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1617年、春。
この日は満月が昇り、夜の大坂は幾分か明るい。大坂夏の陣の後は廃墟同然と成り果てた大坂城を、月光が儚く照らしている。その中で、飲食店の軒先に吊るされた提灯が存在を主張している。
「花のようなる秀頼様を……——」
最近では、城跡を感慨深気に見る人は少なくなった。まるで、たった数年前にあった戦など忘れたかのように、夜の街を陽気に行き交う人が賑わす。
人は善くも悪くも順応力が高く、立身出世を目指す武家の人間ならともかく、庶民にしてみれば、国を治める人間が変わったところで、さほど大きな違いもないのだろう。
いつしか忘れ去られるのであろう城を眺めながら、男は一人、鼻歌混じりに酒を呑む。
「鬼の様なる真田がつれて……」
右手に徳利を、左手に朱色の艶やかな盃を持って、酒宴の場所は、花も盛りな桜の樹の枝の上である。
遊び人のような風体の男は、酒の満たされた盃に落ちた桜の花びらを眺めて、満足気に口元に笑みを浮かべる。
「……退きも退いたり加護島へ——」
盃の中の酒を桜の花びらと共に一息に呑み干して、小さく息を吐く。周りに酒気が漂っているようで、ふわふわと心地が良い気分だ。
盃を満月に翳すように目上にひっくり返せば、もう一滴も落ちてこない。右手の徳利を揺らすと、この樹に登って一人酒宴を始めた頃より、かなりの量が減っているのが分かった。耳を澄ましても、中で水音が聞こえない。
「んん、ん?」
徳利もひっくり返すが、中からは数滴雫が溢れるだけで、酒はすっかり空になってしまっていた。落ちて来る雫を大事に盃で受け止めて、溜った少量を嘗めるように呑み干す。これが手持ちでは正真正銘最後の酒である。
どうにも、桜と満月の組み合わせは酒を容易に勧めるものであるらしい。
「さて、と……」
名残惜し気に盃を懐に直し、樹の枝の上に器用に立つ。その足下が下駄だとは到底思えない。
「と、と、と」
酒気でふらつく身体を示すように、バランスをとって揺れる度、軽い口調が口を吐く。腰に下げられた赤い隈取りのある虎の面が軽やかに揺れた。
ふとそこで、腰元に物寂しさを感じる。
「あ」
気付いて声を出した瞬間、足下のバランスを崩し、そして男は——落ちた。