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魔の娘と敬虔な王子  作者: かまこ
5/11

5

そうこうするうち、ルーは倒れた。出先で良かった。あたしの所で寝込んだら、誰も少年を回収できないだろうから。まあ、あたしがそのことを知ったのは、その二日後、扉を叩く音と共に入ってきた、一人の人間の女の口伝による。


「やっぱりね」とあたしは思った。

薄情だというなかれ。この間、あたしは水すら口にしなかったのだ。もはや喉も思考も干からびて、どうして途中で逃げ出さなかったのか自分でも不思議なくらいである。


ともあれ、あたしは目の前に差し出された命の水をヒタヒタと舐め、そのうちガブガブと飲んだ。差し出されるままに果物も食べた。

かねがね味気ないと思っていたそれも、すっからかんの胃には天上の実りのように美味であった。あたしはすっかり人心地ついた。


そして、あたしの食事が済むまでのその間、逃げ出しも、ひっくり返りもしなかった人の女にやっと気が回るようになったのだ。


食べながら無意識にゴロゴロと喉を鳴らしていたけれど、それにも驚いた様子はない。目を開けたまま気絶しているのでなければ、彼女はあたしと同じ空間にあることを、耐えられている。


「ごちそうさま」


女は少しだけ震えて、けれどその黒色の目から理性を失うことはしなかった。もちろん、編み上げて後ろへまとめた同色の髪を振り乱すこともなかった。それどころか、ごくりとつばを飲んで、あたしに言葉を与えた。


「本当に話せるのね。……あ、話せるんですね」

「うん。あなたは誰?」

「使用人です。あなたの世話をすることになりました」

「へえ」


これには珍しく驚いた。ルーはかなり頑張ったらしい。これで倒れたんだろうか。


「ルーの具合はどう?」

「ルー? ああ、坊ちゃん。私も詳しくは知らないですけど、過労で倒れたみたいですよ」

「そう」


それならしばらくは会えないのだろう。これを期によく休むといい。あたしにお世話役がついたのなら、少年が無理をしてここへ通う必要もないってことだ。


久しぶりに満たされたお腹を抱えて、あたしはそのままクッションの上に丸くなった。強烈な睡魔に襲われていた。過度な空腹は休息を阻害するのだと、あたしはこの時正真正銘初めて知った。



それから三日の間、世話係は朝と晩に現れてあたしに食事を与え、器を片付け、簡単に掃除をしては去っていった。最初は勝手がわからないようで器をひっくり返したり、窓の開け方ひとつにも戸惑っていたものの、この人間はよく働いたし、何より突然箒を振りかざしたりしなかったので、あたしは安心してその姿を部屋に見出すことができた。彼女はあたしが動く時、すなわち食事のために器に顔を付けたり、毛づくろいの最中など、体をかたくしてあたしの挙動から目を離すまいとするのだが、いかに楽観的なあたしといえど、それがカッコイイ獣に見とれるがゆえの行為だとは取らなかったので、「触ってみる?」と聞くのはやめておいた。それでも日にち薬か、ルーが帰ってくる頃には、世話係は全身を舐め梳かすあたしに背中を向けて掃除することを覚えてくれた。



そしてあたしとルーが最後に顔をあわせてから五日たった朝、気弱そうなノックの音がした。あたしの食事を片付けて、棚の埃を払っていた世話係の女は、ぎょっとして扉を、それからあたしの方を見た。ルーが入室の許しを願うことなんていつぶりだろう。「入って」と口にすると、ゆっくりと開いた入口に、緊張した面持ちでこちらを見つめる少年が立っていた。


「久しぶり」


あたしは気を遣ってそう少年に呼びかけたが、むしろ顔をクシャリと歪められた。自分の腕を抱くように体をちぢこめて、「うん」とかすれた声を出す。

「ルー?」と呼びかけても、彼はそれ以上部屋に立ち入らない。


「あたしが怖いの?」


ひょっとしたら、この数日で少年はまともな神経を取り戻して、人並みにあたしに寄るのをはばかるようになったのかもしれない。もしそうなら、いい夢を見させてもらったんだと受け入れるべきだろう。

ところがルーはあたしの言葉を聞くやいなや、必死に首を横に振り、「そんなわけないだろ!」と怒気もあらわに走り寄ってくると、あたしの胸の毛にしがみついた。その瞬間に『南無三』という顔で二・三歩後ずさった世話係のことは間違いなく目に入っていない。


「僕が君を怖がるなんて、あるわけない! 」

「そっか」

「そうだよ!」


ルーはあたしの感触を確かめるように、ぷるぷるしながら腕を回してきた。「震えてる」と言うと、「武者震いだよ!」とわけのわからないことを言ってきた。あたしはぶふっと鼻息を漏らす。ルーは腕の力を強めて、一層あたしにしがみついた。シリアスな気分のようだ。


「……ごめんね。ひとりにして。本当は昨日にはもう動けたんだけど、兄上にベッドに縛り付けられてて、ここへは来られなくて」


ルーはもう一度、ごめん、と鼻をすする。


「兄上が人をよこすから心配するなって言ってたけど……」と言いながら、初めて今存在に気づいたというように、部屋の隅で立ち尽くしている女に目を留めた。


「……大丈夫だった?」


彼女には声をかけず、あたしに向かってそう問う。「よくしてもらった」と答えると、なぜか面白くなさそうだった。こいつあたしに飢え死にしてほしかったんだろうか、とちょっとやさぐれた気持ちになるあたしに気づかず、「出てって」と硬い声を世話係に向けるルー。

あたしに言えたことではないが、ちょっと年長者に対する態度じゃない。


本当にあたしに言えた立場ではないので、「ありがとう」と出て行く彼女に声をかける。女はびくりとしたけれど、「はい」と小さく頷いて、扉を閉めた。

なぜかルーは、しがみついたままのあたしの毛を引っ張った。



お昼だと、あたしに乾いた肉と果物と、冷たい水をすまなそうに差し出しながら、少年は打ち明けた。


「兄上が君に会うって」

「わかった」

「……どうしてか聞かないの?」


ルーがあたしのためにあれこれ画策しているのは知っている。それに必要な要素のひとつが、あの愚兄にまみえることで満ちるのだろう。


「ルーがそうしてほしいなら、そうする」

「……君は物分りがよすぎるよ」

「何もこだわることがないからね」


「未練も」、と付け加えると、ルーは顔をしかめた。


「そういうの、言わないで」

「わかった」


あたしは頷いて、慎ましい食事を済ませた。これもルーの考えなのだろう。平気だ。それに少年が倒れたあの時から、あたしは果物が好きになった。なるほど確かに、空腹は最大の調味料だ。



ルーの兄に会う日、あたしは風呂に入れられた。体が濡れるのは不快だったし、石鹸は好きな香りではなかった。「ただの水でいい」「ただの水がいい」「これ臭い」と訴えるあたしに、ルーは「僕だって使ってるのに。いい匂いって言ってたでしょ」と口を尖らせた。そう言われれば少しは耐えられたが、まあ終始渋面だったのは許してほしい。


風呂の片付けをするのはあたしの世話係である。名前を聞いたら、ためらいながら「リルゼ」と名乗った。

あたしがリーと呼んだらルーが頬を膨らませたが、面倒なので無視している。


リルゼ(脳内では紛らわしいのでこう呼んでいる)はあたしを突っ込んでいた風呂桶をガラガラと運びながら、一緒にびしょ濡れになったルーに目を向けたけれど、何も言わずに部屋を出た。


「ねえ、あいつ、愛想ないね」

「 そうだね」


あたしが同意すると、ルーはしょぼくれて顔の雫を袖で拭った。


「なんで兄上はあんなのよこしたんだろ」

「ルーが倒れたからだね」

「……わかってるよ」


その後ルーは着替えてくると出て行き、すぐに戻ってきた。あらかじめ用意されていたらしい。リルゼがルーの付き人に伝えたのだろう。拗ねたように顔を赤くしていたので、尻尾で慰めてやったら、そんなに強くない力でぴーんと引っ張られた。

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