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引き取られた頃にさかのぼります
換毛期がなくてよかった。毛もほとんど抜けないから、掃除の手間はそうかからないはずだ。
そんな風に気楽に思っていたのだが、訪れる掃除婦は誰しも怯えきって、その場で気を失うか叫ぶかすれば良い方で、何を思ったかあたしの方に突進してくるツワモノも稀にいた。あたしはその箒に打ち据えられるか、かわして彼女が窓に飛び込むかを選ばなくてはならないのだ。
だから仕方なしに、胸の柔らかい毛で箒もろとも掃除婦を受け止めてやる。痛いかって? そりゃあそれなりに痛む。だけれど人を傷つけることだけはしてはいけないと、あたしは言われなくても承知している。
胸の中に突進してきたままピクリとも動かない少女が息を吹き返すのを待って、あたしもじっとしている他ない。
「大丈夫?」と声をかけた時は本当に最低だった。
混乱の極地に至り、あたしから真反対の家具に突っ込んで行ったのだ。あたしはさすがに震えあがって、割れた壺の破片から身を守るため、ルーのベッドに乗り上げた。そのまま騒ぎを聞きつけた比較的冷静な使用人が掃除婦を引っ張っていって、泣きべそをかいたルーがあたしにしがみついてくるまで、ベッドの隅で縮こまっていた。
「――あたし、やっぱり出ていこうか」
「やだ」
ヤダってお前。
あたしからすると当然の提案を、少年は即座に突っぱねた。
それどころか怒気もあらわに、「どうして僕が頑張ってるのに、君はそういうこと言うの」と、ぎゅっと毛を引っ張ってきた。
あたしは「お」と、嬉しくなる。この子はこんな顔もできるのか、とニコニコしてしまう。
「何? その顔」
他の人から見れば、『凶悪な邪心顔』と取られるのかもしれないが、少年は正しくあたしの表情を読み取ったらしい。面白くなさそうに頬を膨らませる。愛らしい。こどもがこどもらしい態度でいることを、あたしは心から喜んだ。今思えば、あたしは少々デリカシーに欠けていた。
彼の屋敷の一室で過ごして、一ヶ月が過ぎた頃、憂うつを全身にまとって少年はやってきた。右手に手紙を握りしめ、入り口からなかなか動かない。
「おかえり」と声を掛けると、下がり切った眉面で「ただいま」とかろうじて聞こえる返事をする。
「……父上が会いにこいって」
「よかったね」
「よくないよ」
あたしはまたこの少年を怒らせたらしかった。
ルツロアはそれからたびたび王命を受けて屋敷をあとにした。その度あたしはひとりになった。平気だ。慣れっこである。今度は鏡に自分を映した。うん、あたし、今日もカッコイイな。
ルーがいなければあたしは誰と関わることもない。食事はルーの運ぶ生肉が良かったが、別に干し肉だってお腹を満たすことはできた。遊びだって、時々窓の外に訪れる蝶や羽虫の類をからかっていれば暇はつぶせた。
……食べ物はともかく、この趣味にはちょっと限度があった。
ああ、もう少し脳みそのある相手とコミュニケーションを取りたい。人間なんて贅沢ははなから望まない。せめて、もう少し大きな生き物。例えばそう、あの木にとまっている茶色の小鳥。
あたしは小鳥を凝視した。
こっち、こっちへきて。
くるわけがなかった。
けれどあたしは諦めきれず、じっと見つめ続けた。森にいた頃なら、あたしはこんなことにこだわらず、すぐに忘れて寝こけていただろう。ルーに出会わなければ、求めなかっただろう。
だけど、あたしは、今回ばかりは粘った。
そして惨敗した。
「何を落ち込んでるの?」
帰ってきたルーの目に、あたしはそう映ったらしい。
のそのそと重たい足取りで近寄ると、ルーの手がいつもより優しく頬を撫でた。
「陛下は、まだここにいていいって」
そんなに嬉しくなさそうに、ルーは今日の収穫を教えてくれる。あたしの視線に気付いて、「ちょっと疲れただけだよ」と笑った。
ルーは時々夜中に目を覚まして、震えていることがある。そんな時はあたしが珍しく役に立つ。あたしのビロウドの背中に気が済むまで泣きつかせてやるのだ。少年の涙に濡れると、あたしの自慢の毛はべちょっと重くなるのだが、まあいい。許してやろう。
今夜もそうだ。泣き疲れたルーは、よくそのまま眠ってしまうので、あたしは冷やさないように布団を床に引きずり落として体を覆ってやるのだ。本人をベッドに持ち上げるなんて器用な真似はできない。
布団の端をよっこらせと前脚で引っ掛けた時、ルーの手があたしの毛を引っ張った。
「なに?」
「君はいいにおいがする」
「ルーもいいにおいだよ」
あたしは適当にあしらって、床に寝そべる少年に布団を被せてやった。
この広い部屋の掃除は、小さなルーの手に余る。他人の協力が必要だと、あたしは役に立たない自分の前脚を見下ろして悟る。あたしの毛皮は野の獣に比べたら抜け毛は少なくにおいもおとなしいが、生活臭はいかんともし難いし、いやあたしがいなくとも埃なんかは蓄積するからどちらにしたってこのままでは、清潔を保つのは不可能だ。
ルーも同じ考えなのだろう。換気のために開け放した窓から頬杖をついて、ため息をこぼす。あたしも外を見に近づいた。すると甲高い叫び声と共に、窓の下にいた使用人が腰を抜かす。
「掃除の人、見つかりそう?」
あたしの問いには答えずに、ルーはまた深く息をついた。
それから、朝になると出かける少年を見送り、出迎え、夜は共に眠る、という生活を繰り返した。外の世界ではルツロアは王子様で、大人になれば上の兄を支えながら国のために仕事をしなくてはならない。あたしが文字通りゴロゴロしている間、少年はそのための勉強をしているのだ。そしてその合間に、王に会いに都へ赴く。小さな体でよく頑張るものである。
あたしが心配して「ちょっと休んだら」と言っても、ルーは聞かない。まあそうだろう。あたしだって日がな一日寝ているタダ飯食いに気遣われてもむかつくだけだもの。
ルーはその点気の毒なくらい良くできた人間で、むしろ「外に出してあげられなくてごめん」と謝る。あたしがあれこれ口出しできるような御仁ではない。




