1 『その男、賢者につき』
ーー賢者。
それは、最も智慧ある者に対して与えられる、栄光の称号。魔を極め、法を成す、『魔法』を操る者の頂点。飽くことなき探究心は万人の努力を超越し、やがて悠久の時を生きる『賢者』へ至る。
初めて『賢者』へ至った者は、魔王を討伐した英雄のうちの一人。圧倒的な魔力量と多彩な魔法で、魔王戦ではかなり貢献したと伝えられている。
名を、アルフ・レイヴァース。今でも英雄として語り継がれる彼は、魔王を討伐してから忽然と姿を消した。彼の仲間でさえも行方を知らず、姿を見せないままやがて時は経過していき、いつしかアルフは死んだと言われるようになった。
そして、魔王が討伐されてから三百年。
ーー灰色の賢者が、姿を現す。
***
「ほうほう、しばらく見ないうちに外は随分と発展しているじゃないか」
紙が発する特有の香りが充満する、本のみで構成された部屋。知識の蒐集のみを目的とした、書庫とでも呼ぶべき場所で、灰色の髪を揺らす一人の男が感嘆の声を漏らす。
彼が眺めているのは、飾り気のない銀色の鏡だ。正確には、そこに映る『外』の様子を眺めて、人類の文明の進化をありありと感じていた。
彼の感覚が確かなら、『外』は彼の知る世界より三百年ほど進んだ世界だ。新たな技術や国が誕生しているだろうし、もちろん滅んだ国もあるだろう。地形も変動しているし、自分が知らないことが大量にあるはずだ。
想像するだけで、意図せずとも口角が吊り上がる。知識の蒐集が生きがいであり、目的でもある『賢者』。彼にとっては、未知とは歓迎すべき友人だ。それが、『外』には溢れ返っている。長い時をわざわざ待ったかいがあったというものだ。
「ふむ」
一つ呟き、鏡を脇へ退かす。そして、宙に浮かせて座っていた己の椅子を地面へ下ろし、傍らに無造作に置いていたローブを手に取った。認識阻害魔法付きの、彼のお手製ローブだ。彼の意思次第で、顔の認識が不可能になる。
「外に出るのは、魔王を殺して以来か……生きてるのは、僕とセルフィぐらいかな」
『剣聖』、『聖女』、『堅王』、『竜帝』。
戦闘においては化け物揃いの戦友とはいえ、寿命は如何ともし難い。魔王討伐時のメンバーで、今もなお生き延びているのは、エルフである『霊姫』セルフィ・アルクインと『賢者』アルフ・レイヴァースぐらいのものだ。
「ま、僕もそのあとセルフィがどうしたか、なんて知らないけど」
何せ、魔王を討伐して早々、アルフはこの大図書に閉じこもったのだ。彼の大図書は空間系の魔法に属するため、見つけ出そうと思えば見つけ出せるが、彼以上に腕の良い魔法使いは残念ながら存在しなかった。
故に、この三百年、彼は一度たりとも外に姿を現していない。十中八九、セルフィにも死んでいるものと思われているだろう。アルフにはセルフィと会う意思は特段ないため、何の問題もないが。
「あれこれ考えるのは好きだけど、行動は早くすべきっと」
散乱していた本を腕の一振りで元の本棚に収納し、一つ頷く。『外』に出るにあたって、アルフに必要なものは特にない。彼は空間魔法で異空間に物を収納しているため、わざわざ自分で荷物を持つ必要性がないのだ。
もちろん、そんな便利な魔法が手軽に使えるわけがなく、消費する魔力が馬鹿にできないほど高い。その量は、並の魔導師なら、異空間とのパスを繋いだだけで魔力を使い果たすほどだ。
膨大な魔力を保有するアルフだからこそ使える魔法だと言える。
「さて、と」
アルフの言葉に呼応するように、出口のない大図書の中心に、ゆらりと空間の揺らぎが現れる。それを起点として、泡沫の夢のように大図書の景色が揺らいでいき、本棚だらけだった世界が急速に遠ざかっていった。
波打つ景色を慣れた様子で眺めながら、アルフは口角を上げる。
「三百年退屈していたんだ。期待させてもらうよ」
ーー『賢者』アルフ・レイヴァース、世界最強の一角であり、魔王を討伐した英雄の一人。魔法の極みにまで上り詰めた男が、三百年という悠久の時を経て、再びこの世に姿を現す。