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虹の記憶  作者: 湯浅 裕
14/20

虹色の記憶1

ママがあの冷たい扉の向こうに行ってしまった。

もう二度と会えない。パパと同じ。私は知っている。

あの白くて冷たい扉の向こうは、死の世界が広がっている。

ほら、あの声が私の名を呼ぶ。


リノ、ドウシテ、ニゲタ、リノ、ドウシテパパカラ、ニゲタ。リノガ、ニケタカラ。パパ・・・・ハ  シンダンダヨ。。。

リノ、ドウシテ、ソノテヲ、フリハラウ・・・・・パパト、イッシヨニ、シノウ。 

  

パパごめんなさい、

りのは逃げない、

だからママを返して。

りのと引き換えに。








いつもの日常、いつもの朝、慎一たちは朝のホームルームが始まるまでの時間、たわいもない雑談をしていた。

「あれ?ニコ遅いわね。今日、休み?」藤木と柴崎が慎一を見る。

「いやいや、知らん。何も聞いてない。」

いくら新田家が、母子家庭のニコん家のバックアップをしているとはいえ、細かいところまで何かも把握しいるわけじゃない。

しかもニコは、新田家があれこれ世話を焼くのを嫌がっている。

「弓道の試合とかでもないよな?」

「さっき、滝沢さんと会ったわよ」と柴崎。今日は土曜日、クラブの試合があれば、そちらが優先されて授業といっても自習ばかりの補助授業で休んでも特に影響は出ない。

「体調悪いのかしら?」

「朝晩、めっきり涼しくなったからなぁ。」

「涼しいと言うより、寒いわよ。」

ホームルーム開始のチャイムがなってもニコが来る気配がない。慎一たちは顔を見合わせて首をかしげ、とりあえず、担任の先生が何か知っているだろうと、自分たちの席に座った。だけど担任の手塚先生は空いたニコの席を見つけて「真辺は休みか?」と言い、慎一の方に顔を向けた。「何か聞いているか?新田」教師陣も慎一たちが、幼馴染で家が近所と言うのは周知している。

「いえ、聞いていません。」

「そうか。まぁ、職員室に連絡が入っているかもしれないな」

一時間目が終わってもニコが登校してこない事に、慎一達3人は心配して情報収集の為に職員室に向かった。職員室の机で書き物をしている手塚先生に歩み寄りニコの家から電話があったかどうかを聞いた。

「それが、無いんだよ。こっちからも電話をしているんだが、誰も出ない。留守番電話に切り替わるだけで。」

「さつきおばさんの携帯は?」

「あ?お母さんか?の携帯もかけているが、電源が切られているみたいだ。仕事中か?」

「先生、家の留守番電話にメッセージ入れました?」

「あぁ、一応、連絡するように入れたけど。なんだ?」

「あっいえ。別に。それならいいんです。」

ニコの家の電話は呼び出し音がならないようにしてある。栄治おじさんが亡くなった時、警察からの電話をニコが取ってしまい。それがトラウマになって電話の呼び出し音をニコは嫌う。ニコの家に電話する時は、留守電に切り替わった時に、呼びかけなければならない。留守番電話のランプに気付いたら出てくれるか、折り返しかけてくれるのを待つかしかない。担任の手塚先生は、そういった事情を知らないであろうと予測して、慎一は聞いのだった。

「新田、今日の帰りに、様子を見に行ってくれないか?」

「はい、そのつもりです。」

「頼んだぞ。」と、手塚先生に妙な含み笑いをして背中をたたかれた。

職員室を出たところで、柴崎と藤木が心配げに言う。

「あの、きっちりしたおば様が学校に連絡し忘れるなんて。珍しいわね。」

「まさか、ニコちゃん、また発作とか?」

「いや、それだったら、逆に学園に電話してくるだろう、前の時もそうだったし。それに、村西先生からは、もう大丈夫だってお墨付きもらったって。」

悔しいけど、夏にグレンに会ったことで、ニコはフランスに行く(ニコは帰るという表現をしている)目標ができて、キャンプでのクラスとの交流を踏まえて、学校生活は順調に精神的疾患の心配もなくなってきていた。

「母さんに聞いてみる。何か知っているかも。」

さつきおばさんの勤務日程を、慎一の母は把握していて、さつきおばさんが夜勤の時など、ニコのサポートを新田家がする。

携帯を手に、階段の屋上へと向かう踊り場に足を向けた。藤木と柴崎は階段下で先生が往来するのを見張ってくれている。

母さんの携帯に電話する前にさつきおばさんの携帯にかけてみた。手塚先生が言った通り、すぐにおかけになった電話番号は、となる。慎一は捜査をし直して自分の母親の携帯にコールすると、着信した途端に怒られた。

「慎一!?何よ、こんな時間に、授業は?!」

「あ、いや、母さん、ニコ、学校に来てないんだ、何か知らないかなと思って。」

「え?ニコちゃん?何も聞いてないけど。ニコちゃん調子悪いの?」

「学校にも連絡かないって手塚先生が困ってて。」

「えぇ?連絡ないって、さつきにしては珍しいわね。」

「うん、先生が家に電話しても出ないらしいんだ」

「今日のさつきの勤務は・・・・休勤日だけとなぁ。家に居ないって?」

「うん、俺も今、さつきおばさんの携帯にもかけたけど、繋がらない。」

「えー。どうしたのかしら?学校サボって二人で、どっかに出かけちゃってんのかな?」

考えにくい事だった。さつきおばさんは、いい加減な母さんと違って、きっちりした性格で、何故この二人が学生の頃からの親友なんだろうと不思議に思うぐらいだ。

「母さんじゃ、あるまいし。」そう呟いて、しまったと首をすぼめたけど、母さんはニコ達の方に意識が行っていて、さらっと流されて安堵する。

「そうよね。さつきとニコちゃんは、そんな事しないわよね。」

「手が空いたら、家まで行ってみるわ。」

「うん。何かわかったら連絡して、先生に言わないと駄目だから。」

「わかった。」

携帯をポケットにしまいながら階段を降りる。階下から見上げてくる二人。

「母さんが、ニコん家に行ってみるって。二人で、どっか出かけてるんじゃないかって」

と母さんが言った言葉を伝えたが、そんな事はありえないのは二人も承知で、逆に不安を増長させてしまったような渋い顔をされた。




【学校には連絡済み、ニコちゃん、我が家にいます。】

という、母さんから、短くて、いい加減な内容のメールが来たのは、ちょうど4時間目が終わって、食堂に行こうとしている時だった。慎一が折り返し電話をすると、ニコが発作を起こしたというわけでもなく、詳しい話は慎一が帰ってきてからするからと忙しいそうに一方的に電話を切られた。

先に食堂で待っている藤木と柴崎にとりあえず発作じゃない事だけは告げる。

「そう、安心ね。でも、どうして休んだの?」

「忘れてたんじゃないかな。定期診察で休むって学校に連絡するの。」昔から精神科の定期診察は、学校を休まなくても行ける土曜日の午後にしていると聞いていた。だけど何らかの事情があって今日は午前になってしまったのかもしれない。それで学校に連絡をするのを忘れてしまった。さつきおばさんも、いくらきっちりした人だと言っても何かと忙しい人だ。

「あぁ、私、今日、美容院の予約を入れてなければ、ニコん家に様子を見に行ったのにぃ。」

柴崎は今日の夜、華族会のパーティがあるらしく、美容院に予約を入れている。学園の経営者、柴崎一族は華族の称号を持つ。

華族は、長らく鎖国をして外国との交流を拒み続けた将軍主権の日本国を、開国に導き、皇権復興をしたと日本史の裏ではささやかれている。開国後の混乱する政りの指揮を執り、第一次世界大戦で華々しく勝利を導いたのは、政府ではなく神皇主権の裏で暗躍した華族の称号を持つ者達だったと言われている。

開国を期に突如として合われた華族の称号を持つ面々が、一体どのようにして、その称号を得たのか、どのようにして政府よりも財や権力を貯えたのかは、歴史認識として教科書に記載されていない。教科書には載らないけれど、神皇から承認された華族の称号を持つ者、家があるのは日本人の誰もが知る事実。

常翔学園が経営する柴崎家は、その由緒ある称号を持つ一族。他にも財閥系と言われる商社や建築関係の大企業の創業者など、この日本経済を支えているとする大企業の祖をたどれば必ず華族の出自であったりする。この日本国は、その華族の力が、世界をリードする経済大国に成したと言っても過言ではない。

華族会のパーティは月に一度あるらしくて、今日の夜がそうだと、数週間前に聞かされていた。柴崎一族は全員がその華族の称号を持っていて、柴崎の父親の信夫理事の家族と弟の敏夫理事の家族(と言っても子供がいなくて凱さんが養子として入っている)と交代で毎回、出席していると言う。少し前に家族3人で華族会パーティに出席するんだと、新しいドレスを購入したとか何とか言っていて、庶民の慎一には、その華やかな規模のデカさの話についていけない。

「今日かぁ、華族会のパーティ。」

「そうよ、ニコも連れていこうと説得してたのだけど、絶対に行かないって言うのよ。」

「お前、それが嫌で休んだんじゃないのか?」

「あぁ、柴崎なら人を雇ってでもニコを誘拐して、連れて行きそうだもんな。」

「あー、その手があったかぁ」と額に手を当て天を仰ぐ柴崎。

「あほか!」藤木と声が揃った。

「大体、ニコは華族じゃないんだからパーティに参加する資格ないのでは?」

「あぁ、そんなの無くていいの。」

「はぁ?無くていいって、じゃ何の基準であるんだよ、華族って。」

慎一は歴史が好きで、特に幕末~開国に関して興味があって歴史書を読んだりしている。もちろん華族に関することも昔から興味があった。だけと、こと華族に関しては、市の図書館よりも蔵書数が多いとされる学園の図書館で探しても、決定的な事が今一つ詳しく書かれている本が不思議なことに無い。常翔学園の経営者が、華族の称号を持つ一族だという事は、柴崎と友達になってから知った。だから何度か柴崎に華族の歴史について聞いたりしているのだけど、「知らないわよ。そんなの。」って、いつもかわされていて、博識の藤木に聞いても、興味がないから知らないと、これまたつっけんどうな態度をされていた。

「基準?知らないわよ、そんなの。ニコは私の友達だし、綺麗だからいいのよ。」

「はぁ?綺麗だからいいって」

「あぁ、もう、めんどくさいわね新田は、この話になると。私の傍にいて、ドレス来てたらニコならオッケーなのよ。」

あきれて慎一はつぶやいた。

「・・・その程度なんだ、華族って」

「だからっ!華族会の程度の話をしてるんじゃなくて!パーティの参加資格は、華族の人間がすでに証明なのよ。私と一緒にいるのは信用ある者という事!私だってね、無作為に誰でもって誘わないわよ!ニコだから誘ったのよ!もう、そんなに気になるんだったら、新田も藤木も正装して私の後について来れば?参加できるわよ。」

「うそ!?」

「おいおい」

「嘘じゃないわよ、新田も藤木もオッケーよ。そんなに華族の事を知りたいなら今日、ついて来て自分で聞いて回りなさいよ。」

「あっいや、いいっす、行かないっす。すんません。」

興味はあるけど、そんな場違いな所に、庶民の俺が行く度胸はない。

「新田、一つ忠告しとく。華族をその程度と言ったの、聞く人が聞けば、日本国籍を抹消されるぐらいの大失言だからな」

「えっ?そんなの都市伝説だろ。」

そう、深夜番組なんかでもよく、華族の実態は!とか、やっていて、華族の悪口を言ったら翌日には行方不明になっていたとかあって、そんなの面白おかしくした噂話、信ぴょう性のない都市伝説級のバラエティーネタ的に思っていた。

「お前、興味ないって言ってたくせに、詳しいじゃないか・・・」

「そう、興味本位で失言するのを防ぐ為の防衛術。」藤木がは本気かウソか、真顔を崩さない。柴崎も、眉を上げて首をすぼめる。

「いや・・マジで?」

「よかったなぁ。ここにはエージェントは居なかったみたいだ。」

柴崎が噴き出して笑いだす。

「やめろよ、趣味の悪いジョーク」

ったく。えーと何故、こんな話になったんだ?おぅ、ニコが休んだ理由だよ。華族よりもニコの事だ。

「新田、ニコちゃんに会ったら月曜日まで会えないの寂しいよって伝えてくれよなぁ。」

藤木が、やっと目じりに皺を寄せた表情に戻って言う。





部活を終えて足早に家に帰り、聞いたニコが休んだ理由は、驚くべき物だった。

「さつきおばさんが倒れた!?」

「しっ、ニコちゃん、二階の部屋で休んでるの。昨日、寝てないらしくて。」

慎一からの電話の後、母さんは10時頃にニコの家のマンションに行ってみたという。

もちろん、それまでにさつきおばさんの携帯電話に何度もかけたけど、出ない。もしかして、緊急で仕事になったのかと思い、病院にも電話してみたという。だけど、プライバシーの関係上、教えられないと言われたらしい。

マンションのロビーから呼び鈴コールをしたけれど誰も出なくて、仕方なく合鍵で中に入ろうとした時、ニコが表の通りから歩いてきたのを見つけたという。

「ニコちゃん、さつきの着替えとかを取りに家に戻った所でね。それで私も手伝って、すぐに病院に向かって」

「さつきおばさんの容態は?」

「今週いっぱいは入院して、検査するって。」そう言った母さんは、いつもの母さんではありえないぐらい暗い顔で。

「そんなに悪いの?どこが?」

「あっ違う、違う、検査は念のため、病院に行ったら、元気だったし、先生も疲労だろうって、院長先生がすみませんって謝ってて。」

「良かった。」ほっと溜息をついた。

「それが、ニコちゃんが・・・。」

「ニコが?」

さつきおばさんが倒れたのは、昨日の夜10時頃だったらしい、遅めの夕ご飯をさつきおばさんと取り、食器などを片付けている最中におばさんは倒れて、ニコが救急車を呼んだ。おばさんが働く神奈川県医科大学病院の救命救急センターの処置室に運ばれたおばさんを、ニコは一人であの病院の待合で待っていて、朝が来て、入院の手続きを、すべてニコが一人でやったという。

「何で、俺たちを呼ばないんだ!」

「しっ、声が大きいっ。」

「あぁ、ごめん。」

「それは、私も言ったの。そしたら、思いつかなかった。って」

「思いつかなかったって・・・。」

「気が動転していたんだと思う、けれど、なんかね。」

あの病院の救急待合室、慎一は一年前を思い出した。慎一はニコの容態を心配して、夜遅くまであの寒々した場所で落ち着かない時間を過ごした。あの場所に、ニコは一人で。病室に移動した後も、さつきおばさんが目を覚める朝まで、長い夜を付き添い、朝一番に入院の手続きを一人で済ませたなんて。

「ニコは?大丈夫なのか?その精神の方・・・。」

「私も、それを心配して、昼から村西先生の所に受診させたの。」

「なんて?」

「特に問題はないって。逆にしっかりしなくちゃと強く思っているから、大丈夫だと。」

「そう、良かった。」

さつきおばさんが検査入院している間、ニコは新田家から学校に通う事になった。夕ご飯時になってリビングに降りてきたニコは、最近にしては珍しい無表情に戻ってしまっていたけれど、それは当たり前に仕方ない事だった。夕飯も喉を通らないだろうと予想していたのは意外にも外れて、ちゃんと食べたのを見ると、村西先生の診察が的確だと慎一はほっとした。






ママがあの冷たい扉の向こうに行ってしまった。もう二度と会えない、パパと同じ。私は知っている。

あの白くて冷たい扉の向こうは、死の世界が広がっている・・・・・ほら、あの声が私の名を呼ぶ。


リノ、ドウシテ、ニゲタ、リノ、ドウシテパパカラ、ニゲタ。リノガ、ニケタカラ。パパ・・・・ハ  シンダンダヨ。。。

リノ、ドウシテ、ソノテヲ、フリハラウ・・・・・パパト、イッシヨニ、シノウ。 

  

パパごめんなさい、りのは逃げない、だからママを返して。りのと引き換えに。



テスト1週間前で朝練のない朝、無表情のニコと一緒に新田家を出て、バス停まで歩き、時刻通りに到着したバスに乗り込む。

「学校、終わったら、そのまま、さつきおばさんの所に行くのか?」

「うん。」

「俺も一緒に行くよ。」

外の景色を無表情に見つめるニコ。小さい頃に競っていた身長は、再会した6年生の頃は同じぐらいだったのに、今は慎一が随分と抜かしてしまった。158センチの柴崎と並んで、より小さいから、おそらく152・3センチぐらい?昔はいろんなことが競争だった。決まってニコが少しだけ勝っていて、慎一はいつも悔しい思いして、リベンジに練習するのが常だった。身長も数ミリ負けたのを悔しくて、毎日牛乳を飲み、縄跳びも、逆上がりもニコが先にできた。

そうやって、何でも勝っていたのに、どんどん負けていくのが悔しい、だから、勉強だけは負けたくないと本気交じりの冗談を言うニコ。世界1位の学力を誇るフィンランドで培った頭脳を持っているとはいえ、国語と社会が苦手なニコは、人知れずの努力をして、学年トツプの座をキープしている。特待を受け続ける為の必要な努力は、いくら頭が良くても必要で、並大抵の努力だけでは済まない。

先行しているフィンランドの教科書は昔の恩師を伝手に送ってもらって、授業のノートを現地の友達からメールで送ってもらって勉強している。そうして数学と理科は一旦英語脳で予習をし、そして日本での通常授業を確認と復習にするという、慎一には理解しがたい勉強法だけど、毎回、英語、数学、理科は100点もしくは、些細なミスの減点のみの点数を取っているのだから、ニコにとってはやりやすい勉強法なのだろう。反対に慎一は、国語と社会、特に歴史が得意で、戦国時代の戦略なんかは、サッカーの戦略に役立つ事があるので面白い。

すぐにバスは学園前の停留所につく。バスを降りて通用門まで約100メートル。ちょうど反対方向の寮から通っている藤木と会う。バスの時刻表を見て合わせたとしか思えないタイミング。藤木ならやりかねない。

「ニコちゃん♪。おっはよ。」

「おはよう。」

いつもより若干テンションを上げた藤木の朝の挨拶。ニコがまだ藤木に心を許していない入学当初からニコへの声掛けはずっと続いている。人と付き合う事を避けていたニコは、藤木のマメさが功を成して心を許す友人の一人になった。慎一は幼馴染という経歴があるから例外とすると、ニコが男子の中で普通に話せる友人になったのは、藤木だけだと言える。ニコも最近は本人なりに努力をしていて、クラブやクラスメートとは少しづづ話すことが出来るようになってきているけれど、でもまだ、慎一、藤木、柴崎以外の人との会話は緊張すると言って、日本語は吃音がち。

「一昨日は、寂しかったよ~。やっぱ、ニ・・・」女子の前では、もっぱら顔も態度も軟弱に緩む藤木が、突然、口を止めた。

「何?」ニコが首をかしげる。

「あ、ううん。やっぱりニコちゃんが居ないと寂しいから、今日は来ててよかったなぁって。」藤木はまたでれっと締まりなく顔を緩ませて、目を細める。

「ニコちゃん、美術の課題やった?」

「まだ。」

「あー俺も、良かった、お仲間が居て、今日の放課後、一緒にやる?」

「今日は、駄目。早く帰る。」

「あーそうなんだぁ。」

慎一には目もくれずに藤木はニコの側に寄り添い、通用門へと入っていく。

そんな二人の後ろを遅れて歩きながら、慎一は安堵にうなづいた。心配な事は何もない。いつもと変わらない日常がそこにある。





いつもののごとく4人で給食を取った後は、柴崎とニコを残し運動場に駆け出してサッカーをするのが天気の良い日の日課。

藤木と一緒に食堂を出て、下駄箱でスニーカーに履き替えて駆け出そうとしたとき、藤木に「ちょっと来い」と腕をつかまれ人気のない通用門前の木陰まで引っ張られた。

「なんだよ!」

「なんだと言いたいのは、こっちだ。」

「はぁ?」

「ニコちゃんに何があった?昨日のメールは嘘だろう。」

昨晩、藤木と柴崎から「どうだった?」とニコの様子を聞いてくるメールをもらっていた。慎一は「やっぱり、午前中に診察するから学校に連絡するのを忘れていたらしい。」と送っていた。

藤木が睨むように目じりを細めるのを見て、隠しておくのは諦めた。

「はぁ、やっぱ、お前に嘘はつけないかぁ。」溜息を吐く。「隠そうとしているわけじゃない。言っていいのかどうか、まだニコに確認を取ってないだけで」

勝手に言ったら、また、新田家はプライバシーに欠けると言われそうだから躊躇する。だけど、藤木には嘘がつけない事はニコも承知だから大丈夫だろう。

「さつきおばさんが、一昨日の晩、倒れたんだ。」

「え!?」

昨日、慎一が母親の前でしたリアクションを藤木がする。慎一は藤木に、母さんから聞いた話と今朝までのニコの様子を話した。

「安心したよ。普通に朝ご飯も食べてたしな。」

「お前、本気でそれを思って、言ってるのか?」藤木が何故か怒った口調で言う。なんだ?怒られるような事、言ったか?

「嘘、言ってどぉすんだ。」

藤木に突然、胸倉をつかまれた。 

「お前は、ニコちゃんの何を見てる!お前が気づかないでどうする!」藤木は険しい顔をして慎一の身体を揺さぶる。

「あれのどこが普通だよ!何かあったら、食欲ないっていうのが、いつものニコちゃんだろ!母親が倒れたんだぞ!食事も喉を通らないはずの事が起きてる、いつものニコちゃんなら食べられないはずだ!」

「いや、だから、さつきおばさん、それほど重症じゃないから、疲れが出ただけで、念のための検査入院だし。」

つかんでいた手を離した藤木は、首をふり、ますます渋い表情をしてうつむいた。

「・・・読めない。」

「は?」

「ニコちゃんの本心が。」   

    

 



扉の向こうから呼ぶ声

  リノ、ドウシテ、ニゲタ、リノ、ドウシテパパカラ、ニゲタ。リノガニケダカラ。パパ・・・ハ  シンダンダヨ。

  リノ、ドウシテ、ソノテヲフリハラウ・・・・・パパと、イッシヨニ、シノウ。   

その声は、忘却の記憶に楔打つ

    




確かに、藤木の言う通りだった。元々食に興味のないニコは、何か辛い事があると、とたんに食べ物がのどを通らなくなる。

普段から沢山の量を食べない上に、すぐに食欲がないと言っては食事自体を抜こうとするから、慎一が一緒の時は厳しく監視していた。

いくら深刻にならなくていい容態だからとはいえ、ニコが母親の心配をしない筈がない。夜も昼も働く母親の身体を心配して、修学旅行を行かないと言い出したぐらいなのだから。

でも今回は、ちゃんとご飯は食べている。普通に柴崎と笑って雑談している。夜は、眠れているのか?そこまではわからない。一昨日は寝てないと聞いていたけど、昨日はどうだった?リビングで、えりと話をしている姿は普段と変わらない様子だったから、慎一も母さんも安心して、そこまで気にはしなかった。

「何言ってんだよ。ニコの本心は誰よりも読みづらいと言ってたじゃないか。」

「そうだ。俺が出会った人の中で一番読みづらい、どころか最初は全く読めなかった。だけどニコちゃんが俺に慣れてきた頃から、わずかだが読めて来ていた。」

それは初めて聞いた。藤木はずっと、ニコちゃんのは全く読めないと本人を前にしても言っていた。

「最近・・・夏の、グレンに会った頃から読み取れるものが増えて来ていたんだ。」

ニコの調子が良くなってきている時期と一致している。

「このまま、ニコちゃんもお前らと一緒に普通に読み取れるようになると思っていたのに。今日、急に全く読めなくなっていた。」

朝、変に表情を変えた時か。

「お前が読めないだけじゃないのか、調子が悪いのはお前の方で」

「俺も、そう思ったさ。能力が消えたのかと思ってな。でも、柴崎やお前、クラスの奴ら他は全員、読める。」

藤木は一旦目を閉じ、ゆっくり開けた。瞼に力を入れるように、まっすぐ見据えてくる眼力に慎一はたじろぐ。この目で藤木は人の心を見抜くのだと改めて思った。

「お前は、今、俺に脅威を感じた。読み取られる脅威。不安交じりの怒り、嫉妬交じりの悔しさも宿している。」

「!」

「不安がらせるような事を言うなと俺を責めながらも、その能力には敵わないと嫉妬しながら、悔しがっている。」

向き合う覚悟が出来ていない心の本音を、他人から面と向かって言われる事がこんなに気持ちなんて。そう思うことも、藤木は読むんだろうなと思ったら、慎一は目の前に居る親友に、はじめて嫌悪した。

藤木は、その鋭い目をそっと閉じて、うつむく。

「・・・悪い。ちゃんと読めるんだ。ニコちゃん以外は。」

「・・・・・」すぐさま、藤木から背を向けて立ち去りたい気持ちをぐっと我慢する。

「・・・ニコちゃんは、完全に心を閉ざしている。普通じゃない。」

普通じゃないって言葉を使う藤木に、純粋な怒りを覚えた。

「俺に感情を向ける前に、ニコちゃんの心配をしろ、そばに居てやれ。目を離すな。」

そう言うと、藤木は慎一から顔を背けて運動場へ去っていく。

「何言ってんだよ・・・」慎一は、ささくれだった心をどう宥めていいかわからず、舌打ちをした。


「あれ、新田、サッカーしないの?」

「ああ、現実を思い出してさ。あいつらみたいにテスト二日前で余裕ぶっこいてらんないよ。」

「やっと気づいたか。サッカー馬鹿。」

ニコは無表情に慎一を貶す。これは普段通り。何も心配なことなんてない。藤木が余計な事を言って攪乱しているだけだ。

「じゃ、また、やんなきゃなんないんじゃない。日本語禁止。」     

「うえーそれだけはやめてくれ。理解できるもんも、できなくなる。」

英「だか、この成果が、前のテストでは補習を受けずに済んだ」

聞き取れないニコの英語を普段なら、藤木が日本語に訳してくれるのだけど、今は居ないから、ニコは自分で訳する。

「そうよ、また受けたいの?」

「柴崎までやめろ~。」

「ふふふ、また始まったのね。新田君の英才教育。」

と近くを通ったクラスメートの佐々木さんが、笑って立ち止る。

「そうだ、私も真辺さんに教えてもらいたい所あったんだ。いい?」

英「いいよ。」

ちょっと貸して、と柴崎の持っていた英語の教科書を奪って、パラパラとページをめくる。

「ここなんだけど。あーえーと英語で話さないとダメ?」

「佐々木さんまで~やめてー」

英「そうね、新田の為に、お願いね。」

「いじめだ、完全に。」

英「別に、どっちでもいいよ。」

佐々木さんは、やっぱり無理と日本語でニコに質問する。

「こっちでは、サンキューの後にsoってなってて、こっちではveryってなってるの、どっちが正解?」

英「うん、どっちも正解だよ。Soの方がより感情的ではあるけれど、別に不正解じゃないし。どっちも女性の言葉だかしね。どっちかというと女性の方がsoを使う傾向があるけれど、教科書ではそこまでの俗語的要素を求めてはいないだろうから。」

あまりにも、流暢すぎて、佐々木さんも皆、ニコの英語を理解できなくて、きょとんとしてしまった。だからニコは慌てて、日本語に訳す。

「あっぁ、えーと。ど、どっちも、せ、正解。Soはかかんじょうの、まま、違いじゃない。じょ女性が、よよく使うけけ傾向、きょきょかしょは、べ、べつにぞぞごを」

馴染んでいない佐々木さんが一人はいるだけで、こんなに緊張し吃音がでるニコの日本語は、正直、理解不能。

必死にニコの言葉を理解しようと耳を傾けるんだけど、ニコの緊張ぶりが気になって内容把握に意識がいかない。

「あー、そぅ・・・・まぁ、間違いじゃないのね。」

「・・・・ご、ごめん。」

「ううん。ごめんね、ありがとう。覚えておくわ。」

「お?なんだ、真辺さんに教えて貰ってんの?いいな~」

「あー俺も数学、わからない所あんだ。教えて~。」野球部の二人も教室に戻ってきて、加わる。

「ニコに教えてもらうなら、日本語禁止よ。」

「えー、まじかよ。」

「英語と数学同時に勉強できて一石二鳥でしょう。」

野球部の二人は、自分の席から数学のノートを持ってきて、ニコに聞く。

英「ここの、先に公式で解いたあと、次に・・・・どれを解いて、この公式が、えーと」

「うわー、英語に意識したら、何を聞きたいか、わからなくなる!」

「ほら、見ろ、俺だけじゃないだろ。このパニック振り。」

「い、いいよ、に、日本語。」

ニコの許しが出ると、みんな、ほっとして、今度は数学の質問時間にと変わった。

ニコは、クラスメートに囲まれて、吃音しながらも終始笑顔で、難しい数学の公式を説明していく。

野球部は夏の県大会で惜しくも優勝を逃し、甲子園に行く事が出来なかった。その時点で三年は引退となっていて、後は高等部への進級や、常翔祭などの行事に意識を集中すればいいだけになっていた。だから、中間テスト目前の今も、やる気満々。

慎一たちサッカー部は全国大会が冬という事もあり、引退はまだまだ先。もし決勝まで進むとなると12月の中頃までにずれ込む。こんなに三年の引退が遅いのはサッカー部だけ。内部進学ができる私立の学校だからこそ、ギリギリまで3年が試合に出られる。公立の中学ならそうはいかない。受験勉強の為、嫌でも夏には引退しなくちゃならない。 それを思うと、この学園に入って良かったと心底思う。とはいえ、クラブを言い訳に勉強をおろそかには出来ない。

三年の二学期ともなれば、流石にどの教科も難しくなってきた。入学したら大学までの進学は約束されているとはいえ、三年間の総まとめの卒業テストはあって、一定の到達点に達しない生徒は、補習のを受けなくてはならないし、その卒業テストの成績によっては、高等部の希望するコースに入れないという事態も起こる。慎一はスポーツや芸術などの特別科目をばかりを強化する特選クラスと決まっているから、それほど焦る必要はないけど、ニコは学力重視の特進クラスを目指す。目指すというか、特待生を続けるにはそのクラス以下はありえない。

苦手な日本語で一生懸命、説明するニコの横顔を眺める。

藤木が心配するような事は何もない。昔のニコだったら、教えてと来られても、いいよとは言わなかった。固まって、柴崎の後ろに隠れるか、教室から逃げるか、って言っても、ニコに教えてと言ってくる奴はいなかったけど。夏のキャンプ依頼、ニコだけじゃなく、クラスメートもニコに対する印象は変わった。

机の脇に追いやられていた社会の参考書が机から落ちた。慎一はそれを拾ってニコに手渡す。

「これじゃ、社会は出来ないな。」

「時間はまだ、たっぷりある。大丈夫。」

少しずつ、ニコは昔のニコニコのニコを取り戻しつつある。楽しそうな微笑みを返してくる顔に俺も笑顔になった。

そう、大丈夫、これのどこが心を閉ざしているんだ?




扉の向こうから呼ぶ声

  リノ、ドウシテ、ニゲタ、リノ、ドウシテパパカラ、ニゲタ。リノガニケダカラ。パパ・・・ハ  シンダンダヨ。

  リノ、ドウシテ、ソノテヲフリハラウ・・・・・パパと、イッシヨニ、シノウ。   

その声は、消せない記憶を楔打ち 眠りを妨げる


 



通学で使っている市バスに乗った慎一とニコは、いつも降りるバス停を越えて、神奈川県医科大学付属病院前の終点で降りる。

倒れてから初めて見るさつきおばさんは、母さんが言うように、いつも通りで、どこも心配なさそうだった。

「慎ちゃん、また身長、伸びたんじゃないの?」そうやって、優しい微笑みを慎一に向ける先おばさんは幼いころと変わらない。

栄治おじさんと、さつきおばさんの良いところを遺伝して、総じて、どちらにもあまり似てないと言われていたニコだけど、こうやって微笑むとやっぱり似てる、親子だなと思う。

「啓子、完全に抜かされちゃたわね。」

「馬鹿の大食いってね。」

母さんも病院に来ていた。慎一たちが来るだろうと予想して、時間を合わせたらしい。

「もうちよっと栄養を頭に使ってもらわないと、割に合わないわ。」

「一応、国語と社会はニコよりいい点数、取ってますけど。」

「2教科10点以内の僅差だ。」とニコ

「りのは国語と社会は、苦手だものね。」

「あっそうだ、これ、貰ったからお礼、言いなさい。」

と母さんが指さしたのは、果物の籠や、菓子折りの箱やらで、凄い量のお見舞いの品が脇のテーブルに置かれてあった。この病院の先生や看護師、さつきおばさんの同僚達と、おまけに患者さんまでが入院したさつきおばさんを心配して、かわるがわる見舞いに来ると言う。大きな果物の籠は、お詫びのしるしと院長からだという。

お礼は母さんが言えばいいじゃんかと、ちょっとした抵抗で無視していたら、「あんたのお腹に入るのよ」と言う母さんの苦言にさつきおばさんは笑う。

「りのと二人じゃ、食べきれないからね、良かったわ、男の子が居て。」

「お、これ、うまそう。」

「これ、お礼が先!」とパシっと母さんに手を叩かれた。

「痛って。」

「馬鹿の大食い。」とニコの毒舌も追い打ち。

「これ、りの!いいのよ慎ちゃん、お礼なんて、お礼を言わなきゃいけないのは、こっちなんだから。いつも、りのの面倒を見てもらって。」

「さつき、慎一を甘やかさないで、それとこれとは別よ。物をもらってお礼一つ言えないなんて、情けない。ほんと、体ばっかり大きくなって」と母さんの小言がずっと続きそうだから、制する。

「わーもういいよ、母さん。さつきおばさん、ありがたく頂きます。」

「ふふふ、どうぞ。」

「初めから素直に言えばいいのに。」とニコが冷たく言い放つ

「ほんとよね。しょうもない反抗期、使っちゃって。ねぇ」

と母さんはニコを甘やかす。     

ニコが、新田家には帰らないで家に帰ると言い出した。テスト勉強をするのに、参考書などがない新田家ではやりにくいとの理由で。

「車で、来てるから、全部、運んであげるわよ。」

「パソコンで調べたいこともある」

「慎一のがあるじゃない」

お互いに首を振る。他人にパソコンの中を覗かれるって嫌なもんだ。どこのどんなサイトを覗いていたか、履歴をたどられたら、恥かしいサイトに訪れはしていないにしても、嫌だ。

「自分のパソコンじゃないと、使い勝手が悪いとかいろいろあるんだよ。」

「えーそうなの?」

「ふふふふ、啓子、無理よ。りのは言い出したら聞かないもの。」

「でも、心配だわ。」

「夜勤の時はずっと一人で留守番してた。」

「そうだけど、夜勤は一週間に2、3日程度、しかも朝には帰ってきてたじゃない。終始さつきが居ない状態があと一週間は続くのよ。」

「啓子おばさん、大丈夫。」

やっぱり、親でもニコを説き伏せることは出来ない。晩御飯だけは、新田家に食べに来るという約束で事はおさまった。




扉の向こうから呼ぶ声

  リノ、ドウシテ、ニゲタ、リノ、ドウシテパパカラ、ニゲタ。リノガニケダカラ。パパ・・・ハ  シンダンダヨ。

  リノ、ドウシテ、ソノテヲフリハラウ・・・・・パパと、イッシヨニ、シノウ。   

その声は、消せない記憶を楔打ち 眠りを妨げる 罪を償えと




母さんが乗って来た車に乗り、ニコは新田家に戻ってきて、晩御飯を食べてから、自宅に帰る事になった。久しぶりだった。ニコを家まで歩いて送るのは。えりの家庭教師以来、それも途中から自転車を買ったと一人で帰るようになったから、2年ぶりぐらいになる。

家の門を閉めて振り返ると、ニコが山の方を見上げている。

「きれいな満月・・・」

つぶやく通りに綺麗な満月が空に浮かんでいる。月の光は強く、慎一たちの影をくっきりと道路を照らしていた。

「あの時も満月だった。」突然ニコがフフフと静かに笑う。「思い出した。」

「何を?」

「あの夜のこと」

「あの夜って?」

「扉が開いて・・・」

ふと、藤木の言葉を思い出した。『読めないんだ、ニコちゃんの心が』

人の心なんて読めなくて当たり前。

小さい頃から双子のように育った俺とニコですらお互いの心はわからない。

「死神が迎えに来る。」

「何?」

「フフフ、映画の話。深夜番組でやってたホラー映画。思い出した。」

「え、映画?」

「うん、珍しくフランス映画だったから。ついつい最後まで見ちゃった。」

そう言って微笑むニコ。

「深夜って、また眠れないのか?」

「ううん、大丈夫、眠れてる。その映画を見たのは夏。夏休みの宿題をやりながら。」

「そうか、なら安心だけど。」

「もう、大丈夫、村西先生もそう言ってる。」

「そうだな。」

そう、だよな。医者の太鼓判があるんだ。もう心配はない。

映画の話をネタに、坂を下るとあっという間にニコの家、マンションに着く。母さんが持たせた明日の朝食用のサンドイッチを手にもって、学生鞄から鍵を取り出す。

「じゃ、戸締り、ちゃんとするんだぞ。」

「うん」

「なんかあったら、夜中でもいいから家に電話して来いよ。」

「・・・・・・」

「朝、ちゃんと、それ食べるんだぞ。」

また、しつこいとかとか怒るだろうなぁと思ったけど、言わずにはいられない。

「わかってる、ありがとう、お休み、慎ちゃん。」  

「あぁ、お休み。」

ロビー奥に入っていくニコを見送って、違和感に気づく。今、慎ちゃんって言わなかったか?慎一ではなく?

何故また、慎ちゃんに戻った?

ニコが廊下を歩いていく姿が見える。いつもけしてこちらを見ようともせず305号室の扉を開けて入っていく。

やっぱり、りのの心はわからない。





扉の向こうから呼ぶ声は、昼も夜も聞こえる。死の世界からの誘い

  リノ、ドウシテ、ニゲタ、リノ、ドウシテパパカラ、ニゲタ。リノガニケダカラ。パパ・・・ハ  シンダンダヨ。

  リノ、ドウシテ、ソノテヲフリハラウ・・・・・パパと、イッシヨニ、シノウ。   

その声は、消せない記憶を楔打ち 眠りを妨げる。罪を償えと

逃げられない。パパはりのを迎えに来る

ごめんなさい。パパ、りのは、逃げないから、でも待って、もう少し。











藤木とは微妙な距離が出来てしまった。その事に、いち早く気づいたのは柴崎だった。

休み時間、日直の当番だった慎一は、黒板を消して窓際にある黒板消しクリーナーを使っていると、柴崎は近寄ってくる。

「何かあったの?あんたと藤木。」

「何が?なんか、おかしいか?」

「うん。なんとなく、ここ数日、微妙に距離があるというか」

「そうか?別に何にもないけど。」

「ふーん。つまんな。喧嘩でもしたのかと思って期待したんだけど。」溜息交じりに窓際に背もたれた。

藤木とニコは今は教室にはいない。

「つまんなって、何の期待だよ。」

「だって、最近、何もかも平穏でさ。面白くないんだもの。」

「お前なぁ・・・。」喧嘩を暇つぶしに期待するなんて、どういう神経して言うんだ。刺激を求めすぎだろ。

「あちゃー降ってきちゃったわね。雨。」

朝から雲行きが怪しかった空、ついにポツポツと大き目の雨粒が降り出した。天気予報でも今日から本降りの雨になるって言ってたから、明日まで雨は止まないだろう。

「これじゃ、5時間目の体育、テニスじゃなくなったわ。」

「女子は今、テニスかぁ、いいなぁ。」

「そう、男子は今日、柔道の日でしょ。」

「あぁ、俺、嫌いなんだよな、格闘技系。」

「ははは、ほんと、似合わないわね、あんたと柔道って。」

「無くなんないかなぁ。今日、先生が休みとか。」

「おーい、男子、今日の体育、山野先生、休みだから、柔道中止して、体操服で体育館、集合だってさ。」

と、クラスメートの田中が教室にいる皆に聞こえるように叫ぶ。

「おょ!願いが叶った!」

「そういうの、つまんないわ。」

「お前、性格悪いぞ。」

「はぁー、なんか、ないかしら、こう、突き進める何か。」口から内臓が出そうなほど大きなため息をつく柴崎。

修学旅行前に、柴崎がニコの為ともいえる、立ち上げたプロジェクト、【常翔学園クラブ活動バックアップ支援基金】は、9月にあった50周年記念行事に正式に公表されて、学園側の承認を得て、生徒会から学園にすべてが移行し正式に組織化された。

全国大会に行く事が決まった弓道部のニコの為にと稼動を急いでいたらしいが、いろんな憶測を心配し、結局、来年の4月からの稼働となった。そのため、合宿も遠征費用も全部個人負担となり、一時は行かないと言い出したニコだったが、稼働前の準備稼働として、50周年記念行事で集まった寄付金や祝儀をすべて、クラブ支援に回すという会計公文書を全世帯に配布し、全クラブは文句なしにこれで対応できることになった。ニコはお金の心配なしに全国大会に行ける事になって、ほっとしていた。

現段階は、OBにバックアップサポーターを募集している段階だ。来年からはこのクラブ支援の為に生徒会メンバーを増やす事も検討中だという。柴崎が率いる生徒会は、あの大久保選手の表敬訪問の翌週から、50周年記念行事まで、この基金のプロジェクトの考案でものすごく忙しい日々を送って来た。沸き上がったアドレナリンは、それが終わってしまっても、治まりきれず、何かを求めるんだろう。自分もサッカーの全国大会が終われば、こんな風になるんだろうかと、わずかに不安が生じる。



5時間目、男子の体育教師が休みで柔道が出来ない上に、雨でテニスが出来なくなった女子と合わせて、担任の手塚先生(女)が男子女子合わせて面倒を見ることになった。体育は6組と合わせて男女別の授業を行う為、体育館を共同で使う事もないから、二クラス分の人数が今、体育館に居る。

「こぉらぁー男ども、こっち向いて準備運動するんじゃねー!むこう向け!もっとあっちいけ!お前らの猛獣の目に幼気な女子が怯えるだろ!」

「何が、幼気けな女子だよ。」

「どっちが猛獣だよ。」

「あぁ?なんか言ったか?」体育館の真ん中でメガホンを持った手塚先生。半分半分の使用面積のはずが、手塚先生の巻き舌のおかけで、男子は肩身のせまい思いをして隅っこで準備体操する。

うちの担任でもある女子の体育教師、手塚先生の容赦ない暴言は、いつもの事で、男子たちは、この迫力に猛獣に睨まれたバンビのように大人しく首をすぼめる。

今年、この学園に就任してきて、いきなり3年の担任を受け持つ手塚先生は、凱さんが群馬県から引き抜いてきた先生。凱さん曰く、この学園にはないカラーの先生を採用したかったと、大学は陸上の推薦で入ったと言うだけあって、めちゃめちゃ足が速く、手塚先生に睨まれたら逃げる事は出来ない。柴崎の差し金で、慎一は100メートル走の競争をする羽目になったことがある。余裕で負けた。

そんな豪快で、バリバリの体育会系の手塚先生は、女子ばかり肩を持ち、男子はいつも虫けら扱いだ。

あの暴言は、わざとだという。攻撃対象を自分に向けさせる為だという。女性教師は、成長過程において力をつけた男子になめられ、押さえられないで困る女性教師が多い。その力が生徒に向けられた時、いじめや暴力に発展するのを防ぐため、手塚先生は、力の誇示と攻撃対象を自分に向けさせているという。そして本当に半端なく強い。

さらに手塚先生が敏腕なのは、 普通、ここまで男子を格下げられたら、女子は男子を馬鹿にしてクラスの雰囲気が悪くなる可能性がある。それがこのクラスにはないのは、その言葉は虫けら扱いだが、実際は、要所要所で男子の特性をうまく利用して動かし、女子にその特性を見せる事により、男子の威厳も保させているという。

確かに、うちのクラスは男女わけ隔てなく仲がいい。夏休みにキャンプを企画して、全員参加で結束を固めた。夏休みに全員参加して遊ぶなんて、5組だけだった。

「面倒だから、男子女子共にバスケな!ほら!男子!ボケっとしてないで、ボール取って来い!」 

これのどこが男子の威厳だ。使い走りもいいとこだ。収納庫のある場所は、女子の方が近い。バスケ部のやつらが仕方なく、ダッシュで取りに行く姿に、「女子の分もな」と先生は追い打ちをかける。

適当にチーム分けてやってくれと、先生は女子の方へ行く。男子全員が、ため息ついてほっとした。途端メガホンで怒鳴られる。

「適当にやれと言ったのはチームわけだ!ダラダラ手を抜いたバスケやってたら!校庭走らすぞ!」

あの先生ならやりかねない。土砂ぶりの中、熱が出ても走らせそうだ。女子たちの笑いの中、男子たちは心一つに、きびきびと動くしかなかった。恐怖は団結を強固にする。

チームを分けて、先に1ゲーム終えた後、慎一は体育館の壁際に座り、女子のバスケを眺めていた。自然とニコの姿を追ってしまう。

フィンランドとフランスで3年ほどバスケをやっていたと言うニコは、きれいなフォームでゴールを決める。ニコは、夏の親睦会キャンプ以降クラスで浮くとは無くなっている。今もゴールを決めたニコに、皆がハイタッチして楽しそうだ。笑っている。

ずっと待っていたニコニコのニコ。そうだ、もう何も心配はない、あの笑顔がその証明。

「うわー、あれじゃ、バーゲンセールの取り合いだな。」

「ははは、ほんとだ。」

バスケの経験があまりない生徒の方が多いクラスの競技では、女子はヒートアップすればするほど、ボールだけにしか目に入らず、こぼれたボールを全員が拾いに行き、ボールの取り合い合戦となる事が多い。

それが今、繰り広げられていて、慎一の隣に座っているバレー部の渡辺が笑う。

審判をやってる佐々木さんがその取り合いに笛を鳴らして止める。そして、ゲーム再会、相手のパスを素早くカットしてボールを奪い取ったニコがゴールへ走る。その小さい身体を利用して、さっとかわして、ゴール下にいたクラスメートにパスを渡す。

「真辺さん、うまいな。」

「あぁ、向うで、やってたって。」

「へぇー、何でバスケ部入らなかったんだ?」

「さぁー?そこまでは知らない。」

人との付き合いが嫌で一人で出来る弓道を選んだなんて言えない。本当はやりたいんだと思う。柴崎の家に遊びに言った時、連続で何回フリースロー決められるかと、ずっとやっていた。 

「お前、よく気おくれしないで付き合えるよな。」

「はあ?」

「頭脳明晰、語学堪能、運動神経も抜群、おまけに学園一の美人、非の打ちどころのない真辺さんだぜ。いくら幼馴染とはいえ、そんな完璧な子が彼女だったら、俺、ぜってぇ自分に悲観して逃げちまうな。」

「え?彼女って、いやいや、俺らは付き合ってねえーし。」 

「はぁー!?嘘つけ!。」

「ホントだって、一度も付き合ってないから。」

「またまたぁ。今更、照んでも。」

「マジだって。」

「うそーマジか!お前らっ。」という、渡辺の絶叫が手塚先生の耳に入った。

「うらぁ!待機中に、ふざけていいとは言ってないぞ!雨ん中、走りたいかぁ!」

俺と渡辺は首をすぼめた。

「俺まで、睨まれるじゃんかよ」

「ごめん。」ひそひそ声で喋る。「でも嘘だろ、お前ら付き合ってるとばっかし、クラスの全員が、そう思ってんぞ。」

「まぁーそう思われても仕方ないけど、実際付き合ってねぇーし。付き合うも何も、あいつは昔っから俺の事、競争相手としか見てないから。」

そう、昔から、ニコは俺を男と意識する前に競う相手だ。

ほらやっぱり、今も・・・・・。    

「あのー真辺さん?足を踏んでます。痛いんですけど」

「知ってる、わざとだ。」

「反則だろ!」

「まだゲームは始まってない。」

男子も女子も全員が一回ゲームをしたところで、女子が男子と対抗戦やりたいと言い出した。

手塚先生もそりゃ面白いと、早速その案に乗り挑戦状を叩きつけて来た。の割には、ハンディとして男子はバスケ部以外の者で選抜しろと条件を付けてくる。それに反して、女子はバスケ部の佐々木さんを含む3人と、身長の高いバレー部の山下さんと、バスケ経験者のニコが有無を言わずに選ばれていた。

どう考えてもやりにくい試合だと男子は誰もやりたがらず、中々選抜選手が決まらない。しびれを切らした猛獣使い、訂正、手塚先生が、お前とお前とお前と適当に指さしされて選ばれたのが慎一だった。

「何、怒ってんだ」

「笑った。」

「プ、やっぱりバレてた?」

クラスの声援の中、コート真ん中で並んだ男子の選抜と女子の選抜。背の高いバスケ部の3人とバレー部に取り囲まれて、他のメンバーの肩までしかない小さいニコを見て、思わず吹き出しそうになった。手塚先生に真辺もメンバーに入れと言われた時は、やる気がなさそうに困った顔を柴崎に向けていたのに、慎一の耐えた笑いに気がつき、その負けず嫌いな競争心に火をつけてしまった。  

「その笑い、泣きに変えてやる!」

「よく言った真辺!さぁ、気高き女戦士たちよ、猛者どもをやっつけろ!」

ニコの宣言と先生の掛け声でクラスが、いや、女子だけがわぁーと盛り上がり、ゲームが始まった。

なんだこのノリ、ついていけない。

ゲームは当然のことながら、女子有利に事が運ぶ。当たり前、不可抗力とはいえ女子の身体をむやみに触るわけにもいかない。

接戦するとどうしても一歩躊躇する。それに加えて女子は遠慮なしに向かってくる。ニコなんかは、その小さい身体を利用して、ちょこまかと隙間をぬって、こぼれ球をうまく拾い、素早くパスを回していく。

「くそー、やりにくい。」

「もう泣きか?早すぎて、つまらん。」ニコはにやりと挑戦的な顔を慎一に向けた。昔と変わらない、何でも競い合ってきた時の顔だ。慎一はこのに悔しくて勝ちたくて、いつも必死に練習した。そして再度ニコに挑み。慎一が勝てば今度はニコが悔しがる。そうした競争相手の関係だった。

「手加減してんだ、女相手に本気を出してどうする。」

「ほぉー、さつきのくそーはなんだ?。」

運動量の割に涼しい顔を向けてくるニコに本気で悔しいと思った、子供の頃以来の感情だ。

その悔しいは慎一だけじゃない。最初は女相手にやりにくいと乗気じゃなかった男子選抜も、開く点差にいつしか焦りが本気のやる気に変わっていった。そして時間と共に、女子の体力がなくなっていき、開いていた点数が狭まり、いいゲームの様相になって来た。

応援のクラスメートは、今は男子女子関係なく声援を送っていて、ゲーム終盤、盛り上がりに体育館が沸いていた。

選手は、男子も女子も、息を切らし始め、余裕がなくなって来た頃、それは起こった。

バレー部の山下さんがゴールを決め損ね、バウンドしたボールをジャンプで取ろうとしたニコと、同じくそれを取ろうとした男子の木村が空中でぶつかった。身体の小さいニコは、木村の勢いに吹っ飛ばされる形で着地したが、汗が落ちて、ぬれた床に足をすべらせ、派手な音をたてて、後頭部を打ち付け、倒れた。

倒れたまま、動かないニコに誰もが息をのんだ。

「ニコ!」

近くで観戦していた柴崎が駆け寄る。審判をしていた先生も慌てて駆け付ける。

覆いかぶさるように心配している柴崎をニコから離すと、心臓に耳を当て鼓動の確認と、閉じている口をそっと開けて、呼吸の確保をする。その光景をクラスの連中が取り囲んで心配をする。

また、頭を・・・。あの夜に怪我した傷跡が、乱れた髪の合間から見えてしまっている。

「ニコ・・・・」

「動かすんじゃないぞ!」

「真辺、聞こえるか!」



        

扉の向こうから呼ぶ声、

ニコ、ドウシテ、ニコ、ドウシテ、パパカラ、ニゲタ。ニコガニケダカラ。パパ・・・ハ  シンダンダヨ。

ニコ、ドウシテ、ソノテヲフリハラウ・・・・・パパと。。イッシヨニ。。シノウ。

えっ? どうしてニコ?            





先生はジャージのポケットから携帯を取り出し、救急車を呼ぼうとする。

慎一は頭の傷跡を皆に見られないように、髪の毛を寄せようと手を伸ばした。するとニコの目がパッチリと開き、ニコは身体を起こした。慎一も柴崎もびっくりして、先生は救急車を呼ぶのをやめて、膝まつく。

「大丈夫か?気分は?頭痛は?吐き気は?」

ニコは、周りの状況を確認して、なぜ、そんな事を聞かれるのかわからない不思議な顔をして、それでもありませんと答える。

「はぁー、ひやっとしたぞ。」と手塚先生が息を吐く。クラスメートもほっと一息つき、緊張をほぐす。

「立てる?」柴崎が手を差出し介添える。

「ごめん、真辺さん、俺、見てなくて。」

自分のせいでニコが倒れたと同様している木村が慎一にまで、謝ってくる。

「本当に、大丈夫?」

「な、何が?よ、良くわからないけど、大丈夫。」

「真辺、念のため行くか?病院」と言う手塚先生の心配も激しく首を振って「行きません。」と拒否する。

「大丈夫そうだな。ゲーム終了だ。ちょっと早いが、ストレッチ後、モップ掛け!念入りにな。」

そう、先生が皆に指示を出す中、ニコが皆とは違う方向に歩き出したから、どこへと声をかけた。

「顔、洗ってくる。」

柴崎がついていこうとするのを、藤木が止める。

「俺が付いていくよ。お前、木村のフォーローしてやれ。」

まだ慎一の横でオロオロしていた木村の方が、ニコよりもショックを受けている。

   




水が冷たい、夏とは違うこの水温の変化に、秋が来るんだなと気づかされる。

どこまでも追ってくる声は終始頭の中を巡っている。だから、眠りたくなかったのに。

さっき、私は眠っていた?何故?しかも私を呼ぶのは、ニコ。どうしてりのじゃない?

「ニコちゃん大丈夫?」

藤木がタオルを持ってきてくれた。顔を洗ってくると言って出てきたのに、タオルを持ってくるのを忘れている。

藤木の気づかいが、自分の無頓着さを気づかされる。

「ありがとう。藤木・・・私は、どれぐらい寝てた?」

「1分もないと思うよ。」

「1分・・・」

「ニコちゃん、約束覚えてる?ちゃんと見てるから、ダメなときは、ちゃんと言うからって。」            

覚えてる。桜の花びらが散る進級式の日、私は藤木に尋ねた。私は皆が、そばに居ないとダメな人間か?と、

去年の秋から、自分の記憶に自信がなくなった。りのとニコが交差する記憶、いつの出来事なのかわからなくなっている。その都度、時系列を必死で正そうとしたのだけど、うまくいかない。

3年のクラス替えで4人とも同じクラスになった。どう考えてもありえない組み合わせで、柴崎が裏から手を回したとしか思えなかった。何故か学園は、私を特別扱いする。それも嫌だった。特待だけでも十分の特別なのに、さらに上乗せされている。夏のアルバイトの斡旋はありがたかったけど。だけど、その甘さに浸れば、私はいつまでも弱いまま。不安が次第に大きくなった。どんなに強がっても、私は過ぎ行く記憶に自信が持てない。

そんなに私は、4人に守られていないとダメな生活を送っているのだろうかと。自分の行動を思い起こそうとしても、その記憶があいまい。慎一には聞けなかった。柴崎も。心配をさせてしまうから。

藤木なら、的確に教えてくれる。

桜の花びらが舞う花壇に腰掛けて、私と藤木は慎一と柴崎を待っていた。

「覚えてる。」

「駄目じゃないけど、おかしいよ、最近のニコちゃん。」

藤木が笑わない。

おかしい?私が?

そんなはずはない。

ママと引き換えたりのは、もういない。

だから頭の中は、りのとニコの記憶が交差しないで、こんなにもクリア。

おかしくなんかない。

「ニコちゃんが見えない。」

藤木の言っていることがわからない。

ニコが見えない?

りのじゃなくて?

      




モップをかけ始めた慎一は、藤木がニコの後を追いかけた事が気になり、近くにいた今野にモップを預けて追って体育館を出た。

藤木の声が聞こえる。約束?下駄箱の影で足を止めた。ニコと藤木が何かの約束をしているなんて聞いていない。

ダメなときはちゃんと言う?一体なんの約束か見当もつかない。

「駄目じゃないけど、おかしいよ、最近のニコちゃん。」

慎一は怒りが沸き上がった。また言ってる。これじゃ、まるで、ニコをおかしくさせたいみたいじゃないか。ニコのどこがおかしいと言うんだ。慎一は二人の前に出て行って藤木の腕をつかみ振り返りさせる。そして胸倉をつかんだ。この間の逆だ。

「藤木!お前っ一体何をニコに言ってんだ!」

藤木は細めた目で俺を見る。また、こいつは俺の心を読んでいる。

「新田!」柴崎もまた様子を見に追いかけてきた、今の状況に驚いて、叫んだ。

「お前が、言ったんだろ、俺たちの心配がニコを阻害するって、お前のそれは何なんだよ。ニコに変な事、言うな!」つかんでいた胸倉を突き放すように押す。

「ちょっと、何なの!」柴崎が慎一と藤木の間に割って入るも、藤木は慎一への視線を外さない。

藤木の本心を読みとる能力に、いつも教えられて助けられて尊敬していた。羨ましいとまで思っていた。

だけど、今はそれが鬱陶しい。こいつのそばに居たくない、はっきり嫌気を認める。

「来い、ニコ!。」慎一は立ち尽くしているニコの手を引き、藤木から離すように体育館へと戻る。

「ちょっと、新田!えー藤木?」

訳のわからない柴崎だけが、その場でオロオロとする。

つまんないと変な期待をしていたくせに、実際にそうなると何もできないじゃないか。

    

    

扉の向こうから呼ぶ声は、昼も夜も聞こえる。死の世界からの誘い

  リノ、ドウシテ、ニゲタ、リノ、ドウシテパパカラ、ニゲタ。リノガニケダカラ。パパ・・・ハ  シンダンダヨ。

  リノ、ドウシテ、ソノテヲフリハラウ・・・・・パパと、イッシヨニ、シノウ。   

その声は、消せない記憶を楔打ち 眠りを妨げる。罪を償えと

逃げられない。パパはりのを迎えに来る

ごめんなさい。

パパ、りのは逃げないから。

でも待って、もう少し。ママが戻ってくるまで。


ママが倒れた日、眠れなかった。

次の日から無理に寝ないでいたら、どんどん頭が冴えて調子が良い。

なんだ、何もかも逆だったんだ。

去年はあんなに、眠りたいと薬に頼った毎日だったのに。

北風に太陽だ。

眠れないのなら、無理して寝ないでいい。

逃げられないなら、無理して逃げなくていい。

呼ぶ声があるなら、その声に耳を塞がず、聞けばいい。

差し伸べられる手があるなら、その手を掴むまで。

明日はテスト初日、眠らない夜は5日目、

苦手な社会の知識を頭に埋めていく、

たっぷり時間はある。朝まで。


 

 

 

テスト初日、社会、英語、理科の3教科のテストを終えて、午前中に学校は終わる。テスト日は学園の食堂が休みで、亮たち寮生には寮に仕出弁当が用意されていたが、新田との諍いを見た柴崎は、その理由を知ろうと、帰り支度をしている亮を捕まえて「テスト勉強を付き合って、昼ご飯、奢るから」と言った。話を聞きたい魂胆はまるわかり。

柴崎は、駅前で亮を強引にタクシーに乗せて走らせた。告げた行先は、相模湾の海沿いの都市平塚市、つい先月、新しいショッピングセンターができたとニュースでやっていて、日本初上陸の高級ハンバーガー店が注目されていた。柴崎は行ってみたいと話していた所に行くつもりだ。平日の昼間ということもあり、ショッピングセンターはさして混雑はしてない。その目的のハンバーガー店もオープニングの混雑は落ち着いたのだろう。数分の待ち時間ですぐに空いた席に座ることができた。

柴崎が、バーガーのオーダーをしている間に、亮は寮に電話して、昼ご飯のキャンセルと外出の許可を取る。

周囲は子連れの若い主婦やOLさん、サラリーマンといずれにしても若い客層。漁たちのように制服姿の女子のグループやカップル。

いずれも知らない学校の制服で、もちろんのこと常翔学園の生徒は居ない。

とりあえずの腹ごしらえをしても、亮からは事情を話さない事にしびれを切らした柴崎が、

「私だけ、仲間外れ?」そう言って切り出した。

「なんだよ、仲間外れって、言葉のチョイス、変じゃないか」

「だって、ニコに聞いても、わからないって、はぐらかされたし。新田はずっと怒っていて聞ける雰囲気じゃないし。」

「一体、何があったの?あんた、ニコに何を言ったの?」

柴崎のまっすぐな目が突き刺さる。

〈ニコを傷つけたら、いくら藤木でも承知しないわよ。〉と読めた。

「何も・・・傷つけるような事は言っていない。」

「だったら、なぜ新田は、あんなに怒ってるの?」

「・・・・・」

「ここまで来て、だんまり?」

「ちょっと待ってくれ。何から話していいか整理が、ついていない。」

柴崎は、ニコちゃんのお母さんが倒れたことを、まだ知らない。亮が心を読んで不愉快にさせてしまってから、新田は柴崎に言うのを忘れている。というか、ニコちゃんに言っていいかどうか確認を取る事すら忘れてしまっている。ニコちゃんが柴崎に言わない事を、自分から言って良いものかどうか迷っている。前回の事がある。柴崎の心配し過ぎが、今回どう影響するか予想が付かない。

いや、今回は必要か?柴崎の度を超えた心配が。わからない。

はじめて、能力が発揮できない事に不便だと感じた。

こんな能力など要らないと、出来ることなら使わない方がいいとセーブしていたつもりだったが、いつの間にかこの能力に頼りきっている事を思い知らされた。

読めないと、こんなにもわからないことだらけで、判断もできないなんて。

長く黙っているのを柴崎が、辛抱強く待っている。

「柴崎、最近のニコちゃん、どう思う?」

「はぁ?」長い沈黙の割には予想と反した質問だったんだろう、柴崎は半ば呆れた素っ頓狂な声を発する。「どうって?」

「気づかないか?違和感を。」

「違和感?」

「ぁぁ。学校を休んだ前と後と、ニコちゃんが変わった感じしないか?」

柴崎が首をかしげて、真意を探ろうとしてくる。

「休んだって、この間の?」

「あぁ、休んだ理由をお前に話す前に、客観的な視点が知りたい。」

「休んだ理由って、定期検診じゃないの?」早く理由を聞きたい気持ちを抑えて、亮の質問に答える。

「休み前と後ねぇ。調子いいなと思ってたけど、給食も最近は残さず食べて・・・良く笑うようになった。この間は、野球部の二人がニコに数学教えてと言ってきて、ニコ、逃げもせず教えていたわ。キャンプ以降、ニコもクラスに目を向けるようになっていて、馴染もうと努力してるんだなって、ニコ自身もこのクラスで良かったと言ってた。」

「・・・・・・」

「何んなの?」

柴崎にすべてを言う決心をする。ここまで来て、言えないとは言えない。ニコちゃんに嫌がられるかもしれないが、柴崎に拗ねられて、ややこしい事になるよりはマシだと判断した。

「ニコちゃんのお母さん、今、入院していると知ったら、お前はニコちゃんの今の調子の良さをどう見る?」

「え?うそっ!」            



扉の向こうから呼ぶ声は、昼も夜も聞こえる。死の世界からの誘い

  リノ、ドウシテ、ニゲタ、リノ、ドウシテパパカラ、ニゲタ。リノガニケダカラ。パパ・・・ハ  シンダンダヨ。

  リノ、ドウシテ、ソノテヲフリハラウ・・・・・パパと、イッシヨニ、シノウ。   

その声は、消せない記憶を楔打ち 眠りを妨げる。罪を償えと

逃げられない。パパはりのを迎えに来る

ごめんなさいパパ、りのは、逃げないから。でも待って、もう少し。

ママが戻ってくるまで。もう振り払わずその手を掴むから。




     


もしかしたら藤木の眼が正しいのかもしれないと不安がよぎる。だけど、そんな事はないとすぐに、振り払った。

掲示された常翔学園恒例の、中間テスト成績順位表の前で慎一は立ち尽くして、この状況をどう解釈するべきなのかを考えた。

いや考えるほど頭は動いていない。呆然としていただけ。

ふと、気づくと、ざわざわと真辺んさんと囁く声が、あちらこちらから聞こえる。

1、真辺りの 1000/1000点    

2 小林信也 906/1000点   

「頑張ったな。英語。補習なしだな。」ニコは周りのざわめきと注目を気にもせず、慎一の英語の点数の感想を述べ、微笑む。

「いや・・・・ニコ、お前。」

その、微笑みは、ニコニコのニコ、幼き頃の物と同じ。どうして笑わなくなったんだと悲願したあの頃から、切に望んだ笑顔。

やっと、この笑顔を見られるようになったと喜んでいいはずなのに、なんだ、このジワリと沸いた不安は。

いつもニコは、掲示板の前に長くはいない。特に、貼り出された直後の生徒数の多い時は避けている。

トツプであり続ける特待生に感嘆の声だけじゃなく、嫉妬の声も入り混じるからだ。

それが今日は、朝練を終えて校舎に入ると廊下の掲示板の前にニコの姿があった。慎一の姿を見つけると、笑顔で駆け寄ってきて、

珍しく慎一の英語の点数を褒める。ニコは慎一の点数を褒めたことなんか一度もない。

5教科すべて満点、驚異の点数をたたき出したニコは、その偉業を褒め称えるどころか、今は、奇異の視線にさらされている。

中には、試験問題を知ってたんじゃないか、そこも特待の特別待遇じゃないかと批判する声もある。

今回のテストは、全体的に難しかった。2位の生徒との点数を見ての通り、ニコとの差は100点近くある。平均点も前回よりずっと下がっている。

藤木の、『あれのどこが普通だよ!』の声が頭によみがえる。

いやいや、普通だ。すぐにその声を振り払う。そう、ニコは頑張っていた。新田家では勉強しにくいと一人自宅で。

そんな努力を知らない者が勝手な事を言うんだ。

廊下の奥から、柴崎と藤木が並んで歩いてくるのが見えた。

「ニコ、教室いくぞ。」

「まだ、柴崎と藤木の見てない。」

「後にしろ。」

ニコを腕を引っ張り、とりあえず奇異の目から離すことにした。




藤木と、顔を見合わせた。驚きでお互い声が出ない。普通ならニコに駆け寄って抱き合って喜ぶところ。

でも一昨日、聞いた藤木の話を考えたら、麗華は素直に喜べない。

『ニコが完璧に心を閉ざしているって、どうして?』

『やっぱりな、お前は新田と同じで、ニコちゃんの事になると思考が止まる。だから、俺はお前に言うのをためらったんだ。』

『・・・・・・』

『ちょっと考えたら、わかる。』

藤木の指摘にちょっと恥じる。残っているオレンジジュースを一口飲み、喉の渇きを潤す。

『おば様が倒れたのは、仕事による過労』

『救命救急の看護師なんて、中々なり手がない上に激務だ。』

『夜勤も多いわね、家庭の事もして、大変だわ。自分のせいでおば様が倒れたとニコは思い込んだ。』

『うん、今年は修学旅行から始まって、親にお金の負担=仕事の負担、をかけているとニコちゃんは自分を責めていた。』

『はぁー。どうして、こうニコばかり、神様は試練を与えるのかしら。』

『ニコちゃんだけの試練じゃないのかもしれないな。俺たちも試されているのかも、お前達は真辺りのをどう助けるか?と』

珍しく、神妙な言葉を持ち出した藤木、人の本質を見抜く藤木は、神や祈りだのと言った目に見えない物を全く信じない。

占いの類も一切信じないので、麗華とニコが雑誌の占いのコーナーを読んでいると、そんなのは占い師が金儲けの為に適当に書いているだけだ、と冷めた事を言う。

『でも、おば様が倒れたのを自分のせいだと思い込んで、どうして私達に心を閉ざす必要があるの?』

『そこだよ。それが読めないから、困っている。』

藤木は、ニコの心が読めない事に焦ったという。その読めない事自体が非常事態なんだと。

麗華は藤木の焦りに、半分ぐらいしか同調できなかった。

ニコは調子がいい。そこもまた、新田と同じだと言われてしまった。


5教科満点のニコの成績を見つめながら、麗華は、藤木の言う通り、非常事態なのかもと思う。

学園の歴史の中で、凱兄さんしか成しえなかった5教科満点偉業を、ニコもやってのけた。いや、凱兄さんが5教科満点を取るのと一緒にしてはいけない。凱兄さんは一瞬で紙面の活字を記憶できる特殊な脳をしている。だからほぼほぼ、カンニング近いと凱兄さんは謙遜する。それを考慮すれば、ニコは学園の歴史の中で、初めて実力で5教科満点の成績をとった事になる。

いや、それとも、ニコには私達にはわからない凱兄さんのように特殊な能力があるのだろうか?

常に努力している姿を麗華は見てきた。だからやっぱりそれは実力で、苦手の社会も、頑張ったんだと考える。

だけど、おば様が倒れたこの時期に勉強に力が入るかしら?

いつだって、夜も昼も働く母の身体を心配してたニコが。

自分なら考えられない、お母様が倒れたら、勉強など手も付けられない。

麗華は、藤木と並んで、ニコがクラスメートに囲まれて賞賛されている姿を、遠くから眺めた。

   



5教科満点の脅威の成績を収めたニコちゃんは、いつにもまして、明るくなった。

相変わらず、心は読めないけど、そんな表むきの変化だけはわかる。

テストが終わり、学園祭の準備が本格化する為、学園全体が浮足立つ。ニコちゃんの明るさは、その雰囲気に押されているのもあるのかもしれない。

辛い記憶を消すほどに、沢山の楽しい記憶をニコちゃんと作ろう。と、ニコちゃんが記憶を無くした夜に誓い合った望みが今、そこにある。ニコちゃんの笑顔は、そんな亮達の達成の証ともいえる。

ニコは強くなった。元に戻ったんだと喜ぶ新田の本心を読めば、

素直にそうだ、その通りだと、思いたい。が、やっぱり心を閉ざしたままのニコちゃんでは、完全には信じられない。

笑顔が増えたニコちゃんは、皆がその魅力に引き寄せられる。

今も、体育祭の打ち合わせで話し合うクラスの皆と、脱線した楽しい会話の中で笑っている。

亮は、新田と体育館前で言い争った時から、いやそれよりも前、通用門前で新田の心を読んだ日から、まともな会話をしていない。一週間になる。新田は怒っている。当たり前だ。心を読まれて、平気な奴はいない。

この能力を嫌がらない柴崎にさえも、ストレートに言ったことはない。その辺は気を付けている。

読んだ本心をを利用するときは、相手が自分で気づくように遠回しな言葉を選ぶ、時間がかかるが、それをしないと、新田のよう傷つき、嫌悪し、人は亮から離れて行く。

そうして気を付けていても、亮に告白をしてきた彼女たちは、亮の能力に感づき、不信感をを抱いて去っていく。彼女たちも亮のどこが嫌なのかわからないまま。なんとなく合わない気がするという別れの言葉に、気持ち悪いと言う感情を隠して。

お互い、心を許すようになればなるほど、彼女たちの心の奥底に亮に対する不愉快さが芽生える。

そうするとあぁ別れが近いなと諦める。いつしかそのサイクルに慣れっこになった。それを考えたら、柴崎はある意味、貴重な存在だと改めて思う。

新田との関係がこのまま修復できないでいたら、全国優勝は無理だろう。どんなに謝ろうとも許してはもらえない。

親友と慕ってくれる大事な友達に、やってはいけない事を、やってしまったのだから。



ママが帰って来た。扉の向こうから、りのと引き換えに。

声も聞こえない。

ニコは笑う。ニコニコのニコだから。



さつきおばさんが退院した。これでとりあえず安心。ニコは長い夜を一人で留守番することはなくなる。

検査の結果も、何も悪い所はなかった。ただの疲労。この先、しばらくは勤務のシフトを昼だけにすると言う。

慎一はクラブ活動を終えたその足でニコの家に寄り、晩御飯の手伝いをしていた。ニコは今日、クラブに行っていない。

さつきおばさんの様子を見て、しばらく休むつもりでいるらしい。

「さすが、秀治さんの息子ね。手際がいいわ。」さつきおばさんが、慎一の包丁さばきを見て感心する。

「家庭料理だけだよ。俺が作れるのは。フランス料理なんて無理だから。」

「十分よ。啓子はうまく育てたわね。」

「いやいや、育てたというより、ほったらかしだったから、作れるようになったんだって。母さん、いい加減だから。おばさんと母さんがどうして親友なんだろうって、いつも不思議だよ。」

「フフフ、ほったらかすのも、勇気がいるものよ。親としては。」

「そうかな?」

病院食は和食中心の味気のない物だったから、洋食が食べたいと言ったさつきおばさんの希望をかなえるべく、ニコはハンバーグを作ろうとして買い物に行ったらしい。食材は揃っているけど、慎一が来た時点で、手伝う気持ちは全くなくしたように、ダイニングの椅子に座って本を読み始めた。  

「りの、さっきの意気込みは、どうしたの?りのが作るって、りのが買い物に行ってくれたんでしょう。」

「慎一が奪った。」

「悪かったな。」

「一緒に作ったら良いじゃない。」

「嫌だ。」

「じゃ、代わろうか?俺、帰るから。」

「途中で投げ出すのか?最低だな。」

「これ、りの!ごめんね慎ちゃん、学校でも、こんな口調なの?りのは」

「まぁ。まだマシなほ・・・」ニコのきつい視線が思いっきり背中に突き刺さってくる。

目を合わさないように、ミンチ肉を冷蔵庫から取り出そうと開けた時に見つけた。

「プリン・・・ニコぉ。」ちゃっかり買って来てる。振り返ったら、目をそらされた。

「退院祝い。」

「誰を祝ってんだ!」

「なぜ慎一は、いつもプリンを怒るんだ!」

「お前がプリンばっか食べて、ちゃんとご飯を食べないからだろう!」

「食べてる!」

「あんな少量で食べてるとは言わん!」

「お前が食べ過ぎ!」

「ニコは食べなさ過ぎ!だから、身長、伸びないんだろう!」

「うるさい!馬鹿の大食い!」

「辞めなさい!二人共!。」さつきおばさんの叱りが入る。でもおばさんは、すぐに笑い始めた。

「懐かしい、昔と変わらないわね、二人共、何かと衝突しては、どっちも引かないの。良く叱ったわね。」

母さんも同じような事を言っていた。

去年のニコの誕生日パーティの時だ。あの時もプリンの話だった。俺たちは5歳の頃も、去年も、今も、ずっと変わらない。

そう、何もおかしい所なんてない。

二人の母親が、「懐かしい、変わらない」と言っているのだから、間違いはない。




ニコは笑う。ニコニコのニコだから。

ニコは怒る。慎一の言葉に。

りのは、どこへ行った?



「行ってらっしゃい。今日はクラブにちゃんと行きなさい。ママはもう大丈夫だから。」

「うん。行ってきます。」

あまり行く気はないけど、ママがそう言うのだから仕方ない。

弓道は面白い。昨日、当たった的に、今日は何故か当たらない、そういう事がよく起こる。きれいな姿勢を保つために、意外と身体の筋力がいる。腕力、腹筋、背筋、脚力、それらを鍛えても、的に当たらないのは、集中力が足りないから。

集中力は、筋トレのように中々鍛えられない。

弓道部の部長である滝沢さんと合宿前に、最後に物を言うのは、集中力と精神力。それを鍛えるには何をどうすれば向上するか、それを合宿での練習テーマにしようと、いろんな案を出し合った。お寺で座禅、掃除、写経、なぜか、出てきた案が、全部お寺に関するものだったから、合宿場所は理事長の知人の京都のお寺でお世話になる事になった。弓道場にはマイクロバスを借りて移動した。はじめての京都の街並みを見るだけでも新鮮だった。

ただ、お寺の食事が精進料理で、全く味のない物ばかりで、美味しくない。食べずにいたら、これも修行のうちだと皆で指摘され、完食するまで席を立たせてもらえなかった。泣きながら食べたら、小学生みたいだと後輩にまで笑われた。

帰ったら食べなくても生きていける方法を探そうと誓った。

グレンと別れて、暇になった時間を利用して、学園の図書館で調べた。図書館の本を調べつくしたが、出て来る物はダイエット物ばかり。あったと思ったら、本当かどうかわからない都市伝説級の物で、何十年物を食べていないと本人が言っているという公言だけで、方法や検証のない物ばかりだった。こうなったら、ネットで調べようとパソコンルームに行ったら、えりちゃんと、えりちゃんの彼氏、黒川君が居て、ちょうどいい、プロに頼のもうと、事情を説明したら、えりちゃんと黒川君に大笑いされた。笑う事じゃない、私は真剣だった。

食べないで生きていけるなら、こんなに楽な事はない。慎一に監視されなくて済む。

しつこく笑いながらも検索して出してくれた黒川君。

多数の情報の中に、アメリカのNASAの科学研究チームが出した文献ががあった。

ある人が130日間、水のみと太陽の凝視で生きている実証記事。NASAだから信用もある。

これだと思って次の日から実践したら、えりちゃんから聞きつけた慎一が、弓道場まで駆けつけて来て、馬鹿かとののしられ、

新田家で用意したサンドイッチを、その場で無理やり食べさせられた。

おかけで、私は弓道部の皆に、いい笑いものされて、慎一のみならず弓道部の皆からも食事を監視される始末になった。

事あるごとに、今日はちゃんと給食を食べたかと顧問にまで確認される。うんざりだ。

そんな事があって、顧問がいる弓道部には、あまり行きたくない。全国大会に向けて練習をしないといけないのだけど。

植物のように、人間も光合成出来たらいいのに。とバスの窓から、空を見上げた。寝てない目には太陽の光は痛い。まぶしさで目をつぶると、眩暈もする。夏とは違って、空が遠くなった。秋の空、もう季節は秋だ。

そうだ、今度は人間が光合成出来る方法がないか調べてみよう。今度はえりちゃんに見つからないように、自分でPC検索しなくちゃ。

プライバシーのない新田家はホント、困る。



ニコは笑う。ニコニコのニコだから。

ニコは怒る。慎一の言葉に、

ニコは困る。新田家に。


扉の向こうから呼ぶ声、

ニコ、ドウシテ、ニコ、ドウシテ、パパカラ、ニゲタ。ニコガニケダカラ。パパ・・・ハ  シンダンダヨ。

ニコ、ドウシテ、ソノテヲフリハラウ・・・・・パパと。。イッシヨニ。。シノウ。

えっ? どうしてニコ? りのは、どこへ行った?


「・・・・・コ・・・・・」

「ニコ・・・・・起きて・・・・」

誰?ニコは起きてる。

「真辺さん!」

「!」

先生の声にびっくりして我にかえると、クラス中の視線が私に向けられていた。

「真辺りのさん!いくら勉強しなくてもわかるとは言え、寝てるとは、どういう事ですか?」

え?寝てた?私が?寝なくても大丈夫なのに?

「そんな態度では、特待生として皆に示しがつきません。考え物ですね。」

「す、すみま、せん。」

良くわからないけど。叱られているという事は、私が悪いのだろうと、とりあえず謝っておく。

「では改めて、98ページを真辺さん、皆さんのお手本として、朗読してもらえるかしら。」

「は、はい。」

私は慌てて、英語の教科書を手に持ち、席を立つ。昨日の時点で、一つの単元が終わったから、今日から新しい物語英文が始まる。

はじめて読む英文をいつも、私にお手本として読ませるこの先生、私を利用する割には、私の存在が嫌いそうで、授業中は絶対に私の方を見ない。私は、98ページの教科書に書かれてある文頭に目をやる。

「・・・・・・・・・・・・・・」

あれ?声が・・・・出ない!。

「98ページですよ。まだ頭は寝てるのですか?」

クラスのざわめきと、くすくすと笑う声。

英語を発音しようとすると、口を開けても声が出ない。なぜ?

手が震えた。こういうの、昔もあった・・・・え?いつ?

「真辺さん?どうしたのですか?」

早く、読まないと・・・・・

「・・・・・・・」

おかしい、私はまだ寝てるのか?

声が出ない。どうなってる?

クラスのざわめきが大きくなる。

怖い。皆が私を見ている。

「す、すみま、せん」

声が出た!今だ、読むんだ。英語で。

「・・・・・・・っ・・」

え?英語だと声が出ない?

「あ、の・・・・き気分が、わ悪いので・・・ほ、保健室、い行き、ます。」

皆の視線が怖い、皆が私の事を囁く声が怖い。

その視線に、その声に逃げるように、教室を飛び出した。

「あっ、ちょっと真辺さん!?。」

「ニコ!先生!私ついていきます。」




通路挟んで、隣の席の位置からでも、寝ていることがバレバレだった。珍しい。

去年の今の時期、眠れないと目の下にクマを作っていた時期でも、ニコは授業中に寝る事はなかった。休み時間や昼休憩の時に、少しウトウトするぐららぃで。特に英語の好きなニコが英語の授業で寝るなんて、どうしたのかしらと思った時に、先生はニコを指名した。

この先生は、帰国子女の、いつも英語のテストが満点を取るニコの事が嫌いだ。自分の立場を脅かされるとでも思っているのか。ニコに対してあたりがきつい。その割には発音のお手本として、いつもニコを利用する。イケメンの男子にだけには優しかったりして、依怙贔屓が目につくから生徒の中でも人気のない先生だ。

あぁ、ニコが先生に嫌味を言われている。ニコは黙ったまま。特待うんぬん言われて怒ったか?ニコは怒るどころか、目を見開いて驚いた表情で固まっていた。何?

教科書に何かある?

何もないただのハリーポッターの抜粋文。教科書を持っている手が震えている。

「あ、の・・・き気分が、わ悪いので・・ほ、保健室、い行き、ます。」

ニコはやっとのことで声を絞り出すと教室を飛び出した。

藤木と新田の心配げな顔が見えた。二人はニコの顔を見れない位置に席がある。

「ニコ!先生、私ついていきます。」

先生の了解を待たずに、私も教室を飛び出した。あいつは私には何も言えない、私は理事長の娘だから。

何を言っても、何をやってもこの学園に居る限り私は許される。藤木の言う大嫌いだった頃の私だ。

いいの今は、ニコが心配だから。

ニコはどこへ行った?

とりあえず、保健室方面へ向かう。

ニコは保健室に行くまでの1階の廊下で壁に左手を壁に支えて、右手は首元に手を当てて俯いている。喉がおかしいのかしら?

駆け寄って、顔をのぞくように声をかける。

「ニコ、大丈夫?」

「大丈夫・・・・・少し気分が悪くなっただけ。給食、食べ過ぎたかな」

視線をそらしながら言うニコ、2年も親友をしていたらわかる。それが本当じゃない嘘つくときのしぐさなのを。

ニコは自分の事を語りたがらない。だから、私達も無理には言わせない。ニコから言うのを待つ。

それが私達のニコに対する心遣い。

「トイレ行く?」

「大丈夫。保健室で休む。」

「じゃ行こう。歩ける?」




   ニコは笑う。ニコニコのニコだから。

   ニコは怒る。慎一の言葉に

   ニコは困る。新田家に。

   ニコは戸惑う。声が出ない事に。



 

ニコちゃんが、また英語の授業に出ない。珍しく授業中に寝ていて、先生に怒られ、気分が悪いと教室を飛び出した日から、今日で3回目。常翔学園は英語教育に力を入れている為、毎日英語の授業がある。ヒアリングの時間も設けてあるから、視聴覚教室でのリスニング授業及び外国語教師の英会話の授業を含めると週7時間であり、火曜日と木曜日は英語科目が2時限と重複する。英語の苦手な新田は地獄の火曜日と木曜日と言って、ことある事に愚痴を言うのが恒例だ。

昨日の視聴覚教室の授業に、ニコちゃんは出席していた。だけど、ついさっき、英語教師に会議室に呼び出されて、注意を受けていたと、柴崎から聞いた。経営者の娘である無敵の立場を利用して盗聴した情報は、昨日のリスニング翻訳を白紙で提出したと聞いた。

増してコちゃんの行動がわからなくなってきた。英語の得意なニコちゃんが、何を思って白紙で提出するのか?

この間、先生に特待うんぬんを言われて怒った抵抗か?そう考えたけど、そんな低レベルの抵抗をするだろうか?

英語教師に嫌われ、特待の査定に×をつけられたら、ニコちゃんはここを去らなくてはいけない。ニコちゃんがそれを望むはずがない。亮は柴崎と共に、ニコちゃんの行動に首をかしげて不安を募らせるだけしか出来なかった。

そして、今、3時間目の英語の授業、ニコちゃんは席に居ない。さすがの新田も、このニコちゃんの行動に不安の色を出し始めている。無理もない、あの日が近づく。新田は治った、主治医も太鼓判を押していると言うけれど、心の中ではヒヤヒヤしている。

ニコちゃんのお父さんの命日。去年も亮達3人は、その日をヒヤヒヤとしながら、ニコちゃんを見守り過ごした。

「真辺さんは?また保健室?具合悪いの?大丈夫かしら」

ニコちゃんの事が嫌いなこの先生は、言葉では気遣っているが、その心の中では、腹黒いものが渦巻く。

(サボってるのね。どうせつまんないんでしょうよ。私の授業なんか。やりにくいわ。あの子がいるこのクラスは。どんなに難しくテストを作っても、満点だし。まぁ、いいわ、居なければ、授業はやりやすいし、このままサボりが続くようなら、特待の査定に×をつけて落としてやれば、あの子はこの学園に居られなくなる)そう、読み取って、亮は顔をしかめた。反吐が出る。最低だこいつ。

しかし、まずいな、これ以上は、英語の授業を休ませないようにしなければ。

だけど、原因がわからない。あのくそ教師の本心は手に取るようにわかるのに、ニコちゃんのは全く読めない。

ニコちゃんに直接、訳を聞くことも考えたが、あれ以来、亮がニコちゃんに近づくのを新田は警戒している。

柴崎に頼むしかないか。しかしながら、ニコちゃんが柴崎に心の内を言うとは思えない。頑固なニコちゃんを説得できるかどうか。二人はお互い大切な親友だと本当に思っている。だからこそ、その関係に上下はなく、同等ゆえに、相手を困らせないようにと気遣う。

柴崎と同等を保ちたいからこそ、ニコちゃんは柴崎には助けを求めない。だから亮がその繋ぎを担ってきた。4人の中では一番、他人的な関係と言える。亮が本心を読むことで、けして縮まることのない距離。





ニコが、おかしい、英語の授業に出ない。これで3回目、一応、警戒はしていた。昨日も英語の時間直前になって保健室に行くと言いだした、具合が悪いのかと聞いたら、そうだと、いつもは、どんなに具合が悪くても違うと言うくせに。具合が悪いから保健室で寝ると言った。手で熱を測っても冷たい額。まさか、また夜眠れないのか?と聞いたら、それは大丈夫だと言う。嘘をつく時のしぐさは見せなかったから、安心して信用した。ハンバーグを作りに行った日に、薬の袋は見当たらなかったし、目の下のククマもないし、顔色もいい。心配する要素など何もないはずなのに。だけど、なぜニコは英語の授業を避ける?英語は笑って話せる語学なのよと、フィンランドに移り住んた時に先生に言われてから、大好きになった英語。日本の授業が、ニコにとって幼稚な授業だとしても、日本語の社会よりも断然いいと言っていた。なのに。

今日もチャイムがなった直後、そっと出ていってしまった。追いかけようとしたけれど、先生に見つかり、席に着く。

また、藤木の言葉が頭をよぎる。

『あれのどこが普通なんだよ。完全に心を閉ざしている。』

心を閉ざす何がニコにあるっていうんだ?もう、さつきおばさんは退院して、家に居る。

他に何がある?命日か?今年も秋が来る。ニコにとって忘れられない辛い秋が。

でも去年、さつきおばさんと和解して、それも克服した。

精神科の村西先生も、強くなったし笑顔も増えた、もう安心だね。と言っていた。

母さんが、この間受診させた時も、しっかりしなくちゃと思っているぐらいだから、大丈夫だと。

本当に?この不安はなんだ?

ニコが笑うたびに不安が掠める違和感。

ずっと待っていた、ニコニコのニコを。

おかしいのは自分?  




流石に、新田は最近のニコの様子に疑問を抱きはじめた。空席のニコの席を授業中ずっと見つめながら、考え事をしている。授業なんて聞いていない。それは麗華も同じ。藤木も同じだろう。

ニコの事を嫌っている英語教師が、会議室まで来なさいとニコを呼び出した。麗華はこっそり後をつけた。会議室は理事長室の隣にある。理事長室からも行き来できる構造になっている為、麗華は理事長室に飛び込み、窓際の扉を開けて会議室で交わされている会話を聞いた。お父様が驚いて叱咤するのを、しっ!と強く制した。呆れてため息をつくお父様。麗華の強引な我儘はこの溺愛して何をすることも許してしまう父が作り上げたと言っても過言ではない。この学園で、この父親が理事長である限り、麗華は何をしても許される。昔の麗華なら、その我儘ぶりを自分の事にしか使わなかった。でも今は違う。自分の役割を明確に分かっていた。自分ができる最強の特権、優遇は、親友のニコの為に使うべなのだと。


常翔祭前の忙しい今、給食の時間を見計らって、1年や2年の生徒会役員と実行委員達が次々と、麗華の所に質問に来る。生徒会会長の麗華と書記の藤木がいつも一緒のテーブルに居るから、捕まえて質問しやすいのだろう。最近では給食のこの時間を待っていましたとばかりに後輩のみならず、同学年の実行委員までもが質問やら承認を得にくる。藤木もマメな性格が生じて、丁寧に対応をするものだから、増々だ。いつしかニコと新田は、私達二人の横には座らなくなった。私達の横のスペースは質問に来る後輩や実行委員たちのための席と化していた。

一年生の相手は手間取る。初めての常翔祭、おまけに体育祭と文化祭の合同だから、想像が全くつかないらしく、一からすべてを説明し教えなければならない。言い方ひとつも気を使う、あまり強い口調で言うと相手が委縮してしまう。そうすると、たちどころに生徒会は威張っているとか、権力を自己的に使っていると言われかねない、まして理事長の娘である麗華は特に気をつけろと、藤木に念を押して言われ続けていた。

今日も、そうして後輩たちの対応を終えて教室に戻ると、ニコはクラスメート二人と雑談していた。

麗華は出遅れた感もあり、その中へと加わらないで自分の席に座り、その光景を眺めた。

次第にニコの周りには一人、また一人とクラスメートが寄って来て輪ができた。ニコの笑顔と共に増えて大きくなる輪。

幼稚園の頃はクラスの、園全体の人気者だったと新田から聞く。あの姿が本来のニコなのだろう。日本語が出なくて、終始、人を避け、誰かが話しかけてきたら、固まって、ともすると私や新田の後ろに隠れてしまうようなニコは、本来のニコじゃない。

もうあの自信がないニコじゃない、皆の輪の中で笑って話す姿を遠巻きに見ながら、麗華はニコを皆に取られてしまったような、そんな感覚に陥った。

もう私の助けは要らない。

教室に戻って来た藤木が、教室を見渡し、そして麗華にまっすぐ歩んでくる。そして指だけで「ついて来い」の仕草をする。

黙ったまま藤木は階段を昇っていく。屋上へと出る扉を開けると強い風が麗華の髪を逆なでるように乱す。

夏の激しく白い雲とは違う、くすんだ雲が遠く流れていた。

何人かの生徒が麗華の姿を見ると、屋上から出ていった。こんなことはままある。特権、優越を得る代わりの代償として普段はあまり気にならない麗華だったが、今日は何故かとても孤独を感じて胸が痛い。

三つに区切られた屋上の給水塔とフェンスに挟まれた狭い空間、中棟であることから景色も望めない人気のない場所だ。藤木は麗華に向き合う。

「覚悟はしておけ。」

藤木は重要な時ほど遠回しな物言をする。何の覚悟?

「俺は、ニコちゃんの今の笑顔を信用していない。読めない限りは信用しない事に決めた。何かあるはずなんだ、ニコちゃんが心を閉ざしている理由が。閉ざした向うでニコちゃんが助けを呼んでいる気がする。」

藤木は目を伏せた。

常に、ニコの心を読もうと試みて、ダメっぽい事を麗華は見ていた。

私よりも、ずっと昔からニコの事を気にかけて、ニコの事が好きでたまらないのに、冷静で取り乱したりすることなくニコのサポートに撤していた。その手法は時として私も気づかないぐらいさりげない。そういう事を平然とやってのける藤木が、今、何をどうしたらいいのか、わからないで戸惑っている。

「ただ、あんなふうに笑えるようになったニコちゃんを見ていたら、新田じゃないけど、俺は見誤っているのかもしれないと自信がなくなる。」

新田と藤木が話さなくなって丸2週間が経つ、サッカー部はうまくいっているのだろうかと心配し、聞いてみると、もう十分に出来上がっているチームだ。俺と新田がどうのこうのなっても何も問題はない。と藤木は言う。

「元々読み取りづらいかった事を考えたら、最初から見誤っている可能性もある。その場合、あのニコちゃんの笑顔は本物だ。」

麗華も目を伏せた。

「見誤っている方が良いのかもしれないと思うほどだよな、あの笑顔は。もう、俺たちの助けは要らない、ニコちゃんは、俺たちの。俺たちだけが特別の仲間ではなくなる。」

それは麗華の特権、優越を加味して繋げた4人だけの特別な仲間だった。それがなくなる?

「覚悟、しておけ。俺達のニコちゃんが、皆のニコちゃんになる時を、喜こべるように。」

覚悟・・・。涙が出た。

ニコを守る度に結束を強めた私達、麗華は、夏の夜、砂浜で4人でつないだ輪を思い出した。

繋いだ輪をニコが狭いと感じた時は、その手を緩めてあげなくてはいけない。

「私、ニコを、皆に・・・。」取られたくない。そう言いたかった。

「言うな」

涙が次々と出てきて、言うなと言われても、嗚咽で言えない。

「お前のは読める。良くわかる。俺も同じだ」藤木は、ポケットからブランド物のハンカチを取り出し麗華に差し出し、麗華の肩を組む。

「あの笑顔が、寂しいな。」

こんな気持ち、自分だけじゃない。藤木も同じく、ニコの笑顔に寂しさを感じていた。

そうだ、ニコを大好きな藤木は、麗華よりも、もっと寂しいはずだ。

藤木の分まで思い切り泣こう。

そうすれば、ニコの為に、私達はあの輪を緩めてあげることが出来るかもしれない。

皆が好きになるニコを、人気者のニコを、私達も好きになれるように。





仮病だけと、仮病じゃない。本当に具合が悪いんだ。声が出ないという最悪の悪さ。そんな事、保健室の先生には言えない。

だから気分が悪いと言ってベッドに寝かせてもらった。この保健の先生は、今年4月に就任した新しい先生、特待の進級許可の通知を頂いた時、凱さんから、『4月から新しく就任する保健の先生は神奈川医大の村西先生から紹介してもらった先生だから、安心して何でも相談して』と言われた。また学園の特別扱い。ありがたくない。私の学園での行動が、村西先生に筒抜けだと思うと嫌だった。

だから、あまり保健室は使いたくないのだけど、授業をさぼって図書館に行くわけにもいかず、校舎をうろうろするわけにもいかず、保健室は生徒特権のさぼり場所だ。ベッドに横になる。眠たくないけど、保健の先生に根堀葉堀聞かれたくないから、頭から毛布をかぶって寝たふりをする。約一時間、何しよう。文庫本でも忍ばせておけばよかった。次からは持ってこよう。



   ニコは笑う。ニコニコのニコだから。

   ニコは怒る。慎一の言葉に

   ニコは困る。新田家に。

   ニコは戸惑う。声が出ない事に。

   ニコは寝る。いつの間にか。



扉の向こうから呼ぶ声、

ニコ、ドウシテ、ニコ、ドウシテ、パパカラ、ニゲタ。ニコガニケダカラ。パパ・・・ハ  シンダンダヨ。

ニコ、ドウシテ、ソノテヲフリハラウ・・・・・パパと。。イッシヨニ。。シノウ。

どうしてニコの名前?

りのは、どこへ行った?

あの声はりのを呼ぶ声なのに。



バサッと起き上がる。毛布がその勢いで下に落ちた。もしかして、私、寝てた?

時計をみたら、あと数分で英語の授業が終わる時間だった。

40分以上も経っている。ついさっき、文庫本持ってこようって思って、あれから40分?

うそ、信じられない。寝なくても大丈夫なのに。

チャイムがなった。英語の授業が終わる。

なぜ、英語だと声が出ない?

私は英語が好きだったはずだ。英語の方が楽に言葉が出て。

他は?ロシア語は?えーと、なんて言うんだっけ、ロシア語で「こんにちは」は・・・・・え?わからない。・・・・

他に・・・フランス語!フランス語は・・・あれ?何故フランス語だと思った?

藤木の言葉が頭に、こだまする。

『ニコちゃん、おかしいよ。』

りのじゃなくて?

そもそも、私はどっち?

ニコ?りの?



「真辺さん、こっちのもカットしてくれる?ちょっと大きかったわ。」

「わかった。」

もうすぐ常翔祭、午後の学活の時間は、文化祭の準備に当てられる。どこのクラスも同じらしく、あちこちから机を後ろに下げる音や、生徒のはしゃぐ雑音が聞こえてくる。先生陣は、先に終わりの会を済ませて職員室に引き上げるのがほとんどだ。

先生も体育祭の準備やらで忙しいのだろう。学園祭が終われば3者懇談も待ち受けている。この時期は、学園中の人間が忙しい。

中学生最後の常翔祭。柴崎と藤木は生徒会役員として全体を取り仕切る為に、休み時間も二人して忙しく、最近は給食も4人一緒に食べられない。今年は何も役員をしていない私と慎一は、ここ2週間あまり、二人きりの給食だ。全然、楽しくない。

慎一は常に私の食事を監視していて、柴崎が居てくれたら私の味方で、しつこい慎一に「自由にさせてあげなさいよ」と言ってくれるのに、居ないから、もっと食べろとうるさい。給食の時間だけじゃない、休み時間もバラバラ。

あんなにいつも一緒で馬鹿騒ぎをしていた慎一と藤木は、いつの頃からか一緒に居なくて、喧嘩でもしたの?と聞いたら、ちょっと意見の食い違いがあっただけと言う。

柴崎が常に藤木と一緒。二人は生徒会役員だから、なのは理解できるのだけど、なんとなく、藤木に取られたという気がして寂しい。藤木にはあまり近寄りたくない。あの何でも見通せる目が怖い。またおかしいと言われそうで。

あの能力に私はいつも助けられていた。一年の頃から、何かと特待生だからと嫌味を言われて、いろんな重圧に押しつぶれされそうになったのを、藤木はタイミング良くそっと状況を変えてくれていた。それはちゃんと理解して、感謝している。でも、今は無理。

ほら、またあの目が私を見ている。いつもの優しい目じりの皺がない。あぁ、それが怖いと感じるのか・・・・

あの目に映る私、そんなに、おかしいのだろうか?

「昨日のミュージックTVみた?」

「見てない、昨日のその時間は、笑タイム見てた。」

「えー、真辺さん、お笑いみるの?」

「みるよ。」

段ボールをカッターで切りながら、近くに居るクラスメートと話が弾む。

最近スムーズに日本語が出る。私の病気は治った。

「意外~。」

「爆死飯のギャグが好き。」

「私もすきすき、面白いよね。」

「へえー真辺さん爆死飯が好きなの?」

少し離れた場所から、あまり話した事のない男子が声をかけてくる。怖くない。

「意外~」

「でしょう。なんか今更だけど、真辺さんって夏のキャンプ以降、変わったよね。」

「変えたつもり、ないんだけど・・・そんなに変?」吃音もない。

「ううん、変じゃないよ。いい感じ、親しみわく。」

「うん、うん」

「うーん、今までイメージが、硬いみたいだな」・・・硬い。段ボールが二重になっている所でカッターの刃が止まってしまった。こうなると結構面倒だ、。引いても押しても動かない。

「えーだってねぇ。」

「特待?。」

「あ、うん、特待生に選ばれるほどの頭の良い真辺さんは、私達とはこう、人種が違うんだって思って。ねぇ。」

「あぁ。テレビとかも見なさそうだもん。」

「見る見る、バラエティとか、深夜のアニメも見る。ラジオも聞くよ。」

そう、夜は長い。勉強ばっかりでは飽きる。それに覚える事は全部やってしまった。

最近は、ママに見つからないよう、こっそりイヤホンでラジオを朝まで聞くのが毎日の楽しみ。

「えーそうなの?あっあれ知ってる?金曜日の、夜0時の帝都テレビの」

「山ちゃん探偵局?」

「そう、それ!」

「おお、あれ面白いよな。俺も録画してみてるぜ。」

昔ほど、特待に対する嫌味がないこのクラスは、居心地がいい。楽しい。やっとたくさんの友達と話すことが出来るようになった。ん?やっと?

やっとって、何?



   ニコは笑う。ニコニコのニコだから。

   ニコは怒る。慎一の言葉に

   ニコは困る。新田家に。

   ニコは戸惑う。声が出ない事に。

   ニコは楽しい。おしゃべりが。





ニコが笑っている。クラスの皆の前で。人気者だった幼稚園の頃の笑顔と重なる、あの笑顔。

その光景を慎一は、ただ、ただ、無感情に見つめていた。

待っていたはずのあの笑顔なのに。うれしいとか、懐かしいとか、感慨深いとか、の感情が出てもおかしくないはずなのに。

その感情を溢れ出さないように、蓋をしているようだった。

違う。あふれ出てきそうになっているのは、不安だ。出てくるものが理想とは違う事の驚愕、恐怖を自分は抑え込んでいるのだ。

「新田、段ボール取りに行くから手伝ってくれ。」今野が慎一を教室の外へと誘い出す。

「あぁいいよ。」

妙な思考を振り払い、慎一は今野と一緒に教室を出る。

自分がそばに居なくても、ニコはちゃんと皆が寄り集る人気者になりつつある。あれが本来のニコだ。友達を作る才能は俺よりも優れていた。北棟の裏門横にある廃棄物保管倉庫へと向かう。

同じように段ボールを運んでいるサッカー部の2年の後輩が慎一の姿を視認すると大きな声で「ちわーすっ」と挨拶をしてきた。

慎一は口に人差し指を立てて「しーっ」と黙らせると、後輩は「あっ」とはにかみ黙って頭を下げる。

慎一は、その後輩をすれ違いざま背中をポンと叩いて「また後でな」と笑って見送った。

「まだ、慣れない後輩が居るみたいだな」今野がクスクスと笑いながら言う。

「特に二年はな。一年間やって来ただけに、本当にやめちゃっていいのか、挨拶しなくて先輩に怒られないかと戸惑ってるみたいだ。」

「2年にとっては、やめちゃうことの方がストレスかもな。」

「その分のコミュニケーションはちゃんとしている。」

「そのコミュニケーションが新たなストレスになってたりして。」

「えっ!?」今野の指摘に慎一は、ヒヤリと顔が引きつる。その可能性は思いもしなかった。

「あははは、嘘だよ。バスケ部の後輩から、うちも導入しないんですかって聞いてきた奴がいるくらいだ。戸惑いはあっても、悪いような事はないんだろうよ。そうやって言って来るぐらいだから。」

「バスケ部もするのか?」

「いや、バスケ部は今のところ現状維持。もともとあだ名で呼びあってるからな。」

「あぁ、いいよな、あだ名。」

「サッカー部だと覚えるの大変そう。一年かかったりして」

「ははは、そうだな

慎一がサッカー部の部長になって、校内での挨拶はなくした。朝練の「おはようございます」と帰りの「お疲れさまでした。」もしくは「さようなら」だけにして、校内の廊下で先輩とすれ違っても挨拶はしない。会釈ぐらいはしてもいいが、しなくても構わない事を6月からやり始めた。そのルールを作り実施したのは、先輩後輩の隔てをなくしたチーム一丸を目指すものだが、慎一の深層心理には部長としての自信のなさからくるものだった。その気持ちは誰にも言っていない。藤木は見抜いているけれど。

廃棄物保管倉庫の扉は開けっ放しになっていて、荒らされた様子になっている。各クラス、思い思いの大きさの段ボールを選別して持って行くから仕方ない。

今野が大きい段ボールを選んで、入り口で待つ慎一に渡してくる。今野は背が低い。柴崎と同じぐらいか、本人は絶対に認めないが、もしかしたら柴崎に負けているかもしれない。段ボールに隠れるその可愛さに慎一は吹き出しそうになる。

だけど今野は見た目は小さくて女の子みたいだが、人をまとめて仕切るのはうまい。バスケ部の部長でもありクラス代表委員もしているその手腕をみれば、慎一は自分のサッカー部の部長としての不甲斐なさに落胆するばかりだ。

「新田は去年、誰と踊った?やっぱり真辺さんか?」大きな段ボールを持ち直して歩きにくそうにしている今野が慎一に顔を向ける。

「はぁ?」

「はぁ?って、文化祭のダンスパーティだよ。チーク、去年も盛り上がっただろ。」

「あったなぁ、そんなイベントが。忘れてた。」

「忘れてたって!お前のその余裕が、むかつく!」と、今野はその段ボールで慎一を突いてくる。

「やめろ!」そんなイベントがある事を本当に忘れていた。ニコの海外話からヒントを得た柴崎が企画立案して開催したダンスパーティは、昨年、大成功を収めた。味を占めた柴崎は、学園の定番行事にすると今年も息巻いていた。

「踊ってない、去年は誰とも。」

「へ?まじで?」

「あぁ、去年、ニコ、頭に怪我したからな。付き添ってた。」

「ぁぁ、あったな、そんな事。真辺さんが頭に包帯を巻いてたのは覚えてる。あれって去年の文化祭の時だっけ?」

「うん」

そう、1年前の文化祭の1日目、ニコは見てはいけない物を見てしまったせいで、頭を殴られて気を失った。夜まで美術倉庫に閉じ込められて、口封じの為に自殺に見せかけて殺されそうになった所を、慎一たちは助けた。あの事件はニコをのぞく慎一たち3人と、理事長、理事長補佐の凱さんだけしか知らない。記憶喪失になったニコ本人ですら事の真相を知らない、トップシークレットだ。頭の怪我は、自宅のマンションの階段から落ちて作ったものだという事になっている。

「真辺さんって、顔に似合わず怪我が多いよな。いっつも、どこかに絆創膏か包帯を巻いているイメージがある。」

今野の指摘に慎一は苦笑して相槌をうつ。

「無茶するからな、あいつ。」

「ほぉー。」

「なんだよ。」

「そこが可愛いんだぁ、そうだろうねぇ。俺が守ってやらないと、みたいなぁ?」

「ばか言うなよ。俺らは付き合ってねぇって、言ってるだろ!」

この間の体育で慎一とニコが付き合ってないと知った渡辺が、クラスの男子に言いふらして、その後クラスの全男子に質問攻めにされた。渡辺が言う通り、クラス全員が二人が付き合っていると思っていて、慎一は全力で弁解した。

「はいはい。」

「お前なぁ、人に手伝わしといて、なんだよ、はいはいって」

「はいはい。」

「たく、やってられん!」

茶化される為に手伝ってたんじゃ、割に合わない。慎一は、たどり着いた教室の前の廊下に、段ボールを半ば捨て気味に投げ置いた。「うわー教室の中まで持って入れ!」今野の叫びを慎一は無視して開いたままのドアから教室に入ろうとした。藤木とばったり出くわし、一瞬たじろぐ。



   ニコは笑う。ニコニコのニコだから。

   ニコは怒る。慎一の言葉に。

   ニコは困る。新田家に。

   ニコは戸惑う。声が出ない事に

   ニコは楽しい。おしゃべりが。  

   ニコは痛くない、その傷は。



  

6時間目の学活は、常翔祭の準備に当てられた、どこもクラスも同じ、学園中がガヤガヤと騒然としている。

麗華は、生徒会の持ち分である体育祭の進行及び集計の仕方などの打ち合わせを、教室隅に寄せられたテーブルに担当者を集めて説明していた。本来なら、クラスの打ち合わせ等は、実行委員の佐々木さんと今野の役割であるが、クラスの出し物がお化け屋敷で、教室内の窓を段ボールで覆い暗室にし、室内を迷路に仕切を作る大掛かりな準備が必要な為、麗華は藤木と共に、二人の代役をやっていた。

ニコはそのお化け屋敷の室内装飾の手伝いで、段ボールを切ったり、画用紙を張り付けたりと、クラスメートと雑談をしながら工作を楽しんでいる。

麗華は、体育祭における一通りの説明を終わらせ皆と共に席を立った。やっとニコ達と合流してお化け屋敷の工作を手伝うことができる。身長の三分の二までが隠れるほどの大きな段ボールの切り取りに苦心しているニコの姿に、麗華は笑いそうになってうつむいた。

身長を笑ったことがバレるとニコは激怒する。床に置かれた切り取りを終えた段ボールに赤いシミがついているのを見つける。

もうペンキで塗り始めたのかと思った。

「あれ?これ?血?ペンキなんてまだ出してないよな。男子生徒が床に散らばった画用紙を指さしてもそう言う。

「これ、本当の血じゃない?」

「おい、誰か怪我してないか?画用紙を汚してる。」

みんな自分の手を見て首を振る。何気なく麗華はニコを見て驚く。

「ニコ!手っ!」

ニコは、麗華を指摘に首をかしげてから自分の手を見る。

「あっ、私だ。ごめん。気が付かなかった。」

「えっ?」皆が、その言葉に驚く。ニコの左手の指からはポタリと血が落ちている。

気が付かないってレベルの傷じゃない。なのに、あまりにも平然とした姿に誰もが顔を引きつらせる。

麗華を追い越した藤木が素早くニコに駆け寄り、怪我した指の根元をつかみ、心臓より高く手をあげさせた。

「なに、するの!」ニコが叫ぶ。

「輪ゴムないか!」ニコを無視して藤木が叫ぶ、けれど、輪ゴむなど用意していない。

「柴崎、お前の髪のヘアゴムかせ!」

麗華は慌てて頭の後ろに手をやりヘアアレンジを解いて、ヘアゴムを藤木に渡す。指の根元にまいて、応急止血する。

「保健室に行くよ。」

「嫌!」

「駄目だよ、ちゃんと手当しないと。」

「痛くない!はなせ。」藤木の手を振りほどくニコ。

「手を下ろしちゃだめだ。さぁ行くよ。」

藤木に再び手を掴まれて高く手をあげさせられるニコ。「嫌だ、行かない。」と抵抗するのを麗華も宥める。

呆然としているクラスメートに、落ちて汚した血の後始末を頼み、嫌がるニコを半ば引き摺りながら教室を出ようとすると、入ってこようとした新田と鉢合わせになる。

「なんだ、藤木、また、ニコに何して」新田は藤木を見るや否や目を吊り上げて睨む。

「ニコちゃん、怪我をした。」

「え?」

「保健室に連れていく、どけっ」新田は血に染まったニコの手を見ると青ざめる。藤木は立ち尽くしている新田を押しのけ廊下に出た。

「痛くないって!」

「どうした?」廊下にいた今野は、持ち上げた段ボールを捨てるように足元に置いて駆けつけてくる。

「ニコちゃんカッターで指を切った、保健室連れていくから、中の奴らのフォローよろしく。」

「行かないっ!」

「あぁ。」今野も怪我の状況を見て表情を険しくし、頑なに行かないと駄々をこねるニコが理解できず、麗華に顔を向けて首をかしげる。麗華は首を振って気持ちを理解できないを表すしかない。


    

ニコちゃんの指から落ちる血を見て、誰もが凍り付いた。

血で汚れた手を見つめたニコちゃんは平然としていた。一瞬だけ、閉ざされていた心が開いたのを亮は読み取った。

本当にわずかな、錯覚じゃないだろうかと思うほどの一瞬で、だから、その読み取った本心も、間違いかもしれない。勘違いだと思いたいものだった。

痛くないと言い続けるニコちゃんを引きずって保健室に連れて入ると、誰もいない。テーブルの上には、

【外出中、処置や用のある方は高等部の川島保健師か、事務所に連絡。高等部内線2101、事務所内線1234】

と書かれたプレートが置いてある。保健室に保健の先生がいない事はよくある事だった。少々の怪我は、保健室を勝手に使って生徒たちで処置をする。熱などの緊急を要する容態は、高等部の保健の先生が駆け付ける。事務方もそれなりに、基本処置を学んで対応できる人を配置しているから、この対応で困る事はない。新田が内線をかけようとするのを、亮は止める。高等部から先生を呼んでいたら時間がかかる。

「いいよ、俺が処置するから。」

切り傷の処置ぐらいは、自分できる。小学校からサッカークラブに入り、怪我をする下級生の手当てをやっているうちに、応急処置方法は自然と身についたし、寮の生徒長を頼まれたときに、最初にやったのが、病気や怪我の時の緊急時のマニュアルを読み漁る事だった。4月には消防所が無料で開催しているAED講習も受けている。

諦めたのか、保健室に入ってから黙っているニコちゃんは、むすっと不機嫌な表情だ。亮は掴んでいたニコちゃんの手を処置台の上にそっと置いて、椅子に座らせた。

新田は、ニコちゃんの血に染まった手を見て、渋い表情の顔をそむけた。新田はえりちゃんが目の前で交通事故にあった時のトラウマがあって、他人の血には、めっぽう弱い。こういう時は、女の柴崎の方が肝が据わる。テキパキと、薬品や、脱脂綿など必要なものを取り揃えていく。精製水で濡らしたガーゼで手の汚れぬぐっていく。

傷は、左手人差し指、第一関節から第二関節にかけて、2センチほど上皮がペロンと裂けた状態になっていた。硬い段ボールをカッターで切るときに、勢い余って指まで切ってしまったのだろう。そっと上皮をピンセットでつまみ傷の深さを見たら、皮下深部に到達してしまっている所が2ミリほど。皮膚が残っているので、このまま蓋をする形で、抑えたら塞がるだろう。病院で縫うほどでもない。けれど、痛いのは間違いない。柴崎のヘアゴムを外すと、深部から血があふれ出てくる。それを見た新田が、青ざめて息をのむ。

その反面、ニコちゃん本人は、ずっと涼しい顔で、亮の処置する手元を眺めている。どっちが怪我人か、わからない。

「消毒するから、ちょっとどころか、だいぶ浸みると思うけど。大丈夫?」

「だから、痛くないって。」

相変わらず強がるニコちゃん。痛くないはずない、ヘアゴムで縛っていたから今は痛みが麻痺しているけれど、消毒液が浸みるのは、誰もが一度は経験したことある激痛。消毒の最中に動かれたら、ピンセットが危ない。亮は新田にニコちゃんの左手を抑えておくように指示する。新田は顔をしかめながら恐る恐るニコちゃんの腕を抑える。だけど、そんな心配は無用だった。

ニコちゃんは、眉一つ動かさない。

「本当に、痛くないの?」

「だから~、さっきから痛くないって言ってるよ。」

なるべく深部には入らないように消毒したとはいえ、確実に浸みるはず。なのにニコちゃんは、痛くないと、その言葉は嘘をついているとは思えないほどに平然としている。

「全く、大げさだ。こんな物。」と言って、裂けた上皮をむしり取ろうとするから、慌てて止める。

「駄目、駄目!それ取ったら!」

柴崎と亮で押さえつける。その動きで血があふれ出す。新田はもう一歩下がって、顔だけは重症患者だ。亮は上皮を抑えて、カーゼを巻いて押さえ、化のう止めを塗る。さらにニコちゃんの指に包帯を巻いていく。

「包帯なんて・・・痛くないのに」とむくれるニコちゃん。

もう、疑問だけを胸に秘めている場合じゃない。閉ざした心が開いた一瞬の時に読み取ったものは、恐怖だった。読み取った亮がつられて怯えそうになるほど強烈な。

「藤木、俺、間違っていた。」青い顔した新田がつぶやく。

「わかっているから、後にしろ。」

新田の本心には、亮に対する嫌悪が消えていた。



   ニコは笑う。ニコニコのニコだから。

   ニコは怒る。慎一の言葉に。

   ニコは困る。新田家に。

   ニコは戸惑う。声が出ない事に

   ニコは楽しい。おしゃべりが。  

   ニコは痛くない。その傷は。

   ニコはむくれる。その包帯に。




「ニコちゃん、聞きたいことがあるから、ちゃんと目を見て、大事な事だから。」

藤木が、けがをしたニコの左手を両手で握ったまま、ニコの顔を見つめ目を細める。

むくれてそっぽ向いていたニコは、中々藤木に向こうとしない。藤木は包帯の上からニコの左手をさすり、ニコが顔を向けるまで根気よく待った。

「お前らも座れ。」藤木に指摘されて、慎一は柴崎と共に丸椅子を運んできて座った。やっとニコが嫌そうな表情で藤木の顔を見る。

「ニコちゃん、今、薬飲んでる?」

「・・・・?」ニコは、藤木の質問に訝しげに見つめ、答えない。その顔は、隠そうとしているのではなくて、質問の意味が分からないというようなしぐさだった。柴崎へと視線を変えて更に首をかしげる。

「大丈夫、藤木の質問にちゃんと答えて。」柴崎は、ニコに寄り添うように座り直し、ニコの背中に手を添える。

「飲んでない。」首を軽く振って、答えるニコ。

「病院の薬以外のは?風邪薬とか頭痛薬とか」

「飲んでない。」慎一はほっとする。

「夜は眠れてる?」

「それは大丈夫。」

「ちゃんと、眠れてるんだね。」藤木もホッとしたように顔を緩めるが、ニコは嘘をつく時の仕草をした。

「ニコ?」

「寝なくても、大丈夫。」

寝なくても大丈夫って、言葉の選択が違和感。藤木も眉間に皺を寄せる。

「寝てないって事?」

「平気、寝なくても、眠くない。」

「眠くないって、どういう事?」

「どういう事だ!ニコ!」

俺と柴崎が口々に詰め寄るのを、藤木は左手を上げて制する。右手はニコの手を握ったまま。

「・・・・無理して、寝ようとしなくてもいいの。」

「いつから?」

「テスト、前。」

「嘘だろ!」慎一は、丸椅子を倒して立ち上がってしまった。テスト前ということは、もう1週間以上になる。「ずっと寝てないって言うのか!?」

「新田、座れって!」藤木に腕を引っ張られ、座らされる。ニコは、プイッと顔をそむける。

「テスト前って、ニコちゃんのお母さんが倒れた時から、だね?」

ニコは無言でうなずく。

自分は、一体、何をしていたんだ。

藤木に叱られた言葉が頭によみがえる。

『お前が気づかないで、どうする。お前はニコちゃんの何を見ている。あれのどこが普通なんだ。』

教えられていたのに、俺は信じなかった。




   ニコは笑う。ニコニコのニコだから。

   ニコは怒る。慎一の言葉に。

   ニコは困る。新田家に。

   ニコは戸惑う。声が出ない事に

   ニコは楽しい。おしゃべりが。  

   ニコは痛くない。その傷は。

   ニコはむくれる。その包帯に。

   ニコは寝ない。眠くないから。


 

  

「大丈夫なんだ。本当に。眠くない。今まで無理に寝ようとするから駄目だったんだ。」

「そんな無茶な話あるか!」

「無茶じゃない!調子いい、ちゃんとご飯も食べてる。慎一は知ってるじゃないか!」

そうよ、ニコは調子が良い。とても1週間以上、一睡もしていない顔だとは思えない。去年の今頃は目の下にクマを作って、麗華は心配した。調子が良いからこそ、私達はニコの変化に気づけなかった。

血のしたたる傷の痛みに気づかず、消毒液も痛がらない、10日近く一睡もしていなくて大丈夫と平然としているニコは、

やっぱり、おかしい。

麗華は藤木が言った言葉を思い出す。

 『閉ざした向うでニコちゃんが助けを呼んでいる気がするんだ。』

「新田、ちょっと黙れ。ニコちゃんも落ち着いて、なにも責めていないから、確認しているだけだから。」

藤木はごく優しくニコに微笑み、ニコも静かになる。

「他は?寝なくても大丈夫になった以外に、変わった事はある?」

「何も」首を振ってうつむくニコ。

藤木は、目を細めてニコの本心を読みとっている。何を読みとれているのか、しばらく黙ったまま何も私達には告げない。

英「ニコちゃん、英語で答えてね。どうして、得意だった英語の授業に出ない?ヒアリグ課題は、なぜ白紙で出した?次、英語の授業をさぼったら上田先生は、特待査定に×をつけると考えているよ。どうする?」突然、英語で話しかけた藤木。

藤木は、2歳の頃から英会話を習わされていたと言っていた。藤木家の跡取りとして、国会議員になる為には英会話は必須だろう。その英才教育のおかけで、英語の成績はいつも上位で、基本に忠実な発音をする。ニコが日本語での会話に疲れた時に、英語での会話を交わすようになって、増々その英会話力は上達した。

突然の英語に驚いた表情をしたニコ。

麗華は藤木の言葉が半分しかわからなかったが、要所要所で、上田先生という言葉を聞き取れたので、査定の話をしているのだと推測する。授業を出席しないのは何故か?査定で落とすと言っているよとニコを説得している。

「 何?・・・何を言ってるの?」

流暢な英語で、その理由を返してくると思いきや、ニコは眉間にしわを寄せて、困った顔をする。

英「英語で答えて。」

そう藤木が言っても、ニコは首を振るばかり。






藤木が、突然日本語じゃない言葉を発する。何を言っているのかわからない。

なぜ、急に、わからない言葉を使う?

慎一が、柴崎が、私に驚きの顔を向ける。

どうして?私が何をした?    



   ニコは笑う。ニコニコのニコだから。

   ニコは怒る。慎一の言葉に。

   ニコは困る。新田家に。

   ニコは戸惑う。声が出ない事に

   ニコは楽しい。おしゃべりが。  

   ニコは痛くない、その傷は。

   ニコはむくれる、その包帯に。

   ニコは寝ない。眠くないから。

   ニコはわからない。英語が。




「何を言っているの? わからない・・・・日本語で話して。」

藤木も目を見張る。

何?確認しているだけ、責めないと言うから私は正直に話した。

藤木の冷たい手の体温が、包帯の巻かれていない皮膚から伝わってくる。

「新田、ニコちゃんを病院に連れていけ。」

「なっ!何故!嫌だ!行かない!大丈夫だと先生も言ってた!離せ!」私は逃れようと立ち上がる。だけど、冷たい手がギュッと掴むから、動けない。

「ニコ!落ち着いて。」

私はいつだって落ち着いている。こうして血が出ても大丈夫だし、寝なくても大丈夫。    

「離せ!」慎一ならわかるはず、ご飯もちゃんと食べてる。テストも全部、満点だった。おかしくない。「慎一はわかるだろう!」

慎一は、首を振りながら、私を椅子に座らせようとする。

どうして?慎一も、わかってくれない。

「嫌だ!行かない!行きたくない!藤木!ちゃんと見て! 約束した!」

離して!」女にマメで優しい藤木が私の言う事を聞いてくれない。

「ニコちゃん、視たんだよ。」

「ちゃんと見て、私は、おかしくない!駄目じゃない!」

「やっと読めたんだ。」そう言ってやっと手を離した藤木。反動で後ろに倒れそうになるのを慎一が受け止める。

藤木の目から涙がこぼれた。

いつも冷静で、どんな時も状況に動揺しない強い藤木が、泣いている。

「駄目なときは、ちゃんと言う。今がその約束の時だよ。ニコちゃん」




   ニコは笑う。ニコニコのニコだから。

   ニコは怒る。慎一の言葉に。

   ニコは困る。新田家に。

   ニコは戸惑う。声が出ない事に

   ニコは楽しい。おしゃべりが。  

   ニコは痛くない、その傷は。

   ニコはむくれる、その包帯に。

   ニコは寝ない。眠くないから。

   ニコはわからない、英語が。

   ニコはおかしくない! 多分・・・




柴崎が凱さんを呼んだ。事情を説明して、タクシーで病院に連れていく事になった。

あれほど暴れて病院には行かないと拒否していたニコは、藤木の涙がよほどのショックだったのか、おとなしく従った。

藤木を学園に残して、タクシーで神奈川県医科大学病院に向かう。

慎一は、凱さんにニコの家に連絡するのは少し待って欲しいと頼んだ。

さつきおばさんに、また倒れられたら、元も子もない。まして、ニコがおかしいのは、まだ推測の段階、確証があるわけでもない。

自分たちの心配が、間違っている可能性もある。

ニコと共に慎一も診察室に入って、精神科医のニコの主治医、村西先生に、今までの経緯を説明した。

ニコは終始うつむいて無表情に黙ったままだった。怒っているのか、拗ねているのか、わからない。

一通りの経緯を話すと、村西先生は眉間に皺を寄せて「悪いけど、りのちゃんだけにしてもらえるかな?」と慎一を退室させた。

素直に従う。ニコと双子のように育った幼馴染とはいえ、他人の慎一が、それ以上にそばに居るべき所じゃない。

診察室前の廊下で、柴崎と凱さんが心配顔で待っていた。

「ニコは?」

「まだ。とりあえず、説明をしただけ。」

「そう・・・。」

「凱さん、すみません、いつも・・・。」

「子供が、そんな事、気にするんじゃないの。大丈夫、俺と麗香がいる限り、学園はりのちゃんを見捨てたりしない、何があってもね。」と凱さんは慎一の背中をたたく。柴崎も同意にうなづく。

「藤木が、今からこっちに来るって。」

「うん。」

藤木に謝らなくてはいけない。ニコの異変に気づいた藤木を、慎一は嫌悪して避けた。許してくれるだろうか?

全員は乗れないタクシーに、女子が付いていた方が良いだろうと、自ら身を引いて柴崎に乗れと譲った。生徒会の打ち合わせも自身がやっておくと引き受けて。いつもそうやって、藤木は一歩は引いて全体を見渡す。どうすれば物事がスムーズに行くかを考えて采配し、時に自分が損な役周りをする。藤木はいつだってそうだったのに、慎一は信じなかった。

ずっと一緒に同じ夢を追いかけている親友を信じなかった自分は、最低だ。




    慎一が、ニコと呼ぶ。

    ママが、りのと呼ぶ。

    柴崎が、ニコと呼ぶ。

    凱さん、りの呼ぶ。

    藤木が、ニコと呼ぶ。

    村西先生が、りのと呼ぶ。

    私はどっち?




疲れた・・・

村西先生が沢山、質問する。

答えたくなくて、黙った。

だけど脳はその質問に反応して、色々と思い出したり、考えたりするから、診察室を出た時は、脳の血流は激しく熱を持って朦朧とした。

喉が渇いた。甘い物も食べたい。プリンがいいな。たしか、病院の売店に売っていたはず。足を売店に向けた。

「ニコ、どこ行くの?」柴崎の声に顔を向ける気力もない。

「慎一君、まだ時間あるかな?」一緒に出てきた村西先生が頭越しに慎一を呼ぶ。いつもならデカさの強調かって怒りが生じるはずなのに、電池切れで怒る気力すらない。

「ええ、大丈夫ですが・・・・。」

「悪いけど、りのちゃんのお母さんを呼んだから。診察室に、もう一度入ってもらえるかな?」

「え?あの、ニコは・・・・そんなに?」

ママが来るんだ・・・私は、そんなにおかしい?

どうでもいいや。疲れた。今はプリンが食べたいの。

売店、どっちに行くんだっけ。

「ニコ?どっかで休む?」

柴崎の顔が目の前にあるのに、声が遠く感じる。

「プリン・・・」

「え?あぁ、そうね、売店に買いに行こっか。」

「麗香、僕は学園に戻るよ。僕が居てたら、りのちゃんのお母さんは気を使うだろうから。あとは麗香に任せるよ。」

「ええ、わかったわ。」

「じゃ、りのちゃん、またね。」

どうして、私には2つの名前がある?

凱さんはなぜニコと呼ばない?

それも、どうでもいいか・・・

プリンを買いに行かなくちゃ。





ニコちゃんは、病院の軽食コーナーのテーブルで、無表情にプリンを食べていた。ではなく、眺めていたと言う方がいい。大好きなプリンは一口食べただけで、そのあとぴたりと口が進んでいないという。

ぼぉーとプリンを手にしたまま、動かなくなったニコちゃんを、柴崎が付き添っている所に亮は駆け付けた。柴崎を手招きで呼び寄せた。ニコちゃんのそばに行くのは避けた。亮が村西先生の所に連れていけと言ったことに、ニコちゃんは傷ついているはずだから。

ニコちゃんとの約束を亮は正直に守った。約束は約束でも、ニコちゃんは本気でダイレクトに駄目だと指摘してほしいから亮に頼んできたのではない。誰でも駄目なことをダイレクトに言われるのは嫌なものだ。暗黙の了解で、それはオブラートに包んで知らせてほしいとの約束だった事を亮は心得ていた。だけどその余裕がなかった。痛みを感じなくなり、英語がわからなくなったニコちゃん。気付くのが遅すぎた。否、気付いていたのだ。ただ新田と同じに自信がなかった。

「どうだった?」

「うん・・・・新田がニコと一緒に診察室に入って、事の経緯は説明したみたいだわ。ニコの診断には新田は追い出されていたけれど、さっき、ニコのおばさまが来て、二人で先生と話してる。私は何もわからない。ただ、ニコは診察室から出てきてから、ずっとあの調子で。」と柴崎はニコちゃんの方に顔を向ける。

「そっか・・・・」

ニコちゃんの心が、また読めなくなっている。大好きなプリンは一口食べただけで、減らないのも、ニコちゃんにしては、おかしい。

「柴崎、こんな時に悪いけど、生徒会の連絡事項が、あるんだ。」

「あぁ、ごめんね、ありがとう。」

10日後に迫る常翔祭で、生徒会は今が一番忙しい時期、今日も会長の柴崎がいない事で、いろんなことが滞ったままだった。とりあえず。急ぎの連絡事項を伝える。柴崎は、手元に資料がないながらも、記憶を頼りに、携帯で、各生徒会メンバーに連絡を取り指示を出し始めた。そうやって、亮は柴崎と15分ほど生徒会の仕事をニコちゃんから離れた場所でこなして、ニコちゃんの様子を思い出したように気にする。

「おい、柴崎。あれ・・・」

ニコちゃんは、テーブルにうつ伏していた。プリンの容器を倒している。柴崎と共にニコちゃんに駆け寄り声をかけるも、ニコちゃんは起きない。

亮は引きつる柴崎と顔を見合わせ、診察に駆けた。









ニコが眠りについて、24時間が経った。まだ起きない。

「もう行くわね。慎ちゃんも、遅くならないうちに帰りなさいよ。」

「うん。」  

「ベッドの角度はそのままにして帰っていいから。」

「うん。」

ナース姿のさつきおばさんが、りのの腕に刺さっている点滴を点検し、額の髪をなでてから、部屋を出る。

慎一は今日は学校を休み、朝から病院に来ていた。昨日、村西先生に告知されたりのの病状が衝撃的で一晩中眠れなかった。

睡眠不足による頭痛、倦怠感が本当に慎一の身体を悪くしていたのもあるが、精神的な気力の低下が学校に行こうという気か起きなかった。慎一は朝から、りのの病室に着て、眠り続けているりのの側にいた。

寝息もなく動かないりの。本当に生きているのか心配になって手の脈を確認する。

細い手首に脈打つ微動を確認して、慎一はほっと息をつく。今日は何度もそれを繰り返していた。



【解離性意識障害】 

解離性障害は本人にとって堪えられない状況を、離人症のように、それは自分のことではないと感じたり、あるいは解離性健忘などのようにその時期の感情や記憶を切り離して、それを思い出せなくすることで心のダメージを回避しようとすることから引き起こされる障害であるが、解離性意識障害は、その中でもっとも重く、切り離した感情や記憶が成長して、別の人格となって表に現れるものである。

『いわゆる二重人格。彼女の中には、りのちゃんと、ニコちゃんの意識が混在している。』

『りのとニコ?』

村西先生は軽く息を整えるとカルテから顔を上げ、慎一と隣に座るさつきおばさんの顔を見る。

『彼女の辿って来た人生は、名前によって区切る事が出来る。そこに気づけば、もう少し早めに対処できたかもしれない。彼女自身も、それが心の仕切りというか、逃げ道になっていたと、理解はしてはいない。僕も気づけなかった。』

『先生、あの、りのとニコの二人ってどういう。』

先生は、机の引き出しからレポート用紙を一枚取り出し、図を描いて説明する。

『君と生まれた時から双子のように過ごした5歳までは、ニコちゃんと呼ばれていた。フィンランドに移住したのは?6才でしたね。』

『ええ、あと2か月で6才になる年の9月でした。』と、さつきおばさんが答える。

村西先生は横に長く引いた線を、左から5センチぐらいの場所を縦線で区切って5と記入し、間に【ニコ】と記し、さらに幅を執った場所に、また短い縦線を弾き11才と記入する。この図はニコの人生経図。

『フィンランドで約4年、フランスで1年半の約5年半は、芹沢りの、日本に帰国後、父親を亡くして真辺姓になるまでの辛い時期も芹沢りの。そして、この彩都市に戻って来て、僕に日本語を話せるようにしてくださいと、日本語の特訓をした時は、真辺りの。僕も、りのちゃんと呼んでいた。常翔学園に入学して君と一緒に居るようになって、また、ニコと呼ばれるようになる。彼女が東京でいじめを受け、笑えなくなったのが、ここ、そして声を失うきっかけとなったのが父親の死のここ。』

先生は、11歳の場所を丸で囲った。

『彼女の人生で一番辛い時期はすべてりのと呼ばれていたこの時期に集中する。ここをポイントとして、りのとニコの人格が分かれ始める。』

そして先生は、枝分かれした線をすーと長く引く。

その始点は、慎一がニコと再会した12歳の冬。 






『ママ、私が聞いてきてあげる。』

そう言ってわからない事は、早々と覚えたりのが、現地の人とにこやかに会話をして教えてくれた。りのはいつも笑顔で、優秀な通訳者だった。あの笑顔を日本では見られなくなった。やっと落ち着けると思った日本の生活が、あの人もりのも合わない。そして、あの人の死に私は責められた。

『さつきさん、あなた一体何をしていたの、栄治が自殺だなんて。栄治はうつ病になんてなるような子じゃなかったわ。あなたと結婚したからよ。さつきさん、あなたのせいよ。貴方が、栄治を殺したのよ!』

英『違う。違うの!おじいちゃん、おばあちゃん、ママじゃない!私なの。ママを責めないで。私がパパを、ごめんなさい。』

英語で義両親に許しを請うりのの言葉に、私は愕然とした。

あの人が死ぬ直前の朝、りのの部屋に入るのを私は冷めた気持ちで眺めていた。

(りのの誕生日はもう過ぎたのに、今更、何をしているの?私は好まなかった海外生活を5年半も我慢してきたのよ、それなのに、何故あなたは、生まれ育った日本の生活が合わない?家庭に暴力を持ち込むほど荒れる理由が、どこにあるの?)と。

離婚の意思を固めたあの朝、あの人とりのの間に何があったのかは知らない。すべてを自分のせいだと思い精神を患ってしまったりのに、違うのよと言う私の言葉は、届かない。届かない所か、そんなりのにしてしまったのは私だ。私の言葉がりのを追い詰めてしまった。母としても妻としても失格。そのレッテルから逃げるように東京を離れ、啓子達と過ごしたこの街に戻って来た。

それも今では、間違いだったのかもしれない、と思う。

りのが笑顔を失い、日本語を失ってから、初めてやりたいことを口にした。常翔学園の特待制度の受験。

暗い部屋に閉じこもり、眠るためだけに飲む薬漬けの毎日、わずかに希望の光が差したと喜んだ。

とてつもなく難しい常翔の特待受験、受からなくても、この生活を続けているよりはマシ。目標を見つけたりのの集中力は脅威だった。眠れない夜の時間を利用しての途切れない勉強。そして発声練習、医師と共に体の心配をして止めようとしても、りのは聞き入れない。そしてりのは、すべて自分の力だけで、常翔の特待を手に入れた。我が子ながら誇りに思うりのの学力。

その反面、母としての私は、りのには必要がないのだと寂しく思った。そんな風に思う私は、やっぱり母親失格。

そして、私はまた、りのの精神崩壊の原因を作ってしまった。

『常翔学園での生活は彼女にとって、思いのほか精神的にきつい物だった様だね。でも自分が選んだ道だからと、その愚痴を吐くことなく、胸に押しこんだ。そしてりのとニコの2つの人格を作り上げる事で精神のバランスをとった。君に貰った名前の通りニコニコのニコであろうと。りのちゃんの本来の人格、りのは・・・・さつきさん、もういいかな?慎一君に言っても。』

村西先生の問いにハイと返事すことが出来ない。もう、黙っている段階ではない事は十分にわかっている。だけど・・・優しい慎ちゃんに、これ以上の負担をかける事は出来ない。

『りのちゃんにとって、慎一君は幼馴染を超えた、父親の代わりになりつつある慎一君の協力は増々必要だと、私は思いますよ。』

『慎ちゃん・・・』

『おばさん?』慎ちゃんは首をかしげる。

『ごめんね、慎一君、君には協力してもらっていたのに、隠している事があるんだ。』

『何を?』

村西先生がもういいねというように、目で訴えてくる。私は目を伏せてうなづいた。

『りのちゃんは、父親が自殺したのは自分のせいだと思っている。』

『自分のせいって・・・え?栄治おじさんは事故で、え?何が?』

親の私が出来ない事を15歳の子供に課せなければならない、なんて不甲斐ない親。

ごめんね慎ちゃん、ごめんね啓子。

『あの日の朝、りのとあの人との間に何があったのか、私は知らない。だから、そうじゃないのよと言ってあげても、りのを追い詰めてしまった私では、りのに言葉は届かない。りのは、あの人が死んでから、ずっと自分がパパを自殺に追い込んだと、殺したんだと、思っていて、そのせいでママは怒っていると、ずっと苦しんで・・・・違うのよ、怒っていないわと、何度言っても駄目だった。私の言葉はりのに効き目はない。私が追い詰めたから、私がりのの声を失わせたから。』

『えっ⁉』目を丸くして驚く慎ちゃん。

『さつきさん、それは違うと、言いましたね。りのちゃんは去年、それからは解放されています。』

『えぇ・・・』

『りのちゃんは、昨年の催眠療法で、ママは怒っていないと理解することができて、その精神障害因子からは解放された。だけどパパを殺したのは自分だという罪の意識は消えなかった。それも合わせて父親とのやり取りがどうだったか、聞きだして取り除こうとしたのだけどね、強く拒否されて、催眠術も解かれてしまった。強い意志のある彼女だから、無理にはできなくて、今まで来てしまったのだけど。りのちゃんが、自分で納得しない限り、その思う罪の意識は消えない。』

『慎ちゃん、ごめんなさい、私の口からは絶対に言えなかった。私が言えば、またあの子は、私が責めていると思ってしまう。だから・・・』

『さつきおばさん・・・』驚愕に固まった表情でいる慎ちゃん。あぁ私は慎ちゃんの心まで傷つけてしまう。

『父親を死なせてしまったと罪の意識のあるりのちゃんは、皆の前で笑えるようにニコニコのニコの人格を作った。2つの人格は、少しづつ、それぞれが役割を担うようになった。』




去年体育館裏の階段で座って膝に顔をうずめて言ったニコの言葉を、慎一は思い出す。

『俺、去年、ニコが・・・いや、どっちの人格だったかはわからないけれど、りのか、ニコかどっちなんだろうって、言ってたのを聞いていたのに。俺は理解できなくて、気づいてあげる事が出来なかった』

『無理もないよ。私でも見抜けなかった。』そう言って、眉間のしわを作り首を左右に振る。『言い訳に聞こえるかもしれないが、解離性意識障害 というのは、普通は本人とは大きく異なった性格の、別の人間を作り出すものなんだ。女の子が男の子の人格を作ったり、大人が子供の人格を作ったり、今の自分が嫌だから全くの別の人になってしまおうとするのが、解離性意識障害の特徴 。だけど、りのちゃんは驚くことに、自分の中に自分を作り上げた。罪の意識なく笑えるニコニコのニコを、だから本人さえも、人格が入れ替わっていることに気づくことなく、入れ替わりは境界なくとてもスムーズだった。英語が必要な時は、りのの意識が主導権を握り、皆とコミュニケーションを取るときはニコが主導して笑う。ここまで細部に2つの人格が入れ替わる症例は珍しいというか、初めてでね。』

珍しい症例ということは、治療の方法が確立されていない事を意味するのでは?と慎一は不安になる。村西先生は、書かれたニコの人生経路図にペンを置き、話を続ける。

『さつきさんが倒れたことを自分のせいだと思ったりのちゃんの人格は、ショックで引きこもり、ニコが主導権を握った。ニコと呼ばれていたのは日本で住んでいた時だけ、だからニコの人格では英語が理解できない。痛みを感じられなくなった症状に関しては、脳内物質のバランスが崩れている可能性が考えられる。後で血液検査をして詳しく見てみるけれど、アドレナリンの分泌が過剰によるものであるならば、それを抑える薬を投与することですぐに正常に戻ることができる。』

『私が倒れてしまったから・・・』さつきおばさんは消え入るような声でつぶやく。

『さつきさん、自分を責めてはいけませんよ。あなたはりのちゃんに不自由な生活をさせないようにと頑張っていました。りのちゃんもママに負担をかけたくないと、お互い同じことを想い気遣っていた。ただ、りのちゃんは、その心が子供だけに強く体に影響が出てしまった。』

『りの・・・私はまた、あの子を追い詰めて』身を小さくして膝の上の手をぎゅっと握るさつきおばさん。

『今後の事を考えましょう。』村西先生は、慎一に軽く微笑み頷き続ける。『日常生活に問題がなければ、このまま様子を見て、ニコの人格を通じて会話をし、りのちゃんの意識が答えてくれるのを待つしかない。』

『待つ・・・どれぐらい?』

『それは、りのちゃん次第。すぐに答えてくれるかもしれないし、一週間後、一か月後かもしれないし、もしかしたら一生答えてくれないかもしれない。』

『そんなっ、それじゃ、ずっと偽物のニコと付き合っていかなくてはいけないってこと?』

『偽物っのは、語弊があるね。どちらも、真辺りのであることには変わりない。ニコの人格で何か問題でもあるかな』

『ニコじゃ、英語ができない。』

『日本語ができないより、ずっとマシじゃないかな。』村西先生はクスッと笑って、椅子の背もたれに背をあずけた。

『英語ができないと、特待を外される』

『事情が事情だし、説明をして、病状酌量してもらおう。去年の強打事件の事あるから、学園は考慮してくれるのではないかな。』

『あ、はい・・・確かに、柴崎と凱さんはニコを見捨てたりはしないって、さっきも言ってくれました。』

『じゃ、問題ないね。』先生は、カルテを引き寄せて、何かを書いた。

様子を見るだけの治療って、慎一は納得がいかない。ずっと偽物のニコと付き合っていかなくてはならないのは自分や、さつきおばさんだ。隣に座るさつきおばさんを見れは、うなだれて、唇を噛んでいる。

『慎一君は、納得がいかないようだね。』覗き込むように慎一の目を見る村西先生。それには何も答えずに慎一は、険しい表情を崩さない事で意思を示した。『精神科医はね。患者の意識を認める事から治療を始めるんだよ。二重の意識があるなら、どちらの意識も認めてあげる。別の人格を否定する事は、作った本人を責める事になる。誰も好んで病気になったりしないよね。インフルエンザにかかって病院を訪れた患者さんに対して、内科医は「どうしてウィルスなんかを取り入れたんだ」って責めるかな?』

『いえ。』

『私の見解だけどね、うつ病などの精神疾患よりは、解離性意識障害の方が見通しが良いと思っている。』

『ずっといいって、人格が二つあることが?』

『あぁ、うつ病で死なれるよりずっといい。』

死・・・

『解離性意識障害は、患者独自が現状からの回避という処置をした結果、言ってみれば治療が終わっている状態。』

この先生、本気でニコを治療しようとしている?慎一は疑い感情を隠さず睨みつけた。

『君も、死にたがっているりのの人格よりは、笑っていられるニコの人格の方がいいんじゃないかい?』

『俺は・・・』

突然扉を激しく叩かれる。

『すみません、先生、りのがっ』柴崎の声だった。『いくら呼びかけても起きないんですっ』



一週間を超えて眠むれなかった分を取り戻すようにりのは眠り続ける。

扉がノックされて、村西先生が病室に入って来た。

ベッドに歩み寄り、点滴のスピードをチェックした後、りののこめかみに張り付けた睡眠の質を計測する機械のモニターを覗き、難しい顔をして鼻をつまむ。

「先生、このまま起きないって事ないですよね」

「うーん。それもりのちゃん次第だね」昨日から、そればかり。「脳波の検査では異常は見られなかったけれど、この睡眠の質の波形が、ちょっと不思議でね。」そう言うと、村西先生は慎一に聞こえない音量でブツブツと何かをつぶやく。「まぁ、焦らず、しばらくゆっくり眠らせてあげよう。」そう言って、慎一へと笑顔で振り向く。「それより、慎一君、医師的に見れば、りのちゃんより君の方が心配なんだか。昨日は寝てないでしょう。」

「・・・大丈夫です。」

「そうかい?続くようなら、薬を処方するよ。眠るきっかけを作る為に、常用しなければ大丈夫だから。」

薬は昔から苦手だ。慎一は泣きながら飲んでいた。それをニコは、『慎ちゃん頑張れ。ごっくんして。』と笑って応援してくれていた。だけど、薬を飲まなければならない病気は、いつもニコからの経由でうつされていて、慎一が病状に苦しんでいる時には、すでにニコは治っている状態だった。子供の頃のように、ニコの苦しみを俺に移すことが出来たなら、俺は喜んで苦い薬も我慢して飲む。 

村西先生が部屋を出ていくのを、ドアの開け閉めの音だけで知る。 

目を覚ますか覚まさないかは、りのの意思。

おとぎ話の眠り姫は王子様のキスで100年の眠りから目を覚めるけど、自分は当然に王子様なんかじゃない。

このまま眠っている方が、りのは幸せなんだろうと思う。特待生の圧力も、嫌な記憶に悩ませる事もない。りのは今、どんな夢を見ているのだろうか?

夕焼けのオレンジの光が部屋を包む。青白い顔だった眠り姫の顔にも、ほんのりオレンジが差し込み、陰影度が増した。

慎一は、そのきれいな顔に手を伸ばし、頬に触れる。

王子のいない眠り姫は、夢の中で夢を見る。

楽しい夢でありますように。





 『またニコちゃんマークばっか書いてるぅ。』

 『だって好きだもんニコちゃん。へへへ簡単だよ。ほら、○とこれ3つで、顔になるんだよ。』

 『りのに似てるこれ。わかった。りのはニコだ。』

 『?』

『りのは、いつも笑ってるからニコニコのニコ!これからニコって呼ぶ!』

『あら、可愛いあだ名ね。』

 『うん、ニコニコのニコ!慎ちゃんが、つけてくれたぁ。』



 『ゴール!少しの差でニコちゃんが一番ね。』

 『やったー!』

 『くっそーっ』

 『もう一度っ!』

 『えーまだやるの?あなたたち?』




リノ、タクサンアソンダネ。

「うん。沢山、遊んだ。」

モウ、オワリダヨ

「うん、もう、終わり。見誤ると、楽しいが辛いになる。」

オイデ、ソノテヲ

「うん、パパと一緒に行く。やっとソノテヲ繋げたね。」




王子のいない眠り姫は、強い意思で目を覚ます。

ゆっくりと瞼を開けたりのは、夕闇の迫る薄暗い病室をゆっくりと見渡す。

「ママ、どこ?」

「りの、良かった、気分は?」慎一はほっとして、椅子から立ち上がった。するとりのは険しい表情で身体をこわばらせたように見えた。ベッドの頭上にナースコールのボタンがある。それを取ろうと慎一は手を伸ばす。

「いやー!イヤイヤ、ママ、パパどこっ!」急に叫ぶりの。

「すぐ呼ぶから、待って。」りのは慎一を避けるように、ベッドの端へ逃げずり落ちた。こめかみにつけていた睡眠の質を計測するソケットが外れて、機械のエラー音が鳴り、りのの腕から点滴の針が飛び抜かれ、白いシーツに点々と染みを作った。

「ニコ!」もう、ニコとは呼ばないで、りのと呼びかけよう。と皆で誓い合ったのに、早速、破ってしまった。

「イヤ、イヤ!ママ、パパ、どこ!!怖い、」

パパ?異常に怖がり叫ぶりの。近寄れば、後ずさりされて怯えられる。

「誰?ここどこ?」

「えっ?」慎一は、その言葉に動きを止めた。

「ママぁ!パパぁ!怖いよ、知らない人が・・・・」

薄闇の迫る病室の片隅で怯えるりのを前に、

世界が急速に狭くなっていくのを感じた。














麗華は、クラブを終える藤木を待って一緒にニコ・・・じゃなくりのの病院に駆け付けた。学校を休んだ新田からは何も連絡はない。神奈川医科大学付属病院、精神科医病棟は本館の隣に別棟がある。総合病院内で精神科として設けている施設としては、国内最大の規模だと聞く。ニ、じゃなくりののお母様が、東京からこっちに戻ってくる決心をしたのは、この精神科の設備が整っている病院があったからというのも大きな理由の一つになったに違いない。

昨日、倒れこむように眠って起きなかったニ・・・りのは、そのまま入院となった。

エレベーターで3階に上がり病室へ向かう。病室から子供の笑う声が聞こえて、麗華は部屋を間違えたのかと思いプレートを確認する。名前はちゃんと真辺りのと記されたプレートがある。藤木と顔を見合わせた。

藤木が部屋をノックすると、子供の笑い声は止まり「誰か来た!ママ!誰か来たよ。」という声。

扉が開けられ、りののお母様が顔を出す。

「柴崎さん、藤木君・・・」麗華たちの顔を見たとたんに渋い顔をしてうつむいてしまった。

「おば様、ニじゃなくて、りのは?」

「誰?誰が来たの?」大きすぎる青い病衣を着たりのが、はだしで駆けて来て、きょとんとした目で麗華たちを見る。

「今日は、お客さんがいっぱい。」そう言うとりのは踵を返して、ベッドへと駆け戻り飛び乗った。そしてびょんぴょんとトランポリンのようにしてはねる。

これは何?

麗華はあぜんとした。

「りの・・・今はニコの人格のあの子は、5歳にまで意識が退行してしまったの」

「退行?」藤木もあぜんとして目を見張る。

「えりのことわからないんだ、ニコちゃん。」ソファに座っていたえりが首をふり、うなだれた。

「キャハハ!ママ、見て、ほら、かえるさん」

「駄目よニコちゃん、危ないからぴょんぴょんしないのよ。」新田のお母様がりのの動きを止める。

「ニ・・コ・・・」麗華は恐る恐る子供のようなニコに近寄った。

「お姉さん、誰?」首をかしげてまっすぐ麗華を見つめるニコ。

胸が締め付けられる。

「慎にぃの事もわからないの、みんな忘れてしまった。」とえりがつぶやく

「違うでしょ、5歳のニコちゃんでは、えりや柴崎さんたちとは、まだ出会ってないからわからないだけでしょう。さっき先生がそう説明していたじゃないの。」と新田のお母様が説明をする。

麗華は、そこでやっと窓際の隅でうつむいて身動ぎしない新田の姿を視認する。

「柴崎さん、ごめんなさい。こんな状態じゃ学校にはもう・・・考慮してもらっても行けない。」消え入りそうな声で最後には涙越えになったりののお母様。

「おば様・・・」

あぁ、なんてこと。どうして、こんなことに。

私は今まで何をしてきたのだろう。

真辺りのの為に使うべき、常翔学園経営者の娘である特権が、使えない。

さすがに5歳児の退行してしまった生徒を特待性として受け入れられることは不可能だ。





解離性意識障害を発症していた真辺りのは、ニコという人格を作り出し、これまでの日常を細部に入れ替わり役割を担って生活していた。母親が倒れた事をきっかけに、本体であるりのの人格は引きこもってしまい、作られたニコの人格が主導権を握った。

ニコの人格では海外生活の経験がない、ゆえに英語ができない。だからニコは、英語の授業をさぼるようになった。

痛みのなさは、脳内物質のバランスが崩れている事によるもので、それは薬を投与することで改善される。睡眠に関しても同様で、それは、意識を失うように眠り始めたことによって、治療の必要はなくなった。

昨晩、亮は柴崎と共に、そのような病状の診察結果を新田から聞かされた。

そして新田は言った。

『俺たちは、間違っていたんだ。ニコと呼んで楽しい記憶をたくさん作っても、イジメられて、父親が死んだ辛い過去に上書きはされない。辛い過去を経験したのはニコじゃなく、りのだったから。逆にニコと呼ぶ事によって、俺はニコに・・・・違う、りのに笑えと強要していた。りのはいつも言っていた。ニコって呼ぶなと、あれは、りのからのSOSだったんだ。俺は気づいてやれなかった。村西先生は、りのもニコもどちらも真辺りのであり、ニコの人格のままでも問題がない。彼女の中では、二重の人格を作ることで精神的治療は終わっているって言うけれど、それでは、あまりにも、リノ本体の方がかわいそうだ。俺はもうニコとは呼ばない。ちゃんと本当の名前である「りの」と呼び、りのとの楽しい生活の記憶を作り直したい。』

亮も柴崎と共に、同意して頷いた。

なのに・・・

「駄目よ、ニコちゃん危ないからね。ほら、こっちでお絵かきをしましょう。」新田のお母さんがニコちゃんをベッドから下ろし、テーブルへと促す。

テーブルにはクレヨンとスケッチブックが置かれている。えりりんは普段では考えられないぐらいに暗い表情で立ち上がり、自分の母親に椅子を譲った。

「何を書こうかなぁ」この中では、新田のお母さんがいち早くこの状況を受け入れて対応している。心に悲観的な思いはなくはないが、コンロールしてそれを表に出さないようにしている。

「あかっ」クレヨンを掴み上げてポイッと投げるニコちゃん、「あおっ」「きいろっ」次々に投げ捨てる。

「あらら、投げちゃだめよ。ほら、これ、なーんだ。」新田のお母さんが画用紙にオレンジ色のクレヨンでニコちゃんマークを描いた。

「ニコちゃん!ニコもかくうっ」その口調、仕草は5才児その物。当然、ニコちゃんの本心は読めない。

ニコちゃんは楽しそうにニコちゃんマークを描いて笑う。

「上手ね、ニコちゃん」微笑む新田のお母さんに対して、心身共に絶望の色を濃くして、うつむくニコちゃんのお母さんと新田。

「これはぁママ、これはぁパパ。ねぇ、パパはぁ?パパに見せる。」

「パパは・・・」ニコちゃんのお母さんは言いよどんで、顔をそむける。

「ニコちゃんのパパね、お仕事に行ってるのよ。」と新田のお母さん

「おしごと。」

「そうよ。お仕事が忙しいのね。」

「おしごと、おしごと。ニコもおしごと。」ニコちゃんはスケッチブックをめくり、新たなページにニコちゃんを描いていく。

「ニコちゃんもお仕事が忙しいね。」

5歳児のニコちゃんは今、幸せなのだ。特待生としての重圧も、日本語のコミュニケーションができない苦しみもない。

そして、父親の死を知らない。だから、亮達は、思い出して、もとに戻ってとは言えない。

新田が耐えかねて病室から出ていった。その姿を追う柴崎が、手を胸にして唇をかんだ。今まで何をしてきたのか、何をしなかったのかと、心の中で自分を責めている。

それは亮も同じだった。約束したのに、こんなになるまで、自分は何をしていたのか。気付いていたのに、何を遠慮して躊躇してたのだ。

居たたまれない。亮は息苦しくなって、柴崎を促して病室を出る。

えりりんも亮たちの後を追ってついてきた。

廊下のドアのすぐ横で座り込んだ新田が、頭を抱えて泣いていた。

その姿を見た柴崎が鼻と口を押えて涙ぐむ。

このままだと新田の精神の方が壊れる。ニコちゃんのお母さんもだ。

柴崎もえりりんも新田に引きずられるように更に落ち込んだ。

自分だけが、まだ冷静でいられている状況に、やっぱり藤木家の卑しい血を継いでいるのだなと、こんな時にも思う。

亮は大きく息を吸い込んだ。そして長く長く吐き出す。

「えりりん。黒川君は今日、柔道の練習かな?」

「黒川君?ううん、じゃないと思うけど」えりりんは目じりに涙を浮かべながら、不思議そうな表情を亮に向ける。

「じゃ、もう、家に帰っているかな?悪いけど電話してみてくれない。」

「えっ?う、うん。いいけど、でも、どうして?」

「ちょっと頼みたいことがある。」





いつも通り、藤木さんは優しい微笑みをえりに向ける。

こんな時に、黒川君に頼みごと、っていったい何だろう。えりには全く想像がつかない。

とりあえず、言われたとおりに、ポケットから携帯を出して黒川君に電話をした。すぐに電話は繋がる。

「あっ、黒川君、ごめん、今家?柔道の練習は今日はないよね。」

「うん、ないよ。どうして?」

「えっとね。藤木さんが頼みたいことがあるって」

「藤木さん?」不思議そうな声で返答してくる黒川君。あのいたずら誘拐の時に接点があっただけで、黒川君はクラブも違う3年の先輩と話が出来るほどに仲良くなっているわけではない。

「うん、代わるね。」藤木さんに携帯を渡した。

「突然、ごめん、黒川君、君の力を借りたい。」そう言うと藤木さんは、私達から背を向けて少し離れ、口元に手を添えて小声になった。「ハッカーとしての君の力を」

何をするつもりなのだろう。ニコちゃんが大変な時に一体、ますます想像がつかないで、こみあげてきていた涙は止まった。

「理事補?凱さんの事?・・・・・・・・・・じゃ、凱さんの了解があれば出来るんだね。・・・・・・・・・パソコン?ぁぁ、わかった、それを含めて凱さんの了解は取るから、えーと今から外出はできる?うん、そう。じゃ、ちょっとこのまま切らずにちょっと待って。」藤木さんは自分の携帯を制服のポケットから取り出すと操作をし反対の耳にあてる。

「藤木、一体何?」柴崎先輩も、訳のが分からない藤木さんの行動に首を傾げた。

「凱さん、お忙しい所すみません。頼みがあるのですが・・・黒川君の技術を俺に貸してもらえませんか?・・・ はい、黒川君が凱さんの持っているパソコンじゃないとと言っているので。りのちゃんの為に調べたいのです。そのパソコンを貸していただけたら、これから柴崎邸でやろうと思います。お借りしていいですか?詳しくは、会ってからお話します。あっ凱さん、今からじゃ無理ですか?・・・・すみません。よろしくお願いします。」

えりは柴崎先輩と目が合い、互いに首をすぼめて首を横に振った。

藤木さんは自分の携帯をポケットに仕舞うと、まだ繋がっていたえりの携帯でまた黒川君と話し始める。

「お待たせ、聞こえてた?了解は取ったから。えーと君の家は・・・・うん、じゃ東静線の大学病院前駅のタクシー乗り場で待ってるから。突然で悪いけど。」そうして、携帯を切ると、ありがとうと笑顔で返された。

「ちよっと何?一体」柴崎先輩が詰め寄る。

「行くぞ、詳しい事は、お前ん家で話す。」

そう言って、藤木さんはエレベーターのある方へ大股で歩き始めた。柴崎先輩とえりは慌ててあとを追う。

「待って藤木、新田は?どうすんのよ。あれ・・・・」

ニコちゃんの病室の前で、慎にぃは座り込んで力なく泣いている。藤木さんが電話していた時も耳に入らないように身動き一つしなかった。生まれて初めて、慎にぃのあんな姿をみた。ニコちゃんが、何度か入院した時も落ち込んでいたことはあったけれど、泣いた事はなかった。

「どうせ人数オーバーでタクシーに乗れない。ほっとけ。」藤木さん目を細めて慎にぃを一瞥すると吐き捨てるように言った。

「えっと、えりも行っていい?」えりは恐る恐る聞く。対してえりにはにっこりとほほ笑んでうなづいてくれた。

「遅くなるかもしれないから、後でちゃんとお母さんの了解もらうんだよ。」

「うん。」

ニコちゃんの為に何かをしようとしている藤木さん。

馬鹿なえりには、何をするかは想像もつかないけれど、参加を許されたことがうれしい。

あぁ、あたしはなんて単純なんだ。






和樹は携帯を切ると、机の上のノートパソコンを起動したまま閉じて、机の脇にぶら下げていたリュックを手に取りパソコンを押し込むと部屋を飛び出した。軋む階段を駆け下りる。

仏間にいるお母さんに「出かけてくるね」と声をかける。当たり前のように何も反応はしない。

おじいちゃんは柔道の指導に行っている。後でメールを送ればいい。きっと今日は遅くなる。あのPABを使うのだから。

玄関を出て、スニーカーを履きながら和樹は見上げた。民家の屋根越しに大学病院の高い建物が、夕日を受けて光っている。そこを目指して和樹は駆けだした。和樹の家は、大学病院から徒歩12分の場所にある。走れば半分とまでは行かないにしても10分以内には着く。住宅街の細い道を右に左に走り抜けながら、和樹はPABを使える嬉しさに顔がにやけた。

しかし、何をするのかは不明で予測もつかない。

藤木さんは理事補との会話で、「りのちゃんの為に」と言っていた。りのちゃんとは真辺さんの事。そういえば、今日えりが、もうニコちゃんと呼んだら駄目なんだって言っていた。詳しい話はしてくれなかったけれど、真辺さんの病気が悪化して、今入院中ということは聞いた。えりのお兄さんたちはニコというあだ名はもう使わずに、ちゃんとした名前で呼ぶと、えりにも念押しされて約束させられたと聞いた。だから、何か真辺さんの為になるような事をするのだろう。PABを使える事に加えて、頼られることのうれしさ、しかもあの美しい真辺さんの事でだ。和樹は高揚して息巻いていた。

大学病院裏の駐車場のフェンスに沿って、表側へと出るロータリーの歩道でバス待ちをしている人の並びを分断するように抜ける。

駅の正面、タクシー乗り場の所に藤木さんたちが待っているのを見つける。えりが和樹の姿を見つけて手を大きく振った。

「すみません、お待たせしました。」

「ごめんね、急に呼び出したりして。はい、とりあえず息を整えようか。」とペットボトルの水を和樹に差し出してくる。

走ってくることを見込んで買ってくれていたみたいだ。

素直に受け取り、和樹は水を一口飲む。和樹が一息ついたのを見計らって、藤木さんは止まっていたタクシーに乗るを意思を告げて扉を開けてもらう。柴崎先輩がどうぞと言って、和樹を先に乗るよう促してくれた。言われるがままに和樹はタクシーの後部座席の奥へと座った。えりに続いて柴崎先輩が乗り、助手席に藤木さんが乗り込んだ。柴崎先輩が隣の町の香里市の住所を告げて支払いは柴崎家のツケでと言うと、運転手が途端に身体をひねり、後ろの柴崎先輩に大きく頭を下げた。「いつもご贔屓にありがとうございます。」と愛想を振りまいた運転手に、柴崎先輩は「さっさと出して」とぴしゃりと言い放った。

タクシーはロータリーをほぼ一周して東静線の高架下を抜けて県道167に出る。

何をするか、タクシーの中で話してくれるのかと和樹は待ったけれど、誰も何も言わない。和樹はえりに「今から何をするの?」と耳打ちをしたけれど、えりは首を振ってうつむいた。えりも柴崎先輩も元気がない。

茜色の空に、藍色の夜が迫りつつある。すれ違う車にヘッドライトが付つきはじめた。

とりあえず、和樹は両手の指を組んで関節の柔軟をしておくことにした。





藤木君からの電話を切ると、凱斗は事務机の引き出しから小さな鍵を取り出し、理事長室へと向かった。理事長室の廊下側の端の一角に理事長と並んで凱斗のロッカーがある。理事長はつい先ほどサッカー連盟へと出かけたばかりで不在だ。

カーテンの開けられた理事長室は、暮れていく夕日が斜めに差し込み分断している。

電気をつけずに凱斗は廊下側の隅にあるロッカーへと進み、鍵穴にカギを差し込んだ。

スチール製の軽い扉を開ける。ロッカーの中には、いざというときの万能な黒いスーツが一揃えでかけられているから、真っ暗闇だ。凱斗は底にある布製の黒いリュック型のビジネスバッグを掴んで取り出す。

ジッパーを開けて中身を確認する。深いトーンの迷彩柄のノートパソコンがビジネスバックとミスマッチだ。だけど、この見た目、おもちゃのようなこのノートパソコンは、3メートルの高さから落としても壊れない、砂漠の砂嵐の中でも使用できるという代物で、アメリカ軍が今年採用した特注品である。米軍時代の知り合いを伝手に手に入れた。頑丈さだけが売りじゃないこのパソコンはその性能も化け物だと専門家は言う。この一台で、サイバー攻撃を防ぐ力と逆に攻撃する力があり、使う人間次第で、アメリカの軍事機密を盗んでくることも可能。原子力発電所のシステムサーバーを占拠して爆発させることなどルービックキューブを揃えるぐらいに簡単にできる性能がある。凱斗は、そんな化け物のPAB2000のパソコンをこの常翔学園に通う生徒に使わせるために用意した。

黒川和樹13歳は、12歳はなれた警察官だった兄の死因を知りたい一身で、ハッカーの腕を磨いていた。

警察のデーターベースにハッキングできる高性能のPCを手に入れる資金を稼ぐべく、常翔学園の名簿をハッキングして手に入れて売った。そして一年前に不祥事を起こした社会科の教師と供託して、常翔学園から慰謝料を手に入れようとして、凱斗達に見つかった。普通なら即刻退学処分にしている所だ。それをしなかったのは、黒川和樹が警察庁警視監の息子であることの、彼の正義感を信頼したと言えば聞こえはいい。実際の所、忖度をした。退学にしなかった事を後に活かせるようにできれば、と考えた。

それが、思いのほか、黒川和樹自身のハッキング能力が特異的であることが発覚した。

VID脳持つハッカーは、世界で数人、三次元の電脳世界をイメージして、ハッキングしていく。VID脳を持つハッカーはアメリカCIAからもお誘いが来るほどに貴重で最強。そんな能力を黒川和樹が持っていた。

その能力を持ってしてレニー・グランド・佐竹から狙われた子供たちを助けるために、凱斗はこのPAB2000のパソコンを用意したのだった。結果的に凱斗自身が救われた形になったけれど。

まだ13歳の子供に、ハッキングという犯罪行為をさせる。その罪は自分がすべて背負う。なんて言葉だけは立派な決意を心に刻んで挑んだ事だったが、それは単なる自分が無能である責任転換でしかない。何を理由に掲げても子供にハッキング犯罪をさせる事には変わりない。言い訳にしかならないのだ。

理事長室の廊下側の扉の戸締りを確認してから、窓際の事務室へと通じるドアから出る。側にいた事務長に帰る旨を伝えて事務室から出る。最終下校を過ぎた校舎は照を落とされ、静かにひっそりとしている。いつか見た風景、血生臭い記憶がよみがえりそうになり、凱斗は記憶の本棚から適当な辞書を数冊呼び起こし、開いて、片っ端からめくっていく。たくさんの文字、単語が脳内に埋め尽くされ、脳はフル回転でそれを読解しようと処理に忙しく熱を発する。そうした脳の状態のまま外に出た。裏門の職員用の駐車場は裏山の影に入り空気も冷たく頭が冷却されて心地いい。大きく息を吸い込み、そして吐きながら脳内の数冊の辞書を同時に閉じた。たくさんの文字は一瞬で消える。自分が正常で居られている安堵と無念さを胸に、ビジネスバッグを背中に背負った。

バイクにキーを差し込んで押して門を出る。

柴崎邸までは10分もかからない。帰宅ラッシュの車の渋滞の合間を縫うようにしてあっという間に柴崎邸に着いた。

柴崎邸のセキュリティロックを解除し、広い敷地内へとバイクを押し進める。

迎賓館を思わせる洋館の脇にバイクを止め、屋敷に入る。住み込みのお手伝いである林さんが玄関ロビーに出て来て、凱斗に一礼をする。いつもの通り、「お邪魔します。」と言って返礼し、一階一番奥の部屋へ向かい、翔柴会会長の部屋をノックした。返事を待って、「凱斗です」と声をかけて中に入る。

「あら、今日は早いわね。」手に持っていた書類から顔を上げて、壁際の時計に視線を這わせてから凱斗に顔を向けた文香さん。

学園から帰宅するときは、必ず柴崎邸に寄って一日の報告をしてから横浜のマンションに帰る。最近、ここに寄る時間は遅くなっていて8時ぐらいになっていた。

「はい、藤木君に頼まれまして。」

「藤木君に頼まれた?」

「はい、会合室と来客用の部屋を、お借りします。」

「凱斗、そんな事いちいち了解取らなくてもいいと言っているでしょう。この屋敷は好きに使っていいのよ。いずれあなたが継ぐ物なんだから。」

「はい。」

「逆に、そのよそよそしさは、私達を傷つけていると思わなくちゃね。」

「そんなつもりは。」

「ふふふ、これぐらい言わないと、治りそうにないからね。凱斗は。」

「気を付けます。」

「で、何をするの?」

「分かりませんが、藤木君がりのちゃんの為に、黒川君のハッキング能力を貸してほしいと。」

文香さんは一瞬で険しい表情になる。

「何をするかはこちらに到着してから話すと、病院から電話してきているようでした。」

「りのさんの具合は?」

「真辺さんから今朝、学園に電話がありました時には、容態についてはおっしゃることなく、ただ今日はお休みさせていただきますとだけ、それ以上は踏み込んで聞けませんから、ただわかりましたとだけ申し上げて電話を切りました。麗華と見舞いに行ったのでしょう。今からこちら戻ってくると言っていましたから、すぐに詳しい容態を聞けます。」

「そう・・・」文香さんは眼鏡をはずして目頭をもむ。「黒川君のハッキング能力を使って何をするつもりかしら」

「まったく、想像もつきません。藤木君から電話があった時には、すでに黒川君に力を借りたいと打診していて、黒川君が僕の了解を取らないとと言ったので、こちらに連絡が来ました」

「うーん。黒川和樹君、この間、学園であの子の内面を視たけれど、ずっとレニーウォールのハッキングが中途半端に終わってしまって、悔しい気持ちが拭いきれないでいるわね。お兄さんの事もまだ納得しきれていない。すべてが中途半端で、あのままだと、また、あなたに内緒で、とんでもない事をやってしまいかねない危うさを持っているわ。」

「やっぱりですか。僕もそれは、気になっていました。康汰も和樹は、兄の弘樹と違って何をするかわからない目をしていると言っていましたから。」

「えぇ・・・あの子には、何かを、達成させてあげる必要があるわね。お兄さんの事が明らかに出来ればいいのだけど。」

「それは無理です。康汰もあれ以上は無理だと、僕にも内容を明かしませんし、黒川君のお父さん黒川察監が、家庭を捨てでも妻や黒川君に公表しない事件ですから。」文香さんは大きなため息を吐き、頭を抱えてデスクに肘をつく。

「仕方ありません、りのさんの為に使いたいと言う藤木君の頼みを、黒川君にさせてあげて、それを一つの達成感にしましょうか。但し、危険な場合は、中途半端でも、すぐに止めさせる事、そして、私にすべての報告をして頂戴。」

「わかりました。」

一礼して部屋を出る。ちょうど麗香たちが到着した。


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