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虹の記憶  作者: 湯浅 裕
12/20

夏色の恋



常翔学園の夏休みは少ない。8月1日~30日までの1か月間だけ。全館クーラー完備されている私立のお金持ち学校は寒暖を理由に休む理由がない。とは言っても、職員の休暇は必要だから、それなりに夏休み、冬休み、春休みはある。

修学旅行を6月末で終え、個々の思い出話しが尽きた頃、クラスの学級委員、男子の今野くんと、女子の佐々木さんが、ある企画を提示してきた。

「キャンプ?」 

「そう、修学旅行は、バラバラの行き先だったじゃない。なんかね、中等部最後の学年なのに、寂しいなぁと思って。クラス全員で、どっか行きたいねって私達の中で盛り上がって。その話を今野に言ったらね、実家の方に話をつけてくれて。で、これになったの。」

と指さしたのは、パソコンのワープロで作った企画書。3年5組親睦キャンプと書かれてある。

「で、正式に、クラスの皆に配る前に、行けるかどうかを聞きたくて。この日程の都合もそうなんだけど、その・・・・。」とクラスの女子で一番背の高い佐々木さんは、言いよどんだ。継いで話を続けた今野くんは、佐々木さんより10㎝近く低くて、クラスの男子で一番背が低い。

「場所は、俺の実家がやっている施設だから、宿泊費は子供料金でと話つけて、食事は自炊でって、費用は抑えたんだけど、交通費だけはどうにもならなくて。なんせ離島なもんで、海を渡んなきゃいけないから。」

今野くんの実家は、相模湾沖の島全土をリゾート開発した中のホテルを経営をしているという。

ホテルを開業したのは10年前。それ以前は熱海で旅館を経営していた。大手ゼネコンから、今野家が持っていた無人島をリゾート開発の為に売却話が持ち込まれた。今野家は、熱海の飽和状態にある旅館業に見切りをつけ、大手ゼネコンとの共同開発へと乗り出した。旅館を完全廃業し、住まいも島へ移したが、当然、島に学校はなく、今野は島から本土の小学校へ船で通学していた。船通学に嫌気がさし、中等部から寮のあるこの学園に入学してきたと聞いた。3つ年上の兄も別の学校で寮生活をしているという。

「言いにくいんだけど・・・・」

今野くんも、言いよどんで、困った顔を私に向ける。その視線が辛い。見ないで欲しい。だから視線を外して仕方なく言い放った。

「わ私が、こ、この費用を、だ出せるか、か?」

「ごめん。」その謝り、要る?余計に傷つくよ。

「あ、謝るひ必要、ない。い家が、び貧乏なのは、じ事実。」

「ニコ、その言い方は・・・・。」慎一が、私を咎るように苦い顔をするから、失敗に気づく。

「ご、ごめん。」とりあえず、謝っておく。

「ううん、ごめんね。新田君は行ける?この日程なら、サッカー部の練習もないって聞いたから。」

「あぁ、大丈夫だけど。」

企画書には2泊3日の日程で、費用は交通費込み3万円の予定と書かれてあった。

3万円は、大金だ。私にとっては。

弓道部の合宿も予定されている。秋にも全国大会に出場する為、山口まで遠征に行かなければならない。

「誰か一人でも行けない子がいたら、この企画はやめようと思っているの。」

私次第ってこと⁉そりゃないよ~。

「えっ、あ、あの、そ、それは・・・・」

「無理ならいいのよ、キャンプじゃなくて別のイベント考えるから。」

「だから、真辺さんの返事がまず欲しいんだ。悪いけど、今週中に行けるかどうか、返事もらえるかな。」

ありがた迷惑な心遣い、どうして、皆、そうやって私に構うの。ほっといてくれたらいいのに。


 お金がないって、こんなにも、しんどい事だと改めて痛感する。

この学園は経済的レベルが高すぎる。どっかの社長の息子だとか、医者の娘だとか、弁護士やら、ホテル経営、学園のお嬢様に大臣の息子までいる。あまりにも違いすぎる。こういう事を考えずに特待生の文字に飛びついた自分が馬鹿だった。

「あぁ~。」PCが並ぶ机の合間に、私は大きくうつ伏して胸に詰まった重苦しい息を吐いた。

「大丈夫?ニコちゃん。」外務大臣の息子、藤木亮がPC前の椅子に座り、自分のIDカードを私の脇にあるセキュリティボックスに差し込んだ。パソコンが立ち上がるヒューンという音がする。

「大丈夫じゃない。」

「ニコ、ちゃんと座って。」学園最強のお嬢様、柴崎麗香は堂々の腕くみでパソコンが立ち上がるのを待ち、その横では、テレビの取材が何度も来る人気フランス料理店の息子、新田慎一が佐々木さんから貰ったチラシを片手に、同じくパソコンの立ち上がり待ち。

私たちは、今野のリゾートホテルのホームページを閲覧しに来た。

「グンゼのパンツ見えてるぞ」幼馴染のデリカシーのない言葉。身体をひねって机に寝ながら、慎一にキックを入れる。が、さっとかわされた。

「へん!」と、得意げに笑う慎一。あの顔がむかつく!更にキックのお見舞い。   

「当たるか、短い脚。」何だとぉー、くそー。

「ちょっと、二人共、暴れなさんな。」

「ニコ、やめなさい。」

皆して、私の気持ちなんて、わからないんだ。生まれてお金に困ったことがない人達には、この惨めさを。こんな風に卑屈になる自分が嫌。何もかもが窮屈、どうにかしたい!テーブルから飛び降りようとしたら、パソコンのディスプレイ後ろにある数本のケーブルに手が入り込んで、引き抜いてしまった。と同時に、やっと立ち上がった画面が黒く落ちる。

「あっ!」

「ニコちゃん・・・・。」

藤木が頬を引きつらせて怒りを押さえている。やばい・・・・

「お行儀が悪い!」

女にマメで優しい藤木を怒らせる私、真辺りのは、母子家庭で、特待生として学費免除を受けて、やっと学校に通える身分。惨めだ。その肩身の狭い立場を更に小さく縮こまる。

「ご、ごめん・・・」

 藤木が手際よくケーブルを接続し直し、パソコンを再始動をする。藤木はこの中で一番パソコンに詳しい。

フィンランドの友達から動画通信をしようと誘われたのだけど出来なくて、藤木に相談すると、家まで来てくれて、パソコンの設定を見てくれた。だけど、私が使っているパソコンは、パパが生きていた時に使っていた古いノートパソコンだったから、これじゃ性能的に無理だと藤木に言われて、がっかりしていたら、最近、新しいのを買ったから、古い方をあげるとノートPCを持ってきてくれた。

だから、私が今、家で使っているパソコンはプロサッカーチームのステッカーの貼ってある藤木のお古。

藤木は新しいもの好き。携帯も新型が出たらすぐに買い換えている。PCもそうで、お古と言っても私には新品にしか見えない綺麗さだった。柴崎に下々の生活を知った方が良いぞと言う藤木だって、そういうところが、やっぱり名家のお金持ちの息子だなと思う。

「こ、壊れてない?」壊れてたら、弁償しなくちゃなんない。キャンプなんて、とんでもない話になる。

「大丈夫。」

「よかった・・・」安堵の溜息をつく。

「さっきの画面、出して。」

「ほいよ。」柴崎の指示にカチャカチャとなれた手つきでキーボードを打つ藤木。

「良い所ね。」

「凄いな、コテージで泊まってキャンプっていうから、もっとこう、田舎くさいの想像していた。」

「2泊3日の交通費込みで3万円って本当に格安にしてくれたのね。」

「み、見なきゃ、よかった。」

今野君の実家、今野リゾートホテルは、海に面した白い建物で、地中海風のおしゃれな様相をしていた。

プライベートビーチあり、プールあり、テニスコートあり、海と反して緑豊かな丘の山頂には大きな星を見る望遠鏡施設もあると言うから驚きだ。そのメインのホテルには泊まらず、バーベキュー施設のあるコテージが宿泊場で、これが、とてもおしゃれでかわいい。

映し出される写真は、リゾートの魅力あふれる物ばかり。ここでキャンプをしたら、それは、それは、楽しいだろう。見る前までは、費用のことを思って行く気にはなれなかった、けど、見てしまったら行きたい。でも・・・3万円なんてお金、絶対にむり。

「はあぁ~。」

「溜息ついているって事は、行きたいのね。」

「私が行かないと、この企画は無くなるんでしょ。」

それも、凄い重圧。皆に提案する前にって配慮はうれしいけど、うれしくない。結構きつい物がある・・・

「まぁ、そこは、あんまり考えなくて、いいんじゃないかな。今野と佐々木は、だから先に聞いてきたんだから、行けないって言っても責めはしないよ。」

「うん。でも・・・。」

「気にするなって言っても、気にしゃうわよね、ニコは」

「あぁ柴崎とは違うからな。」

「何よ!」  

まさか、自分がこんなにも困窮する家庭環境になるとは思わなかった。4年前までは。

欲しい物、やりたい事は、パパに言えば何でも買ってくれて、やらせてくれた。次の休日は、何をする?どこへ行こうか?パパとそれを考えるのも楽しかった。何かをするには、どこかに行くには、まずお金が必要だなんて考えもしなかった。

「ねぇ、今更だけど、ニコん家って、そんなに苦しいの?」

「こら、柴崎。」と藤木が叱る

「いいよ、遠慮はいらない。」

「ごめん、ニコ・・・。」

「そう、パパが死んで、全財産は鉄道会社に持っていかれた。パパの生命保険も賠償保障に取られて。残ったのはママ名義と私名義の少しの貯金。それも、こっちに引っ越して来る費用に使って、ほぼ無一文になった。芹沢家のおじいちゃんやおばあちゃんは、パパを死なせたとママを責めて絶縁状態。ママは一人っ子で兄妹はいない。真辺家はおじいちゃんが私が生まれる前に亡くなっていて、親族はおばあちゃんだけで、そのおばあちゃんも私達がフランスに居た頃に亡くなって。帰国後はおばあちゃんと一緒に住む約束で購入していた東京のマンションもパパ名義だったから、その家も賠償保障の対象で取られた。」

   

『さつきさん、あなた一体何していたの!、栄治が自殺だなんて!栄治はうつ病になんて、なるような子じゃなかったわ。あなたと結婚したから・・・・。さつきさん、あなたのせいよ。貴方が、栄治を殺したのよ!』

英『違う。違うの。殺したのは私。おじいちゃん、おばあちゃん、私なの。ママじゃない!ママを責めないで。』

そう言いたかったのに、日本語が出なかった。だから、英語で叫んだら。おじいちゃんとおばぁちゃんは、私を異国の子を見るような目で、「りのちゃんまで、こんな風になってしまって。」と眉間に皺を寄せて首を横に振られた。



「特待や、母子家庭支援のなどで、それなりに優遇はされているけど、やっぱり・・・・」学園にかかる費用が高いと、柴崎の前では言えなかった。ママは夜も昼も休みなく働いている。パパを死なせたのが私のせいなら、ママを休みなく働かせているのも、家が貧乏なのも、すべて私のせい。それなのに遊ぶ費用を出してなんて絶対に言えない。溜息をついたら、皆がしんみりしていることに気づいた。慎一まで、うつむいて困り顔。

あーもう、こんなの、うんざり!何も考えたくない!っていうか、考えてもどうにもならないのは明白。お金は湧いてこない。今野君と佐々木さんには、行けないって言うしかない。そうしたら、きっと佐々木さんは残念そうに、仕方ないわね。って優しく微笑む。せっかくクラス全員でと考えてくれているのに、私のせいでそれを台無しにする。

「あーもう!走ってくる!」

「ええー!?」

「何故!?」

どうして、今年はお金の事ばかりで悩まなければいけないの?もう、このモヤモヤでいっぱいな頭を吹き飛ばしたい。

「どこ行くのぉ!」

開けっ放しだった教室のドアへ駆け出し飛び出したら、誰かとぶつかる。

「おっと、りのちゃん!」

「 ご、ご、ごめん、なさい・・・・あっ、かか凱さ」


 凱さんが、今野リゾートホテルのホームページを見て、「良い所だねぇ」と目を細める。

佐々木さんが作ったチラシとホームページと私の顔を準に見て、「それで、また、りのちゃんは困っているってわけだね」と言う。

またって・・・・他人に改めて言われると、グサッとくる。私だって、こんな悩み抱えたくて抱えているわけじゃない。

「りのちゃん、アルバイトする?」

「!」

「凱兄さん、アルバイトは校則で禁止されているのよ。」

「そうだね、常翔学園中等部、校則第4章 風紀、第2項、アルバイトは原則禁止。と明記しているね。」

なに、そのフル暗記。改めて凱さんの能力に驚く。

アルバイト、出来たらいいのにと何度、思ったことか。

えりちゃんの家庭教師をしていたのは、あれは単なるボランティア的なもの、代償に晩御飯をごちそうになっていたけど、新田家は今や親せきみたいな関係になっているし、金銭は稼いでいないから校則には反しない。

「原則だからねぇ。」そう言って、凱さんは緩ーい顔を益々緩める。「原則って意味、辞書で調べてごらん。」

藤木が、手早く、ネットで辞書機能を呼び出す。けど、あんた辞書を丸ごと覚えている人じゃん、って心の中で突っ込む。

「【原則】 多くの場合に適用できる根本的な法則。」

「りのちゃんは、「多く」じゃないからねぇ。原則の反対語は例外でしょう。」と、しれっと言う凱さん。本当か?

時として、大胆に無茶苦茶な事を言う時があって、これで学園の理事長補佐をしていて、大丈夫か?と心配するのだけど、そんな無茶苦茶な解釈でも、アルバイトできれば、悩みは解決する!





期末テストが終わり、夏休みに入るまでの2週間は短縮授業となって4時間目までしかないが、クラブはある為、帰宅時間は早まることなく同じ時間。一分一秒でもサッカーをやりたい慎一にとっては、長く練習のできる最高の日々である。なのに今日は、顧問の石田先生が研修とかで午後から出かけていて、大学からのボランティアコーチも来ない日だったから、基礎練習だけで終えた。こういう時ぐらいは、陸上部にフィールドを開けてやらないと、陸上部や野球部からのクレームが酷くなる。

変に時間の余ってしまった放課後、早々に下校するのも惜しく、最終下校まで時間をつぶそうという話になった。着替えを済ませ荷物を持ってクーラーの効いた食堂へと入ると、窓際の決められた3年生のテーブルにニコと柴崎が向い合せで座っている。

近づくと、テーブルの上に折り紙や鋏、のりなどを広げて何かの工作をしていた。

「慎一、ちょうど良い所に来た。」

うっ・・・女のちょうど良いはろくなことがない。それは慎一の15年間生きて来た実感的教訓だった。

「これ、どうやって折る?」

「ん?」幼稚園児向けの折り紙の本を開いて、ニコは指さす。テーブルにはくしゃくしゃになった折り紙があちこちに散乱していた。

「何これ?」

「明日のスターリンで使おうと思って。」

ニコが、アルバイトをする事になった。と言っても、ファーストフードで、いらっしゃいませ~と0円のスマイルを振りまいているのではなく、学園が特別に用意した短期的なもの、ニコの英会話力を存分に使うものだった。

去年、英会話クラブでお世話になった、スターリンインターナショナルスクールのキンダークラスのお手伝いが、アルバイト先。キンダークラスは、こっちで言う幼稚園にあたる。スピーチ大会の為に、英会話クラブの人と訪問した時、学長が偉くニコの事を気にいって、また来てくれないかと打診されていたらしい。しかし、あの強打事件が起こり、その後の体調不良が続いたため、理事長は断り続けていたという。今年の6月になり、スターリン学園の子供たちの世話役として働いていた職員が産休をとり、人手が本格的に足りなくなった。スターリンの学長は、旧友の柴崎信夫理事長に、常翔大学の学生にボランティアの要請をしていた。本来は大学生の要請だったのを、凱さんの機転でニコに話を持ち替えた。

常翔学園の生徒は、高等部でもアルバイトをする人間は皆無だ。アルバイトするには、学園の承認を得なければならず、学園の生徒としてふさわしくない場所のアルバイトなら、許可はおりない事になっている。そもそも、アルバイトしなくても、金銭的に困るような生徒がいないので、したいと願い出た人間が創立60年の歴史ある学園でいなかった。と、これは、常翔学園経営者の娘、柴崎麗香から3人にもたらされた情報。

校則を無茶苦茶な解釈でニコのアルバイトを持ち替えた凱さんに対して、私が特例を作るわけにはと躊躇したニコ。

それも「じゃ、特待生規約に特別な理由があるときは、特例として、アルバイトを許可する。と改定するよ。」と冗談ぽく笑っていたのだけど。本当に特待生規約書原本を持ってきて、ボールペンで追記して理事長の判子まで勝手に取り出し、ポンと押した。「誰か何か言ってきても、これを見せればいいでしょう」と言って笑う凱さんに、慎一達は、唖然と口を開けるしかなかった。

ニコが、今、苦戦しているのは、折り紙の手裏剣の折り方。明日、そのアルバイト先、スターリン学園の5歳児クラスで、これで忍者ごっこをするという。

「ふーん。楽しそうだな。」

「うん。楽しい。」高揚なく無表情に折り紙の本に視線を落とすニコ。他人が見たら、とても楽しそうには見えず、虚偽で他人を排除したがっているかのよう。だけど慎一にはわかった。今ニコは心から楽しんでいるのだと。

「慎一、昔よく作っていた、わ。」

「あぁ、作ったなぁ。」

戦隊ものの忍者ヒーローが幼稚園の頃に流行った。慎一とニコは折り紙の手裏剣を武器に戦いごっこをした。二人はどっちも負けるのが嫌で、どっちもヒーロー役だから結局、喧嘩になって、二人の母さんに、いい加減にしなさいと怒られるのが定番だった。

「どれ・・・違う、違う、ここは、谷折で、こっちに、これを持ってきて」

「え~」

「そこは、きれいにビシッと合わさないと。ほら~、きれいにハマらないじゃないかぁ。」

ニコは、昔から、こういう手先のいる仕事は苦手で、昔、戦いごっこをした時の手裏剣は、当然慎一が作った物。慎一が作った手裏剣を作ったそばからニコが取るので、それも喧嘩の原因だった。

手裏剣は2枚の折り紙を左右別に折り方を変えたパーツを、最終的に組み合わせて仕上げる。細部を丁寧に折り合わせないときれいな手裏剣にならない。苦戦して作ったニコの手裏剣は雑で、投げてもすぐに2つのパーツが外れてしまうった。

「ニコは、見かけによらず不器用なのよねぇ。」失敗作を見て柴崎が笑い、ニコが不貞腐れる。

「柴崎、明日も行くのか?」

「そう、ボランティアとしてね。」

柴崎は、ニコと一緒に、スターリンへ行っている。柴崎が所属していたテニス部は、部長の白鳥美月と言い争ってから、ほとんど行っていない。生徒会が忙しいのもあるが、同じテニス部の慎一の妹、新田えりが柴崎に懐ついていて、美月との確執に巻き込まれるのを防ぐ配慮が大きい。生徒会が発案した、クラブバックアップ支援のプロジェクトも学園側に移行し、テニス部の幽霊部員となった柴崎は、暇を持て余し、ニコのアルバイトにボランティア、英会話の勉強と称して、ついて行くのは必然の事だった。

その柴崎は、画用紙を丸く切って、厚めの台紙に貼り、手裏剣の的を作っていた。

「新田、うまいわねぇ。」

新しい折り紙で、ニコの手が加えられない手裏剣を一つ作り、窓ガラスに向けて投げたらきれいに飛んでぶつかり落ちた。そこへ、藤木と、1年の時同じクラスだったサッカー部の杉本が合流する。

ニコのアルバイトの事は、他の生徒には内緒、柴崎と同じくボランティアを学園から頼まれたとなっている。

「おっ懐かしいな。俺も良く作った。」

「昔さ、流行ったよなぁ、忍者戦隊」

「あぁ、やったやった。バンダナ頭に巻いてさぁ。」

懐かしい話をしながら藤木も杉本も折り紙を手にとり折っていく。はたと気づくと、ニコは折り紙などそっちのけで静かに本を読んでいた。

「ニコ・・・・」

「出来た?」

「できた?じゃねぇ!」

「頑張れ。」

「涼しい顔して、頑張れじゃねぇ。ニコが作らなくてどうする!」

「 あはははは、ニコちゃん人を使うのうまいねぇ。」女に甘い藤木が目じりに皺を作って微笑む。「一体いくつ要るの?」

「20個ぐらい。」

「やってらんねぇ。」慎一は作りかけの手裏剣を投げ置いた。

「ひどい慎一!」英「子供たちの楽しみを台無しにする最低野郎!」

杉本が居る為、日本語がうまく出ない。そんな時英語に切りかえるのは英語の苦手な慎一に対する最大の嫌みなのだが、それをされても理解できない慎一に効き目がない事にニコは気づいていない。この場では、英語の得意な藤木だけが、耳を覆いたくなるニコの罵倒に苦笑いで頬を引き攣らせている。

「ひどいってなぁ、ニコの仕事だろう。大体、不器用なくせに、こんな物、発案するなよ。」苦手、いや嫌いの域にある英語が雰囲気的悪口を言われていると悟った慎一も、売られた喧嘩に買う。

「ぶ、不器用、言うな!」

「不器用じゃなかったら、このぐちゃぐちゃになった折り損ないのゴミはなんだ!」

「ひ、人には、向き不向きがある!わわ私は、向いている人に頼んでいる!」

「人に頼む態度とは思えん。」

「もう、辞めなさい。そうやって、すぐ喧嘩するの。」柴崎がいつものごとく止めに入る。

「わかった・・・・。英語の宿題、やってやるから、手裏剣作れ。」

「おっ、お前~」

「あははは、ニコちゃん良い所ついてきたねぇ。」どんな時もニコに甘く、味方をする藤木。

「いいなぁ。真辺さんに、やってもらうなんて、」

「き、岸本君も、い、いいよ、しゅ、手裏剣、つ作ってくれるなら。」

「ほんとぉ。」喜ぶ岸本。

「お前、それ、買収行為だぞ!」

「ひ、一人じゅ10個で、ぜ全部でさ30個。あ明日の、あ朝までに、家に届けて慎一。」

「はぁ?」

「えっ?俺も?いや、俺は、自分で宿題やれるんだけど・・・。」とばっちりの藤木は目をぱちくりさせる。

手裏剣を一つ作るのに2つのパーツがいるから実質の所20枚の折り紙を折らなくてはいない。

「やるとは言ってねぇ!って、どこ行く!」

「図書館!さ、査定のレポートがしなくちゃ。た頼んだ」

「逃げ足、早っ!。」

「やられたな。新田。」

「ったくぅ・・・・。」

「まぁまぁ、手伝ってあげなさいよ。ニコ、子供たちと遊ぶの、すっごく楽しみにしてるんだから。」

慎一は、大きなため息をついた。もうすぐ一学期が終わる。学期ごとに、ニコは特待生としての資質を問われる面接を受けなければならない。その面接に必要なのがレポートの提出。内容は何でも良い。

学期中に研究した事とか、図書館で調べたこととか、作文でも、論文でも何でもよいが、しかし、何でもよいと制約がないものほど、人は集約できずに頭を悩ませる。

「査定のレポートって、締切、木曜日って言ってなかったか?」

「そうよ。」

「あと2日しかないじゃん」

「私も、こんな事してる場合ないんじゃないって言ったんだけとねぇ、子供達と遊ぶ方が楽しいとか言って。」

「んで、ギリになって慌てているって訳か。」

「意外~。真辺さんも俺達みたいな事するんだぁ、きっちりやっていくイメージなのになぁ。」

「まぁ、そう思われても仕方ないねぇニコちゃんなら。」

「沢田もあの顔に騙されている口ね。」

「ニコは、猫かぶり過ぎた虎だからな」

慎一達三人は、仕方なく折り紙を折り始める。

で、やっぱり、女のちょうどいいはろくなことがない。と慎一は心の中で大きな溜息をついた。





スターリンインターナショナルスクールへのアルバイトは、7月半ばの期末テストが終わって短縮授業になってから行く事となった。全国大会に向けて、弓道部の練習と合宿もおろそかにできないから、凱さんがスターリンに行く日を調整してくれて、

私が何もしなくても、カレンダーに記入された日に行けばいいだけに、してくれていた。

カレンダーにかかれた12日間に1日5時間のお手伝い。終了日に4万円の給料を頂けるという契約。キャンプ代も払えて、お小遣いもある。お金の問題が解決した事が純粋にうれしいが、それよりも、スターリンの子供たちが可愛くて、とても楽しい。こんなに楽しくてお金を貰えていいのかなぁと思うほど。

今日でアルバイト4回目、昨日の終了式で学園は夏休みに入った。出かける準備をしていると、家の電話が鳴る。柴崎は辛そうな声を出していた。

「ごめんね、風邪ひいたみたい。」

「大丈夫?」

「ズビっ、熱はないんだけど、頭痛と鼻水がひどくて、ズズッ、それに生理痛も酷い。子供たちにうつすとダメだから、今日はついていくの、やめるね。」  

「ゆっくり休んで、お大事に。」

柴崎がいないとなると、大がかりな遊びはできないなと考える。私達が毎回遊びを考えなくても、本職の外国人スタッフがいるから、特に問題はないのだけど、子供たちのキラキラと期待する目を見たら、何かやってあげたいなと思う。それで考えたのが、この間の忍者ごっこだった。テニス部の幽霊部員になった柴崎は、毎日暇をしていて、時に土日に、私や慎一、藤木としゃべる為に学園に来たりしていた。だから、私がアルバイトすることになると、当然のごとくついてくる事になった。娘に甘い理事長は、英語の勉強になると、スターリンに話をつけていて、無償のボランティアスタッフとして、行く事になった。

柴崎の、子供を子供扱いしない対等の態度が5才児、特に男の子に受け入れられて、忍者ごっこで子供達に「れいか」と呼び捨てにされて慕われた。帰りの電車で、「あいつら調子に乗って」と怒った口調の柴崎だったけど、顔は笑っていて、嬉しそうだった。

「柴崎、大丈夫かな・・・・。」

東静線の横浜行きの特急電車に乗り込んだ私は、扉の横で立って外の景色を眺める。

熱は、ないって言っていたけど、凄い鼻声だった。そう言えば、柴崎が学校を休んだことは知っている限りない。いつもパワフルで、病気知らずってイメージがある。何かと休みがちなのは私の方で、いつも柴崎に心配かけてしまっている。生理痛も酷いって言ってけれど・・・。その痛みがどんなものか、綿にはわからない。私はまだ初潮を迎えていなかった。

秋で15歳になる。さすがにママは心配して、精神科の先生と婦人科の先生に相談した。パパが死んで、ずっと薬づけの生活。

『薬と、精神的な心の影響が、成長を妨げるのは、よくある事です。りのちゃんが、人より遅れているのは当たり前だと考えて、焦らず気長に待ちましょう。』と言われた。

フランスから日本に帰国する前に、お気に入りのブランドショップで、ママと買い物をした。日本にないブランドだから、沢山買っておきなさいと、これから伸びるであろうサイズの服までも買って帰国した。だけど、大きなサイズはまだ袖を通せないで、タンスの奥にしまってある。

帰国後、再会した時は同じぐらいの身長だった慎一は、どんどん大きくなって、今は頭一つ分高い。見上げないと目線が合わない。

慎一には、いつも食べないから伸びないんだと、私の食生活を監視しているけど、問題は、そこじゃない。私の成長が止まっているのは、私が犯した罪のせい。パパは私に大人になっては駄目だと、あの時のままの私を連れて行こうとしている。

電車のガラスに暗い顔の私が見え隠れする。

駄目だ。こんな顔では、子供たちが近寄ってこない。笑うんだニコ。お前は、ニコニコのニコだろう。

子供たちは柴崎がニコと呼ぶから、まねて私をニコと呼び始めた。英語なら、私は誰とでも話せる。笑える。

電車の窓を鏡にして口角を上げる。

英「さぁニコ、今日は何して遊ぶ?。」





夏風邪と生理痛で苦しんだ3日後、麗香はやっとニコのアルバイトについていく事が出来た。

教室に入ると、5歳児が麗香の姿を見つけるなり、「レイカ!待ってたぞ!」と画用紙で作った刀で切りつけてくる。

子供は加減と言うものを知らない。画用紙であっても痛い。この間の忍者ごっこで、堪忍袋の尾が切れて本気で怒ったら、それも遊びたと勘違いされて更に懐かれてしまう。麗香は一人っ子、兄妹とじゃれ合って遊んだことがない。ニコも一人っ子だけど、新田家と一緒くたに育てられているし、フィンランドで下級生に教えるというカリキュラムがあったと言うから、子供を注目させる仕方や教え方、注意の仕方が上手だ。悪い事をする子供たちに対して麗香のように憤慨せず、注意にとどまり、うまく悪事から注意をそらすのは、もう教師顔負けの技と言える。

英会語の勉強を兼ねて、と、父が手まわしてしてくれたボランティアだったが、容赦ない子供のパワーに気が回らなくなり、子供達との会話は日本語が7割を占め、麗香は落ち込む。ニコは、「柴崎はそれでいい、十分、子供達の心をつかんでいるよ。」と励ましてくれたけれど・・・・刀で、スカートをめくりあげる子供!心をつかんでいるというより、完全に馬鹿にされている。

刀を取り上げ、お仕置きをしていたら、教室に一人の青年が入って来た。

仏「りの!今日も楽しそうだね」

仏「グレン!」

4日目にして、まだ見た事のない青年にニコは親し気に駆け付け、そしてハグ。

フランス語である事と、二人の雰囲気に麗香は唖然とする。

「柴崎、紹介する。グレン・ユーグ佐藤、同じ年よ。」

「ハイ、君の事、りのから、聞いている。よろしく。」

求められた握手に答えて、軽くハグ。ハグに慣れない麗香は近づいた顔に、「カッコいい。」と思わず見とれた。

「グレンは、フランスに住んでいた時の友達なの。」

金髪とはいかないまでの薄い茶色の髪、目の色も薄い茶色の、肌の色も白い、グレン・ユーグ・佐藤と紹介された青年は、父が日本人、母がフランス人のハーフ、母親に似たと一目瞭然の顔は、芸能プロダクションからスカウトに来るんじゃないかと思うほど整った顔をしていた。

グレンは、父親の海外赴任でフランスに住んでいた時、同じマンションの住人だったという。フランス滞在期間が約1年半と決まっていたニコは、日本人学校に通っていた。グレンは、国籍も居住拠点もフランスで、現地の学校に通っていて、ニコとは違う学校だったけれど、住んでいたマンションの近くの公園にバスケットゴールがあり、グレンもバスケをやっていて、バスケを通じて仲良くなったという。グレンは基本フランス語で、父親が中途半端に教えた日本語が少し出来る程度、英語は学校で習っている途中で私達日本の中学生と同じレベルぐらいだと言う。自分がフランス語を難なく話せるようになったのは、グレンのおかけだと、ニコは笑った。

「グレンは父親の仕事の関係で4月から日本に滞在していて、今はスターリンのジュニアスクールに通っているの。」

「キンダークラスに、日本人、スタッフ来てる、学長から聞いた。名前、りのと聞いた、りのかもと思って来たら、ビンゴ!びっくり。りの、髪は短い、しかし、スマイル変わってない。」

そう言って、ニコの髪に触るグレン。それが同じ年と思えない色気があって、麗香は照れる。

仏「グレンは見違えたように大人になったわ。」

ニコはそんなグレン色気に動じることなく、どちらかと言うとそれを好んで受け入れている。フランス語の独特な音程がそうさせるのか、ニコがとても大人びて見えた。

「柴崎、グレンは、夏休みの間、上の階のフランス語クラスの手伝いをしているのよ。」

「あぁ、そうなの。へぇー。」

「よろしく。レイカ。」

会って、5分でもう下の名前を呼び捨て、この顔だから許せる、これが外国人の魅力?

照れずに普通にハグして挨拶できるニコは、あぁ、やっぱり外国の、本物の帰国子女なんだと複雑な思いでニコを眺めた。





こんな形で、グレンと再会するとは思わなかった。スターリンの廊下で『RINO!』と声をかけられた時、誰だかわからなかった。

私を見つけるなり、ハグをしてきたグレンは、約4年前、私が日本に帰国する時の姿とは見違えて、身長も高く、肩幅も大きく、その振る舞いも、あのバスケットボールを追いかけていた子供じゃなくなっていた。

アルバイトを終えて、グレンと話をしてから帰るのが3回ほど続いた時から、柴崎は私と一緒に帰るのを止めて、先に帰るようになった。グレンは日本語を一応に聞き取れるが、話すとなるとまだまだで、私との会話はフランス語、柴崎とは英語と日本語をごちゃまぜに使い分けていた。私が二人の言葉を仲介して通訳するという、手間のかかる会話に柴崎は疲れたのかもしれない。

フランス語は日本に来てからあまり使う機会がなかったから私も忘れかけていて、最初、英語とごちゃま混ぜになったりしていたけど、グレンが優しく指摘してくれて、感覚が戻って来た。

パパの海外転勤は、当初フィンランドが5年の約束だった。それが、フランス支社にいた社員が病気で倒れ、パパがフランスに移動赴任しなければならなくなり。日本に帰国するのが1年半伸びた。フランスでは日本人学校に通い、フィンランドとは違って都会だったから英語さえできれば生活できる環境だったけれど、引っ越し直後に仲良くなったグレン達ともっと現地の言葉で楽しみたいとグレンに教えてと頼んだ。グレンは丁寧に一つ一つ単語を教えてくれて、1か月後には、母の買い物時の通訳が出来る程度になった。

仏『日本に来ているなら教えてくれれば良かったのに』

仏『電話したんだよ。別れる前に教えられた東京の番号を、そしたら使われていませんってなったよ』

あっ、そうだった。神奈川に引っ越してからの連絡先はフランスの友達には知らせていなかった。というか、それどころじゃなかった。フィンランドの友達は教材やノートを送ってもらう為に、恩師に頻繁に連絡を取っていたから、引っ越し後、すぐに知らせていたけど。フランスは落ち着いたらと後回しにして忘れていた。落ち着く暇など、今までなかった。

仏『ごめん、連絡するの忘れてたわ。引っ越したの』

仏『僕の事なんて忘れてしまっていたんだね。』

仏『そんな事ない!忘れないわ、ただ・・・・忙しかっただけ』

仏『嫉妬するなぁ。忙しく、大好きな慎ちゃんと仲良くやっていたのかと思うと』

フランスを発つ時、グレンに寂しくないのかと聞かれた。私はその時、皆とわかれるのは寂しいけど、帰国は、幼馴染の慎ちゃんに久しぶり会えるのが楽しみだと答えていた。だからグレンは慎一の名前を知っている。

仏『やぁね、違うわよ。』

仏『りの、バスケは?』

仏『・・・・やってない。』

仏『どうして?』

とても、人とコミュニケーションを取る事が出来ないからとは言えない。日本の文化に興味が出で、弓道をやっていると答えた。弓道やってよかった。それなりの言い訳には十分。

仏『弓道!へぇー見てみたいな、りのの弓道姿。可愛いんだろうねぇ。』

仏『可愛いって・・・可愛いって年じゃないでしょう。』

仏『りのは、昔と全然変わらないよ。昔も今も変わらず可愛いよ。』

フランス語でよかったと思う。日本語だと赤面もののフレーズをさらっと言うところは、日本人とは違うフランスの血が濃いんだなと思う。

グレンは、再会時からずっと、変わってないと言って私の髪を触る。変わらない事にうれしそうに笑って見つめられると、成長が止まったこんな私でもいいのだと言ってくれているようで、私は胸が熱くなった。弓道部の合宿を終えた後から、スターリン以外でもグレンと会うようになった。映画を見たり、ウィンドウショッピングを楽しんだり、ラウンドAで久々にバスケを楽しんだりもした。私が、芹沢じゃなくて真辺になったことを、グレンは何も質問はしてこなかったけど、お金のかかる遊園地などに行こうとは誘ってこなかったから、学長から何か聞いて知っているのだろうと推測する。

私とグレンは贅沢な場所にデートをしなくても、公園で話をするだけで楽しかった。グレンと居れば、時間の感覚が短く、一日がすぐに終わった。







柴崎に、ちょっと話があると、裏門の方へ呼び出された。サッカー部の練習を終えて、スパイクシューズの裏の土を洗っている時だった。

「なんだよ。」

「ニコの事なんだけど・・・・。」

「何?」

「その・・・・。」

珍しく、物言いに歯切れがない。その柴崎の伏し目がちで言いにくそうにしている姿に、慎一は態度に出さないまでも少々苛立つ。さっさとシューズを洗って帰りたい。

「また喧嘩でもしたのか?」苛立ちの収めどころを、あえて柴崎が振り返りたくない過去を出す事で収める。柴崎は反撃に言葉を返してくるかと思いきや、慎一の言葉を普通に捉えて、まだ言いにくそうに口ごもる。

「違うの。そんなんじゃなくて・・・・。」

柴崎のいつになくキレのない態度に、流石に不審に思う。

「あのね、ニコ、今デートしてるの、ハーフの男の子と。」

「・・・・・・は?」

デート・・・・・・男と女が日時を決めて、会って、遊園地に行ったり、カラオケしたり、ショッピングをしたりする。あの?

ニコが最近、頻繁に会ってデートしているという男は、スターリンで再会したフランス在住時の友人。日本人とフランス人のハーフの、モデル並の容姿をしていると柴崎は言う。二人はフランス語で会話をしていて、柴崎も入れない、良い雰囲気だという。

ニコが海外在住時に、どんな友達と居て、どんな生活をしていたか、慎一は聞いたことがなかった。フィンランドの文化的な話は聞くけれど、そう言えばフランスでの生活がどんな風だったか聞いたことがなかった。そもそも、ニコは自分の事を語りたがらないし、語らない原因は、帰国後の東京でのイジメから始まった栄治おじさんが死んだ最悪の1年半が、そうさせているののは間違いなく、慎一は意識的に聞かないでいた事が、今では無意識的にタブーとなっている。

慎一が知らないフランスでの生活を知っている「グレン」とか言う男、まだ顔も見たこともない男に、慎一は嫉妬する。

「大丈夫?」

「うん?あぁ。」

「黙っておこうとも思ったんだけど・・・・試合前だし。」

「いや・・・いいよ。」

「覚悟するなら早い方がいいと思って。」

「覚悟?」

「そう、ニコがあんたを必要としなくなる時の、覚悟よ。」

ニコが俺を必要としなくなる?



『新田君の事が好きです。』

そう告白してくる女子達、彼女たちが、「好き」と言う言葉を口にするたび、慎一の中で、「好き」と言う言葉がチープな存在になっていった。告白してくる女子とは、誰とも付き合うつもりはなく、サッカーの事しか頭にないと断り続けていた。

ニコの関係に納得のいかない子も中には居て、ダイレクトに真辺さんと付き合っているから?と聞いてくる女子や、聞かないまでにも、その顔が疑いの表情であるのはありありの、そういう女子達に、誤魔化し口を濁すと、面倒なことが長引くだけだとわかってきてからは、最初から正直な気持ちを言って断っていた。

『付き合ってはいないけど、俺にとっては子供の頃からの大事な人。』

これを言えば、彼女たちは、たいてい何も言わなくなった。

ニコが慎一の事をどう思っているかは、慎一自身全くもってわからない。二コの気持ちを必死で知ろうと思った時期もあった。だけど、去年の文化祭以降、ニコが自分をどう思うかなんて、どうでもよくなった。

ニコは言った。

『りのと呼ぶ声は死のうと、ニコと呼ぶ声は生きろと、ずっと聞こえていて、自分はどっちなんだろうかと。』

死のうとする意識と、生きようとする意識とでさまよい続けているニコ。

好きかどうかなんて意識するレベルじゃない。死にたいのか、生きたいのかがわからないレべル。

「生きてほしい」とあの時、切に願った。それ以上は何も望まないから。

ただ素直にそう言った直後に慎一は後悔した。「生きる」事は辛い事。生きづらいこの世界に慎一は自分のエゴで引き留めてしまったのではないかと。

「新田、あんたが、ちゃんと言ってあげないからよ。」

「何を。」

「何をって!自分の気持ちをよ!ニコを好きな気持ちを、ちゃんと言葉にしないから。」

「俺は・・・これ以上、そんな言葉でニコを縛りたくない。」

「そんな言葉って!」

彼女たちと同じ『好き』なんてチープな言葉でニコを縛りたくない。もう既に、「生きて」なんてエゴで縛ってしまっているから。

「好きの言葉以外に何があるのよ!」

「・・・・・・」

どんなに探しても慎一のニコに対する想いの言葉は見つからない。好きという感情を飛び越えて、愛とも違う、当てはまる言葉を、探せば、やっぱり「幼馴染」に巡り戻る。

幼き頃に馴れ染みた仲に、それ以上に染まることなく。いや、それ以上に染まれない、染まってしまってはもう後には戻れない。

「グレンは、言葉多彩よ。ニコもそれを望んで耳を傾けているわ。」

ニコが、慎一の言葉ではなくグレンの言葉を望み、耳を傾ける。

それはニコが、慎一が「生きて」と縛った世界ではなく、また別の世界。

それは、それでニコにはいい世界だろうと慎一は思う反面、辛い世界に残された感に寂しく佇む自分を感じだ。

ニコが慎一を必要としなくなる時と、

自分がニコを必要としなくなる時は、同時じゃない。

それを今、痛烈に実感した。

そう、慎一は、ニコが生まれてから、ニコを必要としない時なんて一時もない。





新田とニコちゃんの態度が対照的だった。ニコちゃんはアルバイトが楽しいと満面の笑みで居るのに対し、新田は、そんな満面の笑みのニコちゃんから視線を外し、グレンと言う存在を意識的に考えないようにしている。新田はメンタルが弱い。何か悩み事があると、それがすぐサッカーに影響する。一年の時は、それでレギュラーを落とされたぐらいだ。

部長となった今では、流石にクラブ内に私情を持ち込むことをしなくなったが、それでも細かいミスをして、亮がフォローをする役目。

柴崎は、最初、新田には黙っておこうと思ったらしい。柴崎もメンタルが弱い新田が、グレンの事を知ればサッカーに影響する事を知っている。だけど遅く知れば、全国大会までの期間は迫るだけ、ずっと新田に隠し通す事は奇跡的に出来たとしても自分の精神がもたなそうだと判断した。ニコちゃんに了解を得ず新田に話してしまって、わずかな罪悪感に悩んだ柴崎が、半ば助けを求めて亮に電話してきたのは、その日の夜。次の日から、柴崎はスターリンに行かず、学園に新田の様子を見に来る方が多くなる。

「今度ね、スターリンのジュニアスクールで夏祭りをするの。キンダークラスの子供たちも、そこに遊びに行くの。あんた達も来る?」

「行けるのか?」

「ええ、うちの学園祭みたくね、近所の方々にもオープンにしているんだって。園長から、ぜひフレンド連れて遊びに来てと言われてるから・・・・見たくない?グレンを。」

見たいと言えば見たい。モデル並の容姿だというグレン。ニコちゃんが選んだ男。

見たくないと言えば見たくない。新田以外の男といい感じで寄り添うニコちゃんを。

グレンは、柴崎すら入れない程に密着して、その振る舞いは日本人にはまねのできない紳士ぶりだと言う。

夏休みは陸上部と、フィールドを分け合う。スターリンの夏祭りは、タイミングよく午前だけの練習日だった。渋る新田を柴崎は強引に誘っていた。柴崎はさっさと現実を見せて、さっさとサッカーへと向けさせたがっていた。亮もその考えに同感だ。実感は心に深い傷を負うが、諦めは回復を早める。

柴崎とニコちゃんは、朝からスターリンへ行っていて、子供たちの世話をした後、午後からジュニアスクールのある場所へ同行するという。

亮と新田は、スターリンへ行く道中、特に話すこともなく静かに向かう。

スマホの地図を頼りについた場所はスターリンしかテナントが入っていないが、明らかに自社ビルではなく貸しビルだった。

インターナショナルスクールであるスターリンは、日本の文部省の管轄ではない為、運動場もなく、学校というより貸しビルのテナントに入っていて、カルチャースクールの様だった。ビルの外の入り口に、手作りのサマーフェスタと書かれた看板が置かれてあって、〈一般の方もご自由にお入りください〉と書かれてある。

ロビーに入ると、流石にインターナショナルスクール、外国人の親子連れが多数いて、飛び交う英語に新田の顔が固まった。

ここのスタッフらしき人が、ウェルカムとハイテンションで、3階にまず上がり下へ降りるよう勧められる。エレベータに乗り込むと新田が一時間ぶりに口を開く。

「ふ、藤木、ここでの会話は、お前に任せた。」

「何、言ってんだよ、お前ちゃんと聞き取れていただろう。ニコちゃんのおかけで全く、わからないって事もなくなったじゃん。」

「まぁ、さっきのぐらいなら聞き取れたけど、しゃべれない。」

「英会話なんて、気合いだよ気合い。文法なんて考えずに、単語を並べれば相手が組み合わせて理解してくれる。」

「それは、いつもニコに言われてるから、わかってるけど・・・」

ニコちゃんの名前が出た途端、顔が曇った新田に、亮は溜息をつくしかなかった。

新田の中でいろんな思いが渦巻いている。だからと言って、気の利いた言葉も思いつかないし、言ったところで、新田の心に届かない。

エレベータの扉が開くと、柴崎の「やめなさい!」と言う、甲高い声が聞こえ来た。

夏祭りにふさわしく浴衣に着替えている柴崎は、男の子数人に取り囲まれて、子供たちのヨーヨー襲撃にあっていた。

子供たちを叱って追いかける柴崎は、もう英語なんて使っていない。

「あぁ、藤木、新田、お疲れ。迷わなかった?」

「大丈夫、スマホのナビを使ってきたから。」

英「だれだ?」

柴崎は、群がる子供たち無視してを新田の顔を覗き込む。

「新田、大丈夫?」

英「れいかの男か?」

「こいつ、ロビーでもう、アウトだぜ。」

英「ボーイフレンド?どっちが?」

「ここは踏み込んでは、いけない領域だ。」

英「二人ともじゃないか?」

「ニコちゃんは?」

英「やるな、れいか。」

「あっちの部屋の、さっきは子供たちとポップコーンの所にいたけれど・・・どこに行ったかなぁ」

英「なぁ、なぁ、れいか」

「例のグレンといるのか。」

英「れいかってばぁ・・・どっちとキスした?」

「えぇ。ずっと。・・・・・ってあんた達!うるさい!大人の話に割り込んでくんじゃないわよ!」

柴崎がキレて、子供たちを蹴散らす。

英「ギャー、れいかが怒った!にげろ!」

「・・・・お前、完全に遊ばれてるな。」

「英語は、どこにいったんだ?」

「あんたに言われたくないわ!」



柴崎は、今流行りの、レースが帯や襟に誂えている浴衣に、足元は子供たちの世話するのに歩きにくいからと下駄じゃなくてサンダルを履いている。外国人の家族にキモノ、ビューティフル! と頻繁に声をかけられていて、時折、写真も一緒にとカメラを向けられていた。この日の為に浴衣を新調して良かったと言った柴崎に対して、たった一日の為だけに買うとはありえんと、新田に突っ込まれ、ちょっとした言い争いに、亮が止める。完全に新田の八つ当たり、ニコちゃんの姿をまだ見ずしてこれだ。亮はため息を吐く。

ニコちゃんがいるであろう、ポップコーン売り場のある部屋に行ったが、居なかった。どうやら下の階に移動したみたいだ。

エレベータを使わず階段を降り、にぎやかな廊下へと歩み出る。

ニコちゃんは降りた階の廊下で、外国人の家族連れと会話を楽しんでいた。ニコちゃんも柴崎と同じく浴衣を着ている。柴崎のように流行の浴衣ではなく、昔ながらのシックな紺色で花火柄。今年の5月、えりりんがもう着ないと言った浴衣をニコちゃん譲り渡そうとして、えりりんが駄目だと怒り、あの悪戯事件に発展した原因の浴衣。その後、えりりんは、ちゃっかり新しい浴衣を親に買ってもらったらしい。ニコちゃんは、弓道で和装を着慣れているせいか、背が低いながらも、凛として目を見張るものがある。足もちゃんと下駄を履いて、大和撫子という言葉がぴったりくる。おそらく、柴崎と同様、朝から、外国人に何度も声をかけられたり、写真を取られたりしているだろう。

「ニコ、新田と藤木が来たわよ。」

柴崎の呼びかけにニコちゃんは振り向き、相手していた外国人家族との会話を終わらせ、しとやかに歩み向かってくる。そして新田の姿を見るなり、「帰った方が良くない?慎一。」と言う。その意味は、英語が飛び交うこの場所に英語アレルギーもどきの新田を心配しての意味なんだろうけれど、現時点での状況を合わせられる、微妙に二つの意味を含む。

「まぁまぁ、これでも新田は上達してるよ、さっきも案内係の言ってた英語、聞き取れてたし。」

「そう?まぁ、無理しない程度に、ごゆっくり。」

そう、微笑するニコちゃんを、呼ぶ声。

仏「飲み物、買って来たよ、向うで休もう。疲れただろ。」

にこやかに現われた金髪の青年。こいつが、グレン。柴崎の言う通り、雑誌から出て来たような、美少年だった。外人の鼻の高さ、色の白さ、何故に青い目、日本人が憧れてコンプレックスを抱くもののすべてをグレンは持っている。辛うじて身長だけは、亮も新田も負けてない。

仏「あれ?友達?」

仏「ええ、学校の同級生、紹介するわ。新田慎一と藤木亮、二人共サッカーをやってる。」

「彼は、グレン・ユーグ・佐藤。同じ年で、私がフランスに居た頃、同じマンションに住んでいた友達。」

「ハイ、慎一、亮、よろしく。」

とその整った顔をほころばせたグレン・ユーグ佐藤は、ニコちゃんにジュースの入った紙コップを預けて、握手を要求。新田が、その顔立ちに圧倒されているのも遠慮なく、人懐っこく握ってくる。

グレンを含めた亮達は、休憩室へと向かい、中央の空いたテーブルに座った。グレンは気前よく、各教室で売っている軽食やジュースを亮たちの分も買って来て並べた。そして、グレンから繰り出された話題も、亮達を気遣いサッカーの話、自分が応援しているチームは、どこかとか、フランスのチームには、スター性のある選手が居ないだとか、外国人によくある身振り手振りを大きく、日幼児用豊かに話す。グレンは父親が日本人である為、日本語のヒアリングはできるが、話すとなるとたどたどしく、日本と同様に学校で習う英語も、二歳の頃から習わされた亮より下手だった。ニコちゃんは英語の苦手な新田の為に逐一、グレンの言葉を日本語に訳し、グレンの日本語と英語、そしてフランス語の混じる変な言語に、器用にそれぞれの言語で正して、笑う。

初めて見るニコちゃんの満面の笑み。亮は驚く。それ以上に驚くのは、ニコちゃんの動作だ、グレンに向ける角度が新田に向けるものと違う。目の潤いが違う。それらは完全に恋する女の子の態度だった。新田もそれに気づいて、嫉妬の本心を表した。が、次第にそれは消えていき、普段どおり表も裏もないクリアの顔に戻る。負けを認め、諦めたのだ。

好青年のグレン、例えば、ニコちゃんの知り合いでもなく、学園に留学生として来たりしたら、おそらく普通に仲良くなっただろうと思う。新田も、サッカーの話につられて、グレンの魅力に引き込まれていった。

30分ほど、そうしてグレンとの会話をした時、一人の女児がニコちゃんの名を呼び腕を引っ張る。

英「キャシー、あっちで、雲のお菓子食べたいの、ニコ、ついてきて。」

英「いいよ。一緒に行こう。」ニコちゃんは笑顔でキャシーと言う女の子に答えて席を立つ。

「皆、私、行くから。」

「あぁ。」

「ニコちゃん、アルバイト頑張ってね。」

「うん、ありがと。」

仏「りの、僕も行くよ。」 

「慎一、亮、また、話ししよう。じゃ。」

たどたどしい日本語を言ってグレンも席を立つそしてニコちゃんを追いかけて腰に手を回した。二人の姿は完全な恋人同士。




   

グレンと話すニコは、本来のニコの姿、おしゃべり好きで人気者だった、昔のニコニコのニコ。

ニコが満面で笑う姿を、慎一は9年ぶりに見た。

グレンは本来のニコと友達になり、この日本で再会後、すぐにニコの笑顔を取り戻した。

慎一に出来なかった事をグレンは、あっさりとやってしまう。完敗だ。

言葉を探す自分が滑稽に感じた。

好きとか、特別だとか、幼馴染とか、目に見えない括りに拘った躊躇が、結局を出せない無力な自分へ言い訳だったと思い知らされた。ニコの笑顔にさせるのに必要なのは、沢山おしゃべりが出来る現実、

慎一はそんな普通の事を存分にしてあげられなかった。日本語にコンプレックスがあるニコと、英語にコンプレックスを持つ慎一。

再会した時からずっと、すれ違っていた。

「新田、どうするつもりなの?」

「どうって・・・何もするつもりは・・・。」

「柴崎、その質問は無意味だろう。ニコちゃんが、他の男と仲良くしているからって、そいつから引き離すわけに、いかない。」

「そうだけど・・・・今からでも遅くないと思う、新田がちゃんと言えば、ニコだって。」

「柴崎、ありがとな。でも、もう、いいんだ、ニコが必要なのは俺じゃない、グレンだ。」

そう言ったものの、もしかしたら、柴崎の言う通り、ちゃんと言えばニコは・・・と、

まだ悪あがきをしてしまいそうになる自分の心に嫌気がさした。





「ご飯要らないの?そう、わかった。遅くならないうちに帰ってらっしゃい、何だったら、駅まで迎えに行くわよ。・・・・・ そう。わかった。はい。」

母さんの話し方で、ニコからの電話だとわかった。

「ニコちゃん、今日は来ないって、お友達と外で食べてくるって。柴崎さんかしら。」

スターリンの夏祭りから3日経った今日は、さつきおばさんが夜勤の日で、ニコはアルバイトが終わったら新田家に帰ってくる日だった。柴崎は、最近スターリンには行っていない。今日も学園に来ていたから、ニコが晩御飯を食べる相手というのは柴崎ではなく、グレンだろうと憶測する。母さんたちはニコが男とデートをしている事を知らない。

夕飯の後、サッカーボールを手に慎一は家を出た。暇な夜はこうして、ジョギングをしたり、公園でリフティングをしたりしている。妹のえりは、そんな慎一に、ほんとサッカー馬鹿、まだやるかと呆れて貶すが、ソファとテレビのチャンネルを一人占めできるのだから、文句よりも感謝されていいはずだと慎一は思うのだけど、新田家で女に歯向かうのはご法度だ。

ジョギングなら、国立公園の丘へ向かって走る、リフティングメインの時は、近くの公園がトレーニング場所だった。今日はどっちの法にも向かわず、県道168号線を超えて、ニコのマンションをさらに過ぎた先の公園に足を運んだ。

この公園は、東静線東彩都駅とニコん家のマンションの間にある。大きなどんぐりの木や銀杏の木が生い茂り、その枝葉が影を作り夏は周辺住民のちょっとした避暑地となっている。だけど夜は外灯が木にさえぎられて暗く、人通りもなくなる為に痴漢が出るなどの物騒な話が耐えない。母さんが、いくら近道だからって、夜はこの公園を通らないのよと、ニコやえりに頻繁に注意していた。

慎一は、リフティングをして、時間をつぶした。人が通る度に誰かと確認をして。ニコがこの公園を近道として通る可能性を危惧しながら、期待もしている自分が居る。

きっと、ニコは怒るだろう、要らぬお世話だと言って。でも慎一には、夜道の送り迎えしか、できない。





グレンのフランス語が耳に心地よい。グレンが、RINOと呼ぶ度に、私はフランスに居た頃の「りの」に戻れる気がする。

あの、何の罪もなかった芹沢りのに。

仏「りの!久しぶり!元気にしてた?」

仏「マリーおばさん、お久しぶりです。」

仏「りの、変わらないわね。」

スターリンのアルバイトを終えて、帰ろうとしたとき、グレンから、グレンのママ、マリーおばさんが会いたがっているから、家で晩御飯を食べようと誘ってくれた。今日は、ママが夜勤の日、新田家で晩御飯を食べる日だったけれど、電話して要らないと断った。

食べることに興味はないけど、やっぱり一人のご飯は寂しいし、おいしくない。私はグレンの誘いに喜んでオーケーした。

グレンのお母さんは私を笑顔でギュッとハグをする。久しぶりに会うグレンのママ、マリーおばさんも変わっていない。 

雨の日は、近所の子たちの家を行き来して遊んでいた。グレンのお母さんはお菓子作りが上手で、部屋はいつもバニラの香りがしていて、よく手作りのクッキーやケーキを私達にふるまってくれていた。

お邪魔したグレンの日本の家は、スターリンから3駅離れた徒歩5分ほどの場所にあるマンションだった。扉を開けると部屋の奥から、やっぱりバニラの香りが漂って来た。

マリーおばさんのフランス料理は、秀治おじさんの繊細で豪華な味とは違う、一般的な家庭料理、とても懐かしい優しい味。

懐かしい人と懐かしい味と懐かしい言葉、

フランスで過ごした日々の思い出話が、食事を更においしくする。

あっという間に楽しい時間は過ぎていった。

また、いらっしゃいとマリーおばさんは、私を包み込んで別れの笑顔をくれ、グレンが駅まで送ってくれる。

通りすがりに、私たちが会話する異国の言葉に驚いて、振り返り過ぎていく人達、奇異の視線がどこまでも追って来る。

だけと、何も気にならなかった。あれほど、他人の眼を恐れ、自分の存在を消す事で回避してきた私だったのに、グレンと居ればそんな視線も跳ね返す威力に変わる。逆にフランス語を話せる高揚と自尊心に胸を張れる。

ずっと、ずっと、したかった。躊躇いなく言葉がスムーズに出てくる会話。

怯えず、笑って話せる、その当たり前の幸せが、グレンと居れば存分に出来る。

仏「りののキモノ姿、可愛かった、もう一度みたいね。」

仏「あれは着物じゃないって、あれは・・・昔の寝巻になるのかぁ?」

仏「ねまき?」

仏「あっいえ、私も良くわからないけど、本当の着物じゃない事は確かよ。それに、私は着物を持っていない。」

仏「そうなの?」

仏「そうよ、着物は特別の日しか着ないから、持っている日本人は少ないわよ。」

仏「どうして。」

仏「どうしてって・・・じゃ、フランス人は皆マリーアントワネットみたいなドレスを皆が持っているの?と、私が言うのと同じよ、それ。」

仏「あぁ、そうか。」

仏「フフフ」

仏「りのは、変わらない。ずっと昔から可愛い。」

短くなった私の髪をつまんでくるっと回すグレン。そして、その甘い言葉に私は素直に受け止める。

仏「グレン・・・・。」

駅まで数メートル、終業した企業ビルのシャッターの前で、交差点の信号待ち。私たちは見つめ合った。

髪を触っていたグレンの手が頬にうつる。

仏「好きだった、りの、ずっと。今も、これからも」

グレンの手に誘導されるように私はグレンに寄り添った。

グレンの白い肌はマシュマロのように滑らか。

青い瞳は、海を固めたように美しい。

唇は・・・

  リノ、ドウシテ、ソノテヲ、フリハラウ

ふいにあの声が、頭に響く。

昔から、変わらない?本当に?

グレンは、昔の私を求めている。罪のない、変わらないりのを。

父を殺した私は、もう昔のりのと同じじゃない、成長が止まって見かけは4年前と同じでも、私のこの手は、この口は、父を死に追いやった。もう、グレンが好きでいた、「りの」じゃない!。

顔を落とした私に、グレンが心配そうに顔をのぞきこむ。

仏「りの?」

仏「ごめんなさい。グレン。私・・・・。」

グレンの目を見れなくなった。手が震える。

グレンは、私を強く抱きよせた。

その強さに、ごめんなさいと何度もつぶやいた。






遠くから救急車のサイレン音が聞こえてくる。子供の頃から何十回と聞く馴染みのあるはずの音なのに、聞くたびに不安になるのは何故だろう。そのサイレンが決心させてくれたように、慎一は帰ろうと決めた。もう9時半を過ぎた。ニコはちゃんと言いつけを守って、ここを通らず、家に帰っているかもしれない。

一度大きく天にあげたボールを手に受け止めた時、公園に入ってくる人影を目の端でとらえた。

ワンピース姿のニコ、ずっとうつむいて、慎一が居ることにまだ気づかず、トボトボと歩いてくる。

落ち込むような何かが、あったのだろうか?

スターリンのバイトを始めてから、いや、グレンと再会してから、楽しそうに、俯く姿なんてなかった。

どう声をかけるか、慎一は言葉を探す。気の利いた言葉なんて思い浮かばない。

10メートルの近さまで来て、自分の感性に任せて口を開いた。

「夜は、ここを通るの駄目だと言われてるだろ。」感性のなさに落ち込む。

慎一の声でびっくりしたように顔を上げるニコ。その顔はすぐに渋く苦い表情に変わった。

「待ち伏せか。お前が不審者だろ。」

「俺は心配して。」

「ほっといて!頼んでない!」

怒らせる事しかできない自分が、ほんと嫌になる。

「ニコ・・・」

「ニコって呼ぶな!」

グレンは一瞬でニコを笑顔にさせたと言うのに。

「グレンと、何かあったのか?」

「慎一には関係ない!」

そう言って、走り過ぎようとするのを、思わず腕を掴んで止めた。

「だから、危ないから迂回しろって。」

「はなせ!触るな!」

慎一が掴んだ腕を、力いっぱい振り払うニコ。予想以上に、体格と比例しなかった力に慎一は驚いて、慌てる。

「ニコっ!」声が、公園の木々を抜けて、立ち並ぶマンションの壁に反響した。

「聞いてくれ!俺は、お前の事、す・・・」

やっぱり言えない。好きは。あまりにも軽い、そうじゃないんだ、好きよりも、もっと・・・・

言葉に出来ない想いがある。

足を止めたニコは、探しきれずに口を噤んだ慎一を睨む。

慎一は深く息を吐いてから、思いを吐きだした

「俺は・・・心配する事しかできない。グレンのように、ニコを笑顔にしてやることが出来ないから・・・決めたんだ。」

「・・・・・」

「ニコが選ぶ物すべてを認めて。俺はずっと変わらずニコの心配をする。」

それが、俺が出来る、唯一の事。

「・・・・きらいだ・・・・。」

えっ?

ニコの体がわずかに震え、頬が引き攣っている。 

「ニコを求める慎一が、きらいだ!ニコじゃない自分がきらいだ!日本語がきらいだ!みんな、みんなきらいだ!こんな、もどかしい自分が嫌い!全部、全部、大きらいだッ!」     

ニコの涙の叫び、

は、湿った風がさらっていく。




   

    

あの声は、どこまでも追いかけてくる。

あの声は、私に幸せになってはいけないのだと警告を発する。

ほら、遠くから聞こえてくる救急車のサイレン。

グレンと居れば、何もかも怖くないと思ったのに、何もかもの中に私は含まれない

自分が怖い。

家までの最短距離、いつものように公園を突っ切る。ブランコの前で突然の声に顔を上げた。

「夜は、ここを通るの駄目だと言われてるだろ。」

慎一・・・

「待ち伏せか。お前が不審者だろ。」どうして、ここにいる?!

「俺は心配して。」

「ほっといて!頼んでない!」

お節介の慎一に、ほんと嫌になる

「ニコ・・・」

「ニコって呼ぶな!」その名は、私ではない。

「グレンと、何かあったのか?」

グレンの名を親しげに使うな!グレンは私だけのもの。

「慎一には関係ない!」

慎一に腕を掴まれる。

「だから、危ないから迂回しろって。」

「はなせ!触るな!」

強い嫌悪が体を走る。そこはさっきまで、グレンが抱きしめてくれた場所。

「ニコっ!」予想以上に大きな声を出した慎一に驚いて足を止めてしまった。

「聞いてくれ!俺は、お前の事、す・・・」

そう言って、顔をしかめる慎一。先の言葉を、不愉快に湿った風が遮る。

慎一は深く息を吐き出した。

そんな顔で息を吐くほど苦しいのなら、私の事なんて構わなければいいのに。

「俺は・・・心配する事しかできない。グレンのように、ニコを笑顔にしてやることが出来ないから・・・決めたんだ。」

「・・・・・」

「ニコが選ぶ物すべてを認めて。俺はずっと変わらずニコの心配をする。」

慎一の心配は、忘れかけた罪を意識させる。

慎一の、もっと食べろという言葉が、成長の止まった私を責め立てる。 

「・・・・きらいだ・・・・。」

慎一が呼ぶその名は、笑えない私を責める。

慎一が求めているのはニコニコのニコで、笑わない成長の止まった私じゃない。

「ニコを求める慎一が、きらいだ!ニコじゃない自分がきらいだ!日本語がきらいだ!みんな、みんなきらいだ!こんな、もどかしい自分が嫌い!全部、全部、大きらいだッ!」     

私の叫び、

は、公園の木々を抜けて、立ち並ぶマンションの壁に反響した。

たまらなく駆けだした。

慎一は追ってこない。

ほっとしながらも、わずかに寂しく思う身勝手な自分が居る。

無垢に笑えたニコニコのニコ、

毎日が楽しくて仕方がなかったりの、

どっちの私にも、戻れない。

誰も今の私を認めないくせに、ほっといてくれない日本は、

生きにくくて、大嫌い!





弓道の練習日だというのに、ニコは学園に来ない。麗香はスターリンのアルバイトについていくのを、夏祭り以降やめていた。

グレンといい雰囲気なニコを見たくないってのが理由だけど、新田の事も心配だった。メンタルの弱い、特にニコの事になると覿面に弱くなる新田は、サッカー部の部長。早くも遅くも、私情がサッカーに影響するのを避けられないのなら、全国大会の予選も始まらない今のうちに、覚悟をしておいた方が良いと判断した麗香のお節介だったけれど、意外にも新田は冷静だった。

そんな取り越し苦労な結果が、麗香特有の身勝手さが露呈した様で落ち込んだ。新田個人の気持ちより、学園のサッカー部の成果を心配したのだ。学園の繁栄を常に考えてしまう。

麗香はこの学園の生徒でありながら、この学園の所有者。

そうした思考で出てしまう言動に、麗香は最近、自信が持てなくなっていた。

学園最強のお嬢様、この学園のすべては自分の物で、何をしても許される特権は日常の当然だった日々の方が、麗香自身は楽だった。楽だったけど、楽しくなかった。

麗香は携帯を取り出して、ニコの家に電話をする。出たのは、今日は仕事が休みなのか、それともまだ出勤時間じゃないのか、りののお母さま。

「朝から練習に行くと学校に出かけたけれど?」

あれ?

「あっ、すみません、私、勘違いしていました。今日は練習のない日だと思って。」

「あらら、そう。柴崎さん、いつもありがとうね。りのと仲良くしてくれて。」

「いえ、そんな。」

ニコのお母さまは、いつもそう言って私に頭を下げる。きっと今も電話の向こうで頭を下げている事だろう。お母さまもずっと心配して苦しんでこられた。娘に友達が出来た事がよほどうれしいのだろう。

「失礼しました。学校に行ってみます。」

「わざわざ、ごめんなさいね。」

電話を切った。朝から練習・・・間違いじゃない。でも弓道場には居なかった。麗香は、更衣室へと向かい覗く。居ない。ニコの荷物らしき物もない。ニコの弓道着を入れる袋には麗香があげたフクロウのマスコットキーホルダーがついているから見ればわかる。

近くのトイレも覗き、もう一度屋上の弓道場を覗く。やっぱり来てない。麗香はカバンからアルバイトの日程表を出してみる。凱兄さんが作った物。やっぱり、今日はアルバイトは無い日で、弓道の練習日。

スターリンから特別に来てくれと言われたのかしら?と麗香は首をかしげる。

それは考えにくい事だった。ニコが弓道部の練習もやらなくちゃいけない事はスターリン側も知っていて、凱兄さんは、抜かりなくスターリン側と話し合ってシフトを組んでいる。

麗香は、駆け足で階段を降りた。嫌な予感がする。

玄関ロビーの靴箱ロッカーを駆け抜け外に出たら、藤木が図書館の小径から歩いてくる。

「藤木!」

「柴崎!」

「ニコ(ちゃん)知らない?」

声が重なった。藤木もニコを探していた。

予想外に冷静だった新田が、今日、急に落ち込んで、練習にならないと藤木は言う。

「夏祭りの後でも、新田は気丈に部長業をやっていた。だけど急に、今日は駄目駄目だ。あいつ、俺を避けるように顔を向けないだ。装ってもバレバレだっつうのによ。そもそも沢田たちすらも、どうしたんだって聞いてくるぐらいだってのに」

昨日、新田家にニコが晩御飯を食べに行く日だと知っていた藤木は、ニコに何があったか聞こうと、麗香と同じく弓道場に行ったけれど居なくて、その後図書館を見に行ったらしい。図書館にもニコは居なかった。

「私、ニコの家に電話したの。朝から練習に行くと家を出たっておば様に言われて・・・・」

「それって・・・」

「今日はスターリンの日じゃない。もしかして、スータリンが緊急に来てくれって言われたのかもって考えたり・・・」

「それだったら、正直に言うだろう。嘘つく必要がない。」

「そうね・・・・」

「柴崎、グレンの携帯番号とかメール、知らないのか?」

「知らないわよ。番号交換するほど仲良くなってないし。」

「スターリンに確認とれ、居れは何も問題はない。」

「ええ。」

「だけど、居なかった場合は・・・」

藤木は運動場で一人ドリブルをしている新田へと顔を向けた。目を細めてしばらく考え事をする。

「グレンの連絡先を教えてもらえ。」

麗香は携帯電話のアドレス帳からスターリンの番号を探し出す。

「うまく誤魔化せよ。ニコちゃんの所在を探してるなんて、悟られるなよ。」

「わかってるわ。」

コール5回で出たのは、学長だった。スクールの規模を考えたら、学長も事務を兼務しなければならないのだろう。麗香が挨拶に言った学長室は、応接セットの上にも書類やファイルが積み上がっていた。

麗香は、先に、グレンが学園に来ているかどうかを聞いた。上手くすれはこちらから聞くまでもなく、ニコの所在が分かるかもしれないと思ったからだ。案の定、話し好きの学長は「今日はあなた達が居なくて寂しいわ」と言ってニコがスターリンに居ない事を知らせた。グレンもスターリンに来ていない。麗香は、グレンともう一度話がしたいと望んでいる友達がいると言って、グレンの家の電話番号を聞き出した。

「やっぱり、スターリンにも行ってなかったか・・・」

藤木は顔を包み込むように両の眉間を指で押さえてうなだれる。

考えた事は藤木と同じ、おそらくニコはグレンの所へ行っている。

「ニコちゃんと新田の間で何かあった。ニコちゃんは嫌気がさして、弓道の練習をサボって、おそらくグレン所に。」

「ええ・・・」

「何があったか、新田に聞くしかないか・・・」

「でも、新田に、これ以上、グレン絡みを話していいの?。」

「仕方ないだろう。あの後悔は、完全に新田のせいなんだから。」

「後悔?」

「あぁ・・それ以上は、落ち込みと後悔が酷過ぎて、濃く重なりあって読み取れない。」

藤木の本心を読み取る世界って、一体どんな物なんだろうと、麗香は思う。




 

あんなに、望んだ慎ちゃんとの学園生活、血を吐きながら声を出す練習した日本語。やっと一緒に居られる。そう思った現実は、想像以上にきつい。吃音で無様な日本語を話す私を見る、奇異の目、常にトップの成績でないと学園に居る事は許されない気の抜けない日々。他生徒の見本になれとの学園側の期待、それに反して、特待制度に嫌悪する皆の態度。度々思い知らされる恵まれた生徒達との経済力格差。それらは、東京で経験したイジメとはまた違った重圧だった。

どんなに辛くても、慎ちゃんと同じ場所にいれば、昔のようにニコニコのニコに戻れると、そう思っていた。

だけど、戻ったのは、パパを殺したりのの過去。

罪をもう一度、重ねた。あれから慎一は変わった。

私を心配だという目は、罪を重ねた私を責める。

慎一だけじゃない、柴崎も藤木も。

皆との差は身長の差だけじゃなく、精神的にも差が広がる。

バスに乗ったものの、学園に行く気になれなかった。慎一や藤木に会いたくない。柴崎にも。

学園前でバスを降りずに、先の香里市の駅前で降りる。電車に乗ってグレンの家へと足が向いた。

私の罪を知らないグレンは昔の私を求めている。もういない過去の私を。

それでもニコニコのニコを求めて、変わる事を要求されるよりは、ずっといい。

グレンの声は、その罪を消してくれるような気がした。

仏「RINO!」

仏「グレン・・・・」

仏「おいで、中で話そう。」

ほら、この心地いいフランス語が、私の罪を浄化してくれる。






ニコは、弓道の練習を休んでグレンの家に居た。夕方、柴崎に促されてニコを迎えに行く。それをしなければならない意味が慎一にはわからなかった。だけど、しない、行きたくないと柴崎に抵抗する気力が慎一にはなかった。

迎えに行けば、きっとニコは顔を歪ませて、睨むに違いない。もうどうでもよくなった。もう既に、はっきり叫ばれているのだから。

柴崎が呼んだタクシーでグレンの家に向かう。

やっと傾いた太陽が夕日に変わりつつある。

タクシーを待たせたまま、グレンのマンションに入る。エレベータが最上部で止まっていたので、慎一は階段を駆け上がった。グレンの家は2階だったからエレベータを待つより早い。柴崎はも黙ってついてくる。

207の呼鈴を押したのは柴崎で、事前に行く時間も伝えてあったから、問題なくグレンが扉を開けて出てくる。

グレンに促されて、ニコも出てきた。

仏「RINO、皆が迎えに来てくれた。今日は、もうお帰り。」

「ニコ、帰ろう。」柴崎が、ニコに手を差し出し促す。慎一の予想とは違い、ニコは睨みもせず、帰らないとも言わず、素直に応じた。

ただ、慎一に一切顔を向けない。

待たせてあったタクシーにニコと柴崎が乗り込むのを見届けて、自分は助手席に乗ろうとドアに手をかけようとしたとき、グレンが慎一の名を呼ぶ。

「慎一、君に、聞きたい、もの、ある。」

「俺に?」

「少し、いい?」

一緒に帰らなければ困るような場所でもない。タクシーに乗るほどの金は無いけれど、電車代ぐらいは持て来ている。

悟った柴崎が「先に帰ってるわ」と言って、運転手に行先を告げた。ドアが閉まり、走り去るタクシーを見送り、グレンが口を開く。

英「歩こう。」

グレンの誘導で、マンション前の大通りから外れて歩く。途中で、グレンは自販機で缶のミルクティーを買う。「これは、面白い。フランスに、欲しい」と言って、慎一の分も買って寄こす。グレンはミルクティー代を受取らない。

数メートル歩くと、両サイドをマンション挟まれた小さな鳥居が現われた。社には稲荷神社と書かれてある。石の鳥居の柱にグレンは背を預けて、ミルクティーのプルトップを開けた。神社に来て、まずもって拝まずに何かをし始める事に慎一は抵抗を感じたが、グレンの前で手を合わせて拝むなんてしたくなかった。些細なプライド。そして罰なら当たってしまった方が幾分か楽になれそうな気がする。反対側の鳥居の柱に慎一も背を預けてミルクティーを開ける。

「RINO、日本、楽しみだと、言った、シンチャンは、君。」

グレンの日本語はたどたどしい。意味を詳しく聞き返していたら話は進まない。適度に頷いておく。

「慎一、RINO、なぜ? 変化ない?」

変化?ニコの容姿の事を言っているか。

確かにニコの成長は止まっている。だけど、慎一の記憶からは、ニコは変わり過ぎるほど変わってしまった。もう昔のニコニコのニコではなく。それも嫌いだと、ニコは泣き叫んだほどに。

「グレン、逆に聞きたい。ニコ」じゃないな。ニコと言っても通じないかもしれない

「りのが変わらないって、りのはフランスで、どんな生活をしていた?」

質問に質問で返す慎一に頭をかしげるグレン。日本語のヒアリングは完璧のはず、意味が分からないって事もないだろう。

「可愛いかった。たくさん笑う、長い髪、バウンドして、走る、とても元気。」



フランスの家に到着した日の夕方、私はすぐに家を飛び出したの。

次に自分の住む街がどんな所か、どんな人が居るのか知りたくて。

フィンランドとは違った、高いビルが所狭しと並んでいたわ。

道路は石畳で、もちろん雪もなかった。外を歩いているのは大人ばかりで子供は見かけなかった。こんな走りにくい道だから、子供は遊んでいないのかと、残念に思ったの。パン屋の角を曲がった先で、公園を見つけた。公園と言ってもやっぱりフィンランドとは違うフェンスに囲まれて、あれなんていうのかしら、テニスコートにあるような素材が敷き詰められた、狭いコート。錆びついたベンチとバスケットゴールがあった。フィンランドでバスケット部に入っていたから、私、嬉しくなって駆け出した。

フェンスの入り口は鍵などなく、フランス語はわからないけど、入ったらダメそうな雰囲気もない。怒られたら謝れば済む事だし、今日フランスに来たばかりだと言えば、許してくれる、無知な子供の特権だと、私は躊躇いなく入った。ベンチの下におあつらえ向きにバスケットボールまである。私は一人でバスケットを楽しんだ。5分ほどした時、誰かがフェンスの向こうで叫んでいた。自分とおなじ年ぐらいの金髪の髪をした男の子、は駆けて中に入ってくる。怒っているのは雰囲気で分かったけど、言葉が分からない。

仏「ここは、俺たちの場所だ!場所取りなんかしてもだめだ!」

英『えーと、フランス語は、わからない。私、今日引っ越してきたの。』

フランスは、英語も公用語として通じると聞いていた。私は慌てて、青い目で怒っている男の子に弁解した。

英『ここ、入ったらダメだった?私、知らなくて。そう、そう言う事を教えてくれる友達が欲しいの。私、芹沢りの』

友達を作るのは得意だった私、積極的に求めれば、相手も答えてくれる。怖いものなんてなかった。

『日本人?』

『そう、日本人よ。えっ?』

その男の子が日本語を使って、つられて自分も日本語を話している事に気が付かなかった。

びっくりした。まさか、フランスの街中で日本語を話す子に出会えるとは。

グレン・ユーグ・佐藤、父親が日本大使館で働いている日本人で、母親が専業主婦のフランス人。

奇遇な事に、同じマンションに住んでいた。

グレンは、私が別の地区から来たグループの人間だと思ったらしい。

フランスの市内では、子供が遊べる公園は少ない。ボール遊びができる場所となるとすごく少なくなる。

バスケットゴールがあるその場所は、とても貴重な公園だったの。グレン達は他の地区から来る子達が許せなかったらしくて、学校が終わったらすぐに公園に駆け付け、場所取りをする。それが彼らの日課だったらしい。グレンは、たどたどしい日本語と英語を駆使して、そう説明してくれた。そのうち、グレンの仲間が公園に集まって来た。英語が堪能でグルーブのリーダー的存在のデヴィット、そばかすがチャーミングでパン屋の娘のオルガ、ちょっと肥満気味だけどリズム感は抜群だったサミュエル、口数が少なくて一見おとなしそうに見えるけれど、怒ったら一番手の付けられなくなるレオ、男勝りに勝ちにこだわるスポーツ大好きのカトリーヌ。皆、その公園の周囲に住むバスケ好きの子たちだった。フランスでは、日本人学校に通う事が決まっていたから、私はグレン達とは違う学校だったけれど、そんな出会いからすぐに、バスケ仲間になった。

私を入れて7人の仲間と過ごす毎日は、とても楽しかった。

フランス語は、グレンが・・・ううん皆が教えてくれた。

公園に行くのを心待ちにして、学校では時計ばかり見てたわ。

  



「RINO、とても早く、フランス語、話すに、なった」

グレンのミルクティーを飲む姿を見て、CMみたいだなと慎一は思った。

「僕たち、楽しかった、りのと友達なったグループ、ずっと、ずっと笑うグループになった」

自分の知らないニコの生活、知りたかったくせに、今のニコからは想像がつかないほどに楽しい生活だったと聞くと、耳を塞ぎたくなる嫉妬が慎一を襲う。




フランスの滞在期間は決まっていた。仲間との別れが迫る。別れたくない、悲しい、寂しい、は笑顔の下に隠した。

仲間は、私の沈んだ顔なんて求めてない。私も泣きたくなかった。思い出は楽しい笑顔だけで良いから。

グレンに聞かれたわ。

仏『りの、どうして笑っていられるんだ。寂しくないのかい。』

仏『皆と遊べなくなるのは残念だと思うけど、世界から居なくなるわけじゃない、再会の楽しみが出来るわ』

仏『いつ会えるんだよ』

仏『それは、わからない。いつかよ』

仏『・・・僕も日本に行きたいよ』

仏『ええ、そう、来て、日本に、そしたら、私の一番目の友達の慎ちゃんを紹介するわ』

仏『シンチャン?』

仏『そう、慎ちゃん。日本には慎ちゃんがいる。生まれてからずっと一緒だった大好きな慎ちゃん、もうすぐ会えるの。』

  私は、フランスの仲間たちと笑顔でハグをして別れた。

  グレンは、私が笑えなくなっているのを知らない。

そう言ってニコは、何気なく息を吐いた。

麗香は何も言えず、握ったニコの手を上から包み握るしか、出来なかった。






「大好きなシンチャン、会えるの、楽しみと笑った。RINOスマイル、キラキラだった」

楽しみだと思ってくれていたニコに、最低な再会しかできなかった昔の自分が悔しい。グレンの話は思いのほか重く責められる。たまらなく、足元に視線を落とした。

ビルの隙間から、赤く色づいた夕日の光が足元を照らしていた。

グレンはミルクティーを飲み干し、手で缶を押しつぶそうと握った。だけど、半分ぐらいしかへこまない。

「僕、ギャンブルした」

カタコトの日本語に聞き疲れて耳がおかしくなったのかと慎一はびっくりする

「ギャンブルって?」

「今日、慎一、来る時は、RINOのパートナーに、えーと、オッケーする。」

グレンは、俺がりのを迎えに来るか、どうかを賭けていたのか・・・迎えに来たら、パートナーとして認める?

パートナーってなんだ?

「慎一、来た。RINOを好き、わかる。」

「いや、俺は・・・・その言葉を・・・」

そんなことグレンに言っても仕方がない。

グレンは、外国人特有の仕草で慎一の先の言葉を待っている。

「りのに、嫌いだと言われた。昨日の事だ」

「聞いたよ、りの言った言葉に、謝った」

「ニコは俺よりグレンを選んだ。ニコが大好きなのは、子供の頃の慎ちゃんであって、今じゃない。

「それでも慎一は、来た。」

「それしかできない。俺は無力だ。」

「慎一、RINOはどうして、4年前と同じ?顔、身長、身体、同じ、髪は短くなった・・・日本人、小さいけど、もっと大きくなるの、と思う」

あぁ、グレンはそっちの事を疑問に思っていたのか。でも、どう説明していいのかわからない。柴崎や藤木にすらも、絶対言うなと言われていた事、グレンに言って良いはずがない。だから、しばらく口ごもって黙っていた。

「病気?」

「身体的なものじゃない・・・・・心の病気で、大きくなれないでいる。」

グレンが顔をしかめて、責めるような目で慎一を見てくる。

「名前が変わった、理由?」

「まぁ、そんなところ。 これ以上は言えない。りのはグレンに知られるのを嫌がるはずだから。」

「・・・・・・。」

グレンが眉間に皺を寄せ、整った顔をゆがませる。

「グレン、あいつの事を頼む、りのはお前と一緒なら笑顔で居られる。そうなったら身体も大きくなれる。」

「慎一、それ、無理。」

「え?」

「僕、フランス帰る。」




グレンを学園に招待した。どうしても私が通っている学園を、弓道をする私の姿を見たいと。グレンの要望を叶える為、私は凱さんに頭を下げてお願いをした。学園は、英語教育に力を入れていることもあり、提携海外のスクールから留学生を受け入れることがある。中等部ではあまりないけど、高等部になるとそれは盛んで、学園内に見知らぬ外国人生徒がウロウロしているのは珍しい事ではない。理事長の知り合いの海外在住のファミリーが視察して見学していることもある。

凱さんは、夏休みという事もあり、そんなに頭を下げなくてもかまわないよ。連れて来てあげなさい。とオッケーをくれた。

学園に近い駅で待ち合わせををして、グレンを案内する。

スターリンのアルバイトは残りあと4回、グレンとアルバイト後に話が出来るのも後4回だけ、でも、グレンの携帯番号を知っているから、連絡を取り会える。私も携帯が欲しいと思った。アルバイトのお金で、携帯を買うのはどうかと一瞬ひらめくが・・・・、アルバイト代は、キャンプに行くためのお金。今更、行かないなんて言えない。グレンと会ってから、もうキャンプに行きたいとは思わなくなっていたけど、私が行かないとキャンプ自体がなくなる・・・そんな優しいようで優しくない気遣いも、嫌い。本当のやさしさは、私をほっといてくれる事なのに。


仏「ようこそ、常翔学園へ。僕は理事長の補佐をやっている柴崎凱斗、麗香のいとこにあたる。スターリンでは麗香がお世話になったね。ありがとう。」

凱さんは、頭の中にフランス語の辞書も入っているらしい。だけど話す言葉は、ぎこちない。

仏「いえ、すみません我儘を聞き入れてくれて。」

仏「かまわないよ、りのちゃんの頼みだからね。お安い御用さ。」

凱さんの頭の中には、一体、何カ国語の辞書が頭に入っているんだろう。英語以外は、頭に記憶した辞書をめくりながら話しているという、発音は着ぎこちなくても、辞書さえ頭に入れたら、世界中の人と話すことが出来る。そんな凱さんが羨ましい。

見た目の姿に予想もつかない凄い頭脳を持っているから、いつも、そのギャップに驚く。

「ニコ、頼まれた通り、茶道部に話を通してあるから。先に茶道部へ行きましょう。」

「うん、ありがとう。」

ハーフとは言え、フランス在住を基本としているグレンの為に、日本文化を紹介するべく、茶道部の見学もお願いしておいた。

柴崎が生徒会を通じて、正式に茶道部と弓道部の見学の許可を頼んでいてくれていた。


柴崎が、茶道部の案内をしている間に、私は弓道の袴に着替えて準備をした。

グレンがどうしても見たいと言った弓道の袴姿。ずっとやっていたバスケを辞めてまで興味を持った弓道だと思っているグレンに、乱れた姿は見せられない。いつもより入念に服装のチェックをする。鏡の前で姿勢を正し、よしと声をかける。

屋上の弓道場に入る扉の前で一例をして入り、顧問の先生に遅れた事と、事前に話していた今日の事を改めてお願いする。

グレンを先生に紹介し、皆にも紹介をして今日は、よろしくお願いしますと頭を下げる。

時々、理事長が外国人を連れて日本の文化を見たいと弓道を見学する事があるから、外国人見学自体は珍しい事ではない。

ただ、皆がグレンの顔の良さに、ざわつくのが今までにない反応だった。

フランス語で、グレンに弓道の所作やルールを説明する。学園では、ほとんどフランス語を話す事がなかったから、私がフランス語を話す事に、やっぱりざわついて、フランス語まで出来るの?とか囁く。そして嫉妬の目。

人と違う事を認めないこういう日本人の気質が、大嫌い。

仏「RINO、良かったよ、RINOの弓道、素晴らしかった。」

仏「ありがとう。」

一通り、私が弓道をする姿をグレンに見せた後、私は袴姿で校舎を案内して、グランドに出た。フィールドでは慎一が率いるサッカー部が練習をしている。慎一と藤木のサッカーをする姿にも、グレンは感嘆の声を上げて、慎一と亮はプロになるのか?と聞いてくる。

仏「慎一、亮、麗香、いい友達を持ったね。」

仏「・・・・・うん。」

仏「これで僕は安心してフランスに帰国することが出来る。」

え?今なんて?聞き間違い?帰国?

仏「僕は1週間後、日本を発つんだ。また、お別れだよ、RINO。」

グレンは何を言っている?

日本を発つ?

お別れ?

グレンの笑顔が遠い景色のように見えた。

     

   


東京国際空港り展望デッキにグレンと向き合った。来なくていいのに、ついてくる三人達。皆の視線なんかどうでもよかったとにかく離れたくない。どうして神様はこんな悪戯をするの?

こんな短い時間しか一緒に居られないのなら、再会なんてしたくなかった。

辛い。辛い。グレンと別れたくない。

仏「グレン、お願い、私もフランスへ連れていって。」

仏「RINOそれはできないよ。」

仏「日本は嫌い。」

仏「どうして、RINOは言ってたじゃないか、日本が楽しみだと。」

仏「ここに、もう、楽しみはない。」

仏「RINOには大好きなシンチャンがいるだろう。」

仏「・・・・・グレンが、いないと私は笑えない。」

仏「そんなことないよ、素敵な仲間と笑っているだろ。」

仏「私はグレンがいないと・・・」

仏「RINO笑って・・・・・RINOが笑ってフランスを発ったときのように。」

仏「笑えない、日本では。」

グレンが、いつもと同じ短い髪をつまんでくるっと回す。その顔は困っている顔。

わかっている、できない我儘を言っている事は。それでも、言わずにはいられない。

仏「髪も伸ばす、あの頃のように、私はずっと、このまま変わらない。」

グレンが首を強く振る。

仏「ごめんRINO。勘違いをさせてしまった。懐かしくて、つい、変わらないRINOを捕まえようとしていた。駄目だよRINOちゃんと前を見て、日本にも楽しみは、いっぱいある。」

仏「日本は・・・・前を見たくても、、未来を見たくても、人の壁が遮る。どんなに頑張っても日本は私を・・・・」

認めない。涙が詰まって最後まで声にならない。

仏「RINO笑って、RINOの笑顔は最強。僕とRINOが、はじめて出会った時のように。RINOの笑顔が人を繋ぐ。大丈夫。RINOは一人じゃない。良い友達がいる。」 

仏「・・・・・・」    

仏「RINO・・・・。RINOが、ちゃんと大きくなれたら、大人のキスをしよう。」

そう言ってグレンは、私のおでこにキスをした。


グレンの乗った飛行機が、空へ高く小さく、見えなくなる。

展望デッキの柵の前に、しゃがみ込んで泣いた。

ここから出られない、目の前にある策はまるで檻のよう。罪を重ねた私は、ここから出してもらえない。

目の前に、世界に飛び立つ飛行機が沢山あるのに、あれのどれにも私は乗れない。

    『りのは世界が遊び場』

パパは私を狭い、狭い、日本に閉じ込める。悪い子は世界を遊び場にしては駄目なんだと。

その言葉すらも檻に閉じ込める。





ニコは、展望デッキの策の間に手を伸ばして、まるで、見えなくなった飛行機を捕まえようとしているようだった。

伸ばした手は、空を握り、ゆっくりその手を胸に戻す。そうやって目をつぶって座り込んだまま動かなくなった。

ニコに近寄ろうとしたら、柴崎に止められた。

「もう少し・・・そっと、しておいてあげなさい。」

「・・・・・」

「初めての失恋なんだから・・・・。」

俺だけの特別ではなくなったニコの恋が終わる。


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