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最初に部屋に通されたのはあたしとルーだ。絨毯の中心に据えられた籠にあたしは体を押し込んだ。それは繊細な装飾を施されてはいたが、獣の脚が乗り上げても軋みひとつあげない床板に、それが丈夫な檻と呼んで差し支えない強度であると察する。
予め聞いていたから、猛獣扱いにショックはない。何の枷もないあたしと密室に閉じ込められて、ルーの気弱な兄上が失神してもかわいそうだからね。
しかしこの可憐な彫刻はなんだ。内外問わず、花やら蝶やら小鳥やらが刻まれている。あたしの視線を受けて、ルーは頬を染めて目を伏せた。
「仕上げはまだなんだけど……君に似合うと思って」
「ルー、大丈夫?」
「平気!」
ぱたぱたと手のひらで顔を仰いでいる。いやそんな初々しい反応をされても困る。ちがう、そうじゃない。
天を仰ぐあたしの目の前に広がる天井世界。描かれた木々、蔦、咲き誇る花に実る果実。これは森だ。あたしの育った世界。よく見なくともわかる。
猫に似た黒い獣が、彫刻の中でそこかしこに遊んでいる。
メルヘンだ。メルヘンの世界だ。
……あたしはこんなプリティ系だっただろうか?
己の身を見下ろし、アイデンティティの危機と戦い始めた時、ノックの音がした。
ルーはあたしに視線を通わせ、扉の横に控えた世話係のリルゼに顎で促した。
――ああ、いけすかない男だと思ったけれど、こうして面と向かってみるとやはり相性が良くない。目つきがいやだ。少年と似た顔つきで、あたしを卑しむ。
まあでも、弟の手前か怯えた様子もなく室内に入り、扉を閉めさせたのは評価してやってもいい。
「醜悪な……」
――撤回だ。
男の失礼な発言を受けて思わず床板に爪を立てると、そっと背中に触れられた。格子には、ちょうど腕一本がすり抜けるだけの間隔があけてあった。
「兄上、あまりこの子を傷つけないでください」
この子、と表現されて驚いた。いやあなたよりも、そこの兄王子殿下様様との方が肉体の年齢的には近いと思いますね。
「君も、あまり毛並みを逆立てないで」
その声は普段のルーよりも大人びていて冷静だけれど、あたしに触れる手はいつもの柔らかさを失って、じっとりと湿っていた。本人も気づいたのか、ばつが悪そうに手を引っ込めようとする。あたしは鼻息をかけてやった。ルーはきょとんとしたけれど、あたしの背中に手を戻し、ごく小さな力できゅっと毛を握る。
そうだ、あたしを使うのだ。穀潰しの獣の体だって、この少年にならリラックス効果も期待できる。ペットセラピーだ。
まあこの状況であたしが威張れることは何ひとつないのだが。
そしてそんなあたしたちの触れ合いを、蒼ざめて見つめる一対の目がある。ザマミロ。
「る、ルツロア」
「兄上、この子は優しい。『籠』などなくてもいいのです」
ルツロア少年が臆病だったというのは、本人のでまかせじゃないのかとあたしは思う。こんなに堂々と自分の想いを伝えている。さっきの震えだって、緊張でしょう。リベラに対しても尊大な態度だし。そんなリベラは……扉の横で俯いて、ニヤニヤしていた。動揺する兄王子が面白いのだろうか。性格のいい子だな。
彼女は彼の紹介らしいから、その時に不当な扱いでもされたのだろうか。容易に想像できる。
「お前にはわからないのか、ルツロア。それは魔だ。禍々しい、触れてはお前が邪悪に染まる」
「兄上」
「お前を臆病だなどと言って悪かった。国一番の剛毅だよ。……命取りなくらいだ」
あたしはこの男が好きではないが、真面目にルーを心配していることくらいは伝わった。
そして、ルツロアの今後の人生にとって重要な存在であることも、最初から明らかなのだ。あたしなんて、天秤にかけることもできないくらいに。
「ルー」
――あたし、やっぱり出て行こうか。
そう言おうとしたのに
「黙って」
少年は振り返りもせずに言葉を遮る。
開いた口をおとなしく閉じたあたしをチラチラと見ながら、兄王子は焦った様に早口になる。
「ルツロア、お前は祝福を受けていないからわからないんだ。祝福を受けていれば……」
言葉の途中で兄王子は息を飲んだ。自分の言の痛烈さに、気づいたという顔である。しかし対する弟王子は、「構いません」と首を横に振る。
「しきたりは大きい方達を守っています。それにたとえ僕に祝福があったとしても、僕はこの子をどこへも渡さなかったでしょう。そのために今よりも酷い方法を選んだかもしれない」
「お前にとって、ソレはそこまで重要なものなのか?」
兄の言葉を受け止めて、ルツロア王子は静かな目をこちらへ向けた。鉄格子越しに見る作り笑いは、あたしの胸をソワソワさせた。
「恩があるのです」
「恩?」
兄王子が訝るのももっともだ。この間会ったばかりじゃないか。あたしだって初耳だった。
「この子が生きて僕の前に現れてくれたことが、本当に嬉しかった。強くならなくてはと思えました。今のままの僕ではだめだと」
「……初対面ではないのか?」
「この姿で会うのは初めてでした」
え? ルー、まさかそれ話すの?
「この子は自分を犠牲にして、僕の運命を変えてくれたんです。だから僕は今こうして生きているのです」
兄王子は固まってしまった。あたしだって突然こんなことを打ち明けられたら、思考の整理にちょっと時間を要する。ちょっと同情した。
「思慮深い兄上にすぐに信じて頂けるとは思っていません。ですが悪いことばかりではないはずです。兄上だって、臆病者を撤回すると言ってくださいましたし」
「いや、それは……ルツロア」
「はい、兄上」
彼は弟を頭から足先まで検分すると、大きく息をついた。
「お前は魔に染まってはいない」
「そうなのですね」
ルーは微笑んだ。それは投げやりな態度に見えた。
「だがこれからも清浄とは限らない。わかっているな?」
「はい、兄上。承知しています」
「なら……、せいぜい飼いならしておけ」
あたしはそのやりとりをぼーっと眺めていたけれど、どうやら兄の懐柔はそこそこの成功を収めたらしかった。
「だが、また倒れるようなことがあれば、わかっているな?」
「……はい」
「その場しのぎのつもりでいたが、その女をよく使え」
突然王子二人の視線にさらされて、世話係のリルゼはぎょっと目を見開いた。その態度に兄王子は渋い顔をする。
「急拵えではな……しかし他を探すうちにお前が倒れてもかなわん。しばらくは我慢しろ」
「承知いたしました」
リルゼを前にして、その意思を完全に無視した会話をくり広げる二人にあたしはカチンときていた。
「リーがいい」
「君は黙――」
「あたしは、リーがいい、です」
下手に出ているアピールとして敬語にしてみた。
あたしの発言にすくみ上がった臆病な兄上は、「勝手にしろ」と言い捨てて、そそくさと部屋を出て行った。
あたしは『突然箒を振り下ろしたり家具を破壊したり窓に突進しない世話係』を失わずにすんだことにホッと胸をなでおろした。