第三章 はじめまして王子様
ユリアーナと別れて、たった一人で部屋に戻ったマルガだったが、思ったよりは居心地よく過ごしていた。
部屋にいたのはメルセデスだけだったが、ユリアーナに言われたせいか、彼女はどうにか部屋の後片付けを終えていて、お茶の準備をしてくれていた。
マルガが戻ると、すっかり片付いた部屋で、メルセデスが待っていた。
とぽとぽとぽ、と、ティーポットから注がれるお茶。とてもいい香りなのだけれど、気になるのは、そのお茶が緑色だという事だった。
「……えーっと、メルセデス?」
「これは、茶葉を発酵させていないお茶でね、発酵させていない分、すこし渋みがあるけど、殺菌作用が強いんだ、マルガは王都に来たばかりで、まだ免疫の力が弱いだろうから、こちらのお茶の方がいいと思う、よかったら飲んでみて」
メルセデスが一口飲み、
「まあ、あれこれ理屈をつけているけど、私が緑茶が好きってだけなんだけどね」
ずずっとすする様子が美味しそうで、マルガも真似をして飲んでみた。
「……なんだか、不思議な味、でも、美味しい」
「よかった! この茶葉はエラがくれたんだ、彼女のいた修道院では、自給自足で色々な植物やなんかを栽培しているらしいよ、私も彼女にもらって飲んだのが初めてだったんだけど、飲んだら美味しくてさー」
そんな風に、マルガとメルセデスが雑談をしていると、イリーネが戻って来た。
「やだ、あなた達、まだそんなかっこうなの? もうじき入寮お祝いの晩餐会が始まるわ、着替えないと」
そう言うイリーネは着替えに戻って来たらしい。
「私はいいよ、このままで」
そう言うメルセデスは、最初に会った時の格好のままだった。
イリーネはそんなメルセデスのなりを見て、深いため息をついた。
「何言ってるの、メルセデス、晩餐会には王太子殿下も来るのよ、あなた、そんな、馬丁の少年のような格好で殿下の御前に出るつもり?」
イリーネがあまりにもきっぱりとそんな事をいうので、さすがにメルセデスも困惑している。
「私はここに勉強をしに来たんだ、晩餐会の準備なんてしてない」
そう言うメルセデスに、イリーネが言った。
「いやだ、あなた、何を言っているの? 王立学院への女子入学が認められたのは、王太子殿下のお后探しの為なのよ? 皆、着飾って来るに決まってるじゃない!」
驚いてメルセデスが何事か言おうとしたところで、配膳を終えたエラが戻ってきた。
「……あなた達、まだいたの? もう食堂、集まり始めてるわよ」
エラの言葉に、支度を終えたイリーネがあわてて出ていき、エラも支度にかかった。
「……私、もうこのまま部屋にいようかな」
ぽつりとメルセデスが言った。
「王太子の目に止まりたいって気持ちなんて最初からないし」
それを聞いて、エラがもったいなさそうに言った。
「お好きに、とは思うけど、今日は多分いちばんのご馳走よ。デボラは腕がいいわね、私、あんなごちそう初めて見た」
エラも、王太子には特に興味は無いという。
「私、孤児だもの」
あっけらかんとエラは言った。
「王太子妃に出自のはっきりしない娘はまずいでしょう」
そう言いながら、エラは一度寝室へ行き、替えのシーツを持ち出してきた。
「今日はダンスパーティでは無いし、座ってしまえばあまり気にならないから、これでどうかな? おろしたてだから綺麗よ」
そして、メルセデスを下着姿にして、てきぱきと大きな一枚布で、体の線に沿ったドレスができあがった。元が一枚布なので、装飾はほとんど無いのだが、布の折り方でここまでできるのか、と、マルガは驚いた。
マルガは、最悪自分のドレスを貸そうと思い始めていたのだが、長身のメルセデスにマルガのドレスでは丈が足らず、むしろ体に合わないドレスではみすぼらしくなってしまうのではないかと思っていたところだった。エラは大きな布で、てきぱきとドレスもどきを作ってしまった。
「マルガ、もしよければ、アクセサリーを何か貸してもらえない?」
エラに言われて、早速マルガは手持ちのいくつかを出して並べた。エラ自身も着替えていたが、それは修道女の服だった。
「エラは、いいの?」
「私にはこれがあるから」
そう言って、ややおおぶりのロザリオを首からかけた。
「元修道女って事で、まあ準正装のように思ってもらえればね。制服があるっていいわよね、学院も女子制服を作ってくれれば、ラクなのだけれど」
マルガ、エラ、メルセデスの三人は大急ぎで支度をして、食堂へ向かった。
長身のメルセデスは、かなり目立つのだが、元がシーツとは思えない一枚布のドレスが、不思議とそんな彼女をひきたたせていた。
長身で手足が長く、中性的な顔立ちに、シンプルなドレスが生える。
三人揃って食堂に現れたのを見て、イリーネが、言った。
「……なんだ、ドレスあるんじゃないの」
実はシーツなのだというのを、マルガは説明したくなったが、ぐっとこらえて着席した。
見慣れないメルセデスの姿に、女子寮の皆は少しだけざわついたが、すぐに興味の対象が変わった。
「殿下よ」
隣に座っていたイリーネが起立したので、マルガ達もそれに習った。
食堂内部にいる皆が、入り口に現れた王太子に注目した。
マルガは、生まれて初めて王族を直接見た。
王太子、レオンハルトは、マルガの思い描いていた『王子様』そのものだった。すらりとした長身、漆黒の髪、切れ長のすっきりした目元。衣装は華美なものではなかったが、気品を感じさせる洗練されたものだった。
「……あれが、王子様」
マルガはしばし王太子の姿に見とれた。
残念な事に、王太子の席は男子学生に囲まれる場所にあり、直接そば近くでその様子を見ることはできなかったが、ひと目垣間見ることができただけでマルガは満足していた。
「これ、本当に美味しい」
マルガの向かいでは、メルセデスが料理に舌鼓をうっていた。
「エラ、ありがとう、おかげで美味しいものにありつけたよ」
黙っていれば中性的な美女に見えるのに、ガツガツと骨付き肉にかぶりつく姿は少年然としていて、メルセデスは色々惜しいのだが、マルガはむしろ、そうした屈託のなさを好ましいと思った。
食事が始まってしまえば、皆、服装などに特別かまうでなく、料理を楽しんでいた。イリーネを含む何人かの女生徒が、しきりに王太子の方を気にしている様子だったが、席が離れていて、直接声をかける事は難しい。
ダンスパーティーや、立食の席ではないので、皆、それぞれの席で会話を楽しむのがせいぜいだ。
メルセデスのドレス姿に驚いたのか、ユリアーナが声をかけた。
「驚いた、メルセデス、いつもそんな風に女性らしい装いをすればいいのに」
「いやあ、ユリアーナ、でも、これ、シーツなんで」
褒められた事がうれしい様子で、メルセデスが言うと、ユリアーナは素直に驚いていた。
「すごい、一枚布でそのドレープを? メルセデス、それ、あなた自分で?」
「いいえ、エラがやってくれたんです」
「すごいわ、エラ、器用なのね」
そう言って、ユリアーナがメルセデスの隣に座っていたエラに言うと、エラが答えた。
「時々そんな遊びをやっていたんですよ、修道院にドレスはありませんでしたが、年頃の娘達は、時折装ってみたくなるものです」
自分だって年頃の娘だろうに、エラは時々老成したような事を言う。
「アクセサリーはマルガ提供ですよ」
エラがそう言うと、ユリアーナはメルセデスの首で輝くネックレスに話題を移した。
「そう、それも気になっていたの、見事な細工だわ、さすが貿易の街、ザイトリッヒ出身ね、やはり良い物が集まるから、審美眼も優れているのね、マルガは」
「いえ、そんな……」
持ち物を褒められるのは素直にうれしかったが、メルセデスのように、自分自身の容貌であったり、エラのように器用さを見せたわけではないので、マルガはひたすら恐縮するだけだった。
そんな三人の様子が気に触ったのか、イリーナが話の輪に入ってきた。
「本当、びっくり、メルセデスったら、いつものあの白衣姿で来ようとしているんですもの、まあ、あの薄汚れた白衣よりはましよね、……シーツだけど」
ひときわ大きなイリーネの声は、周囲にも聞こえるほどだった。
それぞれの話題に花が咲いていた食堂に、耳障りなイリーナの甲高い声が響くと、一瞬、皆が会話を中断した。
「イリーナ、今は会話を楽しみましょう、あなたの装いもとても素敵ね」
ユリアーナが話題を変えようと、イリーナの衣装を褒めたが、イリーナには、そんなユリアーナの配慮が、とってつけたように思えたのだろう。ユリアーナをキッと睨みつけて言った。
「あなたに褒めていただかなくても……ユリアーナ、国賊の一族に連なる方は、自己保身の為にお追従が上手になるのかしら」
再び、食堂にイリーナの声が響き渡った。ユリアーナは、瞳に微笑みを残しながらも、言葉を失い、手もかすかに震えている。
「イリーナ、お辞めなさい」
エラがたしなめようとしたが、イリーナの言葉は解き放たれてしまった。
「女王を亡きものにしようとした方をご一族に持つと、気苦労が耐えませんわね」
ついに、ユリアーナの顔から笑顔が消えた。
ユリアーナは、それでも、努めて平静を装いながら立ち上がった。
「……私は、入学した皆さんをお祝いする場にふさわしくないようですね」
ユリアーナの表情には苦しさが滲んでいたが、耐えている様子をマルガは美しいと思ってしまった。
マルガは、ユリアーナの出自は知らなかったが、イリーナの口ぶりだと、女王の即位前にあった事件関係者の血縁なのではないかと推理した。
ならば、ユリアーナの一族は、かつては王妃を排出してきた大貴族だったという事だ。
世が世なら、王太子の妃候補になっていたのはユリアーナだったかもしれないのだ。
マルガには、『根源に至る恋物語』の登場人物リヒトと恋に落ちる、薄幸の未亡人、エデルの姿がユリアーナと重なって見えた。
「お嬢さん方、どうかしましたか?」
ふいに、王太子が現れた。イリーネの騒ぎが目に入ったのだろう、心配して、席を立ち、様子を見に来たようだ。
「殿下、申し訳ございません、私が不調法をいたしまして、よろしければ、私の席をお使い下さい」
「……では、ユリアーナはどうするつもり?」
王太子が心配そうにユリアーナに尋ねる。
「私はお祝いの場にふさわしくありません、退席させていただきますわ」
そう言うと、ユリアーナは隣に座っていた副監督生のフィーネに何事かささやいて、食堂から出て行った。
王太子は、立ち去っていくユリアーナの後ろ姿を心配そうに見送り、一瞬追いかけようと一歩踏み出そうとしたが、思いとどまって、言われた通り、ユリアーナの席へ付き、周囲の女生徒達と雑談を始めた。イリーネは、遠巻きにしていた王太子が思いがけず近くに来てくれたので、先ほどまでのことなど、まるで気にしていないように、少し興奮気味に話を始めた。
マルガとエラ、メルセデスは退席したユリアーナが気がかりだったが、フィーネに目配せされて、王太子達の雑談に耳を傾ける事にした。
マルガは、思いがけず近くに見ることになった王太子を注意深く観察した。王太子は、ユリアーナの窮地を救いに来たとしか思えない。
ほんの一瞬の、視線の交錯。前王妃の一族、グリチーネ家は、王家に近い家柄だった。ユリアーナと王太子は、遠縁になるのではないだろうか。
たとえば、幼なじみであったり。ユリアーナの口ぶりは、努めて形式的な、臣下の礼から逸脱しない様子だったが、王太子の方は、とても気安い風にも見えた。
いやいや、と、マルガは自分の描いた妄想を一旦かき消した。
イリーネの声は、相変わらずやけに響くのだが、王太子が上手に話を逸らし、その場にいる皆の話題を引き出しているようだ。
「メルセデスは、ようやく入学だね、おめでとう」
そんな中で、王太子はメルセデスにも話しかけた。
「ありがとうございます、念願がかないました、本当にうれしいです」
メルセデスは本当にうれしそうだ。男装して、男のフリをしてまで入学しようとした王立学院なのだ。多分、今、この場にいる誰よりも、入学を望んでいたのだろうな、と、マルガは思った。
「殿下からも何とか言って下さい、メルセデスときたら、寮に入ったその日から、毎日実験をしているんですよ? 道具や薬品まで持ち込んで」
ほとほと困っている体でイリーネが言った。
「私が実験を日常的に行っているのは、別に寮に入ってからではないよ? 家に居た頃からなんだから、私にとって実験は、イリーネにとってのお茶会と同じだよ」
メルセデスが答えた。
「まったく、ああしょっちゅうお茶会をして、毎日毎日よく話題がつきないと思うよ」
エラがそれに続いた。
「え、入寮してから、まだそんなに日数は経っていないと思うんだけど、そんなに毎日?」
マルガは今日着いたばかりだったが、他の生徒達もそれほど長い間逗留はしていないはずだ。
「あの部屋に最初に入ったのは私だが、イリーネは毎日サロンでお茶会を開催している、男子寮にいるあの連中は元からの知り合いなのかな? だから、あまり部屋にはいないはずだ。私は、調理場の手伝いやらであまり部屋にいないが、メルセデスならよく知っているだろう」
「そうだね、私が寮に来たのはイリーネよりは後だけど、私の把握している限り、食事と夜寝るとき以外、イリーネをみかける事はあまりないかな、まあ、エラもあまり部屋にはいないから、遠慮無く実験させてもらっていたよ」
メルセデスもエラも、皇太子殿下の前で、あえてイリーネを貶めるつもりで言ったのでは無い。彼女らはあくまでも、自分の見たままを言っただけだ。
しかし、イリーネはそうはとらなかったようだ。
顔を真っ赤にして、羞恥に震えている。二人の話だと、イリーネがしょっちゅう男子寮の者達と遊び呆けているようにとれる。(そして実際そうなのだろう)
「殿下! 私は!」
イリーネが弁解の言葉を口にしようとした時に、当の王太子殿下がトドメの一言を言い放った。
「ああ、ずっとサロンを占領している女生徒がいるなと思っていたけれど、あれは君だったんだね」
とびきりの笑顔で、王太子殿下は続けた。
「いつもサロンで詩の朗読会をしている連中が、場所を奪われたと嘆いていたよ、きちんと時間を決めて、予約制にしようかと検討を始めるところだったんだ」
王太子のとどめの一言で、イリーネは完全に沈黙し、以降口を開かなかった。