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フィオナ・アシュフォードの秘密

 植木鉢を破壊した民家に詫びを入れ、その後菅原刑事は車で彩那を警察病院へ連れて行った。

 レントゲン撮影の結果、骨には異常はなく右大腿部の打撲と診断された。確かにミニスカートから飛び出た太もも辺りが、広範囲にわたって鬱血しているのが分かる。軽く押さえると痛みを感じた。

 廊下に置かれた、飾り気のない長椅子に三人は腰掛けた。

「みなさん、大袈裟なんですよ。このくらい、二、三日で治ります」

 彩那は敢えて明るく振る舞った。

「しかし、あの時は正直どうなるかと思いましたよ」

 菅原刑事が思い出すように言った。

「お前は、いつも無茶し過ぎなんだよ」

 龍哉もやや怒った声で言った。

「ごめんなさい」

 彩那は素直に頭を下げた。

「それにしても、フィオナさんは相当怒ってましたね」

 菅原の言う通りである。いつものように小言で済むと思いきや、今回はまるで違った。ついに彼女の逆鱗に触れてしまったというのだろうか。いつもは冷静な指令長があれほど取り乱したのは、それだけ予想外の出来事だったということだろう。

「まあ、それはともかく、問題はおとり捜査が失敗に終わったということです」

 菅原は冷静に言った。

 兄妹は揃って彼に視線を浴びせた。

「ひったくり犯は、警察の罠が仕掛けられていたことを知った筈です。よってあの場所では、これ以上犯行を繰り返さないでしょう。つまり我々は現行犯逮捕の最大の機会を逃したことになります」

 彩那はその意味を考えた。

「では、もう出動はなしですか?」

 龍哉が訊いた。

「そうですね。犯人の出方次第というところでしょうか」

「捜査に失敗したことで、倉沢家は捜査班の任を解かれるのでしょうか?」

 彩那にはそれが一番の心配であった。こんな結末は到底受け入れられるものではない。

「それは、私には何とも言えません。課長やフィオナさん、あるいは上層部が決めることですから」

 彩那はがっくりと肩を落とした。


 二人が自宅に戻ったのは、午後9時を過ぎていた。今日は長い一日だった。家に両親の姿はなく、兄妹二人で顔を突き合わせての夕食となった。

「おとり捜査班がこんな形で終わってしまうのは、何だか嫌だわ」

 近所のコンビニで買った弁当をつつきながら、彩那が口を開いた。

「仕方ないだろう。大体、お前がフィオナの言うことを聞かないからいけないんだぞ」

「そんなこと言われても、私だって一生懸命だったんだもん」

 急に涙混じりの声に変わったことに、龍哉は慌てて、

「いや、俺はお前を責めている訳じゃないぞ」

 と言った。

 大粒の涙が彩那の頬を伝って落ちた。

「おい、泣くなよ。お前らしくない。後でフィオナに謝っておけばいいだろう?」

「でも、何をどう謝るっていうのよ?」

 龍哉は無言で妹の顔を見つめた。

「だって私、何も悪いことしてない」

「そうだな」

 兄は妹の気持ちを察したのか、それ以上は何も言わなかった。


 風呂に入ってから部屋に戻って、足全体をマッサージした。知らぬ間に右足がむくんで大きくなっていた。明日は学校でこれをどう隠そうかと真剣に悩んだ。

 ベッドに横たわると、机の上に放り出したスマートフォンが目に入った。

 こちらからフィオナに連絡してみようか。彼女はまだ警視庁にいるのだろうか。そんなことを考えながら手に取った。

 起動して、電話帳を開く。家族の誰に掛けても結局はフィオナに繋がるようになっている。それでも指は自然と「お父さん」の文字を通り越して、「お母さん」に吸い寄せられた。

 回線が繋がった。しかし応答はない。耳を澄ませてみると、オフィスの中で誰かの息づかいがする。しかし何も喋ってはくれない。

「もしもし?」

 彩那は恐る恐る声を掛けてみた。

 すると、回線が切断されてしまった。こんなことは初めてだった。

 やはりフィオナは怒っているのだ。もうこちらからは掛けるのを止めよう、そう思った瞬間、着信音がした。画面にはフィオナ・アシュフォードと出ている。慌てて応答した。

「もしもし?」

「彩那、何かご用ですか?」

 いつものフィオナの声だった。しかし何を話そうか、まるで考えていなかった。少し間が空いた。

「先程は回線が切れてすみませんでした。ちょうど他の捜査班の指令中でしたので、応対できませんでした」

 フィオナはこの時間もまだ別の仕事をしていたのだ。

「あの、フィオナさんに謝ろうと思って……」

 彩那は思いつくまま言った。

「その必要はありません。彩那はクビですから」

 イギリス人はきっぱりと言った。頭を殴られた気分だった。

「フィオ、ちょっと待って。クビって、それはないんじゃないですか?」

「クビと言ったらクビです」

 彼女は同じ言葉を繰り返した。

「そんなあ」

 涙が出るほど口惜しくなった。

「そもそも、彩那の方から辞めたいって言ってたじゃないですか?」

「確かにそうかもしれないけど、クビって言われたら、何だかショックです」

「それでは忙しいので切りますよ」

 フィオナの声にはまるで感情の欠片も入っていなかった。

「分かりました」

 彩那は大人しく応じた。

 しかしなぜか回線は繋がったままだった。不思議な時が流れた。

 突然小さな笑い声が漏れた。

「フィオナさん?」

「ごめんなさい。クビっていうのはジョークですよ」

 涙がにじんだ。

「彩那なら笑ってもらえると思ったのに。何もそんなに深刻に受け止めなくても」

「フィオのバカ」

「ごめんなさい。悪気はなかったのです」

「バカ」

「だけど、捜査班を辞めたがっていたのは事実じゃないですか。だから気軽に聞き流してくれると思ってました」

「辞めるのと、クビにされるのとでは大違いです」

「だから単なるジョークです。どうか泣かないでください」

「泣いてなんかいません」

「じゃあ、笑ってますか?」

「笑ってもいません」

「彩那はいつも正直ですね」

 フィオナは優しく言った。

「このやり取りって録音されてますよね。純真無垢な女子をからかったフィオは当然減点ですよね」

「これは捜査上の会話ではないので、録音はしてません」

「あっ、ズルい」

「でも怪我が大したことなくて、よかったですね」

「はい、ありがとうございます」

 恐らく菅原刑事から診断結果を聞いたのだろう。

 しばらく回線は沈黙した。何を考えているのか、フィオナは口を開かなかった。

「私がどうしてロンドンからやって来たか、彩那はその理由を知っていますか?」

 突然そんなことを言った。

「それは、日本の警察から要請を受けて、派遣されてきたからでしょ?」

 彩那がそう答えると、

「いいえ、実は違います」

「フィオナ、その話は止めなさい」

 威圧的な声が割り込んできた。父親、剛司だった。

「構いません。言わせてください」

「その話をする必要はない」

 彩那そっちのけの押し問答が始まった。

 しかし途中で剛司の声が聞こえなくなった。フィオナが意図的に回線を遮断したのかもしれない。

「私は日本に来る前に、ロンドン警視庁でおとり捜査班の指令長を勤めていました。あちらでも、彩那や龍哉のような若い学生が働いています。

 ある日、私の指示が至らなかったために、一人の女の子が命を落としてしまったのです。その後、私は警察を辞めました。正確に言えば、クビになったのです。それを倉沢課長が拾ってくれたという訳です」

「お父さんが……」

 彩那にはそれは衝撃的な事実だった。

「私はその責任を今でも感じています。毎晩、仕事を終えると、あの日のことが蘇ってきて、どうしてあの時彼女を守ってやれなかったのだろう、と自責の念に駆られるのです。

 あなたの行動を見ていると、死んだあの子と重なってとても怖いのです。これでは、指令長失格かもしれません。さっきは冗談を言いましたが、クビになるのは、むしろ私の方です。今回、彩那に怪我をさせてしまった、その責任は全て私にあるのですから」

 彩那には言葉もなかった。

「だからあなたがこの仕事を辞めると言った時、実は心のどこかでほっとした気持ちになったのも事実です。これでもう危ない目に遭わなくて済むからです。でも、また別の誰かがそれをやるくらいなら、彩那のような心も身体も強い子の方が、少しは危険も減るのではないかと、正直思ったりしました」

 フィオナにはフィオナの悩みがあったのだ。彩那は密かに涙を拭いた。

「フィオ、ということはお互い悩んでいたってことですね」

「ええ、まあ、そういうことになります」

 二人は互いに笑った。

「フィオ、私、頑張ってみるよ。だから、フィオも頑張ってみて」

「ありがとう。今回は彩那に励まされてしまいました」

 いつしか亡くなった母親のことを思い出していた。何故だろう、これまでフィオナが彼女に代わって自分を叱っていたように思えるのだ。しかし、それはさすがに口にはしなかった。

「でも彩那。私の指示には少しは従ってください。でないと、私の立場がありません」

「分かったわ、なるべく努力いたします。だからフィオも、もう少し甘目の採点をお願いします」

「それはできません。公文書偽造になりますから」

 彼女はきっぱりと言った。

「ケチ」

 彩那は口を尖らせた。

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