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灰かぶりの賢者  作者: 夏月涼
第二章 聖女奪還
52/71

49 『嫌だ』

 感覚がない。上下左右どころか、立っているかどうかすら知覚することができない。しかし、ロザリーがそれを特に気にすることはない。知っていた。この何もない虚無の空間を、ロザリーはよく知っている。


 だが、知っていたとしても、彼女は眼前に映し出される光景を食い入るように見つめた。


 一面に咲き乱れた色とりどりの花の中を駆け巡る、長い白髪と美しい紫紺の瞳を持つ幼い少女。そして、その少女を穏やかな表情で見守る女性と男性。


 女性は少女と似通った白く長い髪を持っており、顔立ちも似ている。おそらく、母親なのであろう。その隣に立つ男は少女と同じ美しい紫紺の瞳を持っており、こちらは父親なのだろう。


 両親に見守られる中、少女は満面に笑みをたたえて、楽しげに花の中を走り回っていた。


 あちらこちらに移動しては色とりどりの花を摘み取り、それを冠の形にする作業を繰り返す。数分後、やがて彼女は花の冠を完成させ、天に向かって誇らしげに掲げた。そして、すぐに成果を報告しようと、足早に両親の下まで駆けた。


「見て見て、お花の冠! キレイでしょ!」

「まあ、上手にできたわね、ロザリー」

「すごいじゃないか!」

「うん!」


 朗らかに笑む父が、幼いロザリーを抱き上げ、声を上げて褒めた。ロザリーもまた両親からの賞賛を嬉しそうに受け取り、少女らしい純粋な笑みを浮かべた。


 しかし、笑みを浮かべていた幼いロザリーはふと不思議そうな表情を形作り、両親の顔を窺い見る。そして、何も知らない無知な(・・・)子どもらしく、


「お母さん、お父さん――なんで、いつもここ(教会)からでられないの?」


 その言葉を聞いた両親は、はっと息を呑む。続いて、一瞬だけ何か重みを堪えるような表情を見せた後……見るからに無理をしていると分かる笑みを浮かべた。だが、幼きロザリーは気付けない。無知(・・)な子どもには。そして、痛ましい笑顔を見せたまま、母は娘に希望を語る。


「ごめんね、いろいろあって、今はまだ(・・・・)ここから出ちゃだめなの。きっと……そう、きっといつか(・・・)ここから出られるから。――私とお父さんが、出してあげるから」

「そうなの? じゃあ私、その時(・・・)を楽しみにしとくね!」


 幼いロザリーは、素直に語られた希望を受け入れた。声音は楽しげにはねており、いつか来ると信じているその時(・・・)を楽しみにしていることが分かる。


 だが、娘の楽しげな声を聞いても、両親の表情が晴れやかになることはない。当然、ロザリーもなぜ両親がそんな表情をしているのかは分からない。小首を傾げ、両親を見つめるだけだ。


 ――嗚呼(ああ)


「おやおや、ロザリー様、上手く作ることができたようですね」

「うん! 見て、エリック」


 幼いロザリーのその疑問が氷解する前に、教会の入り口方面から一人の青年が歩み寄ってくる。既知の間柄の青年を見たロザリーは、両親に向けるものと同様の笑みを咲かせ、花の冠を掲げた。


 だが、ロザリーの表情とは対象的に、両親が浮かべた表情は決して友好的と呼べるものではない。苦渋に顔を歪ませ、まるで見たくないものを見たかのような表情だ。


「どうしたんですか、まだ時間ではないはずですが……」

「そう警戒しないでください。私、これでも傷付きやすいんですよ。ここに来たのはただの気まぐれです。すぐに立ち去りますとも。しかし、それよりも――随分と、面白そうな話をしているな、と」

「……!」


 二人の家族を守るように口を開いた父に対して、エリックはおどけるようにして肩を竦めた。まるでこちらを煽るかのような動作に、父は唇を浅く噛む。先ほどの会話が盗み聞きされていたことは、エリックの発言から確定的なことだった。


「ふふ、すみません、お邪魔をしてしまったようですね。では、私は失礼します」


 二十にも満たない青年は、嘲るような態度のまま、所作だけは完璧にしてその場を去る。両親はその背を睨むようにして見送ったあと、見るからに元気が欠落した表情を浮かべた。物憂げな表情にはロザリーに語ったような希望というものは窺い知ることができず、陰鬱としている。


 幼いロザリーも、流石に両親が悄然(しょうぜん)としていることを悟ったのか、手に握る花の冠をじっと見つめたあと、


「……お父さん、お母さん、はい、これ!」

「ロザリー……?」

「これあげるから、元気出して!」


 小さな腕を精一杯伸ばし、両親の頭を(また)ぐような不恰好な形で冠を乗せた。満足そうな表情でうんうんと頷く娘の姿を見た両親は、小さく喉を震わせる。声を押し殺す両親の頬には、一筋の涙が。静かに零れ落ちたその雫に続くように、あとからあとから零れ落ちる。留まることを知らずに落ちる感情の産物は、娘の下に雨のように降り注いだ。


「……悲しい?」

「ううん、違うの、嬉しいだけ……ありがとう、ロザリー」

「そうなの? なら、もう一つ作ってくるね!」


 淡く笑む両親のために、不足したあと一つ分を作るべく、幼いロザリーは再び花畑へと足を踏み入れた。


 せっせと花をかき集める娘の姿を眺めながら、先ほどとは打って変わって、父と母は毅然とした表情を浮かべている。娘が贈ってくれた冠を優しく持ち、確固たる決意を瞳に灯す。


「あの子だけは守らないと、必ず」

「そうね……こんなところに、あの子を留めてはおけない」


 宗教国家という名の、狂信者の集まり。英雄の血を継ぐ者は強制的に担ぎ上げられ、崇め(たてまつ)られる。無論、そこに当人の意思が介在する余地はない。

 一瞬で国としての機能を失いそうな危うい思想ではあるが、皇国という国は誕生してから崩壊したことは一度たりともなかった。


 それは(ひとえ)に、エリックという男の家系が存在したため。教祖でもある彼の家系が常に信者を操り、国としての体裁を上手く保っていたのだ。その手腕は十分に評価に値するもの。


 加えて、この皇国を建国し、その頂点となった初代教祖は、ある不可思議な術を信者の間に伝播(でんぱ)させた。それは、戦力の強化という意味で大きく役立った。他国も手が出し辛くなったほどの大国へ成り上がったこの国を一言で表すならば、こうだろう。


 ――鳥籠(・・)


 呼気と共に空を見上げた母は、強く思う。この空は、決して広くなんてないと。代わり映えしない景色に、自由なんてあるはずがなかった。


 だからこそ、せめてロザリーだけでもここから出してやらねばならない。『聖女』としての才を受け継いでる彼女ならば、きっと外でも上手くやっていけるはずだ。


 例え、この身が朽ちようとも、ロザリーだけは――


 自己犠牲的な考えを秘める母の下へ、もう一つの冠を完成させた幼いロザリーが駆け寄ってくる。


「できたよ、はい!」

「ありがとう、ロザリー」


 母は色とりどりの花で作られた冠を父へ渡し、新たにロザリーが作った純白の冠を受け取った。

 髪の色と同じ真っ白なその冠は、母の姿によく映える。満足げに、そしてどこか誇らしげに、冠を乗せる両親の姿を見たロザリー。


 ――嗚呼(ああ)


 まだこの時は、平穏だった。優しい母と父がいて、不自由があるとすれば外に出られないことのみ。それ以外にロザリーに不足しているものはなかった。満たされていた。幸せだった。絶望というものを知らなかった。たとえそれが、作られた安寧だったとしても。


 ――彼女の平穏に暗雲が立ち込め始めたのが、歳が十になるという時。


「お母さん……お父さんは?」


 ある日、いつものように起床したロザリーは、いるべきはずの人の姿がないことに気付いた。いつもなら朝にロザリーと顔を合わせ、おはようと言ってくれるというのに。教会の庭にでも出て行ったのかと思考を巡らせたロザリーだが、


「ロザリー……お父さんはね、遠くに行ってしまったの……」


 母の様子が、どこかおかしかった。言葉には感情というものが欠落しており、どこか色褪せた印象が見受けられる。


「どうしたの、お母さん……?」

「ごめんね、ロザリー。ごめんね、ごめんね……」


 娘の問いには答えず、母はただ涙を流して謝り続ける。事情を(あずか)り知らぬロザリーは、困惑するのみだ。ただ、尋常ではない母の様子から理解できたことは、愛する父はもうここにはいないということ。


 あまりに突然の出来事に、何も言葉が出なくなる。理解が及んだのはいいが、感情がそれを認めようとはしない。何故、どうして、一体どこへ。ロザリーはそんな当たり前の疑問すら浮かばず、静かに泣き崩れる母を視界に映し続けた。透明な雫を流す母の前で、ロザリーが感情の発露を起こすことはない。


「っぅ……!」


 空いた穴を埋めるようにロザリーの身体を掻き抱く母。されるがままに胸にすっぽりと収まったロザリーは、母を慰めるべく頭を優しくなでる。そして、子どもながらに父の話に触れるのはやめようと決めた。


 まだ、ロザリーは冷静だ。目の前で代わりに泣いてくれる人がいるから、まだ大丈夫。ただ、一人になってしまえば、途端に虚脱感と喪失感に見舞われそうで怖かった。


 初めて訪れようとする感情の荒波を堰き止めるために思考を放棄したロザリーは、その日は懸命にいつも通り振舞った。

 明るく、笑顔で。楽しく、満たされて。何一つ不自由なことなどなく、幸せで――そう、幸せだったのだ。


 なのに、なぜ。この感情は――


「っあ、うぅぅ……!」


 鼻をつんとつく熱い感覚。自分自身を騙すために笑顔を作り続けたが、もう限界だった。大好きな父の失踪に耐え切れるはずがない。


 部屋で一人になった途端、ロザリーは滂沱と涙を流した。熱を持ったように熱く頬を伝う雫が、引き裂かれるような胸の痛みを和らげる。今はただ、この痛みを癒したかった。感情の激流に身を任せ、ロザリーはひたすら泣き喚いた。


 泣いて、泣いて、眠りに落ちて――


 翌日。


 ロザリーは幾分かマシになった思考で、感情の落とし所を見つけた。すなわち、父は外に一時的に出ているだけであり、少しすれば戻ってくるという考え。

 母の異様な悲しみ方からは目をそらし、ロザリーはひとまずそう納得した。


 そうでもしなければ、十歳の少女にはやっていけなかったのである。


 それからはただ父を待つ日々が続き、されど彼が戻ってくる気配はなかった。季節を超え、今か今かと愛する人の帰還だけを待ちわび続け――ふと振り返ってみれば、五年が経過していた。


 幼かったロザリーはすっかり背も伸び、随分と大人びた。精神もそれ相応に成長し、ある程度の感情の揺らぎならば押さえ込めるように。


 それはストレスを溜めるという行為に他ならないのだが、ロザリーはそれをよしとした。胸の痛みを抑えるように、五年もの間、感情を抑圧し続けている。自分でも気付かぬうちに精神をぼろぼろに傷つけているが、彼女の心をぎりぎりのところで守っているのは母の存在が大きい。


 ロザリーに唯一残った肉親。彼女の最後のよりどころ。外へ連れて行ってくれるという約束もある。いつまでも隣に。


 そう言ってくれたから、今まで何とか笑えることができた。どれだけ心に負荷をかけようと、耐えられたのだ。父が帰ってきて、母が隣にいる未来(希望)を見ることができたからこそ、彼女は笑い続けた。

 だから、


「――え?」


 耳朶を打った言葉の意味が分からなかった。


 意味を理解することを拒むように、言葉をこぼす。無意識にこばれたその呻きには、彼女の感情のすべてがこめられていた。しかし、現実が変わるはずもなく。ただ厳然たる事実として、無慈悲にロザリーの前に立ち塞がる。


「――私は、もうあなたと一緒にいられない」


 ロザリーに告げられた言葉は、別れを告げるもの。

 それを話す母の顔は、ひどく胸に痛みが走るものだ。この五年間、一番恐れて嫌っていたものが、再びロザリーに襲い掛かる。


 彼女は一瞬の硬直のあと、恐る恐る口を開いた。


「じょ、冗談だよね……」

「……」


 縋るような視線を母に向け、乾いた笑みを顔に貼り付ける。信じたくない、認められない。そんな念が、ありありと浮かび上がっていた。しかし、相対する母の様子は真剣そのものであり、ロザリーが期待している答えを返すことはない。ただ、悲しげにゆっくりと首を横に振るだけだ。


「はぁ……っぁ」


 ぎゅっと胸元を握るロザリーは、浅く呼吸を繰り返す。急速に視界が狭まり、地面しか映らなくなる。胸が痛い。呼吸が苦しい。また(・・)なのか。またあの痛みを繰り返すのか。


「ロザリー……」


 労わるように伸ばされた母の手が、頬に触れる。ロザリーは温かな、優しげなその手を震える手でつかむと、目尻に涙を滲ませて母を見た。


「どうして……なんで、そんな……」

「……ごめんね、本当にごめん。きっと、遠くないうちに私は――」

「外に連れて行ってくれるって、そう言った! だから私は笑って、またお父さんとお母さんと三人で笑えたらって、それで……それなのに、どうして……どうして!」


 先を聞きたくないと、子どものように(かぶり)を振る。ロザリーに唯一残った最後の希望を守るために。心を守るために。詰問する彼女は、口調とは裏腹に今にも泣きそうだ。


 そして、母は、癇癪を起こす子どもを愛おしげに見たあと……包み込むように、娘の身体をふわりと抱いた。密着するような力強いものではなく、ふとした拍子で離れてしまいそうな不安定な距離。


「ごめんね、私じゃ力不足だった。大切な娘一人すら救えないなんて、悔やんでも悔やみきれないけど……あなたには、強く生きてほしい。きっと、あなたを救う人が現れる。その時に、迷わずに、恐れずにここから踏み出せるよう、強くあってほしい……」

「そんなの……無理だよ。どうして、お父さんもお母さんも、私を置いていこうとするの! 嫌だよ、痛いのは嫌だよ……」


 せり上がってくる痛みに悲痛な叫びを上げ、不安定な距離を詰めようと一歩踏み出す。しかし、娘と母の距離が縮まることはない。娘の成長を願って、一歩身を引く母は、


「そろそろ時間……私があなたに託せるものは、たったこれだけ。その時が訪れたら、あなたの勇気の手助けになれるように――愛してる、ロザリー」


 母の優しい手がロザリーの頭に触れ、途端に心地よい安息が彼女の身体を包んだ。意識がぼんやりと不確かなものへなっていき、視界が暖かな光で霞む。ロザリーが途切れそうな意識の狭間で見た最後の光景は、涙を流す母の姿であった。


 ――嗚呼(ああ)


 何度も見た夢の終わりを見届けて、ロザリーは軽く息を吐く。

 これが結末。その後、目覚めたロザリーが母と会うことはなく、本当の意味で一人になってしまった。常に胸にぽっかりと穴が空いたような感覚が付きまとい、息苦しい。


 ――これならいっそ、ずっと眠っていたい……


 そんな願いとは裏腹に、意識が浮上していく感覚が訪れた。夢を終え、息苦しい現実へと帰る時間だ。鉛を詰めたような思考のまま、ロザリーの意識は覚醒する。



 ***



 最初に感じたのは、ひんやりとした感覚だった。全身に這うように冷気が漂い、思わず身震いする。


「ここは……」


 視界は暗く、明瞭としない。ただ、身体の芯を震わせるような冷気が、ロザリーの身体を包み込んでいた。見覚えのない場所に戸惑い、取り敢えず立ち上がる。


「私は、確か……」


 記憶を掘り起こそうとしばらく奮闘していると、ぼんやりとその断片を拾い上げることに成功した。ロザリーが意識を失う直前に会ったのは、この国の頂点であるエリック。


『この先にあるのは、あなたが(・・・・)生み出したもの。あなたが存在したからこそ、生まれたものです』

「……そうだ、それで確か、何か魔法をかけられた、なのです」


 意識を失うまでの過程を理解し、ならばここへはエリックが連れて来たのだろうと当たりをつけた。何故こんな場所に連れ込んだのか疑問はあるが、夢のせいもあって思考を深める気になれない。今はこの吐きそうな気分と身を包む気だるさをどうにかしたい。


 出口を求めて視線をさまよわせるが、暗闇を見通すことはできず。依然として視界は閉ざされたままであり、ロザリーは仕方なく目が闇に慣れるのを待った。


 ――だから、だろうか。それを見つけてしまったのは。


 視界から徐々に闇が取り払われていき、ある程度ここの状況を把握できるようになった時。ふと、ロザリーは部屋の奥にぽつりと浮かび上がったシルエットを見つけた。


「……?」


 シルエットは二つ存在し、一つは台座のような物の上にあり、もう一つは地面に寝転ぶようにして存在している。目を凝らしてその正体を暴こうとするが、距離と明るさ的に厳しいようだ。

 判然としない正体にどうしようかと考えることもなく、ロザリーの足は自然と動き始めていた。


 真っ白な思考のまま幽鬼のような足取りで近付いていき――地面に転がるそれの正体に、ようやく気付いた。


 死体だ。随分と前に刃物か何かで切られて亡くなったのか、どす黒くなった血が冷気のせいで凍りついている。

 保存状態は決して良いとは言えず、いくら冷気があってもその死体は半分以上が腐っていた。傍らには枯れて鮮やかな色を失った花の冠が置かれており、こちらも血で少し汚れている。


 ただ、死体となった男は、その花の冠を大切そうに優しく握っていた。決して放すまいと、絆を断ち切らせないと――大切そうに。


「……ぇ」


 一歩、後ずさる。

 吐き気が、より酷いものとなった。更に頭痛までもがロザリーを襲い始め、気分は最悪なものへ。


「ち、違う、違う違う違う違う……また会うって、三人で外にって……こんなのは違う。そう違う、大丈夫、大丈夫、大丈夫、なのです」


 震える声で大丈夫と繰り返し、死体から急いで距離を取る。そして、自分が見たものを否定したいがために、もう一つのシルエットの方へ。


 布のようなものを躊躇することなく取り払うと、台座の上のそれを見る。


 ――真っ白な長髪を広げ、安らかに眠るその女性。彼女は先ほどの男性の死体と同じく、枯れた花の冠を大切そうに握っていた。傷一つない美しい女性は、ただ眠っているだけではないかと勘違いするほどだ。


 ただ、見てしまった。これでは否定できない。


「違う違う違う違う違う違うっ!!!」


 目の前の光景を認めたくないロザリーは、叫ぶ。呼吸が苦しい。またあの痛みが胸を襲う。心が、耐えられない。


「どうして、なのです……助けて、外に連れて行って……」


 立っている気力すら湧かず、台座に寄りかかる。ロザリーは女性の顔を覗き見るが、当然何の反応も返ってこない。あの笑顔は、もう返ってこないのだ。

 胸を引き裂こうと襲う痛みに耐えるために、ロザリーは女性に抱きついた。――物言わぬ亡骸となってしまった、己の母に。


「お母さん、お父さん……助けて。一人は寂しい、痛い、苦しい……もう、何も見たくない。嫌だ、待つのは嫌なのです。見えない希望を待つなんて、無理なのです……」


 冷たくなった母に縋り、泣き言をぽつりとこぼす。母と父を失って、心の底で溜め続けた悲しみが、際限なく増幅していく。


「ここは嫌だ。希望を持つのも嫌だ。悲しむのも嫌だ。前を向くのも嫌だ。痛いのも嫌だ。全部――嫌だ」


 母が握っていた枯れた花の冠を持ち、ロザリーは幼子のように言葉を吐いた。

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