竜巻によって歪む。

「凱兄さん一体何?」

最初の軌跡消しプログラミングの欠片が和樹の顔をめがけて飛んできた、それを右手でキャッチする。そして握りつぶした。

手の指の隙間から、七色の光が発光し、こぼれ消えた。

藤木さんは目じりのしわを濃くして睨むように和樹を見据える。

次第に竜巻の世界が薄れて、現実世界の方が色濃く鮮明になって来た。長い時間を現実世界を意識していると同調が解かれてしまいそうだ。

「時間の無駄です。僕は、行きます。」

和樹はネット世界に意識を集中して、現実世界の景色を完全に消した。






柴崎が握った事で、はじめて自分が苛立っていると気づく。苛立つ自分に苛立っている。無様だ。

病院で、泣く新田の姿に目を背けた。新田のあの決心を、やっぱりなと納得してしまいながらも、そんな新田を貶した亮。貶しながら敗北を感じて、目を背けたのだ。

こんな時すらも、新田には勝てない。このままでは、新田の想うがままだ。そうはさせない。

それは同情からくる訂正なのか、ただ負けたくないだけの闘争心なのかはわからない。

だから亮は考えた。どうすれば、新田の決心を変えさせる事ができるのか。それは簡単だ

りのちゃんが元に戻ればいいだけ。じゃ、りのちゃんが元に戻るには?

そもそも、りのちゃんは、何をあそこまで自分を追いつめてしまっているのか?

そんな思慮から講じた策だったが、不甲斐ないにも、いま亮は何もできないで、ただ待つ。

黒川君頼みになっている事がもどかしい。

亮はテレビの音だけを聞いて目を瞑っていた。

「先輩、トイレって、どこでしたっけ。」

「出て、右、さっき、お風呂場を見せたでしょ、あれの隣の扉。」

えりりんが亮の前を通りすぎて部屋を出ていくのを感じ取る。えりりんは閉めたドアを再び開けて声を発する。

「帰ってくる時、わかんなくなるから、ドア開けたままにして行っていいですか?」

「あぁ、もう、わかったから、早く行ってきなさい。ったく・・・えりって方向音痴?」

えりりんの明るさが、柴崎の沈み行く気持ちを繋ぎ止めている。

ほんと、かわいいな、えりりんは。妹たちとは全く違うタイプ。えりりんのような底なしに明るい性格の妹が居たら藤木家はどうなっただろうか?斬新に一族をかき混ぜて、良い利かせ味になってくれそうな気がする。そして俺は、あぁ、底なしに甘やかせてしまいそうだ。

えりりんが開け放した扉の向こう、静かだった会議室から叫び声が聞こえた。亮は跳ね起き立ち上がる。何を言っているかまではわからない。そしてバーンと何かが弾ける音。亮は部屋から駆け出て、会議室に飛び込んだ。

「やめるんだ、黒川君」

椅子を倒して立ち上がっている凱さん。弾ける音は椅子が倒れた音だと判明。凱さんの慌てた様子とは裏腹に黒川君はすました表情で

兵軍採用のPAB2000のキーボードを操作している。

「どうして、僕は真実を知りたいだけ。」

「知っても、何も得られるものなんてない。知らないままの方がいい」

「何?どうしたの?」と亮より遅れて柴崎とえりりんが入ってくる。

「得られるものなんてない?知らないままの方がいい?やっぱり理事補は知っているんですね。」

とパソコンの画面から顔を上げた黒川君の眼球は小刻みに揺れていた。

「いや、俺は、知らない。康太が言わないから、それが最善だと。」

「矛盾していますね。真辺さんのお父さんの事は、何もつかめなくても、共有するだけでもいいと、ハッキングを許可する。なのに僕の兄さんの事は駄目って。あんまりじゃないですか?」イラつき、怒りを黒川君から読み取る。

「種類が違うんだ。りのちゃんのお父さんと、君のお兄さんの事件とは。」

「知りたい気持ちは違わない。」

「黒川君!やめよう。なっ」黒川君に触れようとした凱さんを黒川君は肩で振りほどく。

「ここまで来て、やめるんですか?真辺さんのも?」と、全員に意見を求めるように顔を向ける。その目は距離感がつかめず異様な表情だった。これがビッドブレイン。

「凱兄さん一体何?」柴崎の問いに唇を噛んだだけで答えない凱さん。そんな凱さんを憎々しげな気持ちで睨む黒川君。

「時間の無駄です。僕は、行きます。」瞬き一つしないで、画面に集中した黒川君は、それまで見てきたものとは違うとんでもない速さでキーボードを打ち込んだ。その動きは、乱暴ではなく一流ピアニストのように。目は画面を見ているようで見ていない、これもまたピアニストが奏でる曲に心を浸透しているような風情だった。

「凄い!この間のいたずらの時と全然違う」えりりんがはしゃぐ。

「くそっ!」凱さんは足元の倒れた椅子を蹴りいれて、派手な音を立てる。

「きゃっ!ちょっと!何なんのよ、凱兄さん!」

「もう、止められない・・・」

「大丈夫です。ちゃんと真辺さんのお父さんの調査書も拾ってきますから。」

一体なんだ?黒川君は何をするつもりだ?

亮は目に力を込めて黒川君の本心を読みとろうとした。だけど何一つ読めなかった。





吹き荒れる風がゴミを飛ばしていく。混沌とした世界。レニーの美しい世界とは正反対だ。あれが静の美しさを表現しているのなら、こっちは動の力強さを表している。どこにも停止している物がない。

「凱さん、黒川君は何をしようとしているんですか?」現実世界での藤木さんの声。

ゴミの陰に隠れている監視員に近づいた。監視員に成りすましている和樹を侵入者だとは気づかず、視線はダミー達を追っている。

あれだけ数多くいたダミーは半分ぐらいに減っていた。竜巻の威力が戻りつつある。

「黒川君は、お兄さんの死因を知りたがっている。」

さて、どうやってあの中心に行くか。とりあえず、左から吹き込む風を横切り前に進む。中心に行くほど風は強くなり、横切って行くゴミのスピードも早くなる。それらをよけつつ、より一層に風が強くなっている前方を観察する。

風の向きが向うとこっちでは違っていた。左から右へ吹いている風は、その先で右から左へ流れている。そんな風の層が幾重にも巻いている。

「お兄さんの死因って!?亡くなったの?」

このまま風向きの違う層へと進めるだろうか、そう考えた時、身体がひき千切れるイメージが沸き上がった。中々良くできたプログラムだ。雑で汚いけれど、中々に難易度は高い。

「黒川君のお兄さんも警察官でね。殉職された。その事は公私ともに公表されていない。」

こうして警察は、兄さんの死を誰にも知らされないように隠している。

この竜巻を作ったのは誰だ?

お父さんの指示か?

「公私共に公表されないって・・・」

「だから言ったでしょう。警察という名の組織に完璧の正義はないと。」和樹の突然の会話の参入に、皆が驚いて振り返る。「この竜巻は、警察の不祥事を隠すための物、中国のハッカーを恐れて創ったんじゃない。自分たちの失態を知られないために、自分たちの権力を保持する為に。だからこの竜巻は内から外へ渦巻いているんだ。誰も入らせないように、弾く為に」

怒りに任せ、そばに居た監視員を捕まえ、背負い投げでその境目に投げ入れた。監視員は、さっきの思い浮かんだイメージ通りに、引き千切れる。層の乱れを視認した。和樹はにやりと笑って、もう一人監視員を呼んで、その体を押さえつけて竜巻の層へと押し進んだ。背中から削れるように千切れ飛んでいく監視員を盾に和樹は、難なく次の層へと侵入した。

「よしっ!第2の層に行けた。」

「早い、早すぎる」理事補のつぶやき

流石はPAB2000だ。このパソコンはハッカーの能力を上げてくれる。PAB自体が要求しているようだ。もっと、もっとと。

もっと、ぐっと和樹は足を踏ん張る。さっきとは強い風力が和樹の身体を飛ばそうとしている世界。

飛んでくるゴミのスピードも格段に速い。そんなゴミたちが視界を悪くしている。

何かの欠片が和樹の頬をかすめていく。

「痛った・・・」

「黒川君!」えりが叫んでいる。

向かい風になるように体の向きを変えて、飛んでくるゴミを凝視する。次々に飛んでくるゴミは、さっきの場所の物より小さい。小さいから避けにくい。当たっても大きな致命傷にはならないものの、掠めるスピードがそれらを鋭利な凶器となり和樹の衣服を割いていく。体のあちこちがゴミの凶器で切られていく、すぐに警察官の服装はぼろぼろにはぎ取られてしまった。

「くそっ」

露わになった皮膚を次々に切り付けていく、まるでかまいたちにでも遭遇しているようだ。

「きゃっ黒川君っ!」誰かの悲鳴。

「何?どうして」誰かの叫び。

「どうなっているんですか!」

「わからない」誰かの動揺。

「呪いなんじゃ!」

「多分、これがネット世界と同調による負担、影響」

現実世界の異変なんて気にしていられない。

「黒川君!体に影響が出ている。もうやめて、中止しよう。」

「嫌です。」

裂かれた皮膚から七色に光る粘着質なものが出てきていた。とてもきれいだ。

あぁ見とれている場合じゃないな。どうしようか。このままじゃ、和樹の身体は成りすまし自体も裂かれてはぎ取られていく

「やめた方がいいわ。」

「うるさい!やめない」何故、皆、僕を止めようとするんだ。自分勝手だよ。

「黒川君!本当にもういいよ。りのちゃんのお父さんの事は別の方法を考えよう!」

「黒川君、戻ってくるんだ。」

「今更、遅い!引き返すなんて無理!」これは僕の世界の戦いなんだ。入ってこないでくれ。

「本当に、もうやめて、黒川君」涙声のえりが、一番邪魔だ。

「邪魔だ!」

「柴崎、えりりんと部屋から出ろ!早く!」

流石、藤木さん、指示が的確、覚悟も的確。

「他に手伝える事は?」

「ありません。静かにしていてください。」

そう集中しなければ、集中のリラックス。そうだリラックスだ。

和樹は踏ん張っていた体の力を抜いた。すぐに体は流されて竜巻の渦と同化した。





テレビの部屋に戻された。えりは震える足取りでさっきまで座っていたソフアに座る。テレビはさっきまで見ていた2時間ドラマの続きをやっている。柴崎先輩が膝に毛布を掛けてくれる。えりはそれを引き寄せて頭から覆った。

あれはいったい何?

何もしていないのに、急に黒川君の左の頬に赤くひっかいたような傷が表れた。右頬にも表れると、それは両の腕に、無数に走る。

黒川君は苦しそうに唸った。

一体なに?

なんの現象?

黒川君にだけ、その現象は起きている。何かの呪い?このお屋敷、お化け屋敷!?

『うるさいよ。邪魔するな。』

『うるさいっ!今更、遅い!引き返すなんて無理!』

瞬きをせずにパソコンの画面を睨みつける黒川君は、悪魔が乗り移ったようだった。ハッキングって悪魔も呼び出せるの!?

嘘・・・恐ろしい。突然に表れたみみず腫れは、呪いの印・・・あれ?悪魔の印は666じゃなかったっけ。

ネット界の悪魔は6じゃなくて1なんだ。111が呪いの印。あぁ黒川君が悪魔に呪われてしまった。どうしよう。

えり、逃げるようにして部屋を出てきたけれど、助けなきゃ。

「先輩!」被っていた毛布を払い外す。「聖水ないですか?」

「はっ?せいすい?」

「そうです。悪魔祓いに使う聖水です。」

「・・・。」

「黒川君を悪魔から救わなくちゃ。」えりはソファから立ち上がる。

「あのね、えり。」

「聖水がなければ、十字架」

「えり!」柴崎先輩がえりの肩を抑えてソファへと引き戻した。「座りなさい」

「でも黒川君がっ」

「あれは呪いじゃないって言ってたでしょう。私もよくわからないけど。」柴崎先輩は足元に落ちた毛布を拾い、えりの肩から覆いつくすようにして掛けて、隣に座った。

「ごめんなさい・・・」馬鹿な事を言っていると自覚している。だけど馬鹿な想像をしなければ辻褄が合わない。

それぐらい、えりには納得ができない怪現象だった。

柴崎先輩は小さなため息をつくと、えりの肩を引き寄せ抱きしめた。親以上に干渉してくる柴崎先輩が、時にうざいと思うけれど困ったと時の先輩の存在は、親以上に頼もしい。そして甘えもできちゃう。えりは柴崎先輩の肩に頭を預けた。ほっと息を吐いて、自分が息を詰まらせているぐらいに強張っていたのだと気づく。

「先輩・・・」

「ん?」

「えりは、いつも足手まとい。さっきも黒川君の邪魔をして・・・」

「そうね。だけど、他人に手間取らせないで生きていく事なんて無理だと思うわ。人、それぞれ出来る事は違うし、できない事をフォローしあう関係が理想じゃない?」

「うん・・・だけどえりは、その出来る事が何もない。」

「そんな事ないわよ。えりは・・・」長い沈黙「面白いわよ」

「先輩もっ!?何なんですかっ、皆して面白いってお笑い担当みたいにっ」

「人の家をサスペンスドラマの現場にしてみたり、悪魔祓いを本気でしようとするあんたの、どこが面白くないと言えるの」

「あたしはいつだって真剣なんですよ。それを面白いって茶化して」

「茶化してないわ、真剣に心配してるのよ。」と真顔の柴崎先輩

「うわーん。」えりは反対側へと身体を倒した。





仰向けでゴミと一緒に漂う。中心に行けない。こんな事を続けていれば、体力がなくなって、しまいには消滅してしまう。どうしたものか。体を起こせば、風は抵抗となり、ゴミが凶器と成す。困った・・・策が思いつかない。

困った事があればいつも兄さんに相談していた。12才離れた兄さんは優しくて、何でも知っていて、色んなアドバイスをくれるんだけど、最後は、いつも「和樹が思ったとおりにすればいいんじゃない」だった。

その言葉どおり、思ったことを実行すれば、不思議と何でも解決出来た。だけど、今は、何一つうまく行かない。兄さんがいないから。

「兄さん、助けてよ。声を聞かせてよ。」

そう呟いても、何も聞こえない。さっきのように兄さんの声は風に運ばれてこない。成りすましているから、兄さんにはわからないのかもしれない。警察官のなりすましを辞めてしまおうかなとか考える。なりすましを辞めたら、どうなるか想像がつかない。あらゆる防御システムが警告を発して、新たな攻撃に転じるかもしれない。

はぁ~、和樹は大きなため息を吐いた。風に身を任せて力を温存しているとはいえ、その風力は竜巻並みの強風だから、徐々に体力がそぎ落とされていく。和樹は脱力と共に上を仰ぎ見た。洗濯機の中に放り込まれたように渦は足元へと細くなりつつその遠心力は集約されている。徐々に和樹の身体は下へと高度を下げ、身体を取り巻く力も強くなっていっている。そうやってしまいには和樹の身体は逃げ場のない遠心力につぶされてしまうのだ。下へ行くほど力が集約しているのなら、上だ。上は渦巻く円周も広く力も散漫されているだろう。

そして、もしこの竜巻が気象と同じような構造をしているのであれば、上空には限りがあるはず。和樹は根拠もなくそう思った。良くニュースでやっているような映像でしか、和樹は竜巻を見たことがない。だから実際にはどうなのかは知らないけれど、何事にも無限はないものだ。この防御システムのプログラムにも限界はあるはず、実際に和樹の体は下へと流されている。その流れに逆らう事は侵入への経路と考えられる。和樹は身体を回転させてうつむき、頭を風向きに変えた。手を前に出して、風をかき分けてるようにして前に進む。やっぱりゴミが和樹の頭や肩、腕をかすり傷つけていく。和樹は意識的に自分の身体を細く細く、竹の笹のようなイメージを頭の中で作った。実際にそうして和樹の身体は細く細い体に変容する。そうして竜巻の渦巻きを少しづづ昇っていく。

ある程度高度の高いところまで来ると竜巻の力は弱まっていて、細くならなくても前に進めるようになった。それでも風をかき分ける手を休むと体は下へと降下してしまうので止める事は出来ない。腕が重くもうひとかきもできないと思った時、やっと風のない空間に出た。和樹は上半身を起こして周りを見る。今度は、まるで海流が合わさる灘にできる渦潮に吞まれこんでいくように和樹の身体は中心へと向かう。さっきまでは内から外へと回転していたのに、今度は内へ、和樹は全体の構造が把握しきれないまま、どうすることも思いつかないまま、中央へと身体をゆだねた。中心になるほど回転は速くなり目が回る。目を瞑ってその渦に吸い込まれるように巻き込まれる。和樹の身体は回転しもみくちゃにされる。上も下も右も下もわからない、それでいて、退官したことない重力が和樹の体を押しつぶす。それでも手や足や首を四方に引き千切って持って行こうとする力。

「ぐっ・・・。」胸が押しつぶされるように苦しくて、息が出来ない。

「黒川君!」

しびれて、キーボードを押す指が動きつらい。

せっかくここまで来たのに。現実世界の景色とネット世界が入り乱れて視界か歪む。

これが、どす黒い警察の本質。汚くて黒くて、権力に驕ったヘドロが渦巻く。

「強制終了か!」

・・・・・・ズキ・・・・・・・

「やめて・・・下さい。」

「でも、このままじゃ・・・」

カズキ・・・・・・・

声・・・・兄さん?

カズキ、こっちだ

兄さんの声!

「今の状態を続けるよりは、強制終了して、気絶してでも病院に連れて行く方が適切か!」

和樹の体から透明な何かがはがれるように手から出ていく。透明なそれは和樹の手を繋いだまま形になり向き合う。

完全に人型になったそれは、次第に色を付けて、新たな分身のようになって・・・違う、それは兄さんだった。

「切るぞ!黒川君!気を失ったら、すぐに病院に連れて行くからなっ!」

「切るな!」

懐かしい兄さんの姿、その顔が笑った。

カズキ、さぁ行こう!

「行ける!」

兄さんと一緒なら。思いどおりに。





黒川君が苦しむ姿に、自分はとんでもない間違いを犯したと後悔する。りのちゃんや麗香を守る為に、黒川君を聖なる犠牲にさせてしまった。VIDの世界におぼれる黒川君は、体中にミミズ腫れを次々と増やしていき、顔と手は赤く腫れて、額から汗を流して、苦痛に顔をゆがませている。このままじゃ、身体が持たない。

藤木君も限界だと決断をしろと訴えてくる。

だけど、今、強制終了をすれば現実の脳が壊れる。今回は前みたいに一瞬の気の失いでは済まないと、黒川君自身が言うのなら、間違いはないのだろう。画面を力強く睨みつけていた黒川君の黒目が一瞬、白目に変わり、頭が大きく揺らいだ。後頭部に手を添えて支えるとすぐに意識は取り戻したが

「今の状態を続けるよりは、強制終了して、気絶してでも病院に連れて行く方が適切か!切るぞ!黒川君!気を失ったすぐに病院に連れて行くからなっ!」

「切るな!」

「行ける!」

何が起きている?わからない。藤木君ならわかるか?そう思って視線を送ると、藤木君は眉間に皺を寄せて、首を横に振った。

「ありがとう、兄さん。」そう呟く黒川君、VID内で兄と会っている?さっきも同調を兄さんに手伝ってもらいましたと言っていた。

父親の警察監が、家が崩壊してでも明かさない黒川広樹が殉職した事件の真実を、知りたいと切に願っている事を知りながら、それをやってしまう可能性を知りながら、自分は目の前の事を解決する事にしか目を向けられないで、黒川君にこのPCを与えてしまった。

「着いた・・・・ライブラリに。ここは警察のデーターがびっしり詰まっています。」

そう言って目を輝かせた黒川君。凱斗は唇を噛んで見守る。

「鉄道警察、2010年11月6日 帝都電鉄スカイライナー人身接触事故報告書と、そして、2013年9月15日察庁刑事局、特殊事件捜査班、黒川弘樹巡査殉職に関わるすべての事件捜査報告書を。」

「黒川君・・・」藤木君も黒川君の顔を凝視して動かない。

「さぁ、閲覧は後でゆっくり、帰ろう兄さん。・・・・・・・えっ?どうして?何故!」

「どうした?」凱斗はおずおずと聞く。

「そんなぁ・・・」急に落胆の表情をする黒川君。

「どっちか一つだなんて。」

「どっちか一つ?」

「出口が小さい。どっちか一つしか運べない。真辺さんの事故報告書か、兄さんの捜査報告書か。」

藤木君とまたも目を合わせた。





兄さんが指さす出口は、飛び込んだ竜巻の円錐の尖がった方で、ドラム缶ほどの幅しかない。最後の最後まで壁は渦巻く竜巻の流れがあり、少しでも触れれば削り吹き飛ばされる。

和樹の目の前に二つの箱が並んで、空中に浮いて停止している。右に、兄さんが死ぬこととなった事件の捜査報告書は、抱えきれないほど大きくて、錠前のついた鎖が巻き付けられている。左にお弁当箱のように小さいだけの真辺さんのお父さんの事故報告書。兄さんの捜査報告書は出口より二回りも大きくて、無理に出れば、データーは両サイドの風の力に削り吹き飛ばされて、半分は損傷する恐れがある。このPAB2000を用いても運べないほどの資料、その事実が兄さんが死ぬ原因となった事件の大きさと重要性、厳密にされている理由である事を思い知らされる。鍵の付いた鎖も解除するのに時間を要するだろう。それでも、これは和樹がずっと手に入れたかったものだ。データーの半分は壊れてしまうかもしれないけど、まったくわからないよりは、半分わかる方が断然いい。

2つ同時には無理だと兄さんは首をふる。だったら迷いなく選ぶのは兄さんの事件の報告書だ。

「それでいいのか?」と兄さんか、和樹自身かわからない声が内から聞こえる。

「そうだよ。ずっと欲しかった物。この為に僕はハッキングと言う犯罪に手を染めた。」

目の前にいる兄さんが悲しそうな表情で頭を傾けた。

「兄さんはいつも僕の思い通りにすればいいって、言ってたじゃないか。」和樹は兄さんの報告書に手を伸ばす。

「そう、思い通りにすればいい・・・カズキが本当にそれでいいのなら」

その声は冷たく、和樹の胸にズキリと刺すようだった。

「本当に・・・いい。」

これは、2年間ずっと知りたいと求めていた物。真辺さんに会う前から追い求めていた物だ。

先にこれを持って出たら、皆はがっかりするだろう。だけど、もう一度潜れば、真辺さんのお父さんの事故報告書はあんなに小さいのだから、すぐに持って出れる。

「もう一度、最初から、潜りしなおさなければならなくても?」

「最初から・・・」

自分の疲労を意識したら、もう一度、最初から竜巻に入り、風向きに向かって泳ぐのは、うんざりするほど辛い。

『それじゃ、遅すぎます。』

『りのちゃんをあのまま、5歳児の精神のままで、一週間もほっとけません。新田もです。あいつは、りのちゃん以上に限界です。それにりのちゃんのお母さんも。』

そう言って訴えていた現実世界を和樹は思い出す。

和樹がここに呼ばれて頼まれたのは、真辺さんのお父さんの報告書を警察からハッキングする為だ。そもそも、和樹がハッキングをしなくても、理事補が篠原さんに頼めば鉄道警察の事故報告書なんて簡単に手に入る。しかしながら、それでは遅いからという理由があったからこそ、理事補はPAB2000を和樹に使わせてくれたのだ。

道理は、依頼通りに真辺さんのお父さんの事故報告書を持って帰ってから次に、兄さんが死んだ事件の報告書を取りに行くのが筋だろう。だけど、和樹の中では、兄さんが死んだ事件の報告書の方が欲しい要求が上だ。

自己の欲求か、他人の要求か。

迷う。

思考が気持ちを邪魔している。

歪んだ景色の中で、理事補と藤木さんが和樹に固唾をのんで凝視している。

「僕は、ずっとこれを求めて。」言い訳のように和樹はつぶやいた。

その言葉にこたえるように理事補と藤木さんは、黙ってうなづく。

「ごめんなさい。」






出したばかりの黒い絵の具のようなつややかな黒い真円に、追われ、そして行く手を阻まれて、僕は困っていた。

『和樹、何やってんだぁ、そんなところで。お母さんが遅いって心配してるぞ』

『兄さん!助けてよぉ。』

『はぁ?』

友達の家に遊びに行った帰り、いつも通りに、落葉して寒々となってしまった公園を近道に歩いていた。

ふと、何かの気配に後ろを振り返ると、目が合った。

犬・・・・尻尾は千切れそうな勢いで左右に振り、笑っているように口を開けて腹式呼吸をしている。見た目で良いとわかるほど毛並みも肉付きも良くコロンとしていた。可愛いと思わず手を出しそうになるのを、和樹はぐっとこらえ、周りを見渡した。公園内は誰もいない。公園外の道は、スーパー帰りのおばさんが自転車で通りぎて行くだけで、この犬の飼い主らしき人は、どこにも見当たらなかった。

『お前、もしかして、迷子?』

そう呟いたら、返事をするかのように犬はキャンと吠えた。

下手に触ったら、拾得物として交番に届けなくちゃいけない。交番はここ周辺にはなくて、一駅向うまで行かないと無い。そこまで行くには面倒だし、もう日も暮れる。

犬は好きだけれど、半年前、家で飼っていたクロマメと言う名の犬が老衰で死んだ。僕が生まれる前から飼っていた雑種の番犬、兄さんが5歳の頃に拾ってきて飼いはじめ、それから13年間、黒川家の番犬として庭を守っていたクロマメ。死んだ日、僕と兄さんとお母さんは大泣きして、庭に墓を作って埋めた。お母さんは、もう生き物を飼うのは、しばらくいいわ。見送るのが辛いと言った。そして、自分より寿命の短い生き物は拾ってきたら駄目よと言われていた。

『お前、本能で帰れるだろ、さぁ、お家に帰りな。』

そう言ったら、犬は更なる喜びの尻尾を振って僕に向かってきた。

『うわーっ!駄目なんだって』

触ってしまったら最後、拾得物として、こいつの飼い主探しや世話をしなければならない義務が生じる。まだ宿題をやっていない。今日は沢山宿題が出たのに、友達の高橋が新しいゲームを買ってもらったから遊びに来いよと誘われて、学校から戻ったらランドセルを玄関に置いたまま飛び出してきた。きっとお母さんは、宿題もせずにどこ遊びにに行っていたの!って怒る。その上に犬なんか拾って帰ったら、どんな怖い顔で怒るか・・・・

喜び満載の表現で突進してくる犬を寸前で交わして逃げた。犬は、それが遊んでくれていると勘違いして、飛び跳ねるように僕の後ろを追いかけて来る。

『あはははは、んで、困って滑り台の上に逃げて、降りれなくて困っていたわけだぁ・・・・あははははは。』

『だって、触ったら最後まで責任持たなくちゃいけないって、お父さん言ってたじゃん。』

『ぷっふふふふふ。でもほんと、こいつ和樹の方ばかり見てるな。』

兄さんがお腹を抱えて笑う。

『逃げても逃げても追いかけてくるから、さっき高橋ん家でもらったクッキー投げたんだ。その隙に逃げようと思って。でも追いつかれた』

『ぶはははは、そんな事するからだろ。どれ。』

『あっ、兄さん触ったら・・・』

兄さんは、滑り台の麓でしっぽを振ってるうす茶色い子犬を抱き上げた。

『おっ、こいつ女の子だな。首輪に名前は・・・・ナシかぁ』

僕は滑り台を立ったまま滑り降りた。

『あ~あ、お母さんに怒られる。亀以外拾ったら駄目だって言われてるのに。』

『そんな事言っても、和樹、ずっと、ここでキナコと睨めっこしとくのか?』

『キナコ?』

『いくら迷子でも名前ないと不便だろ、それに、エサあげた時点で、和樹はキナコの面倒見る責任が生じた。ほらっ』

と言って、兄さんは、キナコと勝手に名前を付けた子犬を僕の胸に押しつけて来た。

名前つけた兄さんの責任はどうなるんだよっ、てのは口にしなかった、あまりにも名前がダサイから。

『ねえ、兄さん、もしかして、クロマメって兄さんがつけたの?』

『そうだよ。俺が拾ってきたんだから、何か?』

『ネーミングセンス悪う』

『何言ってんだ、和樹は知らないかもしれないけどな、クロマメは拾った時、黒くて、ちっちゃくて、こんな最適な名前はないって爺ちゃんに褒められたんだぜ。』

『・・・・・それ、きっと呆れていたんだと思うよ。』

『キナコだって、見ろ、まさしく黄粉色の毛。』

『そう、だけどさぁ・・・何で食べ物ばっかなんだよ。』

『ぴったりだよなぁ、キナコ!』

キナコは兄さんの名づけに満足したかのようにキャンと吠えた。

家に帰りながら、通りすがりの人達、特に犬の散歩をしている人達に、この犬の飼い主知りませんかと聞きながら帰ったけど、結局キナコの飼い主は見つからず。抱いたキナコは暖かくて、毛がふさふさとして、もう手放すのが嫌になった。

『兄さん、キナコの飼い主、見つからなかったらどうする?』

『家で飼うしかないだろ。』

『でも、お母さんが、もう生き物はいいって。死ぬのを見たくないって。』

『お母さん、和樹がやりたいって言った事、今まで反対したことないだろ。絵だってどんなに部屋を汚してもやらせてくれてるじゃん。』

『うーんそうだけど、お母さん、クロマメ死んだ時、凄い泣いていたから・・・・』

『和樹の好きにしたら?お母さんの事を考えて別の飼い主を探して手放すか、お母さんに頭を下げて飼う事を許してもらうか、和樹のキナコなんだから、和樹の思い通りにしたらいいよ。』



見知らぬ部屋の景色に一瞬だけ戸惑う。

枕元にある携帯で時間を確認する。10時47分。約一時間ぐらい寝てしまっていたみたいだ。

体を起こすと、やっぱりフワフワと自分の体重が感じられない感覚がする。

「何故、キナコの夢?」

キナコは3日後に飼い主が見つかった。和樹がキナコと出会った公園の近くのスーパーで、お母さんが掲示板に探していますのチラシを見つけて来て連絡を取った。公園より一キロ離れた家で飼われていた血統書付の柴犬だった。本名は、もう思い出せないけど、洋風の名前で、柴犬に合わない名前だったから、兄さんよりネーミングセンス悪いって笑ったのを覚えている。

「この部屋も凄いな。」部屋を見渡す。

この部屋を使ってと連れてこられた2階の部屋、柴崎先輩が何部屋あるかわからないと言うだけあって2Fは下の部屋よりドアの数が多い。明からに高いと思われるヨーロッパ調の家具、豪奢に装飾されたテーブルの脚とか、和風建築のウチには絶対にないものばかり。

腕をまくって手の甲から腕の方まで皮膚の状態を確認する。ネット内で負った切り傷は、現実世界のこちらでは赤くミミズ腫れになっていた。跡形もなくなくなって、寝ている間に元に戻ったようだ。

ベッドから足を降ろして、ドアへと向かう。歩くとフワフワの感覚はレニーウォールに挑んで失敗した時より軽め、ちゃんと段階を踏んで出口から出てきたからよかったんだろう。

すべてにおいて重厚で芸術的な装飾のドアを開けて部屋の外に出たら、足元にフワフワの感触が当たった。見上げてくる黒い目と合う。

キナコ・・・じゃなくて、えりは、毛布を頭からかぶってドアの横で座り込んでいた。和樹はすぐに視線を外して奥のトイレへと向かった。後ろからついてくる気配に立ち止って振り返ると、えりはまるで、だるまさんが転んだをしているみたいに、ピタリと立ち止まる。和樹はまた無言で歩きだし、トイレに入る。流石に中まではついてこなかったけど、和樹がトイレから出るとまた後ろからついてくる。

階段の前で振り返った。えりは、和樹が立ち止まるとは思っていなかったようで、慌てた様子で立ち止るのが遅くれた。

「ぷっぅーーー可笑しいっあはははは。』

「なっ、何?」

そうだ、えりと最初に出会った市の展覧会の時、夏の日焼けが残っている健康的なえりの肌の色を見て、キナコみたいと和樹は思った。その人懐っこさも合わせて、そっくりだ。

「ううん、何でもない。くっくくく。」

「えーまた思い出し笑い?」不貞腐れるえり。

「ずっと待ってたの?廊下で」

「うん・・・」

「調べは?」

えりは首を振る。

「えり、邪魔者だから・・・・」

そういえば、言ったなぁ。ハッキングの途中で、集中しなくちゃいけないのに、ごちゃごちゃ横でうるさかった・・・げっ、藤木さんや柴崎先輩たちに酷い言葉使いをしている。ヤバイ。

「ごめん・・・僕、必死だったから。」

「ううん、よかった。もう消えてるね。」えりは破顔して顔を覗きこんでくる。

本物の傷じゃない、言ってみれば思い込みによるものだ。だから治りが早いのだろうと勝手に分析する。

「ありがとう、心配してくれて。」

えりは、はにかんだように首を振る。

兄さんは、和樹の好きなようにすればいいよって言った。だけど兄さんの調査資料に手を伸ばすと悲しそうな顔をしたんだ。

だから、僕は思い通りじゃない方を選んだ。

「僕たちも調べに協力しに行こう。」

「うん。」えりの高い声が、キナコのキャンに聞こえた。

会合室に戻ると藤木さんと柴崎先輩と理事補が口々に声を掛けてくる。

「黒川君!もういいの?」

「大丈夫か?」

「あっ、はい。大丈夫です。あのー皆さん、すみませんでした。」

「何、謝ってるの?」

「あ、あのハッキングしてるとき、言葉使いが・・・僕、先輩に対して酷い事言って・・・」

「そんな事、気にしなくていいよ、部活でもないんだし。」

「そうよ。そんなの気にしてたら、えりはどうなるのよ。」

「えー、えり、ちゃんと敬語、使ってますよ。」

兄さん、良かったよ、兄さんの思う方を選んで。

「使ってるけど、ぎゃーとか、げーとか、私に対するリアクションは、とても先輩に対する警護とは思えないわ」

「柴崎先輩~、そんな事、気にするんですかぁ~。心、小さいですよ。」

もしあの時、兄さんの調査書を選んでいたら、僕は今、ここには居られなかった。大丈夫?なんて優しい言葉もかけてもらえなかったはず。

「あ、あのねぇ~」

「えりりんの勝ちだな。」

キナコの勝ち。

その黒い瞳とせわしなく振る尻尾と愛嬌で、一瞬で手放したくないと思わせたキナコは、3日後の別れの時、

僕と兄さんを泣かせたんだ。























夜に雨が降ったせいで、しっとりとした空気が顔にまとわりつく。まだ薄曇りの朝、亮は柴崎邸の裏にあるテニスコートの脇に置かれたバスケットゴールに向かってボールを投げた。ボールはボードに当たりもせず、ゴール淵の輪にあたり、派手に跳ね返ってくる。

進級式の後、りのちゃんは、ここで何度もフリースローをやって、連続で何回出来るかと新田と競争をしていた。小さい身体を身軽にポンとジャンプして・・・最高、何回入れてたっけ?新田に勝ったと笑って喜んでいた記憶はある。

足元のバスケットゴールを拾いもう一度、フリースローをする。ボールはやっぱり入らない。

黒川君はハッキングを成功させた。スタートから2時間ちょっと、彼はバーチャルのネット世界と同調し、警察のデーターベースに侵入し目的のファイルを見つけた。

黒川君のお兄さんの死因に関するデーターと、りのちゃんのお父さんの事故の報告書、どちらか一つしか持って出られない苦渋の選択を強いられ、選んだのは、りのちゃんのお父さんの事故報告書だった。

黒川君はすぐに、警察のデーターベースに再侵入した。がしかし、警察側も侵入者に対する対抗プログラムを構築してきて、黒川君自身の体力が尽き、竜巻だという警察のデーターベースを取り巻くシステムからはじき出されてしまった

黒川君は落胆し、PAB2000のパソコンの電源を落とすと、『疲れたので休ませてください』と、部屋を出ていく。ふらつく足取りに凱さんが介添えするのを見て亮は、彼の心情に同情を抱き、過せた辛労に悔やんだ。

一人、会議室に残こされた亮、黒川君の私物であるノートパソコンを前に、生まれた後悔に言い訳をして皆が部屋に戻ってくるのを待った。

知らなかったんだ。

黒川君が何かを抱えて悩んでいる事は、能力で知っていた。だけど、事件の事は何も、彼のお兄さんが殉職して、その事件は公私において伏せられているなんて、そして、その事件の詳細を知るためにハッカーになっただなんて、知らなかった。

警察のデーターベースへの侵入は、彼が長年切望してきた事だった。それなのに、りのちゃんのお父さんの方を優先してくれた。

落胆して部屋を出ていく黒川君の本心は、哀しみと悔しさが重く沈殿していた。

そんな心を見知って、言葉一つかけられない自分がことごとく冷酷だと思った。

わからない。肉親を失う悲しみを。

いくら嫌悪のある親でもまだ健在、爺さんもまだ元気だ。婆さんは亮が6歳の頃に死んだ。口を開けば、藤木家の恥じない様にと周囲に厳しい人だったから、亡くなってほっとしたのは、亮だけじゃなかった。お母さんや家内の使用人も皆、ほっとしていた。

だから、人の死の哀しみがわからない。ニコちゃんが身内の死に、心が壊れるほどになってしまった事、黒川君がお兄さんの死を受け止められず、犯罪をしてでも追い求めた情熱が。

身内の死に哀しみをわき起こせない自分。人々の死を利用して議員になった父、藤木守と変わらない。嫌悪を隠さず嫌って避けても、自身の血肉が、遺伝子細胞が確実にコピーされている。どうあがいても、無視しても、背けたいものは、思考から離れない。

次々に変わるスクリーンセイバーが表すモダンアートを苦い思いで見つめる。このパソコンにはついさっき、黒川君がハッキングしてきたりのちゃんのお父さんの事故報告書のデーターがある。

『どうした?開けてないのか』会議室に戻って来た凱さんが、思考に耽っていた亮を覗き込むようにして言う。

『あ、はい・・・黒川君は?』

『大丈夫。心配ない。』そう言って凱さんは亮の気持ちを察してか、励ますように肩をたたく。

次いで麗華も部屋に戻って来て、

椅子を引いて座り、キーボードの一つを押してスクリーンセイバーを解除した。


【帝都電鉄、スカイライナー人身事故調査資料    2011年11月6日    鉄道警察事故調査班】

と書かれた表紙が画面に表示される。

凱さんは次のページをめくろうとして、亮と柴崎へと顔を向けた。

『あー、えーとね。見せられる情報だけ取りだして、プリンとアウトしてあげるから。ちょっと画面の見えない位置に移動してくれる。』

『?』

凱さんの言っている意味が、今一わからずキョトンとする。

『写真もあるからね、麗香は特に、藤木君も見ない方が、いいと思うよ。』

そこで初めて死体の写真がその報告書にはあるのだと理解した。

『いえ、大丈夫です。写真から何か読み取れる物があるかもしれませんし。』

霊能力者じゃあるまいし、写真からは何も読み取れない。ただ、自分が調べようと言ったのに、何もできず、黒川君に任せきりの自分の無能さが嫌だった。小さなプライド、強がり。柴崎の前だったから、死体の写真が怖いなんてことも言いたくなかった。だけど、そんな子供じみた強がりを出したことに、亮はすぐに後悔した。

事故調査書は5ページ目から写真の書類が掲載されていて、緊急停車した特急スカイライナーの車両の写真が掲載されている。正面の下部が血で汚れている個所、そのアップ。はまだ良かった。ページが進んで、被害者の身元の詳細と遺体検分の写真が掲載されている。りのちゃんのお父さんの遺体写真・・・それは惨いものだった。腰から下はありえない方向に曲がり、右腕はちぎれて、別に置かれている。頭部は右半分が削りつぶれていた。もう、それはホラー映画に出て来そうな無残な状態。顔全体がつぶれていれば、さながら特殊メイクとでも思い、亮は平気だったかもしれない。なまじ右半分は損傷なく、英会話のスピーチ大会のバックでスライド映写された家族写真の中で笑っていた男性と同じ顔。りのちゃんのお父さんだと判別ができた為に、亮の強がりは瓦解した。夕飯にごちそうになった寿司が込み上げてきて、トイレに駆け込んだ。

写真でしか見たことのない友人の父親の遺体、男の自分ですら吐いてしまう。

りのちゃんは、大好きな父親のそれを見たのかもしれない。心が壊れて当然、声を失って当然。

大理石の洗面台をグーで殴っていた。ニコちゃんの過去を共有するだけでもいい、なんて言って、この様、

何もかも、すべての自分が嫌になった。自分の覚悟の小ささに、大きすぎた過去の共有は入りきれない。

『藤木、大丈夫?』柴崎が扉の向こうから声をかけてくる。『入るわよ。』

普通の家庭にあるようなトイレじゃなくて、洗面と個室が別になっているから、柴崎は亮の返事を待たずに遠慮なしに入ってくる。

後ろの棚からタオルを取り出してくれた柴崎を抱きしめていた。自分だけでは抱えきれない共有、柴崎に少しだけ預かってもらおう。

『藤木・・・』

『・・・ごめん、少し、我慢してくれ・・・』

柴崎の手が背中に回ってさすってくれる。柴崎のやわらかなぬくもりが、背中から、腕から、胸から伝わるのを共有しながら、思った。

りのちゃんは4年前、こうして、誰かと辛さを共有する事も出来なかったんだと。

はじめて人の死の寂しさを知ったような気になった。



転がったバスケットボールを手を使わず、足先で手前に回転させ、足の甲に乗せてからポンと蹴り上げ、手に受け止める。

バスケ部の今野に見られたら、怒るだろうなと思った時、人の気配に気づき振り向く。

「おはよう、藤木君。」柴崎のお母さん、つまり学園の会長が歩いて来ていた。

「おっ、おはようございます。」亮は若干の驚きと戸惑いで、姿勢を正す。

「早いわね。もしかして眠れなかった?」

「あっ、いえ、いつもと同じように起きてしまって」嘘をつく。本当は言われる通り、朝まで眠れなかった

亮が吐いた一時間後に黒川君は、えりりんと一緒に会合室戻ってきて、交えて、りのちゃんのお父さんが自殺じゃない何かを事故報告書から探した。驚いた事に、黒川君はその事故報告書の写真を見ても、顔色一つ変えることなく、拡大して写真を見たりしていた。亮はその精神の強さに驚いた。

しかし、あらゆる可能性、議論をしても、自殺じゃない何かを見つける、もしくは推測も何も行き当らなかった。

えりりんの大あくびをきっかけに、「続きは明日にしよう」と言ってやめたのが夜中の12時を過ぎていた。それから個々がシャワーなどを使って就寝したのは、おそらく2時を過ぎていただろう。朝の6時の今、誰もまだ起きてこない。

「あっボールの音、うるさかったですか?もしかして起こしてしまいましたか?」

「いいえ、大丈夫よ。ふふふふ、流石、藤木君ね。麗香の言う通り気配りが抜群ね。」

「えっ?、あっいや・・・」まさかこんな事ぐらいで褒められるとは思ってなかったから、あたふたとする。

「ふふふふ、ごめんなさいね。私、一度あなたとお話しがしたいと思っていたの。」

「僕とですか?」かしこまって僕だなんて普段使わない人称を使ってしまう。柴崎のお母さんは、貴婦人と言う表現がぴったりな、ショールを肩に羽織っていて、この洋館にふさわしい気品に満ちている。

「そう、藤木亮君、あなたと。」

フルネームで呼ばれ、何かまずいことでもしただろうかと亮は頭の中で記憶を探りまわす。もしかして昨日のあれ?柴崎に抱き付いたの、どこかから見られていていたとか?まずぃ。この洋館なら防犯カメラが、あちこちにあってもおかしくない。こんな場合は、さっさと謝るに限る。

「すみま」 

「大きくなったわね。」

え?予想外の言葉。

「まだ小さいころ2度ほど、あなたとお会いしてますよ。」

柴崎のお母さんとあったことある?子供の頃?いつだ?亮には思い当たる節がない。

「覚えてないかしら?あなたたちが5才の頃、帝都ホテル50周年パーティで大人のまねして麗香と社交ダンスを踊った事。そして7才の頃の文部科学省主催の教育改革推進フォーラムでの場で。」

「あっ・・・はい。いや、あの、それに出席していたのは覚えています。でも、その・・・・。」

「ふふふ、私の事は覚えてない。」

「すみません。」

「謝ることないわよ。出席した事を覚えているだけでも凄いわよ。麗香なんて全く覚えてないからね。」

「はぁ。」

柴崎のお母さんは、穏やかに笑んで亮に一歩近づいた。そして掻き合わせたショールから手が伸びて、

「辛かったわね。」亮の頬にそっと触れた。

「え?」

「あのフォーラムで、あなたのお父様とご挨拶した時、そばに居たあなたが、私と同じ能力を持っているとわかって。まだこんな小さな子供が、人の本心を見知っていると心が痛んだ。----その後は、お父様とは何度かお会いしいるけど、あなたは見かけなかったから、どうしているかとずっと気になっていたの。」

同じ能力・・・・柴崎のお母さんが同じ、人の本心を見抜く目を持っている?

柴崎のお母さんは、嘘を言っていない。

「麗香から、あなたの名前が出るようになって、すぐにあの時の藤木大臣の息子さんだとわかった。世間を冷たい目で見ていたあの子だと」 

「・・・・・・」あまりのことで、亮は言葉が出ない。

「あの頃のあなたの目は、この先、どうなるかと心配だったけど。今は良い目をしてる。安心したわ。」裏のない本音の言葉。そして微笑み「今まで、よく頑張ってきましたね。」

その言葉は、この能力に対しての、初めて他人に言われた労いだった。

人の本心がわかってしまう事の苦悩、苦痛を、今までだれ一人として、亮を理解してくれる人なんていなかった。胸と目が熱くなる。

瞬きをすれば、涙が落ちるとわかっていたから、耐えていたけれど、耐えられなくなり、頬を伝った。

「それから、麗香を変えてくれてありがとう。」

「いえ、俺は何も・・・。俺は言っただけ、変わろうと努力したのは柴崎だから。」涙声の自分の声に恥じる。

「そうね。みんな頑張ったわね。」

親の前でも、もう10年以上、泣いてない。

「恥じることはありません、何歳になっても泣くことは必要よ。」

はじめて、人に心を読まれる、逆のパターンを味わう。

そしてわかった、自分は誰かに認めてほしかったのだ。

この力を、この努力を、この孤独を。

「ごめんなさいね、ショールで。」柴崎のお母さんは、止まらない涙をショールで拭いてくれる。







ホテルの朝食のような食事を食べた後、えりたちは昨晩の続き、ニコちゃんのお父さんが自殺ではない何かを探して、会合室に集まっていた。昨晩から降り始めた雨は、えりが目覚めのカーテンを開けた時、細く霧のような小雨になっていたから、このまま止むかと思われたが、雲は途切れることなく重く垂れ込めて、また庭木の葉を揺らす雨となった。日差しの入らない会議室、えりたちは進展のない事故報告書を前にして雨雲と同じような重いため息をつくばかりだった。

自殺に間違いのない事実ばかり。もう、何度も繰り返し読んだ事故報告書、独特な用語を使って書かれている文面に、最初は戸惑って意味が分からなかった物も、覚えてしまうぐらいに何度も読み、飽きた。だいたい、自殺じゃない何かって、何?何か不審な点があったとかって言うならまだしも、自殺と処理されて確定している事故報告書は、何の落ち度もなく綺麗に結審されている。もう自殺でいいんじゃない?ニコちゃんのお父さんが自殺した詳細を皆で共有するだけで、昨日、藤木さんそう言ったじゃん。

えりは大きなため息をついて報告書をテーブルに置くと、柴崎先輩がちらりとえりをねめつけてから発言した。

「遺留品のリストに、贈答品ってあるんだけと、これって何かしら。」

「それ、おそらく、この右手の手に持っているものだと思います。握ったまま亡くなっているので、おそらく飛び込む前から持っていて、線路内に入ったんだと思われます。飛び込んでから、鞄とかスーツのポケットから出すという時間は、ありませんから。」

藤木さんが顔をしかめる。黒川君はプリントアウトしたものじゃなくて、ハッキングしてきたデーターを直接PC画面を見ながら話している。昨日から、黒川君には驚き。えりが慎にぃを騙したイタズラの時もすごいとは思ったけど、昨日のは、もっとすごかった。どうしたらあんなに早く指が動かせるのだろうかと思うほど早く、キーボードをたたく。そして、血まみれの遺体の写真を平気で見ている事も、驚愕だ。優しい絵を描く黒川君とは別人のようで、若干の怖さを覚える。

「握ったまま?」

「はい、白とピンクの水玉の包装紙に赤いリボンがついていますから、これに間違いはないと思います。他に贈答品に当たるものは、遺留品の写真に見当たりませんから。」

「赤いリボン・・・・プレゼント・・・・」藤木さんが驚いたようにつぶやいたのを、柴崎先輩が、ハッと両の手を口に当てて同意する。

「ニコの誕生日・・・」

そうだ!おじさんが亡くなったのは、ニコちゃんの誕生日の翌日の朝。

「誕生日?」凱さんと黒川君だけが何のことかわからない顔をして、あたしたち3人の顔を不思議そうに見比べる。

「ニコちゃんの誕生日、11月5日なの。」えりが答えた。

「じゃ、これは・・・・」凱さんも、黒川君も、やっとその事実に驚いて、もう一度pc画面の写真へと視線を向ける。

「ニコへの誕生日プレゼント」

柴崎先輩は最後まで言えずに、涙を落とすのを耐える事が出来なかった。えりも涙が出てくる。

ニコちゃん、こんな辛い現実を一人で抱えていたんだ。

えりがニコちゃんへあげた誕生日プレゼントを、一昨年と去年の2回ともニコちゃんは無表情に受け取るから、うれしくないのかなと少しムッとした。誕生日が来るたびに思い出す辛い過去に、そりゃうれしいはずがない。

それに、えりは酷い事を言ってしまった。慎にぃが、あたしをひっぱたいたのも無理はない。

「ちょっと待ってください。どうして前の日の誕生日プレゼントを握っているんですか?」

黒川君の疑問を、藤木さんは手をグーしてつぶやくように答える。

「りのちゃんは、自分がお父さんを死なせたと思っている。誕生日会は父親の帰りが遅くて、それが原因で夫婦喧嘩になり、できなかったと、りのちゃんのお母さんが以前、言っていて・・・・。ここからは予測だけど、ニコちゃんのお父さんは朝、出勤前に渡そうとしたんじゃないかな。それが何らかの事情で、渡せなかった。だからそのまま持って出て・・・・。」

いつも穏やかに笑っている凱さんが、苦悶に事故報告書を握りしめた。

「あるいは、ニコに拒否されたか・・・。」と柴崎先輩は鼻をすすりながら語る。

「それはないだろ、りのちゃんは、お父さんの事が大好きで。」

「大好きだから許せないのよ。自分の誕生日は、どんなに仕事が忙しくても、この日だけは早く帰ってくる。ニコは楽しみに、そう思っていたに違いないわ。それが帰ってこなくて、誕生日会も出来ない上に、夫婦喧嘩が始まった。その頃は学校で、いじめに合っていた時期でしょう。大好きな父親と家で祝う誕生日を心待ちにしていたのは簡単に想像できる。どんなに大好きだった父親に謝られても、そんな簡単には許せない。1日遅れのプレゼントは要らない、朝、そう言って拒否した・・・・・私がニコの立場だったら、そうするわ。」と柴崎先輩が力説するのを、えりも強く、うなづいた。それを男性陣は微妙な顔をして俯く。

「だから、その数時間後に自殺したお父さんを、死なせたのは、誕生日プレゼントを拒否した自分だと思いこんだ。」

「・・・・・・」

「じゃ、やっぱり、りのちゃんのお父さんは自殺に間違いないって事になるね。娘にプレゼントを拒否されて、ショックで投身した。うつ病も発症していたから尚更って事になる。」

全員が黙った。

確実に自殺で確定の要素しかない。

重苦しい空気、お笑い担当のえりでも払しょくできない。  





「慎一・・・」

「ん?」

「学校は?」

「ないよ、今日は日曜日。」

「・・・・そう、日曜・・・・」

りのは、カレンダーを探しているように、うつろな目で部屋を見回したけれど、カレンダーはここにはない。代わりに時計を見て、またゆっくりと慎一に顔を向ける。

「サッカーは?」

「雨で中止。」

「・・・・雨・・・・」

「うん、雨、降っているよ。外、見てみる?」

昨日の夜からしとしと降り出した細い雨は、朝方に一旦やんだけど、8時ごろに、今度は本降りの雨に変わった。昨日の土曜日は熱が出たと嘘をついて学校を休んだ、もし雨が降っていなかったら、その続きで今日の練習は体調がまだ良くないと言ってクラブは休もうと思っていた。だけど顧問の石田先生から、今日の練習は雨で中止と連絡があって、慎一は、サッカー部全員に連絡網の携帯メールを送った。それをしてから家を出て、病院に向かい、朝からずっとりののそばに居る。

りのは、5歳児の意識と15歳の意識を繰り返していた。5歳児の時は昔のニコと変わらず元気いっぱいで、目を離すと病室を抜けだし、廊下を走って外で遊ぶと言い出す。だからりのは、別館となっている精神科病棟の施錠のできる病室に移されてしまった。

元気いっぱいの5歳児のニコに体力を奪われるのか、14歳のニコである時はぐったりとしていてうつろな顔で、話す言葉も少ない。

慎一は椅子から立ち上がり、レースのカーテンを開けて、りのに外の様子を良く見えるようにしてあげた。

カーテンの空ける音に、ゆっくりと窓の方に向けたりのは、窓際のテーブルに置いてあった折り紙の手裏剣に気づく。

「それ・・・」

午前中、5歳児のニコに作ってあげた折り紙の手裏剣、ニコは喜んで何度も投げて遊んでいた。

慎一はその一つを取って、りのの手にのせてあげた。

「折り紙の手裏剣。昔よく遊んだな。」

「あぁ、遊んだ・・・・スターリン・・・・」

スターリンは覚えているんだ!あれは約2か月前の事。

「りの!そうだよ。スターリンでも遊んだ。子供たちと。夏の事だよ。子供たちと夏祭りのお店を回った。」記憶を呼び戻そうと、慎一は矢継ぎ早に話す。「グレン!グレンは、覚えてるだろう。りのが好きなグレンを」

「グ、レン?」りのは首を振り、わからないとつぶやく。慎一はズボンのポケットから携帯電話を取り出し、そのころに撮影した写真を見せようと急いで操作する。

「りのは、フランスでグレンと友達だった。フランス語でいっぱい話していたたろ。」

「・・・・違う。私はニコ・・・りのじゃない」

「りの!ほら、これ見て!フランスの友達がいっぱい。りのと一緒に写ってる」慎一は以前、グレンから送信されてきた写真をりのに見せた。

「違う。りのは、もう・・・いない。」そう小さくつぶやきながら、りのはまた眠りについてしまった。

慎一は、起こしていたベッドの角度を平らにして、枕の位置を正す。

手にやわらかな髪が触れた。こんな時にしか触れられない乱れたりのの髪を、やさしく正した。

次に目を覚めすのは、5歳のニコか?14歳のニコか?

それともこのまま目を覚まさないのか?

りの自身もわからない。





和樹は迷っていた。この情報を皆に開示するかどうか。

昨日の遅く、えりの大あくびをきっかけに事故報告書の調査を終え、各々があてがわれた自室に向かった。和樹は仮眠をとった部屋へ、ロビーの回廊階段の外窓に雨粒が垂れ落ちているのを見て、初めて雨が降っているのに気づいた。そのことを口にすると、藤木さんは『8時ごろから降り始めていたよ』と教えてくれた。仮眠から目覚めた時も全く気付かなかった。

先輩たちにお休みの挨拶をして和樹は、自分のノートパソコンを抱えて2階の個室に入る。

ベッドとは反対側にデスクが置かれてある。そこにノートパソコンを置いて和樹は座った。

いくらもせずに部屋がノックされて、和樹は若干の鬱陶しさを胸に抱きながら、扉を開けに行く。

『ごめん、黒川君、いいかな。』

『あ、はい。』

声のトーンを落とした藤木さんを部屋に招きいれた。

『その・・・お兄さんの事、なんて言っていいか・・・』伏し目がちに首を振る。和樹が長年求めていた物を捨てて真辺さんのお父さんの方を選んだ事に対して、気にしているようだ。

『ごめん。辛い選択をさせてしまった』

『いえ、気にしないでください。また潜ればいいだけの事ですから。』と軽く言っておいて、その言葉よりもずっとそれが難しいことだと和樹は体感していた。次は、きっと今日より攻略は難しくなる。ハッキングすればするほど、相手は更なる強固の物を創ってくるのがセキュリティシステムの常識。またのチャンスがあるかどうかもわからない上に、和樹のスキルがこのまま向上しているかどうかも分からないのだ。

『それなんだけど、りのちゃんのお父さんの事を知らべようと言った俺が言うのも、おかしいのだけど・・4・』

藤木さんは一旦そこで、言いにくそうに言葉を切った。親しくしてくれているとはいえ、先輩は先輩で気遣いしなければならない状態から、やっと解放されたと思った所の訪問。間を持たせ、要らない同情をくれる藤木さんにイラついた。

『世の中には、知らない方が幸せな事ってあるから、その・・・無理に知ろうとしない方が、いいんじゃないかな。』

何を言うかと思えば・・・

世の中には知らなくてもいい事がある事ぐらいわかっている。だけど、知らなければ前に進めない事がある事も事実。その判断は誰がするのか?大人だけが、その権利があるとは思いたくない。知りたいのは大人も子供も同じ。大人の言いつけを守れる素直さは、兄さんが居なくなって捨てた。

『大人の行動の理不尽さに堪らなく嫌気がさすこと、わかるよ。特にそれが身内であれば、最悪に反吐が出るぐらいにね。』

と言って苦笑交じりに眉尻を上げる藤木さん。和樹は思い出した。ハッキング前に藤木さん自身が、家の事を「失墜するなら願ってもない。」と言っていた事を。

『藤木さんのお父さんって、藤木文部大臣で、お爺さんも内閣総理大臣だった』

藤木さんはゆっくりうなづいて

『政治家の理不尽さは折り紙付きだろ』と言って肩をすくめる。

『だったら、どうして知らない方が幸せだと言うんですかっ』和樹は語尾を荒げた。『それは藤木さんも僕を子ども扱いしているのと同じ』世の中の摂理のように説き伏せるのは、守秘義務だと一言で寡黙に貫きとおす父よりも質が悪いように思われた。

藤木さんは目を細めて和樹を見る。

『警察官よりも質の悪い政治家の、沢山の理不尽さを見知って来たからこそ、言いたかったんだ。』

『・・・・』

『世の不条理さを知れば前に進めなくなる、そして後悔する。幸福は未来にはなく過去にあったと。』

ただ二年分だけ年上なのに、と和樹は思った。哲学めいた言葉で和樹を説き伏せる藤木さんがとても大人に、理事補よりも大人びで見えて、あぁ、だからこの人には自分の気持ちを分かってもらえない。と思った、その瞬間、藤木さんは、顔を顰めてうつむき、つぶやいた。

『余計な助言だった』

この人は・・・人の顔色を読むのがうますぎる。そう和樹は感じて、同時に怖くなる。心の声をそっくりを読まれているようだ。

『本当に、ごめん、今回は、黒川君に頼りっぱなしで、借りも作ったから、先輩風を吹かせちゃったよ。』

そう言って顔を上げた藤木さんは、大げさに破顔して後頭部を掻く。

『あぁ、部屋にまで押しかけて、悪かったよ。あっそうだ。風呂、先に使っていいかな。』

『あっ、はい、どうぞ』

戸惑う和樹を尻目に、藤木さんは入って来た時とは正反対の様相を装って出て行った。

やっと一人になった和樹は、大きなため息をつく。

本当に余計な助言だ。なんの慰めにもならない。むしろ、余計に反発心が生まれる。

『世の不条理さを知れば前に進めなくなる、そして後悔する。幸福は未来にはなく過去にあったと。』

幸福は未来にない?現在にもない自分には、何の後悔もすることなくちょうどいいじゃないか。

隠されている事件がどんなに悲壮なものだったとしても、知った喜びを得られる方がまだ断然いい。知らない段階で、それを危惧していては、時は止まったままだ。お母さんのように。

和樹はテーブルに戻りパソコンを立ち上げた。このパソコンでもう一度、侵入できないだろうか?

腕を組んで考える。PAB2000で再侵入を試みて、はじき出されている。警察の情報処理課は、和樹が侵入したことで、破られたセキュリティの修復と防御システムの重層化を構築している。もう同じ手法での侵入は不可能だろう。ましてPABよりも処理能力の劣るこのパソコンじゃ絶対的に無理だ。

何か別の方法を考える。

PABよりも劣るけれど、バラテンさんが和樹にくれたパソコンは、一般的に量販されている最高グレードのパソコンよりは2倍ほどの処理能力がある。

レニーウォールや、警察のデーターベースのような重要ライブラリィのハッキングは無理でも、脆弱なセキュリティの所なら、簡単にハッキングできる。

兄さんが死んだ事件の捜査報告書そのものじゃなくてもいい。兄さんの事が書かれているものだったら、何でも。

和樹は、目の前にして手に入れられなかった枯渇を、潤す為の水を求めるように、もう、何もしないではいられなかった。

ハッキング専用のプログラム画面に切り替える。すぐに和樹の脳はネット世界に入り込んでバーチャルの世界を創る。が、しかし、何をどう調べ集めるか、思いつかない。そもそも兄、黒川広樹巡査部長に関するサーチはやりつくしていた。ふいに理事補が、言っていた言葉を思い出した。

『黒川広樹、君のお兄さんも常翔学園の生徒だった。僕の一つ下の学年。学生だった頃の君のお兄さんとの面識は、僕はない。学園に訃報が届いて、一緒の時期を学園で過ごしていたのだと知っただけ。』

そういえば、兄さんの死の理由を知りたいが為に、警察官である兄さんの事ばかりをサーチしていた。学生だった兄さんの事は全くサーチしていない。

和樹は黒川広樹―常翔学園というキーワードで情報を集める。

近未来の世界、和樹がたたずむ場所からすぐ近くの場所が集中して沢山の情報がある。当然のことながら、そこは常翔学園。和樹はひと飛びでそこに向かい、集まった兄さんに関する情報の束を手にとり、眺めていく。

中等部から入学した兄さんの成績表、兄さんは概ね120位から150位の間に位置している。体育祭、文化祭における兄さんの担当役割、学園では剣道部に入部していた時の練習日誌、大会成績・・・等々。今、和樹自身が日々紡いでいる生活感と同じものが見て取れる。感慨深いとか特別の感情は起きない。黒川広樹という名前が記されただけのそれらは、ただの資料でしかなかった。篠原さんがバディを組んだ時の様子を語ってくれた時の方が、もっと感動したというか、うれしかった。

和樹は手にした資料を振り投げるようにその場から飛ばし、消していく。

最後に、日直当番の日報を投げ消そうとして、ふと手に止めた。

日報・・・

真辺さんのお父さんが事故死した日の日報があるはず。鉄道警察警備課ではなく、帝都電鉄駅長瀬駅の事故当時の日報があるはず。鉄道警察の事故報告書と変わりない内容だとは思うが、おそらく鉄道会社の日報の方が、時系列的に詳しく、鉄道会社としてどう対処したかなど生々しく書かれているだろう。事故調査書は事故車両と被害者だけにおける事由を集約されてものであって、当時の駅校内の状況は書かれていない。

鉄道会社のデーターなら警察ほどのセキュリティを施しているとは思えない。このパソコンでもハッキングは可能かもしれない

そう思ったと同時に、身体は動いていた。

目の前に、東京駅のような横に長い建物がそびえている。すべての扉、窓は固く閉じられていて、その左右に駅員さんが笛を口にくわえて仁王立ちしている。駅員がセキュリティシステムの具現化だと考えていい。すべての窓に二人の配置だからまあまあの数、セキュリティ対策をしている。

さて、どうやってあれらを交わして侵入するか、和樹が腕を組んだ拳を顎に乗せた時、足元で「キャン」と鳴いた声を聞く。出したばかりのつややかな黒い絵の具ような目、フワフワのキナコ色した毛、

『キナコ・・・』は和樹の視線を捕らえると千切れそうな勢いでしっぽを振る。

答えるように『キャン』と吠え、嬉しそうに舌を出し腹式呼吸をする。

『しっ!吠えちゃ駄目。』和樹がしゃがんでキナコの頭をなでてやると、キナコは和樹の手のひらをクンクンと嗅いで、東京駅のような建物に飛び跳ねるようにかけていく。正面の入り口に立っている駅員を前にして一旦足を止めたキナコは、腰を落として、「うー」と威嚇をしてから駅員の顔にとびかかった。駅員はキナコを払いのけて「ピー」と笛を鳴らす。すると周りにいた駅員も次々に笛を鳴らして、駅舎全体が赤く点滅する。警戒態勢に入ったと思われる。

『あぁ、何してるのキナコ!』和樹は呆れて顔を覆い、天を仰いだ。

キナコは和樹の危惧をよそに別の駅員にとびかかり、払いのけられては、体制を整えてまた次の駅員へと飛びかかっていく。そして小さい体は元気よく走り回り、駅員はそんなキナコを捕まえようとして、後を追う。持ち場を離れた駅員達。

キナコはチャンスを作ってくれているのか。

和樹は駅員の混乱で空いた扉の前に進んだ。扉に設置されているカード差し込み口に、一振りで表せた黒いカードを差し込む。目の前に半透明な画面が表れ、真ん中に15の四角い枠の中の文字が、英数の文字が順に変わっていく。パスワードの総当たり解錠は何億通りだろうか、和樹にもわからない。スピードが遅い。PABじゃないのだから仕方がない。和樹はキナコの様子をかえり見る。キナコは沢山の駅員に追いかけられ、遂に取り囲まれた。果敢にも取り囲む駅員達を威嚇して牙をむく。助けに行ってやりたくても行けない。

「キナコ、がんばれっ」

和樹の声援にこたえるように、にじり寄った駅員の手にキナコは噛みついた。振り解こうとする駅員にも負けず、キナコは噛みついたまま身体は空中で上下に振られる。

周囲の駅員が、キナコの身体を掴み引き離した。そして床にたたきつけられる。

「ギャン」キナコは叫びをあげてぐったりと動かない。

「キナコ!」和樹が叫んだと同時に扉の暗証番号が判明し、解錠に成功する。

取り囲んだ数十人の駅員が警棒のようなものでキナコを一斉に叩いた。キナコは七色の光を放ち消滅する。

「あぁ、キナコ!」和樹の嘆きに駅員が振り向き、こちらに来ようと動き出した。

和樹は慌てて扉を開け中に入る。即、暗証番号を変更し施錠。

駅舎の中は広く無数のスチール書棚が並んでいる。


帝都電鉄、長瀬駅2010年11月6日と念じる(現実世界ではキーボードで実際に入力している)と、一つのファイルが書棚から飛来して和樹の前で止まった。


キナコの協力によって得た長瀬駅の運行日報のファイルにカーソルを当てて、迷っていた。これを開示すれば和樹が理事補に許しなくハッキングしたことがバレてしまう。理事補とは、今回のような特別の依頼や学園のセキュリティにメンテナンスをするとき以外では、個人的にハッキングする事を禁止されている。特にPAB以外のパソコンで行う事は和樹個人の保護と脳の負担を考えて、絶対にするなと言われていた。

自殺に違いないと確定してしまった沈んだ空気、えりや柴崎先輩は涙ぐんいる。

和樹は耐えられなくなって声を発した。

「気になる証言があります」

「気になる証言?」藤木さんが目を細めて和樹の顔を覗く。

「帝都電鉄、長瀬駅舎運行日報の中に、事故の翌日、事故現場の人だかりから飛び出てきた青年に突き飛ばされて、それを咎めると「違う、俺じゃない、俺のせいじゃない。」と、つぶやく青年が居たと証言した女性の存在を記す記述が。」

「運行日報!?もしかして、君は自分のPCで!」理事補が声を荒げた、の方に和樹は顔を向けずにうつむいた。

「・・・すみません。」

「約束したよね。いや、それより、それが、どんなに危険な事か、君が一番わかっているはずだ!」

「わかってます。覚悟はしています。学園に迷惑はかけません。」

「迷惑とかの問題じゃないんだ、君の体の事も含めて」

「凱兄さん!それは後にして!」柴崎先輩が、鋭く制した。「違う、俺じゃない、俺のせいじゃない。」って、どういう事?」

柴崎先輩の迫力に理事補は口を噤み後ろに下がった。

和樹は自室に戻ってから、ふと、鉄道警察の事故報告書だけじゃなく、事故のあった駅のその日の日報ってのもあるかもしれないと思いついて、個人のパソコンからハッキングして、取得した事を語った。事故当日の長瀬駅の日報は、当然のことながら通常時より書かれていた内容が多く、駅構内の混乱状況が詳細に書かれていた。和樹はそれに一通り目を通したが、特に何か引っかかるものがあったわけじゃなかった。若干の落胆の思いで何気に次の日の分にまで目を通した。

「これです。事故の翌日、11月7日の運行日報、駅乗務員室、顧客の問い合わせに対しての対応。」

事故の翌日に、前日の事故について、問い合わせをした女性とのやり取りが書かれてあった。




    

黒川君が凱兄さんとの約束を破って、自分のPCでハッキングしたデーターが、絶望を希望に変えた。

事故の翌日に、前日の事故のあった被害者の葬式に行きたいからと住所を聞きに来た女性がいた。被害者の個人情報は当然ながら規定により教えられない旨を告げて断りを入れたが、女性は次いで事故のあった日、現場に居て、事故現場から飛び出してきた20代ぐらいの青年に突き飛ばされたと、その行為を見ていた隣人の男性と共に咎めると、「お前も、落ちて死ね」と暴言し階段を下りて行った。と証言をしていた。

日報には、その女性の住所と電話番号が記されており、早速、麗華たちはその番号に電話をかけた。しかし、【現在、使われておりません】となって、また、黒川君のハッキングの手腕に頼ることとなった。書かれていた住所のある市役所のデーターベースへと白金九ぐをする。それは完璧な犯罪行為だったが、もう麗華たちは意識が麻痺していた。市役所のセキュリティを突破するのに、また夕べのように時間かかるのかしらと思っていたら、黒川君は、5分ほどのカチャカチャで、あっさりとやってのける。

「日本の役所なんてゆるゆるですよ。」と言う通りに、ゆるゆるのセキュリティの役所が駄目なのか、いや、そう言って微笑む黒川君が凄いというより、もう末恐ろしい。やっぱり、この子と付き合うの、やめさせた方がいいかしら、とえりの方を見やったら、すごーい、なんて言って、キラキラの目で黒川君を褒めている。

えりのゆるゆるの警戒心がすこぶる駄目だ。

証言の女性は、事故の直後、引っ越しをしていた。

「ねぇ、どうして、この証言は事故調査書に書いていないの?」

「うーん、どうして、だろうね。」

麗華の疑問に凱兄さんも藤木も唸る。それに対して答えたのは黒川君だった。

「警察に完璧の正義は、ないからです。」

昨日も同じこと言っていた。お兄さんが殉職された事、詳しい事は何も知らないけど、警察に対して何らかの不服をふくんだ言葉と顔色に、麗華は詮索をしないではいられない。

「昨日も、同じ事を言ってたわね。黒川君あなた」

「麗香。」凱兄さんが首を振って、麗華の口を制する。

麗華は不服ながらも、口を噤み、気持ちを切り替えた。今は黒川君に対する疑問よりも、ニコのお父様の事が優先を要する。黒川君には、まだまだやってもらわなくてはいけない事があるだろう。ここで、うかつな事を言って、黒川君に嫌らわれて抜けられたら困る。変に、止まってしまった会話を藤木が、繋げる。

「黒川君、何か思う所があれば言ってくれないかな?君が警察に関して、普通じゃない感情を持っているのはわかる。何を背負っているのかは聞かない。だけど、こと警察内部の事は君が一番よく知っているのも事実、俺たちは君に頼るしか無い。」

「すみません・・・・。僕の推測を言っていいですか?」黒川君は、軽い深呼吸してから凱兄さんに顔を向けて確認する。凱兄さんも無言でうなずく。

「あくまでも予測ですが、事故調査書に、この証言が書いていないのは、真辺さんのお父さんの所持品に精神科の診察券があつたからど思います。それで、うつ病による自殺と判断されたんでしょう。」

「ちょっと待って、じゃ警察は、ちゃんと捜査しないで診察券があるからってだけで、自殺と判断したって事?」

「あ、いえ、全く捜査していないって、わけじゃなくて、病院の通院確認は取っていると思います。事故調査書の中にも、その記述がありますから。えーと、真辺さんのお父さんがうつ病で通院していても、この時点に本当に自殺しようと思うほどの症状だったかどうかまでは、警察も捜査はしなかっただろうなと、いうか・・・・死者の当日の深層心理まで普通は捜査しません。」

わかるようなわからない黒川君の考えに、誰も口をはさめない。黒川君も今一つ説明しにくいみたいで・・・

「えーとですね。これが、誰かに刺されたとか、刑事事件だったら、些細な証言もすべて裏を取って確認します。だけどこれは事故です。しかも鉄道事故。車同士であれば、車両保険の賠償割合の兼ね合いがありますから、互いの証言を取ります。当事者の証言が食い違っていれば他人の証言も取ります。でも鉄道事故に関しては、自殺であれ事故であれ、電車を止めること自体が罪です。鉄道会社にとっては被害者が加害者でもあるんです。電車を止めた人間が、本気で自殺しようとして身を投げたか?それとも、酔っぱらって線路に落ちたのか、個人的理由はあまり重要ではありません。理由がなんであれ、電車を止めた罪自体は変わりませんから。この女性の証言を見つけた時に僕は思ったんです。鉄道警察は病院で通院歴の裏が取れた時点で自殺と決定し捜査を終えたんじゃないかと。真辺さんのお父さんが、この時、どういう症状であったか、カルテ確認まではしていない。そもそもそこまでする必要は無いですからね。遺族に通勤前の自殺者の状況見聞があっても良さそうですが・・・・その記述はありませんから。おそらく、かなり早い段階で自殺を断定して、この事故は処理されたんだと思います。この女性の証言は事故の翌日ですから、なおさら、それほど重要視されず事故調査書に記載されるまではいかなかった。と僕は思いました。」

全員が唸る。

「その、俺のせいじゃない。って、りののお父さんと何かあったのかしら。」

「他に何か手掛かりがないか次いで調べましたが、それらしい物は何も、もちろん真辺さんのお父さんが、誰かから恨まれるとかを示唆するものは何も得られませんでした。」

黒川君の言葉使いが一端の捜査官のようだと麗華は思った。

「その青年、違う事でつぶやいていただけかもしれない。」と凱兄さん

「でも、見物人の人だかりから出てきたんでしょう。」

「はい、記載はそう書かれています。」

「その青年と接触して、線路に落ちたかもしれないわ。そこへ特急スカイライナーが通過した。その青年は驚いて、違う、俺のせいじゃないって言って足早に逃げるところだったのよ。」

「えりもそう思った!」

「そうですね、自殺じゃなくて不慮の事故の可能性はあるかと、それに・・・」黒川君は麗華に向けていた顔を画面に落として、眉間にしわを寄せた。

「それに・・・何?」

「夕べから、ずっと、この写真に違和感があって、それが何かわからなくて、気持ちが悪るかったんですけど、今、話しながら見ていて、やっとその違和感がわかりました。」

「違和感?」

「はい、真辺さんのお父さん、身体の右側の損傷が激しい。左半身に傷はなく綺麗です。」

そう言って、黒川君はキーボードから手を離した良の指を組んで、目を細める。

麗華はその画面の写真を見たくても見れない、藤木が吐いたぐらいだから、そこには悲惨な遺体写真が写っているのは簡単に想像できる。それを冷静に見つめる事ができる黒川君の神経に驚きを隠せない。

凱兄さんが黒川君の後ろへと回り、画面を覗いてうなづく。

「それのどこがおかしいと?」

「構内図面と合わせて・・・長瀬駅は上下線分離式ホームの左右に線路があるタイプ。東京、静岡を結ぶ特急スカイライナーは、長瀬駅では停車せず通過する。長瀬駅の上り特急通過線はホーム左側であり、実際、真辺さんのお父さんもホーム左側の線路上で接触している。真辺さんお父さんの損傷が右側にあるということは、仰向けで電車に轢かれたと思われます。」

「ふむ。そうだね。」と凱兄さんが相槌。

「それが?」藤木が先を促す。

黒川君が、まだわからないのかとでも言うように、顔を顰めて麗華たちへと視線を一周する。そして

「死のうと考えている人が、仰向きで電車に飛び込むでしょうか?」

「あ!」即座に凱兄さんが声を上げた。少し遅れて藤木も驚きの声を上げて、顔を顰める。

麗華とえりは、まだわからない。藤木に説明されて、やっと理解した。

そして、何とも言えない思いを抱いて、まだ少年ともいえる体格の後輩の姿を眺めた。

なんて子・・・着眼点が麗華たちとは違う。祖父の代からの警察一家の息子、家系に備わる素質がある能力というのだろうか。臆することなく、無残な遺体の写真を見ても平気なその態度は、その体格とは正反対だからこそ末恐ろしい。







新田からメールが届いていた。【今日の練習は、雨のため中止、トレーニングルームは9時~3時まで使用可能。】

サッカー部の連絡網メール、本来なら雨でも練習はある。試合に雨は関係ないから、雨の日は絶好の雨コンディション練習日だ。

だか、体育祭が間近に迫ったこの時期、練習を行えばグランドのコンディションは最悪に凸凹になる。そのことを考慮して、昨日の土曜の時点で、顧問の石田先生は、明日は雨が降ったら練習は中止にすることを亮に伝えていて、全部員にもそのことを伝えていた。土曜日に学校を休んだ新田はそれを知らない。亮も新田に連絡をするのを忘れていた。石田先生は、おそらく新田の様子を伺いがてら、今朝、新田家に電話をしたのだろう。そして全部員に一斉送信をした。

新田は、ちゃんと部長としての仕事をこなしている。いつもと変わらない文面。グランドが使えない日は、筋トレ機材があるトレーニングルームを使いたい部員は、好きな時間に行って好きに使っていい。だけど家が遠い者は、わざわざ雨の日に学園には来ない、休日の雨の日にトレーニングルームを使うのは、暇な寮生か、家が近くて暇を持て余している新田及び数人ぐらいだった。

柴崎のお母さんが運転する後部座席で、亮は7時56分に着信していた新田からの連絡メールをもう一度、開いて眺める。

新田に、自分たちがやっている事を教えて、少し元気を出させてやった方がいいのかどうかを迷って。やめた。

まだ正式に自殺じゃないと確定したわけじゃない。ぬか喜びは落胆を倍増させる。それに、自殺じゃないと確定できても、りのちゃんが元に戻るとは限らない。亮たちがやっている事は、究極の自己満足だ。りのちゃんのSOSに気付くのが遅れた、何もできなかったと後悔を持つ者が勝手に集まって、りのちゃんがそうであって欲しいと願う情報をプレゼントしようと必死になっているだけ。しかもりのちゃんが、そのプレゼントを本当に欲しいと思っているかすら、わからない。

新田に報告するのは、今から向かう日報にあった女性の話を聞いてからでも遅くはない。

「新田に教えないの?」亮の迷いを察した柴崎が首をかしげる。  

「確定してからにする。」

「そう・・・新田、大丈夫かしら。」

その質問には答えられない。新田のメンタルの弱さを考えたら、日に日に大丈夫じゃなくなるに決まっている。

柴崎も自分の携帯を取り出しメールをチェックする。

「えりから何も来ないわ。」

「連絡はない方がいい。」

えりりんは、今朝、亮たちが出かけると決まった時に、一旦家に帰ることになった。りのちゃんの病院にも行くと言って、おそらく新田も居るだろう様子やりのちゃんの変化があれば知らせてと頼んであった。

「そうね・・・・」

「柴崎、ごめん。 先に謝っておく。約束は守れないかもしれない。」

「何?約束?」何の約束だったか、思い出せず首をかしげる柴崎にかまわず、そのまま話を続けた。

「新田がいなければ、優勝旗は無理だ。」

「新田がいなければって・・・・・新田は・・・・・何?あいつの何を読んだの!」

白い壁にずり落ちるように静かに泣き崩れた新田。どこまで落ちていく新田の心は、裏も表も絶望と後悔の海に沈んでいた。

この新田からの定期連絡メールが、新田の心を表している。いつもなら、顧問から受けた連絡事項は、亮に直接電話、もしくはメールで伝えてくる。各部員への連絡は、同級の三年へは新田が、後輩へは亮がと分けてメールを送る手筈で、今日はさぞかし後輩たちはびっくりしたことだろう。そして新田が亮に電話をかけてくるのは、トレーニングルームへと行く時間を合わせる為でもある。それが今日はない事に対して、亮は新田の心情をわかりすぎるほどに判っていたし、最悪の決意をしてしまっていることを、読み取っていた。絶望の海の中に沈んだ新田の心は、サッカーなどつゆほどにもない。あるのは、りのちゃんの罪に意識に寄り添い「死」にまで付き添う覚悟だった。

「新田の為でもあったんだ。りのちゃんのお父さんの事を調べようと言ったのは。あいつ、俺に頼ることなくクラブの連絡メールを全員に送っている。あいつはもう、りのちゃんに寄り添うこと以外には、すべてシャットアウトしたんだ。」

「そんな事・・・いつもあんたに頼ってばかりじゃ駄目だって思ったのかもしれないじゃない。」

「丸3年、新田慎一のアシストをしてきた。お前よりわかるんだ、あいつの事は。あいつは、りのちゃんゃんの罪にどこまでも付き添うつもりでいる。」

「罪って・・・まさか!」 柴崎はりのちゃんの罪の意識がどういう状態かをやっと思い出し、目を見張った。「そんな・・・。」

新田なら、当たり前の覚悟、そしてそれが新田の良さであり弱さ。りのちゃんの無茶な行動をどんな時も許して認め、寄り添う。それは危険なやさしさだ。柴崎もそれを知っているから、その先、そんな事はないと否定できずに息をのむ。

「藤木君。」

突然、運転席の柴崎のお母さんがバックミラー越しに口をはさむ、

「読み取ったものが、すべてだと思わない方がいいわ。今朝、そのことに触れようと思っていたのだけど、言える状況にならなかったから。」

「今朝?」柴崎が首を傾げ、自分の母親と亮を交互に見比べる。

「あなたが読み取る物は、あなたの経験の範囲でしか読めない。意味がわかるかしら? 年令を重ねるごとにあなたの知識や経験は増え、それに比例して読み取る量も質も変化したはず。それには気づいているかしら?」

確かに、年々読み取る物が詳細になっていく事は気づいていた。この力を何となく自覚した幼き頃は、「この人、笑っているけれど悲しそうだな」とか、「泣いているけれど嬉しそう」とかぐらいしかわからなかった。今は、わかりやすい人間なら、どんな言葉で悲痛を隠しているか、心の中で、どんな言葉で人を罵っているかまで、読める時がある。

「はい。」亮は小さく返事をする。

「あなたの辿った経験は、他人と同じではありません。他人の経験とシンクロ出来る事はわずか。新田君も同じ、あなたと出会う前の新田君が何を考え何を思って生きて来たか、藤木君が知らない経験が沢山あるはずです。読み取る本心は相手のわずかな一部分。今まで、読み取れなかった事を発見して驚いた事はなかった?。」

はっとした。新田が、後輩から廊下であいさつされるたび、微妙な顔をしていた。亮はそれは単なる照れだと解釈していた。だけど、実は違っていた。改めて相談されて亮の見解とは違う想い、考え方で苦悩していた事がを知り、驚いたことがある。読み取りやすい柴崎についても、夏のキャンプで将来について語った時、亮の知らない気持ちがある事に驚いた。あの時、なぜか妙にイラついて、柴崎に執拗に突っかかった。

「わずかな他人とのシンクロで読み取り、相手の事をすべて知ったと思うのは、能力の驕り、次いでは自身の驕りでもあるわね。」

「・・・はい。」

亮は初めて自分の、この能力に対して叱咤を受けた。亮と同じ目を持つと知ったばかりの柴崎のお母さんに、恥ずかしい気持ちと同時にわずかな怒りが沸き起こるも、的確な指摘に亮は、項垂れてその感情は押し鎮める。

確実に柴崎のお母さんは亮より長い期間、能力に悩まされてきたはずだ。その説得力は重く重要だ。

「お母様?」柴崎が、会話の意味を理解できずに、キョトンとしてまた母親と亮を見比べる。覗き込む柴崎の目から逃げるように、亮は車の外へと顔を向けた。

「新田君の気持ちに、諦めがない事を、私達は信じましょう。」

柴崎のお母さんの落ち着いた声には、安定した希望が満ちていた。






「すみません。昨日付で退学の手続きをして頂ければ、学園に迷惑は掛かりません」

大人に怒られて項垂れる子供の様相で、黒川君はそう小さくつぶやいた。だけどその心打ちの覚悟は、大人以上に肝が据わっている。

「言っただろう、僕にレッドカードを使わせるなと。」

「すみません。だけど・・・」黒川君はもう一度謝る。

「その事は、後にしよう。ほら乗って。」

車のキーのボタンをワンボックスカーの側面に向けて押した。ピーと音を発してドアはスライド開く。黒川君が後部座席に乗り込むのを見届け、またリモコンキーでドアを閉める。

約束を守らず、黒川君個人のパソコンでハッキングをしてしまった。詳しく聞けば、鉄道会社のデーターバンクのセキュリティを壊して侵入したという。警察データーベースのセキュリティシステムを混乱させて侵入した直後であることを含めて、警察は同一人物の犯行だと考えるだろう。PAB2000のパソコンのみのハッキングならば、そこそこに軌跡をたどりにくいプログラムを施しているしそれをしながらにハッキングできる性能があるのがPAB2000が世界最高性能と言われるゆえんであり、ハッカーの身元はバレないで済む可能性は高く、バレるとしても数日ではないはずだった。しかし、黒川君個人のパソコンからハッキングをしてしまっては、簡単に身元がバレてしまう。そのパソコンがバラテンが組み立ててセキュリティも強化した高性能のものをつけた物をプレゼントしているとは言え。

それを自覚して捕まる事を覚悟した黒川君は、学園に迷惑がかかる前に、退学する意思を告げて、ハッキングする前日を退学日にとまで指定してきた。

凱斗は運転席に乗り込み、バックミラーで黒川君の様子を伺う。

その覚悟と無謀さは大人以上だ。だが、それこそが子供ならではでともいえる。実質的に負う処分の退学という身近さを実感して落ち込む様子を見せるのも。

「出発するよ。シートベルトしてね。」指摘に黒川君は、慌てて身体をひねりシートベルトへと手を伸ばす。

黒川君が新たに鉄道会社のデーターバンクからハッキングしてきた事故翌日の日報には、りのちゃんのお父さんが自殺ではないかもしれない証言が載っていた。

その証言をしてくれた女性に電話をして、運よくすぐに話を聞ける運びとなった。その女性宅には、麗香と藤木君が話を聞きに行く事となったが、中学生だけで訪れては、悪戯的に不審に思われないだろうかと危惧していると、様子を見に来た文香さんが事情を知って二人に同行することになった。文香さんは自身が所持するベンツに乗り込んで出発したために、屋敷に残ったワンボックスカーを使用することになる。昨晩から降り続いている雨は、冷たい空気を含みしっかりと降り続いている。

こちらは、黒川君の指摘通りに、真辺さんのお父さんが仰向けで轢かれたのかどうか、鑑識の詳細を聞きに行こうということになり、凱斗は康太に電話を入れた。こちらも運よく康太を捕まえる事ができ、今日は署にいるというので、あまり詳しくは語らず、半ば強引に署まで行くからと面会の約束を取り付けた。

「こんな目立つ場所でいいんですか?」

「目立つ場所だから、いいんだよ。明らかに隠れているって場所で、こそこそやってたら、誰でも何してるんだろうって気になるだろう。」

警察庁のロビー、数年前に耐震工事の補強を兼ねたリノベーションされたフロア、透明性を市民にアプローチしているのか、無駄に広く明るくなったロビーには中央に大きなエスカレーターがあり、その後ろにエレベーターが設置されている。エスカレーターとエレベーターとの間の隙間の三角スペースに今では見つけるのも苦労する公衆電話が置かれてある。その傍で、康太を待っていた。ここに立ってもう15分は経つ、忙しいのだろう、康太は中々現れない。と言っても康汰との待ち合わせはいつもとても遅いか、とても速いかのどちらかしかないから自分は慣れているが、黒川君は落ち着かない様子で公衆電話の受話器を上げたりして暇を持て余していた

携帯電話の普及率が98%を超えた今、公衆電話機を設置する意義などない。それでもこれがここにあるのは、すべての人に平等にこの施設を利用する権利がある国家機関であるからであろう。携帯電話を持たない人が0にならない限り、この「時代の遺物」は、ここに居座り続ける。

『俺たちは時代の遺物だ』そんなフレーズを残して自殺した仲間、そいつの生前の姿がフィードバックされた血なまぐさい戦地が目の前に広がる。

銃口を向けた敵が、50メートル先の樹の影に潜んでいるのを確認。目前の敵に捕らわれ、背後に廻られていた敵の存在を察知するのに遅れた。銃口と共にサイドを見張っていた仲間が太ももを打たれてうずくまった。その銃声をきっかけに前方の敵も一斉射撃で前進。背後の保護移送の民間人を半ば押し倒すように伏せさせたが、パニックに陥った一人が奇声を上げて走り出した。ハチの巣にされ

れ、血しぶきが女子供に付着した。

泣き叫ぶ子供。

「ほら、ピーポ君だよ。」先ほど対応した受付カウンターにいた女性警察官が、母親の足元で縋りなく2歳ぐらいの幼児をあやしている。カウンターの両サイドには強面の男性警察官が苦悶の表情で子供から視線を外した。

目が遭いそうになって慌てて顔を背けた。じんわりと首筋に汗が流れ落ちる。

黒川君が不審に見上げてくる。慌てて、悟られないように凱斗は顔の筋肉を緩めた。

「そうだ、こうしよう。君は、僕の弟で、一緒に田舎から東京観光にきたけど、どこを回っていいか、わからない。だから東京の警察庁で働く康汰おじさんを尋ねて来た。って事に」電話の横に置いてあるフリーペーパーの冊子を広げて、持っている調査書のコピーなどの資料をそれに挟んだ。

「康汰おじさんって・・・・。そういえば篠原さんって、何歳ですか?」

「30だ。もう、おっさんだろ」

「おっさんって・・・・・」

「お前な!いっつも突然、過ぎるぞ。」

「お、康汰おじさんが、やっと来たぞ。」

「なに?」エレベーター奥の階段から駆け下りてきた康汰に黒川君がぷーと吹き出してお腹を抱えて笑う。「ん?和樹も一緒?なんだぁ」

りのちゃんのお父さんが仰向けで車輪に挟まっている可能性に加えて、それが自殺じゃない要素に結びつく可能性を決定的にしたい。それは素人がいくら議論しても推測にしかならず解決には至らない。だからその道のプロに見てもらいたい為に、訪れた事を康太に説明した。相変わらず、地味なグレイのスーツにノーネクタイ。警察庁刑事局特殊捜査課と言えば、それなりのエリートなのだが・・・これじゃ地方巡査にしか見えないが、眼光だけは本来の肩書以上に厳しい。

「お前、これ!」  

見せた事故調査書の写真のコピーを 見るなり、黒川君と並び睨みつける。黒川君は肩をすくめて怯えて一歩後ろに下がる。

「凱斗!お前、また和樹に!あれが最後、二度とやらせないと言ったはずじゃ」声を潜めて胸倉をつかむような勢いで顔を近づける。

子供のころから変わらない、強くて鋭い康太の眼力。この怒りこそが康太の生命力だ。

「康汰、それは後にしてくれ。」

「ぷーーーくくくくく。」

「なっ、何だ?」

朝、麗香に制止された言葉を、そっくりそのまま康汰に使ったもんだから、黒川君が吹き出した。彼の笑い上戸はもう止められない。

康汰の怒りが横にそれた。

「それで、鑑識にこれを見せて、自殺じゃないとの確定を得たいわけ・・・・」

「そうだ。」

「んー。って言ってもなぁ。」康汰は頭をかく。

「知り合い、いないのか?」

「そうじゃなくて、写真だけで見極められる人となると限られる。しかも今すぐだろ?んー。」頭の中で、誰に頼めば一番いいかを検索してるのだろう。眉間に皺を寄せて、斜め上の空間に視線を向けると、急に頭を掻いていた手をピタっと止めて、驚愕に顔を小腹下。そして、姿勢を正し敬礼をする。

何事かと仰ぎ見れば、恰幅のいい制服警官が3人ほどエレベーターを降りてくる。

先頭に立つその人は肩や胸に沢山の階級ピンが付帯して、袖のラインが後ろの二人よりも2本多い。

「和樹!?」

「お、父さん・・・。」そう呟く黒川君に、冷静な表情を装いながら、内心ではまずいと、横目で康太の様子を伺う。

康太は敬礼のまま、黒目を動かして更なる怒りを向けた。

エレベーターを降り切った我が国全国の警察署を取りまとめる警察庁の上層部に君臨する、黒川勝之察監は、まっすぐ凱斗の前に歩む。




    

この街に戻って来てから啓子に随分と迷惑をかけた。啓子だけじゃない、新田家の皆、特に慎ちゃんには、精神的な苦痛までさせてしまっている。昔から変わらない優しい慎ちゃん、こんな私を変わらず本当の母親だと思ってくれて、診察室で泣き崩れた私を支えてくれた。もう、これ以上は慎ちゃんに迷惑をかけてはいけない。りのもそれだけは、ずっと言っていた。「言わないで、薬の事、通院の事、パパの事。慎一のその目と心はサッカーに向けないといけないから。」と。

りのの為にも、優しい慎ちゃんを壊してはいけない。りのと、この地域を離れよう。慎ちゃんの為にも。りのもそう言うはず。

さつきは、精神科病棟のナースステーションに顔を出し、挨拶をしてから、りのの病室へ向かう。

扉は暗証番号を入れないと開けられない仕組みになっている。その現実に絶望が押し寄せる。

りのを精神科に連れていった時もショックだったけれど、まさかこの病棟に入る事になるなんて思いもしなかった。

発作を起こして入院した時も、この病棟にいる患者さんよりは、りのは全然、普通、だから大丈夫だと思っていた。

だけど・・・・とうとう、この病棟に入ってしまった。暗証番号を押すのを一瞬ためらう。

扉の向こうは5歳のニコか、14歳のニコか、どちらでも、それは本来のりのではない現実。

暗証番号認識完了のピーという音の次にガチャっと施錠解除の音を待って扉を開ける。

中からママ!と言う嬉々の声で、今は5才のニコだと判別する。

「遅くなって、ごめんね。」

りのが手にフォークを持ったまま駆け寄って来て抱き付く。

「あらら、ニコちゃん、危ないからフォークは置きなさい。」      

啓子が沢山の食事の差し入れを持って来ていた。味覚障害も併発しているりのにとって、病院の味付けは無味に等しい。それを考慮して秀治さんが塩分控え目でも、しっかり味がわかるおいしい食事を作って持ってきてくれていた。りのの持っているフォークを取り上げて、椅子に座るようりのの背中を押す。身体は大きいのに・・・。

「啓子、ありがとう。秀治さんも忙しいのに申し訳ないわ。」

「いいの、いいの、あの人もね、これがうまくいけば、塩分控えめのメニューを取りそろえて店で出すって言ってるから、自分の為でもあるのよ。ニコちゃんは味の審査員よねぇー。おいしい?」

「うん♪、おいひぃい。」

口の周りとパジャマをいっぱい汚して、口いっぱいに食べ物を入れてほっぺを膨らましているりの。食事を楽しむりのを、久しぶりに見た。元々食に興味が薄い子だったけど、東京に戻ってから食べている時の笑顔を見ることは、無くなった。その笑顔を、この病棟で見ることになるなんて。


『今後の治療方法なんですが・・・・。』

精神科医の村西先生。この筋では有名な先生ですら、りのの心は見抜けず、対処療法も追いつかなかった。

りのが元に戻る事なんてあるのだろうか。

催眠療法で2つの人格を元に戻す方法を村西先生から説明を受けても、それはうまくいかないだろうと、根拠なく思った。

それに、2つの人格を元に戻すことが本当にりのの幸せなんだろうかと考える。

りのが自分で求めた場所が今の状態だと考えたら、無理に元に戻すのは、りのをまた苦しめる事になる。

村西先生は、それも視野に入れて決断してくださいと言う。元に戻したいのなら、なるべく早く、まだりのの意識が取り出しやすい位置にある内に催眠療法を、そしてこのまま自然にりのちゃんとニコの意思を認めて、生活するならそれなりの施設へ。

「ママ、はい、あーん。おいし?」屈託のないりのが、ハンバーグをさつきに食べさせて見つめる。昔のりのがここにいる。笑顔いっぱいで幸せだったあの頃のりのが。

「うん、おいしいね。」

秀治さんの塩分控えめのハンバーグは、店でいつも出しているランチメニューの味付けよりは、後味がさっぱりして女性や高齢者に好まれそうだと感心する。

慎ちゃんは腰窓に背を預けて、うつむき加減でも、りのから目をそらさず見守ってくれている。私が出来ない事を新田家がすべてやってくれる。いつまでもこのやさしさに甘えてはいけない。

このまま、5歳のりのを連れて田舎の、静かな療養施設で看護師をしながら細々と二人で暮らすのがいい。

それぐらいなら、りのと二人だけ、無理なくやっていける。この先、新田家も学園にも迷惑をかけずに済む。

さつきは、施錠の出来る病室を見渡して、行きついた絶望の証を見、決心を固めた。

りの、ごめんね、ママは疲れた。

もう、頑張らなくていいね。


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