青色の再会 前編
序
緩やかに続く坂道を、新田慎一は全力で走っていた。この坂が憎くらしい。逸る気持ちに追い付いてこない自分の脚も憎らしかった。焦りだけが自分の中で一番の速さを持っている。
そこに居るとは限らない。だけど、絶対に、そこにいるという変な確信は、あの丘を目指して先ゆく。
子供は店に入ってきてはダメ、という新田家のルールを破って、家でテレビを見ていた慎一を母さんが呼びに来た。
身に覚えは無いけれど、何か怒られるような事をしただろうかと、落ちつかない気持ちで母さんの後ろについて店に入る。店内はティータイムを終えた客が帰りはじめた閑散とした時間。西日を遮るシェードが降ろされていて少し薄暗い。窓際のテーブルのお客さんが慎一達の方に向かって腰を浮かした。母さんと同年代ぐらいのそのお客さんは慎一の名前を呼んだ。
「慎ちゃん!大きくなったわね。」
近所のおばさんたちに慎一君と呼ばれる事はあっても、慎ちゃんと呼ぶ人はいない。母さんも幼稚園ぐらいまでは慎ちゃんだったけれど、今では慎一と呼び捨て。誰だろうと頭を傾けた。母さんに背中を押されてテーブルのそばまで近寄った時、思い出した。懐かしい顔。
「さつきおばさん? え?こっちに来るのは、もっと先じゃぁ。」
「色々準備があるから、ちょっと早めたの。」
「あれ、ニコちゃんから聞いてないの?学校で、もう会ったでしょう。」と、母さん。
座りなさいと椅子を引いて促されたけど、そこに居るはずの子が居ないから気になって、座る気は起きなかった。
「人数の関係で、慎ちゃんのクラスには転入できないって校長先生が。残念だけど仕方ないわ。」
そういえば今日、一組に転校生が来たとクラスメートが騒いでいた。皆は興味津々で、わざわざ覗きに行っては戻って来て、
『すっごい、きれいな子だったぜ。お前も見てこいよ』なんて言われたけど、興味もないし面倒だから行かなかった。卒業まであと2か月もない小6の冬、珍しい時期の転校生だなと思っただけ。
給食後の休み時間に、その髪の長い転校生とすれ違った。新しい名札に「真辺」って書いてあって、そのまま通り過ぎた。
あの子がニコ!?
「本当に大きくなったわね。常翔学園のサッカー推薦合格、おめでとう。将来が楽しみね。」
「さつきおばさん!ニコは?ニコは今、どこに。」
「一緒に来る予定していたんだけどね。直前に行かないって言い出して、学校から帰ってくるなり、どこかに出かけちゃったの。」
「ごめんね、啓子、今後の事もあるから、ちゃんと挨拶させようと思っていたのに。」
「いいわよ、恥ずかしいのよ。この年の子なんて、そんなもんよ。まして・・・まぁ、無理しない方がいいわ。」
慎一は、親たちの会話は無視して、店を飛び出した。
「慎一!どこ行くの!」
気が付かなかった。
いつの頃からか、もう会う事はないんだと、あきらめてしまっていた。だけど一か月前、中学からは、こっちに戻ってくる事を知らされた時、慎一はうれしくて、心待ちにしていた。
それなのに、廊下ですれ違っていたのに、慎一は気づけなかった。
一瞬、目が合っていたのに。
ちょっとしたトレッキングコースになっているこの公園は、小高い山の上にあり、彩都市内が一望できる。
深見山展望公園駅の脇にある階段を一段飛ばしで駆け上がる。電車で来ても、この階段を登らないと展望には到着しない。階段を一気に駆け上がった。広場で立ち止り、詰まる息を整えてから辺りを見回して、ゆっくりと歩きだした。吐く息が白く綿あめのような雲を作っては消えて行く。細い小道が途切れて、市内を一望できる展望広場に出た。
木々の葉は枯れ落ちて、枝の隙間から、向うの景色が良く見えた。くたびれた木製のベンチと錆びた鉄製のベンチが横並びに、柵向こうの景色を望んでいる。傾き始めた陽が、片づいていないブロックのように並んだ家々の屋根を煌めかせていた。
展望広場の奥とまりには一際大きな木がある。枝だけとなってしまって、何の木だったかは思い出せない大きな木。どんなに大きな木でも季節には負けて、葉っぱは一つも残こらない、足元にその残骸を残すだけ。その側に立つ髪の長い女の子、やっぱり居た。
廊下ですれ違った・・・・ニコ。
慎一は、すぐに声をかけられなかった。大人な言葉で言えば、感慨深い、やっと、の思いが慎一の胸に広がっていた。
ニコは大きな木の側で向こう、町の景色を見ている。そのニコの手がゆっくりと振りかぶった。
「ニコ!」慎一は叫んだ。 なぜ、そのタイミングで声を出したか、慎一自身もわからない。振り返るニコに慎一は小走りで近づいた。
「戻って来ていたんだ。あの・・・ごめん、気が付かなくて。名前が変わっていたから、わからなかった。」
驚いた表情のニコは、すぐに慎一の視線から背けた。振り上げたままだった手が慌てたように降ろされる。その手に慎一の見覚えのあるものが握られていた。直径2センチほどの虹色の玉。それは慎一が6年前にニコにあげた物だった。
もしかして、投げ捨てようとしていた?
「ごめん。それ偽物なんだ。駄菓子屋で見つけたビー玉。あの後、探したけど、見つからなくて。それで・・・」
そう、偽物をあげたんだから、捨てられても仕方がない。
ニコは、握っていた手のひらを開けて虹色のビー玉を見つめた。
「・・・し、知ってる・・・・・。」 6年ぶりの声。はかすれて小さく。そして、その顔はうつむいたまま、長い髪の毛が邪魔して良く見えない。 ニコは、そのビー玉をグッと握りなおした。
「・・・・ば、馬鹿だ、私。」
風が邪魔していた髪を飛ばして見えた横顔、昔の面影があるような、無いような・・・・。
慎一が覚えているのは、馬鹿みたいに山を駆け回り、ドロまみれで笑い遊び転げていた5才までの記憶。
おかしいな。もっと、こう、戻ってきた喜びを、互いにはしゃいで喜び合う、そんな再会を想像していたのに。
予想した再会とは違う展開に慎一は戸惑いつつ、まだこれからそうなる展開を期待しながら一歩前へニコに近づいた。
ニコが驚いたように顔を上げて一歩下がる。
透き通るほど白い肌に、少し茶色味の目・・・こんな顔だったけ?
「か、返す。」
投げ渡された虹色の玉を慌ててキャッチするも、落としそうになって、こらえた。
その隙に、慎一のすり抜けて駆け、長い髪が軽快に揺れる後ろ姿。
あまりにも理想と違う再会の現実に戸惑って、待っての言葉は出なかった、
違う、こんな再会じゃない。 話したい事が沢山あったんだ。
冬の早い夕暮れ、冷えた空気が刺すように慎一の体を冷やした。
1
「お前ら~、仕掛けたな!」
「何のことだよ~」 慎一と同じサッカー部の二人と、その周囲の席のクラスメート合わせて7人が、しらじらしく笑う。
「明らかに、あの7票は、そこの7人だろうが。」 黒板と奴らを慎一は交互に指さして指摘した。
「まぁまぁ、俺たちは、お前ならできると判断してだな。」
「そうそう、新田君ならできる!俺たちのエースだからな。」
一学期の間は、特に一年生は主だった行事がないため、クラスの学級委員は選任されずにいた。
二学期は年間の最大イベント、常翔祭が11月初頭にあるため、まずはその実行委員を男女1名ずつ決めることとなる。
この実行委員は、その後のクラスの代表委員として継続するのが通例で、常翔祭後に、新たに選出してもいいのだけど、そんな2度手間な事をするクラスは、よっぽどの事じゃない限りない。
木曜日の6時間目に割り当てられている学活の時間を使って決めることとなった午後の2時すぎ、この時間は学活の時間じゃなくても眠たい時間帯。早く誰か立候補しろよと、他人事の様に考えていたのは慎一だけじゃなく、クラスの皆が同じで立候補者は出ず、推薦投票に移った。
ここで誰かの名前を書いたら、やりたくない事を他人に押し付けるみたいで嫌だと、慎一は書くフリをして白紙のまま、用紙を隠すように小さく折った。投票箱は先生用の小さなごみ箱、に入れて、自分の席に戻るとき、後ろの席の方でこそこそこと慎一の方をチラチラと見てささやきあっているのを、あえて気にしないように座った。学校という団体生活の場において、人であれ物であれ、必要以上に干渉しない事を、慎一はそれまで生きた中で学んだ防衛線だった。しかし、それでも不可抗力に防衛の効果なく超えてくる時がある、それも学校生活。
常翔祭実行委員の推薦投票、開票。慎一と同じような考えの白票が多い中、「新田慎一」に7票のおふざけ票が入った。
「何が、エースだ。都合の良い時だけ」
「座れ、新田。」サッカー部の顧問でもある担任の石田先生に注意をされて、慎一は不貞腐れて座った。
黒板には推薦者の名前と正の字、女子は、【真辺りの】5票が一番多かった。
「真辺さん、頭、良いしね。特待生だし。」
「タダで学校に通えるのだから、これぐらいご奉仕しなきゃねぇ。」
「そうよね。」
あからさまに悪意のある言い方で騒いでいる一部の女子グループにも、先生は軽く注意する。慎一は女子の推薦者となった【真辺りの】本人へと振り返った。【真辺りの】は相変わらず俯いて、長い髪がカーテンのように顔を隠している。
「どんな思惑があっても、規定通り、推薦投票は可決した。新田、真辺、やってくれるな?」
仕方がない、やるしかない。ここで嫌だと言ったら学活時間は終わらない。慎一は嫌々ながらも「はい」と返事をしたのは自分だけ、【真辺りの】の返事は聞えなかった。
新田慎一と幼馴染のニコ、【真辺りの】は、いわゆる周りから浮いている状態。クラスメートと全く交流することなく、休み時間は静かに本を読んでいる。授業で先生にあてられた時以外は声を発しない。それもほとんど聞こえないぐらいのつぶやきだから、何度も先生に注意されて、最近では先生すらも諦め、ニコに発言を求めないから、一日、全く声を聞かずに終わる日が多い。
慎一が通う常翔学園中等部は日本の首都東京の隣、神奈川県の山手、緑多い彩都市にある私立の学校。創設は、もうすぐ60周年を向かえる。特待生とは、経済的理由で可能性ある頭脳を埋れさせないようにとの趣旨の下できた制度で、厳しい選抜テストと面接で合格すれば入学金や授業料などが免除で学校に通える。その選抜入試テストの難しさは有名で、中学入試時点で中3レベルの学力がなければ合格しないと言われている。毎年、全国から50名ほど受験するが、合格者のいない年も多い。
そんな最難関の特待生に、ニコは3年ぶり、しかも創設以来、初の女子の特待生として合格した。ずば抜けた頭脳が、クラスメートを近寄りがたくしているのもあると慎一は思っていた。実際に慎一は、入学以来、幼馴染であるにも関わらず声をかけられずに、語りあうことも一度もないというありさま。あれ以来、慎一はどう接していいかわからない。
学活とHRを終えるとクラスメートは銘々にクラブ活動へと散っていく。慎一自身も部活動へとグランドに急ぎたかったけれど、早速に第一回目の常翔祭実行委員会議に招集されていた。
帰り支度のカバンを持って教室を出ると、ニコも後ろからついてきた。
小さい。学校指定バッグが、慎一のと同じ大きさのはずが、ずっと大きく見える。おそらくクラスの中でも、いや学年の中でも一番背が小さいだろうと、廊下を歩きながら自分と見比べて思った。
常翔祭は体育際と文化際を一緒に行う合同祭。同じ敷地内にある高等部と合わせて、ほぼ1週間がお祭り騒ぎの期間となる。年に一度の最大イベント。以前は体育際を6月に文化際を11月にと分けて行っていたが、6月の体育際は雨天で延期になる事が多く、延期が続けば、いつまでもお祭り気分が抜けずに学業に支障が出ると。また晴れれば、気温の高い日が多く、熱中症で倒れる者が続出する。それならば11月の文化祭の気候の良い時に合わせて一気にやってしまえという、合理的か投げやりか、大胆な判断で実施してしまうのは私立ゆえか。これから11月初めの常翔祭まで、生徒会本部役員との会議に出席し、本部から出される議題を持ち帰り、クラスで話し合いや決め事、クラスをまとめたりと忙しくなる。この期間はクラブ活動よりも委員会の仕事の方が優先される。
11月1日に体育祭を行い、前日の10月31日は午前授業のみで午後から体育祭の準備、体育祭の翌日はまるまる1日が文化祭の準備に充てられ、3日、4日と2日間が文化祭、という過密スケジュール。同じ敷地内にある高等部もほぼ同じ日程で行われる為、本当に学園全体が、1週間お祭り週間になる。しかし、お祭り週間の合間の準備期間に、保護者との3者面談も組み込まれているので浮かれてばかりはいられない。行事前の授業を自由見学日ともしている為、寮生や地方から通学する生徒の保護者は長期滞在して、子供の様子をじっくり見ることができる。何度も遠路はるばる足を運ばなくてよいと、保護者には好評だと聞くが。こんなハードなスケジュールを、毎年、問題なくこなせているのは本当だろうかと慎一は不安になるのも、その実行委員を、まさかの自分がやる羽目になるとは思っても見なかった。こういうのは、もっとリーダー的要素のある奴とか、優等生とかで、慎一は今までこんな大役をやったことがなかった。小学校では、皆の作品を後ろの掲示板に貼る掲示係だとか、植物の水やり係とかで、図書委員もしたことがない。しかも何かと問題ありな【真辺りの】と一緒にやらなくてはいけないなんて、今後の大変さが容易に想像できて慎一は溜息を出した。
会議は、一階南館の多目的室で行われる。階段を下りて右手を向くと後ろ、玄関フロアの方からパタパタと足音と共に俺の名前を呼ぶ声に足を止める。振り返らずとも慎一にはわかるその声の主は、同じサッカー部の藤木亮。
「真辺さんと実行委員だって?」、肩に腕をまわして絡んでくる藤木。情報が早い。
「そんなことなら、俺、立候補するんだったなぁ。」嘆く藤木の暑苦しい腕を外す。
「こいつがサボってたら、いつでも言ってくれよ。首に縄付けでも仕事させるからね。あと困ったことがあったらいつでも言ってね、真辺さんの為なら、なぁ~んでもやるからね、真辺さん♪」とネコナデ声で、目尻を下げた顔をニコに向ける。気持ち悪い。対してニコはぎこちなく俯いた。固く結ばれた口からは何も言葉は出てこない。
入学当初はその頭脳と顔立ちに憧れを持って積極的に話かけている男子が多数いたけれど、話しかけても無表情に俯いているだけのニコと話が続く者はおらず、取り巻く男子もいなくなった。そんな経緯を考えれば、藤木は辛抱強いというか、マメというか、よくやるよと慎一は感心していた。藤木は慎一のクラスに立ち寄るたびに、ニコに声をかけていた。相手が無反応でも関係なく。
「おまえ、さっさとクラブ、行けよ。」
「お前がサボらずにちゃんと会議に行くまで、俺は見届ける。」
「サボるか。」
「わかんないでしょうよ、真辺さんが何も言わないのをいいことに、あとよろしくとか言って、バックレるかもしんないでしょうが。」
「しねーよ、そんなこと」
藤木はただ、ニコと一緒に居たいだけ。これ以上にないデレデレの顔で、ニコの前を後ろ向きで歩いていく。顔を隠す長い髪が地面に着くんじゃないかと思うほど増々ニコは俯く。
慎一と【真辺りの】が、赤ん坊の頃からの幼馴染で双子のように育てられたなんて、藤木は知らない。藤木だけじゃなく、クラス全員、おそらく先生も。同じ小学校からこの常翔学園入学してきたのは、慎一とニコだけだったから、そう言ったことを、あえて誰にも言わない、悟られないように慎一は気を付けていた。また、冷やかされるのは嫌だ。必要以上のことは言わない。これも慎一が学んだ防衛線だ。
「んじゃ、真辺さん、委員会、頑張ってね♪」
反対方向なのに、多目的室までついて来た藤木は、気持ち悪いにやけ顔を残したままニコに手をふって、クラブへと戻っていった。慎一には頑張れの一言もない。 同じ夢に向かう仲間の態度が、あれでいいのか?と慎一は、あきれた溜息を吐き捨てる。
2
クラスでの決め事が多くなってきた。委員会の招集も頻繁にある。
今日は、体育際の種目出場者を決める。慎一はニコと一緒に教壇に立ち、クラスを見渡した。騒がしい。 恐ろしく過密スケジュールだというのに、クラスメートらは完全に他人事だ。本部から渡された、レジメや今後のスケジュールなどを説明している最中も、まともに聞いている生徒なんていない。あちこちでグループを作って関係のない話で盛り上がっている。
担任の石田先生は、長年の経験上、こういうのは長引くのを知ってか、先に連絡事項の伝達を済ませ、慎一たちに教室の戸締りも任せて早々に職員室に引っ込んでしまっている。
「今から体育祭のエントリー種目を決めます。一人、フィールド競技系と球技系の2種目に必ずエントリーする事。自分が所属しているクラブの競技種目は参加できないから注意して。それから個人種目とは別に、男女混合ブロック対抗リレー、男女2名ずつの合計4人は一人3種目になるけど、本部手伝いが免除になります。ブロック対抗リレーは、体育祭間近になると、バドン練習する為に、朝とか放課後とかに召集がかかって練習するらしいので、よろしく。」
「えーっ!」 聞いていないと思いきや、こういう所だけは、ちゃんとブーイングの声が上がる。
「新田、ブロック別行けよ、足、速ぇーんだから。」
(足には、自信があるけどさぁ、俺、実行委員だから忙しいし、バトン練習なんてしてられない。)と心の中で言いつのる慎一。
この学園に入学して慎一が驚いた事の一つに、学年で自分が一番、足が速かったこと。春の体力測定で、100メートル走が学年でトップだった。2位が陸上部の6組の森山、3位も陸上部、4位にバスケ部の生徒、10位に藤木が入っていた。陸上部の森山には、『何故陸上部に入らなかった』と責められるもサッカー推薦で入試合格した生徒が、鞍替えして陸上部に入るなんて御法度だし、学年一の栄誉に酔いしれて心揺らぐほどの優柔さは持ち合わせていない。
更に追い打ちをかけて驚いたのは、女子の100メートル走で学年3位にニコが入っていた事。まさしく文武両道とはこの事で、特待合格の肩書に改めて裏打ちされた事実。
おまけに常翔一の美人だと言われて、どこにも非がないからこそ、酷い妬みがニコを襲う。
「ブロック別なんて絶対嫌よねぇ」
「早い人が走らなくちゃ、先輩たちに迷惑がかかるもの。」
確かに、そうだ。足の遅い者が出たら、先輩たちに迷惑がかかる。先輩たちは、中等部最後の体育祭だから張り切っていて、特にプログラム最後のブロック対抗リレーは最後の点数争い。バトン練習は1年まで召集がかかる力の入れよう。
このブロック別に関してだけは、クラスから1名だけなら、陸上部が出場可能、だから6組はおそらく森山が出場するだろう。隣の2組は、藤木がエントリーしてくるだろう。慎一のクラス1組には陸上部はいない。
口々に勝手な事を言うクラスメートを無視して慎一は先に進める。
「じゃ、男女別に分かれて種目決めてもらいます。タイムテーブルを見ながら、エントリー時間が重ならようにだけ注意して。じゃ、分かれて話し合ってください。」
体育際が11月に移動してから、球技大会の要素も加わり、学園内の施設をすべて使って、8種類の競技を1日でこなす。
体育館で、バスケット5人、バレーボール6人 テニスコートでミニサッカー9人、 運動場では100m走4人、 100mハードル走4人、200メートル走4人、男子は騎馬戦8人 女子は玉入れ8人。 各競技、優勝が25点、2位が20点、3位が15点、4位が10点、5位が5点で最下位が0点で加算されていく。
クラスごとに稼いだ点数をもとに、学年別で優勝クラスと準優勝、そして縦割りのブロックの得点での優勝と準優勝が、文化祭最終日に体育館で表彰される。
男子用のエントリーシートを持って教壇から降り、分かれて集まる男子グループの場所へと行く。野球部の田中が、「俺、騎馬戦とバスケな」。と言って慎一の手からエントリーシートを奪って記入し始めた。
「俺、バレーと、100mハードル。」
「新田はブロックリレー確定な。あと、春の測定の時、新田の次に早かった奴は誰だぁ?」 と、次々と仕切っていく。なんだかんだ言って、こういう仕切りたがりが絶対にクラスに一人はいる。だったらお前が実行委員をやれよと思う言葉は、トラブルの元だから口にしない。
「田中、お前だろ。」
「うへぇ?俺?」
藤木が、100メートル走の順位表を見て、『学年10番までが、中等部からの外部入試組が占めている。』と言った。
この常翔学園は、幼稚舎から大学まで揃っていて、一旦入学したら、エスカレーター式に大学までの進学資格があり、お金持ち学校と世間で名高く、慎一は入学して、本当にその実態に驚いた。親の職業を聞けば、どこかの社長だったり、大企業の重役だとか、医者の娘、弁護士やら、資産家やら、場違い的に凄すぎて、自身の事は何も言えなくなった。
小学校の時は自分より足の早い奴なんてまだまだ居たのに、この学園では学年1足が速いって・・・お嬢様、お坊ちゃまは、運動が苦手でいらっしゃると慎一は心の中で苦笑した。
「そうだ、斎藤の出場種目はどうすんだ、土曜日まで休みだぜ。勝手に決めたらダメだろ。」
「あぁ、でも、今日決めないと、時間がないんだ。とりあえず、皆の分は決めて、斎藤には電話で聞くよ。悪いけど、斎藤の希望と重複した人は、後日調整を頼むかもしんないから、そん時はよろしく。」
「わかった。まぁ、あいつは運動、苦手だからサッカーと騎馬戦にでも、エントリーしとくか。」
強引そうに見えて、ちゃんと皆の特性や希望に気を配り采配している。このまま、田中に任せておいても大丈夫そうだ。 それよりも、心配なのは女子。慎一は女子が集まっている窓際へと顔を向けた。女子は4・5人のグループを作り、それぞれ体育祭とは関係のない話ではしゃいでいる。その女子達のそばで、俯いたままのニコが佇んでいた。わずかに頭を上げかけたけれど、直ぐにぎこちなく足元に顔を落した。そんなニコの態度にイラついたのか、クラスのリーダー的グループの内二人、鈴木と谷口が悪態つく
「体育際なんて面倒なのよね。」
「ほんと、やりたくなーい。」
「そうだ、私たちの出場分は真辺さんにあげる。実行委員をやってるぐらいだから、やる気満々でしょ。」
「あははは、それいいわ。それに運動もお得意だしね」
「そうそう、真辺さん優秀だもの、足も早いし、何でもできる特待生だもんねー。」
二人を制する勇気ある女子はいない。庇えば次は自分がターゲットにされる。そんなのは誰もが知っているセオリー。慎一は女子の集まる窓際へと急いだ。
「そんなこと、できない事ぐらいわかってんだろ。そんな子供じみた事言ってないで、さっさと」
「なによ。子供って!」 二人の甲高い声が耳を貫く。女に口で勝てないのは、家で経験済み、慎一はしまったと思うが後悔先に立たず。
「あぁ、ごめん。言い過ぎた。じゃぁ、二人は体育祭はやる気がないとのことだから、どこにエントリーしても問題ないね。俺が決めてあげましょう。谷口さんは、バレーボールに、100メートル走と、清水さんは、200メートルにミニサッカー」 早口でまくしたてた。もう強引に進めるしかない。
「きゃーイヤイヤ、走るの嫌、玉入れよ、私。」
「私も200メートルだけは嫌。」
難なくエントリーシートに名前を埋めて、時間を持て余している男子を先に帰らせてから、すでに30分が経った。教室内には女子20名の中、男子一人の慎一。藤木が聞けば羨ましがるシチュエーションだろうけど、慎一にはうれしい感情なんてこれっぽっちもない。むしろさっさと終わらせたい。イライラしながら更に15分をかけて、やっと女子のエントリーシートが埋まった。もう、とっくにクラブ活動の時間に入っている。
「じゃあね、新田君、バイバーイ」
「お疲れさまー、戸締りよろしく。」
「はいはい、お疲れ様。」
結局、男子の分は田中がすべて仕切り、女子の采配は慎一がした。女子の無駄話に適度に付き合いながら、おだてて。ものすごく疲れた。筋トレよりも疲れる。女子って、どうして、こう脈絡なく話が違う方向へすっ飛ぶんだ?体育際の話だけしてれば、こんなに長くはかからないはずなのに、と慎一は脱力する。
騒がしい女子が全員、教室を出ていき静まりかえった教室、窓の戸締りで外を見ると、サッカー部はもう集合して、ストレッチを始めていた。完全に出遅れた。慎一は大きなため息を吐くと、荷物をまとめていたニコの手が止まる。
「あ、あの・・・ありが、とう。じょ、女子の」
「ああ、ううん、良いけど・・・・大丈夫?随分と酷い言われ方してたの。」
「・・・・へ、平気、な慣れ、てる。」
「慣れてるって、なんだよ。」
「・・・・・・・。」
さっきも、あからさまにニコを無視して教室を出ていった女子達。種目も、皆が嫌がった200m走と、ブロック別リレーをニコに押し付けていた。
「慣れるほど、あったのかよ、今までに!」慎一は思わず声が荒げた。に対してニコは無表情に慎一の視線を外した。
「・・・・・・・。」
「俺さぁ、もっと、こう、昔みたいに話をしたいって、」
「・・・・・・・・。」
「海外の生活も、どうだったか聞きたいし、というか、そんなんじゃなかったよな。昔はもっと笑って、ニコってあだ名、そのままで」
「・・・・・・・・。」
俯かれた。顔を覆いかぶさる髪がシャットアウトされたみたいに、慎一はそれ以上、何も言えなくなった。
【ニコ】
いつもニコニコ していて、だから慎一がつけたあだ名、両親たちも気に入って浸透したほどの、
どうして、こんなにも笑わない、こんなに冷たく固まった表情になった?
学活が終了した報告も兼ねて教室の鍵も職員室に届けるべく、慎一とニコは、気まずい雰囲気の中、中棟校舎の職員室に向かった。 吹奏楽の練習の音が遠くから聞こえてくる。ウォーミングアップの音出し、なんの曲にもなっていない。
「・・・・ご、ごめん。」
女子の相手で疲れていた。おまけに何を言っても無言で会話にならないニコに、むっとしていたから、謝ってくるニコの言葉に慎一は無言で返した。
「お、怒って・・・る。」
「別に」
「あ、あの事・・・」
「あの事?」足を止める
「・・・・・に、虹玉、す捨てよう、と。」絞り出す声が辛そうで、こっちも息苦しくなる。
ニコが何を言っているのか慎一にはわからなかった。その先の言葉を待っても出てくる気配はない。
虹玉?捨てようとした?遠い記憶を辿ろうとしたとき、担任の石田先生が階段下から現れた。
「おう、新田、真辺、終わったか?時間かかったな。」遅いので様子を見に来たのだろう。
「はい。終わりました。これ、鍵。」
「おう、サンキュー、なんだぁ?疲れてるなぁ。新田。」と笑う石田先生
「クラブより疲れますよ。なんで俺なんですか?もっと他にいるじゃないですか適任者が」
「ははは。わしは、新田が適任だと思ってるぞ。」
「やめてくださいよ。」
「杉本らが、ふざけて投票したと思ってるだろ。だけど、あいつら、ちゃんとクラスの特性見て、わかってるぞ。」
「そうは見えないっすよ。」
「真辺、お前もだ。」緩んでいた石田先生の顔がピリッとした。
「あのクラスの女子を引っ張っていけるのは、お前しかいない。しばらく厳しいかもしれんが、がんばれ、なっ。頼んだぞ、二人共。」 と石田先生は、慎一とニコの肩を叩く。
サッカー部の顧問としては厳しいが、本業の社会科の教師としては緩い。この間も、資料を忘れてきたと、生徒に取りに行かせる始末で、特に女子からは完璧になめられて、イッシーのあだ名を授業中でも平気で呼ばせている。クラスの事はやる気なしかと思っていたけど、この常翔学園の広告塔ともいわれる強豪サッカー部の顧問をやるだけの指導力はあるのだろう。うまい具合に慎一の愚痴を抑え込まれた。
「石田先生、今日、クラブは来られますか?」
「おう、もう少ししたら行く。じゃあな、ご苦労さん。」
慎一はクラブの節度で失礼します。と頭を下げたが、先生は立ち去るのを急に止めて、振り返った。
「あっ、そうだ真辺!お前いい加減にクラブ決めろよ。このままじゃ査定にひびくぞ。得意な英会話クラブにでも入っとくか?」
「そ、それ、は・・・・」しどろもどろになるニコ。
「嫌か?なんでだ、お前が入ったらみんな喜ぶぞぉ。まぁ、別に他でもいいけど、早く決めて入部届を出しに来い。じゃっ、おつかれさーん。」と手を振りながら今度こそ去って行った。
「うそ・・・・・まだ、入ってなかったんだ。クラブ。」
「・・・・・。」やっぱり無言で視線を外される。
本当に、どうしたんだ? ニコニコで笑っていたあのニコは、どこに行ったんだ?
『またニコちゃんマークばっかり書いてるぅ。』
『だって好きだもんニコちゃん。えへへ、簡単だし。ほら、○と点2つ、それからにっこりで、顔になるんだよ。』
『りのに似てるこれ。わかった。りのはニコだ。』
『?』
『りのは、いつも笑ってるからニコニコのニコ!』
『あら、可愛いあだ名ね。』
『うん、ニコニコのニコ! 慎ちゃんがつけてくれたぁ』
3
学園施設の中で、もっとも力も金もかけているとわかる2階建てヨーロッパ様式の重厚なつくりの図書館は、県施設の図書館よりも蔵書数が多く、入学案内パンフレットの表紙を飾るほど。生徒のみならず、地域の人も自由に利用できるようにと、敷地内で最も駅に近い角に建てられている。校内側の2か所と、校外側の1か所に出入り口があって、生徒は図書館を経由して帰ることが出来る。が、生徒と教職員は全員、身分証も兼ねたIDカードを出入り口に設置されたゲート械にスキャンしなければ出られない。図書館の出入りだけではなく、このIDカードは、登下校時に必ずスキャンし登下校の時間をコンピューター管理の出席確認にもなっている。そして図書館の出入り時間もスキャンする事により図書館滞在時間も一目瞭然でわかるようになっていた。駅への近道として使っている生徒は、この利用時間のチェックで、厳重注意を受けることになる。
慎一はクラブを終えて学園敷地の西の最果てからグラウンドを回り込み、校舎下駄箱に寄ってから門を出た。学園への登校手段はバスを利用している。図書館に沿った先の交差点、県道168号線を左へ10メートルほどに「常翔学園前」と名がついたバス停がある。バス停だけじゃなく、交差点も「学園前交差点」と名前がついているから、どれほど常翔学園が地域の中で影響が大きいか驚きだ。そのバス停に行くまでに、外に通じる出入口がある。慎一がちょうどその前を通ると、図書館から出て来たニコとばったり会った。ニコは、通学鞄とは別に紺色の布製の鞄を重そうに持っていた。
中等部の最終下校時刻に合わせて、図書館の閉館も6時半。館内から閉館の音楽とアナウンスが聞こえてくる。
「遅くまで、居てるんだな。」
「・・・・・・。」
やっぱりだんまり。そして視線外し。
ニコも同じバス通学、利用するバス停も同じなのだけど、今まで朝も夕も登下校が慎一と一緒になったことは一度もなかった。慎一はサッカー部の朝練が毎日あり、朝早く帰りも遅い。ニコはクラブに入っていないのだから登校は遅く下校は早い、会わなくて当たり前だった。なのに今日は巡りあわせがよかったのか、入学して初めて一緒に下校することになる。も、話の続かない重苦しい夕日。重そうに持っている布製の鞄は図書館で借りて来た本がたくさん入っているのだろう。持ってあげた方がいいのだろうか?と慎一は迷う。だけど、そんな所を誰かに見られたら、どんな冷やかしを言われるかと思うと手も声も出ない。無言が二人の距離を遠くする。こんなことでいいのか?と慎一は思う。せっかく同じ中学に入り、同じクラスにもなれたのに。その偶然の近さが逆にプレッシャーとなっていた。そのプレッシャーは同じ実行委員になって増々肩にのしかかってくる。
「しゅ、種目リスト」
「えっ?」 思いがけないニコからの話しかけに、何を言ったのか、聞き取れなかった。
「あ、明日、い委員会。」
明日の土曜日、授業の後で委員会に召集されていた。
「あーごめん。斎藤にまだ確認を取ってないんだ。電話して聞こうと、忘れてた。」
家に着いたら電話して、仕上げてと、脳内シュミレーションしてはたと気づく。明日、遠征だから登校しない日だった。
週休2日制の公立校とは違い、私立の常翔学園は土曜日も半日登校しなければならない。但し、教科の正式授業ではなく、一時間目から4時間目は自習というカリキュラム。1週間分の復讐や予習、何をするかは、各個人に任されている。自由に各教科教師に質問も出来るようになっている。但しクラブの試合や文化系なら研修、発表会などがある場合は、そちらを優先して、休んでも欠席扱いにはならないが、ただのサボりは欠席扱い。明日は4時間目の後に委員会会議があって、昨日、決めた体育際のエントリーシートの締切日である。遠方に住んでいる父方の祖父が亡くなったとかで、忌引きで休んでいる斎藤に電話して仕上げるつもりが、すっかり忘れていた。サッカー部は、明日、埼玉の方へ遠征試合だった。エントリーシートを今日中にニコに渡して、明日は一人で委員会に出席してもらわなければいけない。でも、シートは家に置いたままだった。
仕上げたらファックスを流すという慎一の第一提案も、ファックスがないという一言でニコに却下される。
時刻通りに来たバスに無言で乗り込む。委員会の件は、私には無関係と慌てる風でもなく空いた席に座り、無表情を崩す事なく外を見つめるニコ。慎一にはそれが却って責められているような気分になった。ニコの隣には座らず、そばに立って、整ったニコの顔を眺める。昔のニコニコだった顔を重ねても、面影は全くないように感じられた。別人のよう。 もしかして、この子はニコじゃなくて、別の子だったりして?そうだ、そうに違いない。だって、この彩都市に戻って来た時、氏名が違っていた。じゃ、この笑わないこの子は誰だ?宇宙人が人間に化けていて?昔あったな、そんなアニメ。
そんな慎一の馬鹿げた妄想は、降りるバス停の名を告げるアナウンスで終わる。 学園からバスの乗車時間は約10分、家に一番近いバス停「深見山展望公園口」で降りる。 バスの進行方向を50メートルほど戻り、信号のある交差点を渡らず右折して、東静電鉄本線の東彩都駅前方面に向かうとニコが住むメゾネットマンション。信号を左折して県道168号線の道路を横切り、東静電鉄の伏線、深見山線沿いに丘方面に添うように歩けば、慎一の家。その別れ道の交差点で、慎一は第二の提案をした。
「今から、俺ん家に来ない?」 向けられた無表情の視線に、いささかたじろぐ「いや、あの、エントリーシートを取りに。すぐ斎藤の家へ電話して仕上げたら渡せるし」
「・・・・・。」
「母さんも会いたがっていてさ、連れて来いだとか、ニコちゃんはどうしているとかさ、うるさくて。」
無表情が一瞬ゆがんだのを見逃さなかったけれど、すぐにいつもの固い表情に戻し、「わかった。」とつぶやく返事に慎一はほっとした。
東静線は首都東京から海沿いに走り横浜を経由して、内陸に入り静岡と結ぶ鉄道路線。彩都市はその東静線が南北に走る。特急に乗れば、東京まで通勤一時間圏内の最後のベッドタウンとして東静電鉄会社が一手に開発を手掛けた、まだ開発20年足らずの新しい地域。彩都市の北西に深見山という隣の市と境にもなっている小高い山がある。その深見山の裾南から西へとぐるっと這うように、東静本線からの支線を這わせ、その向こう帝都電鉄に乗り入れできるようにした、この支線を東静電鉄の支線、深見山線といい、帝都電鉄までの一帯と東静電鉄本線の5つの駅を含めた一帯が彩都市であり、深見山線周辺の町を深見町という。ちなみに深見山の北東の山向こうの一帯、常翔学園がある場所は彩都市ではなく香里市と言う別の行政区で、そちらは大きなお寺が牽引して歴史継がれてきた市。彩都市と香里市とでは市の趣が正反対である。昔ながらの歴史を大切に守りぬく姿勢の香里市に対して、何の特徴もなかった市が電鉄と共同開発し大きくなった彩都市は、中心部の彩都駅前に大学病院の誘致にも成功している。
慎一が幼き頃は、やっと整地され、売り出されて間もなくの頃、まだ手付かずの田畑もある何もない田舎町だった。田んぼ道を抜けて、よく深見山のふもとまで遊びに来ていた。慎一たちは東彩都駅近くにあった古い団地に住んでいた、ニコの母親と慎一の母親が学生の頃からの友人で、結婚後、同じ団地に賃貸し、互いに助け合って、両家の家族は親戚以上に親密に、子供達は一緒くたに育てられた。
慎一の両親は共働きで共に東京の新宿にある帝国ホテルで働いていた。フランス料理の料理人をやっていた父と、そのフロアで働く母は、帰宅が夜遅くになる仕事だった。だから夜は慎一がニコの家に行き、ニコの母親さつきが母親代わりとなり、昼間は慎一の母親がニコと慎一の面倒を見るという共同子育てをしていた。慎一とニコはどっちが本当の家かわからないぐらい互いの家を自由に行き来し、ニコとは本当の兄弟だとも思っていた時期もある。そんな生活は5歳の後半、小学校に上がる前、ニコの父親が転勤で海外移住するまで続いた。
女子に受けが良いが、男子からは似合わねぇと笑われる慎一の両親が営む店は、小洒落たフランス料理店。ニコの家族が海外に移住した二年後の慎一が8歳の頃に、両親は勤めていたホテルを辞めて、個人経営のフランス料理店を開業した。
駅前でもなく、主沿線から少し離れたこの場所で、予約の取れない人気フランス料理店となったのは、開業してまもなく、彩都市の街並みが一望できる深見山展望公園がドラマのロケ地となった。両親が営むフランス料理店で、主役の二人が食事をするシーンが撮影され放映された。恋愛ドラマの最終回、フランス料理店で食事をした後、深見山展望公園までの道のりで過去を振り返りながら歩く二人、そして景色美しい夕暮れの展望公園で告白する感動の最終回だったらしいと聞かされても、ドラマに興味もなく一度も見たことのない慎一には何の感慨もない。ただ、あの頃、両親は、やたらと夜遅くまで家に帰ってこず、妹のえりと家で留守番していた日々だったのは覚えている。
他にも洒落た店舗や住宅が建ち開き、ドラマ終了してずいぶん経つ今でも頻繁に雑誌やテレビで住みたい町と特集されて注目を浴びているこの場所は、昔、本当に何もない深見山のすそ野だった。慎一とニコは自然だけは潤沢の環境で駆け回って遊んだ。そんな場所が今や憧れの地と言われて、人も住宅も増え、空き地が建物で埋まって行くにつれ、そこを遊び場にしていた自分の記憶も、かき変えられていくような感覚を慎一は覚え、忘れまいと焦る。するとその焦りは、同時に取り残された感を連れてくる。
6年ぶりにこの地に帰ってきたニコは、どんな気持ちでこの丘を見たんだろうか?と横に並んで歩くニコの顔をちらりと見る。
日没間近、店の看板には照明が既に点灯していた。店内は金曜日という事もあり、既に満席だ。エクステリアデザインとして無理やりそこに植えられた樹に、地面からライトが向けられていて葉の影が店の壁に揺れている。何気に店の前で足を止めた二人。こぼれた照明のライトがニコの顔をも照らして、どこか異国の女の子のように見えた。藤木が言うように確かに美人だ。子供の頃は気づかなかったけれど。慎一の視線に振り向いて、合った視線に慌てて外した。
「こっち。」
店を通りこして左手へとニコを誘導した。自宅は店の開業から2年後に建てたため、店の裏側に隣接しているが、建物自体は独立している。店の小洒落た洋装とは反対に、至って普通のデザインで建てられている自宅は、玄関前にカーポートあり、郵便ポストのはめ込まれた門柱に防犯としては意味のない小さな門扉、それをあけ放しニコを先に通した。
玄関の扉を開けると、ちょうど階段を降りてきた妹のえりと鉢合わせとなった。あからさまに驚き顔をしたえりは、バタバタとリビングに駆け込んだ先で、「おかぁさん。慎にぃが彼女連れて来た!」と叫んだ。 あの馬鹿!・・・焦って取り繕う言い訳を考える暇なく、今度は、母さんがバタバタとリビングから出てくる。お玉を持ったまま。
「彼女って、誰! ん? ニコちゃんじゃない! 久しぶり。何しているの、上がって上がって。待ってたのよ、家に来てくれるの、うれしいわ。」
「す、すぐ、か、帰る」 そんな小さい声じゃ、全く聞こえるはずがなく、慎一もフォローするが、まったく効き目なしの母さん。
「委員会に提出する書類を取りに寄って貰っただけだから」
「さぁさぁ、上がって上がって。」
「まぁ、上がりなよ。仕上げるまで、少し時間がかかるしさ。」
リビングに案内すると、えりの好奇の目。
「ニコちゃんよ。ほら、あんたが3歳の時に、フィンランドに引っ越した。」
「えーっ!ニコちゃん?うそー。マジ?あの?うわーびっくり、美人。」 テンション高くて、うるさい新田家の女、恥ずかしい。
「えり・・・・ちゃん?」
「そうそう、えりだよ、うわー会いたかった!」
ニコは、えりを本当の妹のように可愛がっていた。えりもニコちゃんニコちゃんと後追いして、
えりと言葉少なくとも普通に話している。慎一は、自分と再会した時と違うシチュエーションに驚いた。
「ご飯食べていくでしょう?ニコちゃん。」キッチンから母さんの声
「私も、ニコちゃんと一緒にご飯食べたい!ねえー今日、塾は休んでいい?」
「今ね、えりは、受験対策の塾に通っているのよ」
誰も何も聞いてないのに勝手に話を盛り込んでいく母さん。対して無表情のニコ。
「私も,常翔学園を目指してるんだ。」
「女子は、倍率高いから、今から塾に通わないと無理なのよ。」
「私は、慎にぃみたいにスポーツ推薦ないしね。早い子は3年生から塾通いして受験対策してるよ。私は5年になってからの塾通いだけど。ねえーいいでしょ、休んで。」
「まぁ、ニコちゃんが来てくれてるしね。」
「か、帰えり、ます。」
「何言ってるの、やっと来てくれたのに、心配してたのよ、さつきから、お願いって言われてたのに、何もしてあげられなくてね。ごめんね。」
「・・・・い、いえ、」
「今日は、しっかり食べて行って。さつきには私から連絡しておくから。」
「・・・・・・・。」
さつきとは、ニコのお母さんの事。彩都市のど真ん中にある関東大学医科大付属病院で看護師をやっている。救急指定病院の巨大な病院で、何かあれば、必ずそこに運ばれる。ニコのお母さん、さつきおばさんは、その救命救急の看護師として働いていて超多忙らしい。家に帰れない日も多いと、父さんと母さんが話しているのを慎一は聞いてた。
そんなだから、母さんはニコの事を心配して頻繁に、学校での様子を聞いてくるのだけど、様子も何も、学校でのあの様子を、どう説明したらいいのかと慎一は困って、だからいつも曖昧に適当に答えていた。
どうやら、夕飯を食べて帰るという話にまとまったらしい。
慎一がどんなに話しかけても広がらなかったのに、妹のえりとは、言葉少なくても続いている。そんな二人に嫉妬した。
「慎にぃ、何突っ立ってんの、さっさと着替えて来なよ。」
「うるせぇー、馬鹿えり!塾行けよ!」
「なによ。サッカー馬鹿!」
「こら、二人共やめなさい。」
夕飯後、塾を休んだえりと会いたがっていた母さんまでもが、ここぞとばかりに学校はどうかとニコに聞く。えりも自分が目指す学校なので、興味深々で聞いている。 新田家の女どもの騒がしさに圧倒されて、相変わらずポツポツとしかしゃべらないニコだったけど、それでも学校と比べると格段に口数は多かった。 泊まっていきなよとか突拍子もない事を言う新田家の女性陣を制して家を出たのは、10時間近、ニコの自宅までは、うちから徒歩10分の近さだけど、夜道を一人で帰すわけにもいかないので、慎一が送る事となった。緩やかな坂道を下り、通学で使っているバス停のある県道168号線で、信号待ちをしている時だった。
「・・・・か、変わって、ない」とつぶやくニコは、疲れたのか大きく溜息を吐いた。
「テンション高くて、うるさいだろ。でも、ちょっと安心したよ。いつもよりは言葉数あったから」
嫉妬はしたけど、なんだ、しゃべれるんだと安心もした。
「学校では、ほら、全くしゃべらないしさ、ちよっと、人を避けているみたいな所もあるだろ。その、昔はそんなんじゃなかったからさ、海外で何かあったのかなと思って」
相変わらず笑わないけど、えりと会ってしゃべってからは、硬かった表情は緩んでいるように見えた。だけどそのやらかさがすぅーと消えいき、また固い表情に戻ってしまった。
「・・こ・・わい。」車が横切る音でニコの声をかき消された。「・・・・は、話す、の」
「何?」
東静線本線の東彩都市駅と県道168号線のちょうど中間地点に、ニコの住むマンションはある。新田家の周辺では、共同住居、いわゆるマンション類の建物は、立ててはいけない地域となっているが、県道168号線から東側の地域は、別規制地。それでも高さ制限が儲けられている為、3階建てまでの小規模のマンションや、コーポ的なものが多い。
エントランスの壁面に、「メゾン アベニール」と流れるような斜頸文字とその下にカタカナで書かれているプレートがつけられている入居数12件ほどの小規模のメゾネット型マンション。入居数と同じ数の駐車場が前にある。エントランスの脇に、南国風の木がが植えられていて、黄色の照明が向けられていた。ロビーに入ると正面に各部屋の番号がつけられた郵便受けが並び、自動扉を挟んで扉のオートロックを解除するボックスがある。ニコはカバンの中からカギを取り出し鍵穴に差し込んだ。慎一はそこで、「じゃ、明日ごめんな、よろしく。」と声をかけた。ニコは小さくうなづいただけで無言で、開いた自動扉の中へと入っていった。エレベーターの壁裏へとニコの姿が見えなくなるまで見送ってロビーから出る。通りに出てから建物を見上げて、さっきの言葉を思い返した。
自動車の走る騒音にかき消された言葉。 怖いと聞こえたような・・・・。 話すのが?
頭脳明晰、慎一なんかよりずっと賢く海外経験もある、それこそ何でもできると皆から嫉妬されるほどのニコに、怖いものなんてあるのだろうか?
二階の左、3棟の真ん中の部屋に明かりが灯った。そこがニコの住む部屋。今日もさつきおばさんは居ない。あの無表情の理由は、一人で夜を過ごさなければならない、母子家庭にあるのだろうか?と慎一は思いめぐらせ、マンションに背を向けた。
4
朝練を終えた慎一は、藤木と共にグラウンド沿いの校舎前を歩いて下駄箱へ向かっていた。同じく朝練から校舎へ戻る野球部や陸上部、登校してきたクラスメートに朝の挨拶をかわしながら、藤木と昨日のテレビ番組の話題で盛り上がっていた。校舎の靴箱ロビーまであと5mと言う所で、藤木は唐突に会話を止めて走りだして行ってしまった。
「おっはよう、真辺さん♪今日の調子はどう?」登校してきたニコを目ざとく見つけて駆けだした藤木の態度に慎一は呆れる。慎一が遅れて玄関ホールにたどり着いたときには、毎朝恒例のニコとのコミュニケーションは終えていて、一つすじ向こうの自分のロッカーの前で、藤木は鼻歌交じりに荷物の整理をしていた。
「おはよ。ごめんな、土曜の委員会、任せちまって。どうだった?」
ニコと同じ並びにある自分の下駄箱の扉を開けながら慎一はの声掛ける。それに対してニコは無言でうなづくだけ。一昨日、少しは話が出来た事で慎一はわずかな期待をしていた。その期待を完全に拒否したように背を向けて立ち去ろうとするニコを慌てて、慎一は呼び止めた。母さんに頼まれていた伝言があったのを思い出したから。
「あーっ、ニコ!おととい、本の入った手提げ鞄を俺ん家に忘れていったろ。」
ニコが立ち止まるのを確認して、ロッカーから上靴を引っ張り出す。
「今日、持って来ようと思ったんだけどさぁ、母さんがニコに話があるから取りに家に来るように、だとよ。」手に持っていたスパイクシューズを押し込み扉を閉めて、少しきつい上靴を履いてニコを追いかけようと振り向いたら、目の前にニコがいて、ぶつかりそうになった。
「うわっ!」
英「ニコって呼ぶなっ!」
えっ?え、英語?びっくりした。ニコは慎一に睨みの一瞥をして、踵を返し階段を駆け上って行ってしまった。 藤木が下駄箱の影から顔を覗きだし、慎一とニコの後姿を見比べる。
「新田く~ん。なぁにかなぁ?おとといって。」
藤木に首を捕まえられてホールド、そしてボディブローを食らう。なんでもないと、誤魔化しは当然に通用せず、プロレス技が容赦なく続く。
「わかったギブ、ギブ、話すからやめろって」話さないと執拗に終わらないだろうと慎一は観念した。
慎一は、ニコとは子供の頃からの幼馴染で、再会してまだ1年も経っていない事。『ニコ』は幼少の頃のあだ名である事、を説明した。「何故、今まで黙っていた」と藤木に責められたが、一度、痛い目にあっている慎一の教訓として、余計なことは言わないを無意識的に貫いていただけで、特別な何かあったわけでもなく。聞かれていたら、藤木には言っていた程度の心情だった。ただその機会が今までに巡ってこなかっただけ。
不貞腐れた藤木をなだめようと、慎一は一つの提案をした。入るクラブに迷っているニコを助けてやってはどうかと。
藤木は寮生活をしているので、サッカー部のみならず他の部の先輩たちとの交流がある。休み時間や昼休みは、すれ違う先輩に声をかけられたり、かけたりして、一緒に居るこっちが落ち着かない。
常翔学園の生徒は、全員どこかのクラブに入らなければならない。クラブ活動の盛んな学校だけあって、運動系、文科系合わせて28種のクラブがあり、掛け持ち所属しても構わない。運動部同士の掛け持ちはさすがに無理だけど、運動部と文化部、文化部同士は可能。学生の3割が掛け持ち組だ。
入学して2か月間はお試し期間として自由にクラブを行き来し体験することができる。そこで、自分にあったクラブを見定めて入るのだけど、二学期になっても入部していない生徒がいるなんて、慎一は聞いたことがなかった。適当なところに所属して幽霊部員になる生徒は、実際にクラスに3人ほどはいて、それでもよさそうな物だが、特待生はその頭脳、身体能力を学校側に買われての特別待遇制度ゆえに、学力や生活態度、クラブ活動など、すべての実情実績を学期ごとに査定されて、その資質を問われる。特待生は全生徒の模範となるべく、クラブ活動もまじめやらなければならない。幽霊部員として、サボるなんてもってのほか、特待生の厳しい現実を、えりと話しているニコを通じて知って慎一は驚いた。
慎一もスポーツ推薦で一般入試で入った受験生よりは特別扱いだか、それは入学金の免除だけで入学後の査定はない。あまりにも成績が悪ければ、注意を受け補習を受けるぐらい。
藤木は早速、ネットワークを活かして、各クラブの先輩にコンタクトを取り、ニコが各クラブの見学が出来るように手配した。 そのクラブ見学に付き合うため、今日は練習に遅れてくることを顧問に了承まで取ってある抜かりのなさ。グラウンドから東隅にあるテニスコートへ向かう二人の姿がゴール越しに見えて、慎一は胸に言い表せないもやもやした物があるのを自覚した。
「くそっ」
シュートは、力み過ぎてゴールキーパーの頭上、バーに当たって跳ね返ってきた。
「新田ぁー。手を抜くな。ちゃんとやれー」とコーチの声。
もやもやが、濃厚に重くなった。
玄関に入るなり、「ちょうどよかった。真一に頼むはね。」という母さんの声が聞こえてくる。母さんの「ちょうどよかった」は、子供にはちょうど良くないとお決まりだ。 リビングのソファで紅茶を飲んでいるニコに気づき、朝、鞄を取りにこいと伝言したことを思い出した。
「おかえり、慎一。ニコちゃんね、あの話、受けてくれたわよ。」
「あぁそう。」
あの話とは、昨日の日曜日の朝食時の話の事。 ソファのわきに、紺色の手提げ鞄が置きっぱなしになっているのを見つけた母さんから始まって、意外な展開になった話。
『えり、このかばん、ずっとここに置いてあるよ。片付けなさい。』
『それ、えりのじゃないよ。慎にぃのでしょ?』
身に覚えのない事を、何でも慎一のせいにされては、たまったもんじゃない。
『俺のじゃねぇよ。』
『じゃぁ誰の?』と、鞄を拾った母さんは、予想外に重かったらしく、落としそうになって指にひっか かり、辛うじて落下を阻止した。大きく口が空いてしまった鞄の中には、厚い本が3冊入っている。
『あっそれ、ニコのだよ。』金曜日の夕方、図書館前でばったり会ったとき、重そうに抱えていたのを 思い出した。
『わーこれ、英語で書かれた本よ。』 プライバシーもあったもんじゃない、3冊の本を鞄から出して 感嘆の声を上げる母さん。
『こんな分厚い、しかも英語の本をニコちゃんは読むの?すごい!』受験の為につい最近、英語も習い 始めたえりも感嘆の声を上げる
『こっちは、英語じゃなさそうね。』
『フランス語だな。』 寡黙な父さんが珍しく話に加わる。父さんは28歳の頃から5年間フランスに 住んでいた経験がある。日常会話ならフランス語を話せるらしいけど、料理修行で培ったフランス語は 偏っている。 母さんから手渡されたフランス語で書かれている本を、パラパラとめくって一言、 『読めん。』と突き返してきた父さん。 えりと母さんが吹き出して笑う。
『ニコってフィンランドに行ってたんだよなぁ。何故フランス語?』
『フィンランドに4年で。そのあとフランスに1年半ほど、最初はフィンランドに5年と言う転勤話 だったそうなんだけど、会社の都合で急遽1年半のフランスが追加で決まったのよ。栄治さん、商社マ ンだったからね、世界各地へ行かされて。ニコちゃん、ロシア語も堪能よ。フィンランドと言っても、 ロシアとの国境のある町でね、元々ロシア領土だったらしいわ。フィンランド語よりロシア語が街では 普通で、さつき、英語もままならないのにって嘆いていたもの。』
『ロシア語まで!?』 英語がペラペラなのは学校の授業で知っていた。日本語よりも英語の方がよく 声が通って、皆の注目の的だった
『日本人学校が近くになくて、現地の学校に通ったら、学校内は英語が公用語で、ロシア語、フィンラ ンド語も禁止だったそうよ。だけどニコちゃん、すぐに英語とロシア語、両方ペラペラになったって、 通訳として助かると、昔、さつきが言ってたわ。』
『英語にロシア語・・・』
『フランス語もね。フランスでは、日本人学校に入れたとさつき喜んでいたわ。それでもニコちゃんフ ランス語もすぐに話せるようになったって。』
『1年半で、マスターか。ワシは5年かかったぞ。優秀なんだな。』
『フィンランドって学力が世界トップなんでしょう。テレビでやってた。』とえり
それでか、あの頭の良さ。6才の頃に、言葉のわからない土地へ移住、2か国語を余儀なくされる フィンランドの生活、そして次はフランス。
『ここにくる前は東京に住んでたんだよな?』
『えっ、えぇ、そう。』
『それで栄治おじさんが亡くなって。事故だったっけ?亡くなったの』母さんと父さんが顔を合わせ て、変な空気が流れた。
『そうだ、えり、あんたニコちゃんに勉強を教えてもらいなさい。そしたらニコちゃん心置きなく家に 来れるわ。』
『うんうん、それいい!おととい、ちょっと塾の宿題見てもらったんだ。すごいわかりやすくてさぁ。 塾なんかより、断然いいよ。英語もネイティブだし。』
『えりの家庭教師という事にすれば、一昨日みたいに家でご飯食べられるわね。一石二鳥よ。』 とん でもない話になってきたぞと慎一は警戒する。
『ニコちゃんかぁ、父さんも会いたかったな。』
『すっごいっ、きれいになってたよ。ニコちゃん。』
『あぁ、小さい時から可愛かったからなぁ。ニコちゃん。今、常翔学園の特待生だろ。中々、あそこの 特待生にはなれないんだろ。えりの家庭教師には、もったいないくらいだな。』
嫌な予感がして、少 しでも抵抗すべく、
『そうだよ、もったいないぞ、お前なんかに。』
『うるさい、サッカー推薦でロクに受験勉強しなかった慎にぃには、この厳しさ、わかんないんだ よ。』
『俺だって、入試受けたわ、あそこは、サッカーだけで受かるような、甘い所じゃないやい。そんなこ とは身をもって経験済みだ。』
『ニコちゃんに負担じゃないか?普通にご飯を食べに来てもらったら、いいんじゃないのか?』 とい う父さん。飯は、ありきかよ。
『うーん。ほら、さつきも今はニコちゃんに、無理は言えないしね。ニコちゃんも、昔と違って、何か と遠慮する年頃にもなってるし。私もどこまで踏み込んでいいかわからなくて、今まで無理はしてこな かったんだけど。』 十分強引な無理だったぞ、昨日のは、と慎一は思い起こす。
『せっかくのチャンスよ。今回のを皮切りにね。昔みたいに来てくれれば。いいわよね。お父さん。』
なんのチャンス?
『かまわないが、家庭教師なんてしてたら、帰るの遅くならないか?』
『そんなの、慎一が送るわよ。』
『俺かよ!』
『そうだ、2階の空いている部屋を、ニコちゃんの部屋にして、遅くなったら泊まってもらっても良い しね。』
『それいい!』とえり
『なに、馬鹿な事を言ってんだ!』
長馴染みとはいえ、年頃の男と女、泊まれって、親が言うセリフか?と被り振る慎一に対して
『慎にぃ、赤くなってる。』茶化してくる、えり。
『何か変な事を考えているんじゃないだろうな。』と父さん。
『考えるか! 俺は、一般的にありえないと。』
『まかり間違っても、ニコちゃんなら、私は大歓迎よ。』と母さん。
『なにを間違うってんだ!』と声が裏返る慎一。
『むしろ、ニコちゃんであってほしいと願うほどよ。ねぇ、お父さん。』と同意を求める母さん。
『あぁそうだな、ニコちゃんなら大歓迎だ。』
駄目だ、何言っても、この人達には勝てない。と慎一がうなだれてその話は終わった。
そんな話が記憶によみがえってきた時、手にしたティーカップを置いたニコと目があった。かぁっと顔がほてるのをあわてて隠すように、慎一はキッチンに向かった。冷蔵庫で冷えたお茶を出して飲み、ほてりを静める。
「で、なんだよ。ちょうどよかった頼みって」
「今日は、ごはん食べずに帰るんだって、あんた送ってあげて。」
やっぱり、ロクな頼みじゃない。今、帰ってきたばかりなんだぞ。とふて腐るも反抗しないで玄関に戻る。
県道268号線に出るまでの緩やかな坂道をを下りながら
「ひ、一人で、だ大丈夫。」とニコはつぶやく。
「だからって、ここで家に戻ったら何を言われるか、わかるだろ新田家の女どもの恐ろしさ。」
「そ、そう・・・かな」
「それよりその~何か変な事、言ってなかった?母さん」ニコが、不思議そうに慎一を伺ってくる。「いや、何でもない、いいんだ。」何か聞いても、いなくても、この話は危険だ。話を変えようと慎一は独り言ちで、話題を変える。
「クラブ決まったのか?」
「・・・・まだ。」
「なんか、無いのか?やってみたい事とか」
「・・・・・。」
「運動、嫌いじゃなかったよな。」
俺たちはこの辺りの何もない野原や田んぼ、畑を走り回って遊んでいた。 幼稚園の運動会では徒競走のタイムを競って、抜いた抜かれたと騒いで。園児の中でも慎一たちは早い方だった。
「だ、駄目、なの」
「運動が?じゃぁ文化系で何か。」
「ち、違う。ひ、人が。」
「はい?」
「ひ、一人でい、いられる所、さ探した、な無くて。」
他人と関わらないクラブなんて無い。そもそも、部活動の主旨は、学年を超えた関わり合い、縦社会の仕組みを学ぶ場だ。一番避けて通れないのが、人との関わり。それを避けて一人でいたいと願うのは不可能な話。一体何があったんだ?海外で。と慎一が訝しむのは無理もなかった。
毎週、月曜日と木曜日はえりの家庭教師としてニコは新田家に来ることになった。そしてニコのお母さん、さつきおばさんが夜勤の時は曜日に関係なく自由に来てもいいという約束もしたらしい。もちろん泊りはないから、おのずと月曜日と木曜日は慎一がニコを家まで送る事になる。それでも母さんは何を期待してか、物置と化していた2階の空き部屋を片付け、浮足立ってベッドと机を買い揃え、カーテンも女の子仕様に買い替えて、ニコの部屋として用意した。
最近、藤木はものすごく上機嫌だ。ニコとのクラブ見学めぐりが楽しいらしい。火曜日から始まった見学も、今日で3日目の木曜日、ほんとマメだよなぁと慎一は素直に感心する。そして、今もその話を口実に、1組に遊びに来ていた。
「まっなべさん♪今日は、バトミントン部と弓道部と演劇部の了解取ったから。バトミントン部は試合が近いから、後日に回す事が出来そうにないんだぁ。今日も15分ほどしか駄目だって言われてる。」
「え演劇部、い、いらない。」
「そう?じゃぁバトミントン部と弓道部を回ろうか。」
「あ、あ・・・りがとう」おお。会話が成立している、昔は挨拶だけで終わっていたのに、かなりの進展だ。クラスの人間ではない一応の遠慮がある藤木は、出入り口付近でそのまま、ニコと雑談をし始めた。っても、藤木が一方的にハイテンションにまくしたてる話題にニコは、変わらない無表情で聞いて、言葉少なく頷くだけ。慎一は少し離れた自分の席でそれを眺めていた。 するとクラスの女子の心無いヤジが聞こえてきた。
「何あれ。またやってるわ。いやぁね。」
「わざとじゃないの、男に色目使って。私、困ってるのって、か弱い女、演じて」
「そもそも、今までクラブに入らないって、そういう事まで、特別待遇なわけ」
「特待生っていいわねーなんでもかんでも優遇されて」
「藤木君、練習、休んでまで、付き合わされているらしいわよ。」
「えっーひっどっい。」
「クラブ決めなかったのは、あの子の勝手でしょう。」
「かわいそう、藤木君、試合近いのにね。」
ニコにもおそらく聞こえている音量だった。色目とか、なんだよあいつら。と慎一は怒りに任せて立ち上がり、勝手な女子に向かう
「おまえらっ」と息巻いた慎一の怒りは、藤木の機転で遮られる。
「今度の試合は、3年の先輩がメインの試合だからさぁ。俺たちは出番なしなんだよ。なぁ、新田。」
「あ、あぁ・・・・」
「おれさ、ほら、困っている子、見捨てらんない性格っていうの?そういうの見越して顧問のイッシーに、直に頼まれたんだよねぇ。なんだったら、皆ぁ一緒に回る?掛け持ちのクラブを探しに。文化部の先輩に、もっと部員を増やしたいから知り合い紹介しろって、言われてるんだよね。どう?みんな。」
ざわついていた、教室が静まり返った。あの、きつい女子グループを藤木は難なく黙らせた。
ニコとの見学を終えて、藤木がクラブに戻ってきた。柔軟体操に付き合えと、藤木が寄ってくる。あまり顔合わせたくなかったけど、断る理由が子供じみてる。しぶしぶ付き合うしかなかったった。
藤木は、誰もが諦めた会話を自力で可能にして、クラスの女子からの攻撃をうまくかわし、皆を黙らせた。自分には出来ない。無力さを痛感して勝手に落ち込んでいるだけ。気まずいのは慎一だけ。
「真辺さんさぁ、弓道部が気になるみたい。」
「ふーん。」
「いつもなら興味のないクラブは、ここは無理と言って即決するんだけどさ」
「いつになく長い時間、見学して、顧問にも何か質問していたしね。ここにする?って聞いたんだけど、嫌とも何とも言わなくて考えてる風だった。」
「ふーん。」
「・・・・・・嫉妬は見苦しいってことわざ、知ってる?」
「はぁ?なっ何言ってんだ。」 叫びに近かった、2年の先輩たちからの注目を浴びた。真剣みが足りんとコーチに怒られ、罰として、外周5週を課せられる。
「わかりやすいな。お前。」
「馬鹿言え、俺は別に・・・・ニコとは、赤ん坊の頃からの」
「幼馴染だから、だろ。仲良しだった女の子と5歳で離ればなれ、再会したときには見違えるほど綺麗になっていた。ありがちなネタ、わかりやすい動揺だよ。」
「ネタって言うな!あのさぁ、ちょっと、走りながらは、やめないか。お前は今、来たばかりだか、俺は2度目だぞ。外周ラン。」
練習を終えるストレッチの時に、もう一度話が再開する。
気にしているのは認める、昔は、もっと笑って活発な女の子だった。幼稚園でも人気者でニコニコ笑う。だからニコ。俺がつけたんだ。それが、今では全く笑わない。クラスでも浮いていて、女子の嫌がらせにも、いつも無表情でさ。一組の現状を見ただろ。きついはずなのに。」
「あぁ、確かに、あの状況で顔色一つ変えてなかったな。」
「慣れてるっていうんだ。」
「慣れてるって、ああいう事が?」
「あぁ、向うでどんな生活してたんだろうって気になるだろう。笑顔を失って戻ってきたら。」
「確かに。」
「しかも、ニコって呼ぶなと。」 あれから、何度もニコって呼ぶな。とニコから念を押されて言われていた。「ニコにとって俺との幼馴染の繋がりは要らないのかなって思えてさ。」
「ただ、恥ずかしいだけじゃないのか?子供の頃のあだ名が」
「そうかなぁ」えりや、母さんに対しては、何も言ってなかった。恥ずかしいのなら、もう、その名では呼ばないでって、家に来た時に言いそうなものだ。慎一よりもえりとは話がしやすそうなのだから。
「お前、気をつけた方がいいぞ。」藤木が目を細めて俺を見る。
「何が?」
「悩み落ち込むと、すべてが捨て身になる。さっきの教室での事も」
図星だった。最近ニコの事が気になって仕方がない。ニコの悪口を言う鈴木や谷口に対する怒りは、慎一自身が思っていた以上に頭に血が上っていた。他人に対して、自分に対しても、後先考えられない状態だった。だけど慎一は、他人から見てわかるほどの態度をしたわけじゃない。する直前で藤木に止められたのだ。
「助かったよ、止めてくれて」
そう、藤木が止めてくれなかったら、殴っていたかもしれない。
藤木が、ため息を吐く。
藤木が1組のクラス委員だったらいいのにと切に思った。
えりの家庭教師が始まった。えりとニコは5時から7時まで、まじめに勉強に取り組み、そして夕飯を一緒に食べて、慎一が家まで送る。
「弓道部にするのか?」
「・・・・・。や、やって、みたい。でも、む無理。」
「どうして?。」
「・・・・・・。」
(ちっ、また、だんまりかよ。)慎一は、今日はいろんな意味で、いっぱいいっぱいだった。精神的に限界だったから、思わず声に出でしまっていたらしい。
つぶやきに驚いて、慌ててニコがしゃべり始める。
「う、うちは、ぼ母子で、お、お金が、」
嫌な事、言わせちまったと慎一は後悔し反省する。
「きゅ、弓道の道具、じ自己負担で」
「そうなんだ。ごめん。」
「もう、き決めないと、ふ、藤木君、め迷惑が」
「藤木の事は気にしなくていいと思うよ。一緒に見学するのが楽しいと言ってるぐらいだし。」
三度の送りで、ニコとの会話は少しづづ続くようになった。
「この間の石田先生の話だけど、何故、英会話は嫌なの?あんなに流暢なのに。」
「わ私が入れば、な何、い言われるか、」
英語の授業でも、お手本として頻繁に教科書を読まされている。男子からは感嘆たる拍手喝さいだか、女子からは冷ややかな嫉妬の目、しかも英会話クラブは、女子ばかりのクラブ。
「り、陸上なら、ひ人と話さず、は、走っていればいい。」
そんな事はないと思うけど・・・・どんなクラブでも運動部であれば、先輩とのやり取りは必然だし。
だからこそニコは、入るクラブが無いと躊躇して、二学期の今まで先延ばしにしてしまったのだろうから。
「人と話さなくて良いクラブかぁ~美術部は?あそこは静かに絵を描いているだけだと聞いたぜ。」
「・・・・・・・。」
この上なく眉間に皺を作って、イヤーな顔を向けられた。
慎一は思い出した。ニコはお絵かきが苦手だったのを。ニコちゃんマークばかり書いて幼稚園の先生に怒られていた記憶がよみがえる。
「ご、ごめん」
「そ、その謝りも、く屈辱。」 それからずっと微妙な空気の中、ニコのマンションまで歩いた。すぐ近くで良かったと慎一は胸をなでおろす。
藤木の制止が効いたのか、翌日から一組の女子はおとなしくなった。藤木に対する嫉妬は次第になくなり、このまま、ニコに対する風当たりが緩くなればそれでいいと慎一は願っていた。
土曜の昼、学園の食堂で昼食をとった後、藤木にそんな一組の代わり映えを話しながら、校舎へと戻る途中「慎一っ!」とテンションMaxの声に呼び止められた。
「母さん!なんで学校に?」
保護者が学校に来るようなイベントは何もないはず、しかも学校で下の名前を叫ばれると、赤面ものだ。
「ちょっとねー。担任の石田先生に会ってきたの。」
「石田先生に?何の用で?」
「さぁ、何ででしょう」とふざけ半分に、にやつく母さん
「お前なんかまずい事でもやらかしたんじゃねぇの?」藤木も調子にのって茶化してくる。
「してねーよ。」
「藤木君!いつもありがとね。聞いたわよ。この間、素晴らしいアシストで、チームを大逆転の勝利に導いたそうじゃないの。」
「あっ、いえ、あれは単なる練習試合だし、そんな褒められる事でもないっすよ」
いつの話だよ、それ。夏休みの初めの頃のじゃないかと慎一は心の中で突っ込む。母さんの存在は学校では異質だ。周りの目線が恥ずかしくて早急に離れたかった。
「ちょっと、母さん、何にしに来たんだよ。」
「何、焦ってんの、あんたの事じゃないわよ ニコちゃんの事で来たのよ。」
「ニコの事で?」藤木と顔を合わせた。
「気になる?」と肘で脇腹を小突かれる。
「なっ、何なんだよ。」
「やだ、遅くなっちゃった。早く店に戻んなきゃ。じゃぁね慎一。藤木君また家にいらっしゃい、ごちそうするわよ。」
「あっはい。ありがとうございます。
」母さんは、突風のように去って行く。
「お前のお母さん、相変わらずテンション高いなぁ。」流石の藤木も圧倒されている。
ほどなくして、担任の石田先生が階段から降りてきた。
「おっ、新田、今おふくろさん来てただろ。お前からも、お礼を言っといてくれな。」
「はい?」
「それで、悪いが、真辺を至急、呼んできてくれないか?」
何が何だかさっぱりわからない慎一は、藤木と顔を見合わせるばかり。
「さっさとしろ。真辺もお前も、これから委員会だろ、その前にしないとな、ワシもこの後、出かけるんだ。ほらっダッシュ!」 と、部活動の時と同じくパンっと手を鳴らされた。
条件反射で走り出す二人。だけど廊下は走っちゃダメ、だったよな。と大人の勝手に翻弄されるばかりの慎一だった。
委員会に少し遅れて入ってきたニコは、俺の隣のあいている席に静かに座る。今日のレジメを読み上げる先輩を邪魔しないように、委員会用のファイルと筆記具を、音を出さずに用意する。そんな姿を横目に、さっきの何が何だかわからない状況を、慎一は気になって仕方ない。
「一年生は、体育祭用の看板、パネル、案内図などの点検と準備日の設置を担当してください。新たに必要な場合などは新規に作成をお願いします。去年、裏通用門用のパネルが強風で倒れて、破損しているので、修理か新規作成か、その判断はお任せします。それらの製作にかかる費用は、学園持ちなので、文化祭用とは一緒にしない事、必ず学園名義で領収書をもらい、委員会本部へ提出してください。 高額になる場合は、見積もり書を作り、生徒会本部の承認ののち学園に許可を取ります。」
去年、壊れたというパネルは、長年使っていたものらしく、色剥げも激しく、強風で倒れた時にどこかに当たったんだろうか、真ん中から、右隅まで大きく破損し、とてもじゃないが、再利用はできない物だった。他にも不足しているものか多く、1年の6クラスから有志を募り、パネル作りに取り掛かる事になった。
パネル等を保管している、美術室前の倉庫で確認した後、俺たち一年の実行委員は解散となり、銘々が急ぎ足でクラブ活動へと散っていく。 慎一も急がなければならないのだけど、さっきの事が気になる。
「け、啓子おばさん、お礼を、い言って」 石田先生に続いて二度目のフレーズに慎一は首を傾げる。
「一体なにしたんだ?俺の親。」
「し、知らない?」 少し、驚いた風にニコは顔を向けてくる。
「だから、何を?」
「きゅ弓道部に、入れる。」
「えっ、ほんと!?」
「け、啓子おばさんが、きゅ弓道具、よ用意してくれた」
「母さんが?、まじ?」
「ち知人の娘さん、の、し新品だったの、く、くれた。」
店をやっているせいもあって、母さんは顔が広い。おまけにあの天性の明るさ故、小学校の時から色々と役員を頼まれることも多く、保護者ネットワークがすごい。ニコが弓道部に入りたがっているうんぬんを、慎一が口に出したのが昨日、金曜の朝食時だった。今は土曜日の午後。あの後、方々に連絡し一日足らずで、こんな珍しい道具を用立てするなんて、我が母ながら脱帽。
「げ月曜日から、は始める。あ、ありがとう。」少し微笑んだニコを見逃さなかった。やっと学校で笑った。やっぱりニコは笑った方が可愛い、慎一は顔が熱くなるのを感じた。
「シ、しかし、プライバシーに、か欠ける。」冷水をかけられた。
「すいません」
4
クラブと常翔祭の準備、そして学生の本分、学業。次々とやる事が追いかけて来る。
ニコがクラブ活動をし始めてから、帰宅時間も一緒になることが多くなった。慎一と藤木そしてニコは、クラブ活動のあと、校門出口で少ししゃべってから帰るのが通例になってきて、それに伴いニコの口数も多くなってきた。 つまりがちの言葉も少なくなってきている。だけど、藤木以外の生徒が一人でも加わると、とたんに無口で、表情は固まる。慣れの問題だろうと藤木は言う。女子のきつい言いがかりもあれ以来、無い。ニコがクラスに馴染むのも、そうは長くはないと楽観視していた。だけどそれは、慎一の希望的観測、本質を見えていなかっただけだと、後で知る事となる。
「んがーっ、俺、数学マジやべぇ、全くわからんかった。新田おまえは?」
「俺は、いつも言っているだろ、英語が駄目だ。あれは絶対、催眠術が施されている。教科書を広げた途端、眠気が襲ってくる。昨日も気づいたら朝だった。」
「あははは、馬鹿で 英語なら、真辺さんに教えてもらったら、いいじゃんよ。週2でおまえん家、行くんだからさ。」
「ばっ、馬鹿か、にっじゃなくて真辺さんは、えりの家庭教師。そんなことできるわけにねぇーだろ。」
「真辺さんは、今日の中間テスト、どうだった。って聞くまでもないか。」
「しゃ社会、苦手。漢字も」
「へえー、真辺さんでも苦手な科目ってあるんだ。」
常翔学園では、テストの順位が、各学年の廊下にある掲示板に点数と、過去の順位つきで啓示される。誰が努力をし順位を上げたか、誰が学業をおろそかにしたか一目瞭然、十代の若い内から、学歴社会、競争社会の現実に精神諸共に鍛えろという、容赦ない方針らしい。特待生のニコは、一学期の中間テストと期末テスト共に、当然、総合1位。どちらも2位と30~40点近く差をつけていた。
今回も難なくトップなんだろうなぁ。と慎一は予測を巡らせる。人の事より自分、は、英語以外はまぁまぁできた。一応全部の問題に回答した。でも英語は最後までたどり着けずに終わった。やばい、マジで補習になるかもしれないと慎一は青ざめていた。
1週間前から休みだったクラブが、テスト最終日の今日、昼食後から再開される。昼食は、食堂でセルフ方式の食事をとる。どこに誰と座ってもいいが、学年ごとにテーブルの色が違っていて、一年生は黄色のテーブルにしか座れない。
メニューは毎日1種類の献立だか、お変わり自由。栄養満点の食堂の給食は、流石の私立校だけあって、どこぞの一流ホテルの料理人が監修しているとかで、それも学校パンフレットの一面を飾る自慢。その宣伝文句の通りに、食事は文句なしに美味しくて慎一は大満足だった。
一人で食べているニコを見つけると必ず藤木が、ここぞとばかりにニコのそばに座って一緒に食べるようになった。 今日も、そのお決まりのパターンになって、クラスの杉本たちと食堂に来た俺は、藤木に見つけられて手招きされた。
おやつか、というほど小食のニコ、顔色が良くない。具合でも悪いのか?と聞くのもどうかと迷っていたら、ごちそうさまと言って立ち去ってしまった。
ニコの姿を目で追いながら、藤木が、慎一に顔寄せて小声で言う。
「お前、この後の成績発表、気をつけておけよ。」
「なんだよ。言われなくても覚悟してるわ、英語の補習。」
「お前じゃねぇ、真辺さんだよ。」
「はぁ?」
「俺も気には、かけておくけど、クラス内の事までは無理だ。」
女子どもの嫌がらせが復活すると、藤木は言う。間違いなく一位の場所にニコの名が載り、それを見た女子の嫉妬が、また嫌がらせになる可能性があるという。おさまっていたと思っていたニコへの嫌がらせ、慎一の知らない教室外で、実はちょこちょこあるらしい事も、藤木から知らされる。
プライバシーなどの観点から成績順位を発表しないのが普通の学校の中、シビアに掲示板に堂々と貼りだす常翔学園。だけど、その方式が県内でもトップクラスの学力を保持するゆえんだと、大人たちからの関心は厚くプライバシーうんぬんの苦情もない。元より、この制度ありきで承諾書にサインをしての入学だから、生徒側は文句が言える立場じゃない。嫌なら受験しなければいいのだし、学校方針についてこなければ、どうぞ辞めてくださいというもの。クラブ活動も盛んで、サッカー部を筆頭に、男子テニス部と、女子バレーは、強豪校としても名高い。
そんな文武両道のカリキュラムと、私立ならではの広大な敷地や施設。寮もある為、全国から受験生が集まる人気の学校となっている。
慎一自身もサッカー推薦が無かったら、とてもじゃないけど入学できてなかったかもしれないと卑下する。一般入試はそれぐらい競争率も高い。小学部からの内部進学組も、外部入学と同じ学歴テストを行い、あまりにも成績の悪い生徒は、容赦なく退学を迫られるらしい。そうした厳しいカリキュラムを実施して学力と質を保持してきた常翔学園の入学式は、その入試点数のトップが毎年、祝辞を読むのが伝統で。その名誉ある祝辞を読むためにニコが檀上に上がった時には、女子である事と、その端正な顔立ちも相まって、どよめきが会場内に広がった。しかし、その華やかな注目度はすぐに妬みに変わり、特に同性からのがひどい。
成績発表の日の朝、廊下の掲示板の前は生徒で溢れていた。慎一は自分とニコとの順位と点数を確認したあと、すぐに教室に戻った。他人の成績に興味はない。どんなに他人の点数と比べても今更、点数が伸びるわけじゃない。自分の努力の結果がそこにあるだけ。みんな何を気にして、他人の数字にあれこれいうのか、不思議だった。やった結果がそこにあるだけだというのに。
一学期末の総合点から少し下げて979点でトップのニコ、今回のテストは全体的に難しいと平均点が前回よりも20点近く下がっている中で、ニコは6点しか落ちていない。クラブをやり始めて、委員会の雑用も多く、おまけに馬鹿えりの家庭教師までしていて、忙しいはずなのに、素直にすごいなと感心する。
教室に入ると、明らかに遠巻きにされているニコの姿があった。女子が、こそこそとニコをチラ見しながら何かを言っている。その言葉は聞こえないが、目つきで何を言っているのか想像がつく。努力している者がなぜ、こんなに疎ましがらなければならない?と理不尽さに悔しかった。
自分も藤木のように一蹴できる話術があれば、と出来ない自分の悔しさを拳に握り、つぶしたかった。
中間テストが終われば、徐々に常翔祭の準備が本格的になっていく。常翔祭まで、まだひと月があるけれど、何せ体育祭と文化祭の合同行事、今から取り掛からないと間に合わない。新規のパネル製作と、既存の看板の修理は、放課後だとそれぞれのクラブがあって集まりにくいと昼休みに制作をする事となった。昼食を早めに済ませて、各クラスの有志達が集まる。
慎一のクラス1組は、慎一を実行委員に推薦したサッカー部を中心に7名のメンバーが参加し、隣の2組からは、藤木が声をかけた寮生の今野を中心にバスケ部が多く参加していた。こういう大工仕事は、やはり男どもの仕事と高をくくってか、女子は各クラスの実行委員を含めたその友達数人しか集まっていない。まして1組はニコに手伝おうなんて思う生徒はおらず、女子はニコだけだった。
昼休みに有志が集まって3日目、男子の仕事である大工作業もおおよそ終えて、主に女子主導のペンキ塗りと装飾に入っている。5組の女子の宮部さんが美術部で、うまく下絵を描きそれに添ってペンキで色を塗っていく。ふざけている男子に、まじめにやれと女子に怒られる。そんなやり取りに、ニコの表情も柔らかい。教室にいるより緊張感も薄れるんだろうなと慎一も和んだ。だけどそう思ったのも、つかの間、慎一のクラスの鈴木と谷口が駆け寄って来た。
「新田くーん、私たちも手伝うわ。」
一瞬で、ニコの顔が固くなる。
「あぁ・・・・ありがとう」気持ちは込められないけど、礼は言わざるえない。
「新田君は、どれを作ったの?」
そばに居たニコは、慎一から離れ、向うの地面に平置きしてあるパネルのぺンキ塗りに加わった。
鈴木と谷口は、関係のない事ばかり慎一に話しかけて来て、一体、何を手伝いに来たのかわからない。
「手伝うと言いながら、何もしてないんですけど。」
「えー。もう仕方ないわね。」
「新田君がどうしてもって言うなら。」言ってないっす。という言葉は飲み込んで、ここは穏便に。
鈴木と谷口はやっと、ふざけ半分に、手伝い始める。 彼女たちは下書きされたばかりの一番大きなパネルを、塗りにくいからと、立ててある位置から地面に寝かそうと動かした。
「わーっ、無茶すんな。」 慌てて、駆けつけたが間に合わなかった。女子二人の力では支えきれなかったパネルが反転して倒れる。
パネルの前に置いてあった脚立ごとペンキの缶を倒し、慎一達から背を向けてしゃがんでいたニコの背中へと覆いかぶさった。悲鳴と共に、派手な音を立てて色々なものが飛び散る。
「誰だよ!脚立の上にペンキ置いたの!。」
「大丈夫か!真辺さん」
大きなパネルと脚立にしゃがんだニコの身体が下敷きになっている。重くて身じろぎできないようで、慌てて男子がパネルを起こす。やっぱり無表情に無言で立ち上がったニコだったが、その背中は、頭から背中にかけて、白いペンキがべっとりついていた。
「やだ、真辺さん、ペンキだらけ。」
「髪の毛にべったり。早くペンキ取らないと、油性だから大変よ。」
美術部の宮部さんがニコを水道まで連れていく。なのに、鈴木と谷口ときたら、
「わざとじゃないわ。重くて、」言い訳しかしていない、ニコを心配することもなく、謝りもせず。
「駄目だわ、ペンキと飾りが絡まって取れない。これ以上、濡らすわけにいかなくて。」
乱れた髪に、メインパネルについていた飾りの一部、赤い紙きれが絡まっていた。長い髪は水に濡れて雫が落ちて寒そうだった。
「とりあえず、ジャージを脱がないと。私ついていくから。」宮部さんに連れられてニコは更衣室へと向かう。 もうすぐ5時間目が始まるし、今日はこれで終わるか。と隣のクラスの実行委員の指示のもと、皆が散らばった道具類を拾い始める。それでも鈴木と谷口は、「あたしたち、制服のままだし、」と自分が倒したペンキ缶を片付けようともしない。もう我慢できなくなって、慎一は二人へと進み出ると、藤木に腕をつかみ無言で首を振る。 やめておけと目で制される。八つ当たり気味に、慎一は藤木の手を強く振りほどいた。
教室に戻ってきたニコの姿に、皆がざわめいた。慎一も息をのむ。長いストレートだった髪が、顎あたりのボブになっている。
片づけの後、更衣室に覗きに行く事は出来ないので、教室の廊下でニコを待っていた。さっきまで、藤木もここで待っていたのだか、チャイムが鳴ったので渋々自分の教室に戻っていったばかり。入り口で、すれ違うニコは慎一と目線を合わすことなく、無表情に教室に入る。声を掛けられなかった自分が情けない。 ほどなく遅れて、ニコに付き合ってくれた5組の宮部さんが、担任と一緒にこちらに向かってきた。
「石田先生に事情を説明しておいたわ。怪我は無いみたい。髪の毛は、頑張ったんだけど取れなくてね、切るしかないかもって言ったら、着替えた後、保健室に行ってバッサリ、自分で切ってね。びっくりしたわ。保健の先生が毛先を、手直ししてくれたから、あれで帰れるかと思う、でも上の方に少しペンキが残っているから、あとは美容院に行って切ってもらうしかないと思う。」
「そ、そう。」
「じゃっ私、戻るわね。」
「ありがとな、宮部。遅れた理由は伝えといたから。」と石田先生。
慎一も礼を言ってニコの姿を様子見た。さっき手伝っていた杉本達も流石に心配して、何やら声をかけている。がそれも無言に俯くだけのニコ。
「真辺には、早退するかって聞いたんだがな。首を横に振って、帰りませんだと。」
「先生・・・」
「なんだ」
「俺、無理です。このクラスをまとめるの。」 慎一の声は、教室内には届かない。それぐらい力なく慎一の声は沈んでいた。
「新田、ここで逃げるのか?真辺をおいて。この間、おふくろさんに聞いたぞ、お前達のこと。」
「・・・・・。」
「ますます、お前しかいないだろ。」
「逃げるとかじゃなくて、俺では。」
「サッカーと一緒だ。いつも言ってるだろ、周りをよくみろって。」
慎一は唇をかんだ。
「真辺は、あんな状態でも、逃げずにまっすぐ前を向いてるぞ。」
もう一度、ニコへと顔を向けた。姿勢よく、自分の席に座って、次の授業の社会の教科書を広げて黙読している。 切ったとはいえ、耳の後ろから肩までの髪は乾ききっていない。白い首が余計に寒々しく感じる。 先生に肩をポンポンと叩かれた。頑張れと言っているのか、諦めてやり遂げろと言っているか、慎一にはわからない。
「さぁ、授業始めるぞ。入れ。」
5時間目を終えて、石田先生が職員室へ引き上げると、鈴木と谷口が、ニコに近づく、
「真辺さん、怪我はなさそうで安心したわ。」
「髪、似合ってるわ、そっちの方がいいわよ。」
「うん。その白いのもリボンみたい。」
謝っているのか、けなしているのかわからない二人の態度に、慎一はまた怒りが再燃しそうになって、こらえた。ニコが怒らないのに自分が先走るのもおかしい。
「嫌ぁね、あんな危ない所にペンキおいて。ジャージも駄目になっちゃったかしら?」
「あっ、でもほら、真辺さん、特待だから、そういうのも学校が買ってくれるでしょ。」
「よかったわね。新しくなって。」
やっぱり、謝ってなんかないじゃないか。くそっ、と慎一が席を立つのと、ニコが席を立つのが同時だった。
「・・・・・・。」小さく開けた口が何かを言いかけて、ギュッと結ばれる。ニコは怒りたい、だけどできない。そんな風に見えた。何故、こんなことまでされて、言われても黙っているんだと、慎一はニコに対しても苛立った。 ニコは、何も言わず教室から出て行ってしまう。
「何なの、まるで私達が悪いみたいじゃない。」
「わざとじゃないのにねぇ、謝ってるのに、何も言わないってどうよ。」 と自分のしでかしたことを棚に上げている二人。
「お前ら、もうちょっとマシな謝り方できないのかよっ。」 捨て台詞的に慎一も教室を出て、ニコを追った。
何故怒らない?怒ってもいいはずだ。子供の頃はあんなに喜怒哀楽が豊富に、えりをいじめたガキ大将に向かっていくほどの感情を持っていたのに。
教室を出ると、直ぐ近くの階段を降りていく頭だけがちらりと見える。追いかけ慎一も駆け降りた。一階の廊下を左右見渡すと右、下駄箱とは反対の裏庭へ続く方へ逆光のニコが見えた。足が速い。
扉をあけて、出て行こうとするニコに、待ってと慎一は叫ぶが、ニコは足を止める様子もなく、外へ出ていってしまう。中庭の花壇付近でやっと追いつき、立ち止った。
「待てって!ニコ!」
英「ニコって呼ぶな!」 それぐらいの英語はわかる、反射的にごめんと誤った。
ニコは眉間に皺を寄せて、辛そうに唇を噛んでいた。無ではない表情に慎一は驚く。
「す、好きで、と、特待、してない。」詰まる言葉に、唾を飲み込む細い喉が上下する「わ、私だって、ふ普通がいい。・・・だ、だけど、お、お前が。」
「俺?・・・が?」
「・・・・・。」 それっきり口をグッとすぼめたまま、ニコは何も言わなくなった。かなりの時間がたっても、先の言葉は出てこない。
チャイムがなった。
「ニ・・・・真辺さん」ぎこちなく苗字を口にするしかない。
「ほ、保健室に、い行く。」泣くのを我慢した声だった。
目の前の事も見れないのに、周りなんて見えるはずがないと慎一は心が沈む。
6時間目が終わって、すぐに保健室へ向かった。ニコは居なかった。保健の先生も、来ていないと言う。ニコが行きそうな校舎内を探したけど、見つけられなかった。諦めて教室に自分の荷物を取りに戻ると、ニコの鞄もなくなっていた。
次の日、ニコは学校を休んだ、石田先生から熱があるらしいと聞かされる。
「おまえ、悪いけど、真辺の家に、手紙を届けてくれないか?」
「良いっすけど。そういうのは、ファックスじゃないんですか。」
広範囲から登校してくる常翔学園の生徒は、学校を休む場合は、電話かファックスで知らせることになっている。学校から生徒への連絡は、休んだ日の授業内容と共に保護者宛ての手紙なども含めてファックスかメールで送る。 事前に長期に休むとわかっている場合は、まとめて郵送する手筈。どんなに自宅が近所同士でも、同級生が休んだ子へ、何かを届けさせると言う小学校の時のような事はしない。
「ワシ、忙しいんだよ、なっ。」
「忙しいって、ちょっとファックス流すだけじゃないですか」
「真辺ん家、ファックスじゃなくて、メール登録なんだよ。ワシ、パソコン苦手。」前にファクスはないって言われた事を慎一は思い出した。
「苦手って、よくそんなんで、先生業やって来てますね」
「おう、可愛いい教え子達がやさしくてな。忙しい先生の為に手伝だってくれんだよ。なっ、頼んだぞ。新田。」
言いくるめられた。慎一は「完全に職務怠慢だ」と心の中で叫ぶ。
ニコん家へ行く事を知った藤木は、自分も行きたいと言って来たが、それは完璧に無理だった。藤木は寮生で、門限は6時半。頼んだぞと先生に次いで藤木にも肩を叩かれた慎一だったが、何も難しいミッションでもない。ただ手紙届けるだけ。だけど慎一は憂鬱だった。
『私だって、普通がいいんだ。だけどお前が。』
声を絞り出すように出した言葉。慎一は、何かしただろうか?と記憶を巡らせたけれど、思いつく事は何もない。ニコの特待と自分がどう関係するのか、さっぱり分からなかった。正直なところ行きたくない。どんな顔してこの手紙を渡せばいいかわからない。今日は木曜日、さつきおばさんは夜勤で家にいない日だ、だから、ニコはえりの家庭教師を前提に、新田家で晩御飯を食べる日。呼び鈴を押したらニコが出るだろう。ポストに入れるだけにしとくか。慎一はニコのマンションの下で躊躇していたら、自転車に乗った母さんに出くわした。
「あら、慎一」
「母さん。なんで?」
「さつきに頼まれたの、どうしても仕事が休めないからって。」
「ちょうどよかった、学校からの手紙を預かったんだ、母さん、持って行って。」手に持っていた封筒を母さんに差し出したら、
「何言ってんの、あんたも来なさい。」と、腕を引っ張られて、エレベーター内まで引きずりこまれた。
事前にカギを預かっている母さんは、呼び鈴も押さず家に入り、おかゆを作れと慎一に命令する。
料理人の息子という事でもないけれど、ドラマのおかげで急激に店が忙しくなった母さん達は、子供達の世話はほったらかし。慎一はお腹が空いたのが我慢できなくて料理を始めたら面白くてハマった。今では両親が居なくても、生活に困らない程度の料理はできるようになっていて、母さんもそんな息子をあてにしていたりする。だからおかゆぐらいは朝飯前だった。
おかゆと味噌汁、柔らかめに煮たホウレンソウのお浸しを作り、母さんが家から持ってきた里芋の煮物もレンジで温めなおして盛り付けた。トレーに並べて、できたよと声をかける。母さんがニコの部屋から出て来て、トレーを運ぶ。部屋をのぞくつもりはなかったけど、ベッドに身体を起こしているニコの横顔が垣間見えた。髪をショートにしていた。あれから美容院に行ったんだなと改めて、昨日の出来事を思い出されて、少しの怒りと、何もできなかった自分の情けなさを再燃する。
さつきおばさんと二人暮らしマンションは、2LDKのこじんまりとした部屋だった。リビングは、小さなテレビと二人掛けの小さいソファ、二人用のダイニングテーブルがあるだけで、無駄なものがいっさいない。きれいに片づけられているから、より一層がらん広く感じた。何かが足りないと感じあたりを見渡す。その何かがわからないまま、部屋に寂しさを感じだ。
栄治おじさんのお葬式には、母さん一人だけで東京に行っていた。栄治おじさんが死んだ事を慎一に、直ぐには知らされてなかった。知らされたのは、ニコとさつきおばさんが彩都市に戻ってくると聞かされた時、ついでのように、さらりと栄治おじさんは事故で亡くなったから、東京に住めなくなったからだと伝えられた。慎一は亡くなった事を遅れて知らされた疑問よりも、ニコにもう一度、昔のように一緒に生活できる事がうれしくて、よく遊んでくれた栄治おじさんの死を悼む気持ちが出なかった。というより、今だに栄治おじさんが死んだなんて実感としてない。慎一の中では、海外赴任が継続しているような感覚だ。栄治おじさんの事を思い出して、ふと、仏壇がないと気づいた。写真もない。慎一は首を傾げた。
「なぁ、母さん、ニコって・・・」自転車を押して並んで歩く母さんに話しかけたものの、どう聞いていいかわからず、慎一はそのまま黙ってしまった。
「どうして、昔みたいに笑わないかって?」
聞きたいことを当てた母さんに、素直に叶わないなと思う。
「そうね。隠していても仕方ないわね。あなたは逆に知っておくべきかもしれないわ。」
一呼吸ついて、母さんは話し始めた。
「この間、栄治さんの話になった時、話を逸らしたでしょ。」
「うん。ニコが、フィンランドとフランスに行っていて、東京に戻って・・・それから、栄治おじさんが亡くなって」
「その東京の頃からなの、ニコちゃんが笑わなくなったの。」
「えっ?東京で?海外じゃなくて?」
「そう、東京に帰ってきて少しづづ。栄治さんが亡くなった時に、ぴたりと。表情がなくなって、日本語が話せなくなった。」
「日本語が話せない?」
慎一は、てっきり海外生活が大変だったから、あんなふうになったんだと思っていた。
学校では英語、街中ではロシア語が飛び交う異国の地に5才で行く事になった。あんなに幼稚園で人気者だったニコでも、友達もいない異国の地はさぞかし辛かったに違いないと勝手に決めつけていた。
母さんの話では、ニコは海外生活に言葉の支障は微塵もなく、直ぐに現地の学校に馴染んだという。入学初日の早速、現地の友達が家に遊びに来て、まだ海外生活に慣れないさつきおばさんの方が慌てふためいた程だったらしい。フランスでも同じ、毎日が楽しくて仕方ないと笑顔で遊び回っていたと。
それが、東京に戻ってから徐々に部屋にこもる事が多くなったという。東京の学校でいじめにあっていたと、さつきおばさんが知ったのは、もう帰国して半年以上もたった頃だったという。
「学校の先生との個人懇談で、初めて聞いたらしいの。」
「なんで、ニコがイジメ?」
「言葉よ。約6年間も海外に居たでしょう。日本語より、英語、ロシア語、フランス語の方が堪能になって帰って来ちゃった。日本語の発音がおかしいと笑われたのがきっかけだったらしいわ。それでも、必死に友達を作ろうと努力はした様で、でもフィンランドで培った頭の良さが反感を買って、何をしても裏目に出てしまったそうなの。」
「そんな・・・」 慎一はニコが『慣れている』と言った時の事を思い出していた。
「そんな時に、栄治さんが亡くなった。・・・・栄治さん、自殺だったの。」
「えっ!?」
「栄治さんもね、帰国後の東京での仕事が合わなかったらしくて、どうやらうつ病になってたらしいの。」
東京に戻ってから、栄治おじさんは仕事のイライラを家でぶつける事が多くなったという、さつきおばさんも海外から帰国後は、若い時からの夢、救命救急看護師の資格を取るべく勉強に忙しくて、ニコの変化に気づく事が出来なかったと言う。そもそも言葉のわからない土地でも問題なく友達を作るニコが、日本でいじめを受けるという概念が頭になかったらしい。学校の先生からニコの現状を知らされたのは、ニコが部屋に閉じこもるようになって半年も過ぎてから、つかの間、栄治おじさんが出勤ラッシュの電車に飛び込んで自殺した。
電車を止めると賠償責任が生じる。商社マンだった栄治おじさんは海外勤務もしていたこともあり、それなりの貯えもあったけれど、それでもラッシュ時の電車を止めた賠償金は、全財産を渡しても、とても足りない額だったという。さつきおばさんは、残った賠償金を放棄すべく栄治おじさんと離婚して名前を変えた。
「そのあと、しばらくは、そのまま東京で生活していたんだけどね、ニコちゃんは話せないままだし。さつきに、どうしたらいいか、わからないって相談されたの。だから、新規一転、こっちに戻って来ないかって、私が提案したの。」
「そう、だったんだ。」 想像を超えた話に、慎一は放心状態だった。
夕飯後、慎一は自室のベッドで寝ころびながら、くるくると、虹色に変化する淡い光を眺めながら、これを探しに行った日の事を思い出していた。
『雨やんだ!、お母さん、外、出ていい?行くぞ、ニコ!』
『車に気を付けるのよ~』
母さんの注意半分に、玄関を飛び出した。ずっと雨続きで、部屋遊びは、もう飽き飽きだった。
2階からコンクリートの階段を2段飛ばしで駆け下りる。
『慎ちゃん待って!』
ニコが遅れて階段を駆け下りてくる。
『いっちばんっ』と、ニコにVサインをすべく振り返ると、ニコは一階と二階の踊り場で、足を止めて空 を見上げている。
『慎ちゃん、あれ見て!すごい、きれい!』
指さす方へ見上げると、まだ、所々、厚い雲が残る空間に、虹がきれいに孤を描いていた。山の方ま で続いている。
『慎ちゃん、行こう!虹玉探しに!』
駆け下りてきたニコに遅れまいと、慌てて駆けた。
二人が大好きな絵本。本の中に出てくるきれいな虹の玉は、雨水と光によって生まれ、空へ飛び、青 い空に七色の弧を描き、彩る。そしてまた、新たな虹の玉は、空へとかけていく。その虹の玉には、 皆の願い事を叶える力があるいうお話。
まだ幼い慎一達は、具体的な話の内容を理解できなくても、絵本の中の虹の絵がとてもきれいで、
大好きになった。虹玉の願いが叶うという神秘的な力も好奇心に憧れた。二人は何度も何度も頭を突 き合せて、その絵本を眺めた。
その絵本よりもきれいで大きいな虹が、目の前に広がっている。慎一とニコは手を繋いで虹を追いか けた。空き地を抜けて山を駆け上がる。だけど、虹の行く先に近づくどころか、次第に薄くなって、 とうとう消えてなくなってしまった。
それでも慎一とニコは、あの山に虹玉は絶対ある!と、深見山の展望広場まで長い階段を登りきっ た。 階段を登りきった広場で虹玉を探す。水たまりはもちろんの事、木の根元や、草の間、ベンチ の下。ゴミ箱の中。
途中でバッタを見つけ虹玉を探している事を忘れて、木に登ったりして遊んだ。
もちろん虹玉は見つからなくて、展望台から見える夕日にきれいだねと見とれているうちに、すぐに 夜がやってきた。暗くなった展望台で帰り道がわからなくなった。どう歩いたのかわからないけれ ど、奇跡的に住宅街まで降りて来たものの、見慣れない景色。慎一達が泣きながら歩いている時に、 心優しい大人に保護されて、交番に連れていかれた。住所も言えない慎一たちは、いつまで経っても 帰って来ない子供たちを心配して走り回り、終に警察に捜索願いをだそうと駆けこんだ交番で、隣町 の交番に二人が保護されている事がわかり、無事に家に帰れる事になった。
二人は山の反対側へ、香里市側へと降りて行っていた。そういえば、帰りは長い階段を降りた記憶 がない。途方もなく長い時間を二人で手を繋いで耐えたこの経験は、ニコが海外に行ってしまう前の 記憶として、慎一にとっては忘れられない大事なものとして残っている。
次の日、「虹玉、見つからなかったね。」と残念がるニコに、どうしても探し出してあげたいと思っ た慎一は、もう、2度と山には行っちゃだめよと言われていたけれど、こっそり行って、今度はちゃ んと明るい内に、地図も書きながら迷わないように、方々を一人で探し回った。けれど、やっぱり見 つからなかった。いよいよ明日ねと大人たちが言い合っているその日、慎一は駄菓子屋で虹色に光る これを見つけた。ただのビー玉。奇跡の力なんてこれには無いとわかっていたけど、これは絵本に描 がかれていた虹玉そっくりで。本物なんだと思った。思いたかったと言うべきか。慎一は母さんに必 死にお願いして、虹玉を買うお金をもらった。すぐに駄菓子屋にかけ戻り、握りしめていた100円でこ れを買った。
慎一の手にその100円のビー玉がある。部屋の電気を透過した虹色の光が目を癒す。奇跡の力なんてあ るわけない。そうして眺めていたら、滑っておでこに落としてしまった。痛みに悶えながら、転がっ ていた虹玉の行方を追う。
『し知ってる。ば馬鹿だ、私。』
ニコはあの時、これを投げ捨てようとしていた?
もしかしてニコは、虹玉に願っていたんじゃないだろうか?、
いじめられる辛い日々を何とかして下さいと。
慎一は、偽物の虹玉を本物だと嘘ついて渡した自分の幼き愚かさを、悔やんだ。