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民主会の思い出(20XX年〇月17日

民主会の思い出(20XX年〇月17日)


      ~夢に向かう人達集う場所が国となる~


                        一


 日本政府の声明から一夜明けた。

日本国内では、賛否両論であった。日本政府は独立を認めない立場から表だって交渉が出来なくなった。しかし共和国には多数の同朋が居ることを考慮して人的交流を促す協定を結ぶ打ち合わせをしたいとの申し入れを行った。また、貿易を促進できるようにする条約の打ち合わせについても申し入れ、関係者の来日を要請した。こうした日本政府の動きと別に、沖縄県で動きがでた。米軍基地で悩まされている市町村及び県議会の有志が、共和国への訪問の要請を日本政府と共和国政府に申し入れた。有志としたのは、政府が独立を認めない声明をだしたことによる配慮のようである。

 この報道がされると、各地からも交流したい、ビジネスを進めたいとの要望が相次いだ。


                        二


 共和国政府は、日本政府の呼びかけに応えて、共和国の行政区の一つである中央区の区長を団長として産業省、農林・水産省、運輸・交通省等から担当者を派遣するとの連絡があった。さらに混乱を避けるために、茨城空港への着陸を要請してきた。これには日本政府は吃驚した。共和国は、その他にも独立を支持してくれた国々に交流を進めるために訪問の交渉を始めた。対応スピードは予想外であった。

 政府は、共和国対策室から共和国交渉対策室に移行したが、これほど早い対応を余議なくされるとは思っていなかった。

「向こうから連絡があったが、準備状況はどうかね」対策室の室長に任命された総務省出身の原口次官が聞いた。

「まだ色々と不十分なところはありますが、進めながら対応していくしかないですね」

「そうだね。前代未聞の出来ごとだからね。向こうに連絡してくれ。了解とね」

まだ対策室は30名の陣容である。100名規模の陣容を想定しているが、それは今後の進捗過程の中で補充していけばよいだけである。しかし共和国の反応の速さには驚いた。


                        三


 アメリカ中央情報局は、共和国対策チームを二つ発足させていた。一つは共和国を分析するチームである。総合的に分析し、今後の付き合い方を探って行くチームである。もう一つは、共和国をつぶす事も含めて検討するチームであり、極秘チームである。どのように内部に侵入するか、どのように混乱させるか、どのようにしたら彼らの技術情報を取得できるか、最終的には乱暴な手口でもかまわないとするチームである。その他に共和国に対しては、在日米軍、国防省、経済界などでも独自の調査チームが出来ていた。共和国は不気味な存在としてアメリカは捉えていた。

 アメリカ国内の経済界、取り分け軍需産業を取り仕切っている影の人達は、共和国と日本を切り離し、共和国の孤立を図ることを提案していた。国防省は、日本に圧力をかける事を提案した。オバマ大統領にしてみれば共和国との連携がアメリカにとって必要と思う反面、政府に要請された提案を無下にすることは出来なかった。


                        四


 中国も党一戦線工作部と解放軍総参謀部に共和国対策チームを発足させていた。彼らにとっては、亡霊者が日の当たる場所に登場したのが気に入らなかった。毛沢東の息子である張、共産党の幹部だった孫、そして脱北者の朴の息子だ。前回共和国に解放軍から諜報部隊を侵入させてみたが、調査は思うようにできなかった。彼らを闇に葬る事を含めて検討を始めていた。中国工作部は、彼らが中国にとって敵になる危険性を感じていた。経済の好景気に浮かれているように見えるが、抑えるところは抑えていた。しかし軍事力の増強は、アメリカ、ロシアが脅威を感じるほど強化してきている中で、東アジアに現れた共和国は不気味であった。軍隊は持たないが、科学技術力は群を抜いた力を持っている事を認めていた。彼らは台湾を重視しているようにみえるのも気に入らなかった。現在の日本は、長年当時していた保守党から政権がチャンジしているが、あまり変わらないと見ていた。民衆党の大沢がまだ全面にでていないので扱いは楽と見ていた。アメリカ、ロシアも同様な見方をしているだろうと分析していた。民衆党の大沢については、アメリカが抑えていたので安心していたが、共和国については判らなかった。この国が日本と結びつく事を防ぐことを急ぐ必要を感じていた。


                       五


 各国の諜報機関は、日本に要員を派遣していた。日本はスパイ天国である。各国の諜報機関は、いつでも自由に日本に入り込み情報を仕入れる事ができた。

日本人は働き者で、優秀な民族である。また、お人好しであり白人には弱い。欧米系に対してコンプレックスをもっているのは、戦後の占領政策の影響なのかもしれない。日本は、かつて鬼畜米英を謳っていたが、今では面影はない。憲法で戦争放棄、武装をしないと定めた事による影響だと取り上げる人達もいる。しかし日本人は、恫喝されるとすぐに弱腰になり、おとなしくなっていた。アメリカに一喝されるとすぐに主張を引き下げる、よくここまで飼い馴らされたものだと揶揄されもした。これらも敗戦の影響だとされるが、何故か日本の指導者は、政党、経済界、労働界含めてアメリカ詣でを60年の安保闘争以後し始めた。そして、アメリカ詣でして帰国すると態度が変わって行った。革新党は何故だと疑問を呈していた。今日まで、日本の総理は、新総理になるとアメリカ詣でする習慣がついた。


                      六


 民主会の寺門は、68歳になっていた。感慨深げに、事の成り行きを見守っていた。民主会は、50年近く経っていた。よくここまできたものだと思った。民主会は、60年安保闘争後に山陰地方の同郷の有志で民主主義を語る会として作られた。激しい安保闘争後の挫折感、傷ついた青春を癒す郷愁の思いが、この会を作るきっかけとなった。皆学生で、全学連の一員として国会デモに参加していた。

60年安保闘争は、反政府、反米運動として日本史上最大の政治闘争であった。アイゼンハワー大統領の来日を阻止し、当時の政府、岸内閣を打倒した。しかし安保条約の改定を阻止することは出来なかった。当時の全学連の主流派は、共産党を脱党した急進派学生が作った共産主義者同盟が主導していた。伊藤は主流派には属していなかった。60年安保闘争には学生、労働者、市民が参加した大闘争であった。全学連は連日国会へデモを重ね日ごとに激しくなっていった。既成政党である社会党や共産党は組織・支援団体を挙げて全力動員した。総評は国鉄労働者を中心に時限ストなどの戦術を駆使した。しかし、一方で激しく国会突入を諮る全学連の戦術には、批判的な意見もあった。取り分け日本共産党を脱党した人達が主流の全学連に対して共産党は激しく批判した。

 最大野党の社会党も安保闘争の直前に民社党が、社会党の一部により結成され一枚岩でなかった。当時の岸内閣は、デモを抑えるために、警察、右翼の支援団体だけでなく暗黒街のボスや暴力団に参加を要請し、資金も提供した。なりふり構わずに宗教団体である創価学会にも要請したが断られた。

さらに陸上自衛隊にも治安出動を要請し出動準備までさせていたが出動は出来なかった。

 この様な状況の中で、国会前のデモに参加した“樺美智子”が死んだ。死因については見解が分かれるが、この事件がデモ参加者をピークに導き、当時の政権を自決するまでに追い込んだ。

 しかしこの時大手マスコミ各社が、“暴力反対、議会政治を守れ”のスローガンを掲げ、国会デモと社会党を批判する宣言を出した。この宣言により風上が岸内閣を優位にし、安保条約を成立させた。

安保反対闘争は、岸内閣を退陣させたが、論点が安保反対の性格を薄くし、岸内閣打倒だけに傾き、急速に安保反対の運動は萎んだ。日本の民衆運動、政治闘争の未熟さもあった。

 権力機構は60年安保闘争を教訓に数々の施策を行った。まずは、岸内閣後に誕生した池田内閣は、所得倍増政策を掲げ、欧米に追い付き追い越せを合言葉として高度成長政策を行った。

アメリカ政府は、左翼勢力が一枚岩でないことを利用し、分断政策を行い、日米安保を全面に出さないように配慮した。

 やがてベトナム戦争にアメリカは突入していくが、アメリカは、日本をベトナム戦争の拠点にすることに重点を置いた。

 民主会は、伊藤が60年安保闘争後に目標を失った仲間、傷ついた仲間に声をかけて作った。

会則は緩やかにした。思想は問わず自由な参加にした。挫折感を癒すこと、希望を持たせること、今後の行動を束縛しないこと、このことが後々の会の発展に寄与していった。

 会は同窓会的な側面を持ち、後の適材適所の人材を育成し専門集団ができていく事になった。伊藤は、事務局に銀行に就職が決まっていた鈴木を置いた。鈴木は東大の後輩である小野と供に、今後の連絡事務所と集い会う止まり木になる場所を作った。東大、京大、北海道、東北、鳥取、島根、熊本、高知の大学を拠点に事務所が出来た。会の初期には、伊藤の人柄もあるのだろうが、100名近くの会員がいた。女性も30名いた。

 60年代の日本は高度経済成長を急速に歩み始めて行く。64年に東京オリンピックが開催され、2年後に大阪万博が開催された。

 一方では、ベトナム戦争が勃発し、アメリカは不毛な戦争に入り込んでいった。全世界で、ベトナム反戦運動がおきたのもこの時代である。中国では毛沢東の指示により紅衛兵運動が起こった。

経済発展の裏では、労働運動も複雑な様相を呈していく。学園紛争が全国的に起こった。新左翼なる過激集団が現れた。70年に向けた安保闘争は、60年代の半ばから、反戦運動や学園紛争、労働争議など通じて始まっていた。

 新左翼は、70年を戦う前に疲弊していった。警察などの警備態勢は年年強化されていく。新左翼集団は、ヘルメットとゲバ棒スタイルで投石や火炎瓶、バリケード封鎖などの過激な戦術を繰り返していく。この様な運動は、多くの人達を70年安保から遠ざける要因になった。

 民主会も紆余曲折があった。70年安保は常に話題に上り議論された。新左翼の行動に賛意するものもいたが、各組織が対立し攻撃しあう姿は許せなかった。悲しかった。

 当時の佐藤内閣は、安保反対の世論を過激派の取り締まりにすり替えることに利用した。

民主会は、脱退するメンバも出てきた。結婚しているメンバ、仕事が面白くなっているメンバ、管理職となっているメンバ等、いつまでも昔のようにデモだ、集会だとやっている歳でないとして去っていくものがいた。

 国内では、色々な立場や考え方があろうが、安保反対でまとまる受け皿が存在しなかったことが、70年安保の盛り上がりを欠けさせたものにしていると伊藤は考えていた。寺門は、統一戦線思想と運動、運営の未熟さだと言っていたが受け皿は出来なかった。

 安保条約は自動延長された。民主会も転機を迎えた。10年近く会が存続したことは驚異だと寺門は思った。同窓会的な要素で繋がっている会である。会自体の存在意義が薄れてきていた。運営もマンネリ化してきていた。

 伊藤は、こうなる事は予想していた。ここまで継続できたのは、鈴木を中心とした事務局の役割が大きかった。その鈴木は、当時地方銀行の支店長をやっていた。後輩の小野も同じ銀行にいて支えていた。民主会の役割として互助会の側面があった。就職の斡旋やいろいろな相談を行うサポートは、会員から重宝された。伊藤は、昔から人の面倒見が良かった。お寺の息子であり、武術にもたけており、東大卒の肩書、会の会長との役職は、人を引き付けるカリスマ性があった。伊藤は会員の獲得や交流に、“ふるさと交流”と“職業の専門家集団の交流”を提案し実行させた。この仕事を福島と私に担当させた。

“ふるさと交流”の企画は、大学卒だけでなく高卒、中卒会員を迎えていた。戦後のベビービームの世代が70年代の主流として活動する労働者集団が登場していた。

東郷はそんな時に、“ふるさと交流”を通じて民主会に加入した。東郷は高卒だったが、不思議な若者であった。民主会は、去っていく者、新たに参加する者など色々な紆余曲折あったが、東郷の加入で変化していった。やがて伊藤は、東郷にこの会を任せて行く話を会の主だったメンバに提案した。当初は反対が多かった。東郷自信は辞退していた。東郷は、聞き上手で話上手でなかったが、好き嫌いはなくどんな人とも付き合えた。彼のまわりには色々な人が集まっていた。後で参謀になる川地、堀内、栗田、湯口、山本、枝澤、小森など各地区の主要メンバが賛同していた。当時私は反対していたが、鈴木が賛成したことで私も賛成した。東郷が加入してから3年経過していた。

 民主会は、会が発足して10年以上経過しており、私も含めて当初の中心メンバは疲れもしていた。マンネリの打開に苦労していた。伊藤は、推薦状を会員に回して承認をとる根回しを行い、東郷を二代目会長にした。

 東郷は、会長就任の2年後に民主会の中に、夢来人むらびと会と希望の会を作った。この会は、夢来人会と希望の会に参加した人間しか知らなかった。民主会の会員でも知らなかった。理想郷をイメージとしたものを取り入れて大胆に組織化して行った。当初伊藤が考えていたものを具現化して打ち出したのである。民主会の会員はピーク時には1万人を越えていたが、当時は1000人に減っていた。東郷は、会員を内部会員と外部会員に分け、さらに夢来人会と希望の会を作った。共和国の建設は、ここから始まった。

「寺門会長、ここに居られたのですか。お客様が寺門会長に会いたいと受付にこられていますが、どうしましょうか」秘書から連絡があった。寺門は、回想していた思いを中断した。

「今日は、予定がはいっていたね。応接室に案内してください」

記者クラブの幹事である佐藤幹事が、先日面談を申し入れてきていた。寺門は佐藤が何を聞きたいか予想がついていた。


                        七


 共和国政府は、予定通り茨城空港に日本政府と交渉する代表団を送り込んできた。そこで全世界が吃驚する事件が起きた。茨城空港に降り立った乗り物は、飛行物体であるが航空機としては、今まで見たこともない飛行機であった。自衛隊、及び米軍機がスクランブルかけて飛んできたがすでに共和国からの専用機は茨城空港に降り立ち、搭乗者は自衛隊機や米軍機が茨城空港の上空に来た時には地上に降りていた。

 茨城空港には、日本政府のスタッフが迎えに来ていたが、見られない航空機の登場には驚きを隠せないでいた。

 マスコミも来ていた。テレビに映し出された共和国の専用機を見た日本国民は、テレビにくぎ付けとなり、映し出された航空機を各国は報道した。

 共和国の専用機は、世で言う“UFO”だった。米軍のF22ステイルス戦闘機に近い形をしていた。調査団として参加していた田中は、調査時に航空機の影形も見た事がなかった。それが見た事もない飛行物体として日本に飛来してきたのである。迎えに来ていた政府関係者は、どのように扱っていいか苦慮しながらも共和国交渉団を迎え入れた。専用機は、共和国メンバを下ろすと静かに飛び立った。轟音もしなかった。共和国専用機の滞在時間は、1時間であった。

 この共和国航空機の登場は、新たな問題を起こすことになった。アメリカを始めとする先進国と称している国は、中国、ロシアなど含めて、共和国は軍事力を持っていないと言っていたが、存在しているのでないかと疑う事になった。共和国は、衛星等を通じての通信技術をすでに所有しておる事からロケット技術は存在していると思っていたが、航空機の実態を見せつけられたことで、疑いは深まった。日本の調査団が調査した時に存在しなかった航空機がすでに存在していることは、軍隊も存在している可能性を持っている事を証明しているかのようだった。今までの日本対策の延長としてある意味軽く考えていた考え方を変えることになった。


 日本は寒かった。茨城空港には冷たい北風が吹いていた。


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