奏絵の好奇心
放課後、筑間奏絵は、廊下を急ぐ彩那と出くわした。
「ちょうどいいところに。ねえ、教室に鞄が置いてあるの。悪いけど部室まで持って行ってくれない?」
「別にいいけど、彩那はどこへ行くの?」
「数学の再テストで職員室に呼ばれてるのよ。終わったら、直接部室に行くから」
そう言い残すと、友人は階段を下りていった。
「もう、仕方ないわね」
奏絵は自分の荷物を肩に掛けると、その足で友人の教室まで出向いた。この時間、もう誰も教室には残っていなかった。
「彩那の席は、っと」
鞄に目標を定めて、奏絵は手に取ろうとした。しかし無理な姿勢だったのと、思いのほか重量があったためバランスを崩した。次の瞬間、無様にも床に転倒してしまった。同時に鞄の中身が床に散乱した。どうやら蓋がしっかり留められていなかったようだ。
慌てて周りを確認した。こんな姿を誰かに見られたらと思うと恥ずかしくなった。しかしその心配は杞憂に終わった。
「あーあ」
鞄から飛び出した物を一つひとつ拾い上げていった。
生徒手帳、筆箱、携帯――そして最後に手にしたのは、眼鏡ケースだった。蓋が半開きになっていて一部が外に飛び出している。レンズに傷はつかなかっただろうか。奏絵は心配になって蓋を開いてみた。
それにしても変である。彩那が眼鏡を掛けているという話は聞いたことがない。彼女は両目とも視力はいい筈である。ではこの眼鏡は一体何のためのものだろうか?
幸いレンズには傷は入ってないようだ。奏絵は安心した。しかしこうして手に取ると不思議な眼鏡だった。重厚な造りで妙な重さがある。
レンズの厚みからして、度がきつそうだ。とすれば、ますます変である。彩那にはまるで不必要な代物だからである。
奏絵は自分の眼鏡を外して、その眼鏡を掛けてみた。レンズにはまるで度が入っていなかった。すると、聞こえるか聞こえないかの音で何かが駆動したようだった。
すぐに鞄の中のスマートフォンが鳴り出した。
触ってはいけない物に触ってしまったのだ。奏絵はようやく気がついた。
誰かが廊下を駆けてくる音がした。
慌てて眼鏡を取り去った。ケースにしまう間もなく、ドアのところには一人の人物が立っていた。
倉沢龍哉だった。なぜか彼は眼鏡を掛けている。しかもそれは今、奏絵が手にしている物と寸分違わぬ物であった。
これから起きる事態に自然と身構えた。
「筑間!」
龍哉の声が教室に響いた。
「ごめんなさい。私、悪気があったわけじゃないんです」
いつもは人前で尻込みしてしまう奏絵であったが、なぜかこの時ばかりははっきりと声が出た。そうしなければならない場面だと分かっていたからである。
「大丈夫です。彩那の友達です」
今、龍哉の話している相手は自分ではなかった。ここには居ない人物と会話しているのだった。
「了解」
そう短く答えると、ゆっくりと近づいてきた。
「彩那は?」
「先生に呼ばれて職員室へ行きました。それで、私が荷物を部室まで運ぶように頼まれて……」
また龍哉は誰かと会話を始めた。
「信頼のおける人物です。きちんと話せば理解してくれると思います。勘の鋭い子なので、多少気づいていることがあるかもしれません」
龍哉は視線を外さずに、
「すまないが、彩那の携帯に出てくれ」
と言った。
一度は鞄に戻したスマートフォンを手探りで探し当てた。確認するように、それを龍哉に向けた。
「それだ。出てくれ」
「はい」
「初めまして。私は警視庁通信指令室のフィオナ・アシュフォードと申します。貴方の名前を教えて頂けますか?」
それは若い外国人の声だった。
「筑間奏絵と申します」
「奏絵さん、実は倉沢兄妹には警視庁の仕事を手伝ってもらっています。今貴方が目にしたのは二人に支給されている装備品です。この件は口外しないよう、お願いできますか?」
「はい、分かりました」
奏絵はしっかりと答えた。
「貴方は、彩那が警察の仕事をしていることはご存じでしたか?」
「はい、水曜日にお父さんに呼び出され、部活の途中で帰ったことがありました。それから毎週水曜日は部活に参加していません。ですから、その日に二人は仕事を手伝っているのではないかと思っています」
「その通りです。それでは、仕事の内容についてはご存じですか?」
「いいえ、ですがおおよその見当はついています。二人とも連続ひったくり事件のニュースに強い関心を示していましたから、その捜査を手伝っているのではないかと思います」
「貴方は鋭い観察力をお持ちのようですね」
「そんなことはありません。彩那さんとはつき合いが長いので、自然と分かってしまうだけのことです」
「彩那から、何か話を聞いたということはありませんか?」
「それはまったくありません。警察の仕事は守秘義務がありますので、彼女はそれをしっかり守っているのだと思います」
フィオナは小さく笑い声を立てた。
「奏絵さんはいいお友達のようですね」
そう言ってから、
「彩那に被害者の共通点を調べるよう進言したのは、貴方ですね?」
「進言というか、事件について私の考察を述べただけです。彩那の方から事件のことを相談されたことは一度もありません」
「心配はいりませんよ。今回のことで彩那を責めることはしませんので」
「よかった」
思わず本音を漏らした。
フィオナは龍哉の電子眼鏡を通して、奏絵の姿を観察していた。その誠実な態度から信じるに足る人物であることは承知していた。
「これからも今まで通り、彩那と仲良くしてください」
「もちろんです」
「そしてまた、事件に関して何かご意見があれば、遠慮なくおっしゃってください」
「分かりました」
「それでは、その装備品は彩那に返してあげてください」
「はい、それでは失礼します」
奏絵は電話を切った。
廊下から足音が聞こえてきた。開いた扉から顔を覗かせたのは、彩那である。
「ちょっと奏絵、遅いじゃないの」
そう言ってから、眼鏡を掛けた龍哉とそれに向き合う奏絵という、異様な光景を目にして、身体が固まった。
「ちょっと、これどういうこと?」
奏絵は何も言わず、眼鏡ケースの蓋をしっかり閉じた。
「もしかして、バレちゃった?」
すぐに彩那のスマートフォンが呼び出した。無言で奏絵が差し出す。嫌な予感を抱いて応答した。
「彩那!」
フィオナの怒りが爆発した。
「は、はい」
「貴方はどうして装備品を大事に扱えないのですか?」
龍哉と奏絵は少し離れたところで笑いを堪えている。
「いえ、鞄にしまってあった筈なんですが、どうして?」
「それはこっちが訊きたいです。奏絵さんだったからよかったものの、他人に見られていたらどうするつもりですか?」
フィオナは一気にまくし立てた。
奏絵は両手を合わせて、彩那に頭を下げている。
「以後気をつけます」
「今回は五十点の減点となります」
「えっ、今日は出動じゃないから採点はなしでしょ?」
「いいえ、報告を上げておきます」
「そんなあ」
「いいですか、お友達にはよくお礼を言っておくこと」
そこまで言って電話は切れた。
「あーもう、これじゃあすっかり日常生活まで採点されてるじゃない」
龍哉と奏絵は我慢できずに吹き出した。
三人は帰宅の途についていた。
「もう何だかムシャクシャするわね」
彩那の怒りは収まらない。
「お前さ、回を重ねる毎に、どんどん得点が低くなってないか?」
龍哉がぼそっと言った。
「えー、どうして? 最初が四十点でしょ、次が三十点、それで今回は五十点だから、下がりっぱなしってことはないじゃない?」
彩那が不思議そうに言うと、
「いや、今回は持ち点がない状態からの五十点減点だから、マイナス五十点なんだぞ」
「ん? ちょっとそういう数字の話は止めてよ」
奏絵は横で笑っている。
「ねえ、そんなことより、これからみんなでハンバーガーを食べに行かない?」
突然、彩那が言い出した。
「一体、どうしたの?」
「フィレオよ、フィレオ。あのイギリス人、名前を聞くだけでも腹が立つ」
「何だか名前が違うような気がするけど」
奏絵は控え目に言った。
「いいのよ、さあみんなでフィレオフィッシュバーガーを食べるわよ」
そして遠くに知り合いの背中を見つけた。
「小柴内、あんたも一緒に食べに行かない? 私の奢りよ」
「ええ、本当かい?」
小柴内は目を輝かせて走ってきた。
「じゃあ、俺は照り焼きバーガーとポテトな」
「だめよ、フィレオフィッシュバーガー限定。その代わりいくつ食べてもいいから」
「いや、そんなにたくさん食べられるもんじゃないし」
龍哉と奏絵は顔を見合わせて笑った。
*「フィレオフィッシュ」はマクドナルド社の登録商標です。




