追跡調査(20XX年〇月16日)
追跡調査(20XX年〇月16日)
~陽射しの反対側に出来る黒い物、長くなったり短くなったり、それは影だ~
一
日本政府は、共和国の独立について政府としての対応を外務大臣の加来が説明した。
「日本は、大和民主主義共和国の独立を認めない。理由としては、日本国憲法に近い考え方で日本人が国民の大半をしめて独立しようとすることは、反日本を表明するものであり、いかなる理由も認める事ができない。現在の政府に反対するのであれば、清々堂々と議論し、国会の議席を持って政権をとることが民主主義を尊重する立場の者の役目だと信じる。我々は、共和国問題は国内問題として対応するものとして、今後彼らと交渉して解決を諮るものとする。反対勢力を多数集めて独立するようなことを認めれば国内を収拾することが出来ない。従って彼らは、わがまま集団であると言わざるおえない。但し、当面は自治権を認め、平和的な交渉と説得を通じて日本に帰属させるように、政府として対応していく。各国に望むのは、この島は日本の一部であり、東京都の行政下にある。だから独立は、認めないでほしいと望む。政府は、国としては認めないが経済的、人的交流については協力していく」との日本政府の対応方針を説明した。日本が分裂したとの印象を防ぐとともに、交渉を通じて日本に取り込む姿勢をうちだした。しかし、この声明の弱点は否めない。大和民主主義共和国は、この島を占有して国と宣言している。人工の島で公海上に作った。これを日本の領土の一部だと言っている日本政府の乱暴さがあった。国内は、賛否両論に分かれた。沖縄県、北海道の世論は、独立賛成であった。東京都は反対した、大阪府は賛成した。
日本政府の表明に、アメリカ、中国も日本政府を支持し独立を認めない立場を表明した。世界も独立の賛否は分かれた。ロシアは独立に賛成を表明した。あらためて独立とは何か、国とはなにか問題提起された形である。しかし、日本政府が自治権を認め、経済交流などを通じて、平和的に日本に取り込むとの声明は、好感を持って受け入れられた。日本政府は、分裂した印象を少しでも回避できたのではないかと考えていた。
二
首相官邸では、主だった閣僚が集まり今後の対策を練っていた。
「この度の対応は、批判があることは承知している。しかし、いつまでも放置できない。国内の動向を考慮するならばベターな判断だと思う。自治権を認めることで独立世論を封じ込め、経済交流を進めることで彼らの技術力を我が国に生かす。他の国より一歩先に進めていきたい。彼らは、日本語を母国語としていること、日本を一番の交流先として願っているからね」官房長官はニンマリとして言った。経済産業省の管は
「軒先を貸して母屋をのっとられないようにしないとね」笑いがおこった。
「アメリカ、中国は、我々の見解に賛成したね。彼らの懸念も少し緩和したのかね」防衛大臣が言うと
「日本に対して相当な圧力がくるとおもいます。沖縄の強化、首都圏への配置や情報収集体制と南鳥島への自衛隊の配置を強く求めてくるとおもいます」外相の加来が言った。
「通貨については、打ち合わせが必要ですね。日本のレートをそのまま適用させ1対1でもよいかとも思います。現在彼らは、無借金経営ですからね」財務大臣がいった
「今後の交渉は、表向きでは、政府が交渉の窓口に立てないので交渉対策部を設けていきたい」外相がいった。
「すでに、人選はすすんでいます。当面30名で100名規模を想定しています」総務大臣が報告をした。
「一度彼らの来日を要請しますか? いずれにしても我々が行くか、きてもらうか交渉してほしい」官房長官がいった。
「東郷主席は、呼べばくるのか?」
「多分無理でしょう。実務者レベルですすめるしかないですね」こんな会話が交わされていた。
三
日日新聞の平井は、北海道にいた。調査団で一緒だったカメラマンの北里と一緒に、ある町にきていた。昔炭鉱で栄えた町である。今は、その面影はない。北海道は、まだ雪深く寒さは厳しかった。ここで農業と畜産をやっている人たちがいた。炭鉱で働いていた人達を受け入れて会社形式で農業をやっていた。炭鉱の跡地は、名があまり知られていない業者が買い入れて工場を作っていた。何をつくる工場か市に申請された跡地利用計画では、リサイクル工場と再開発研究所という名目の届がでていた。炭鉱を経営していた会社は、跡地については市に管理を委託していたが、購入先が見つかったとの連絡で土地を手放した。入札で買い取られて20年近くたつ。市は、活性化にあまり期待していなかった。
ゴミや資源ゴミ、産業廃棄物などを焼却する再利用する工場である。研究所は、ゴミを再利用、再開発する大型資源ゴミの研究所、農業試験場、畜産試験場等を名目とした研究所であった。この工場と研究所の影響で、市の人口の流出が止まった。かつての炭鉱の町として賑わったほどでないにしても静かに街が再生化してきていた。リサイクル工場は、市のゴミを一手に引き受けていた。近隣の町の焼却処分が出来ないものも引き受けていた。さらに粗大ゴミ、産業廃棄物なども引き受けていた。工場からでる煙などのCO2については、対策が処理されていた。当時としては画期的なものであるが、誰も気に留めなかった。炭鉱時代の煤煙などを経験している街だ、近代的な最新技術を採用していたとしても今日ほど環境問題が、話題になっていなかったことで注目はされていなかった。CO2を外に出さない技術は画期的な技術である。ゴミの焼却からでるエネルギは、電力、温水、ガスなどを作り出し、市に供給されていた。北海道電力、北海道ガスの各社は、助かっていた。積極的に電力、ガスを買い上げて電力、ガスの不足を補っていた。工場は、ゴミをリサイクルして、肥料もつくりだしていた。粗大ごみなどは、再度利用可能な形に加工され売り出された。産業廃棄物もリサイクルされていた。この事業が軌道に乗ると北海道全土から注目され始めた。日本全国も注目した。あらゆるゴミを全て資源として扱い利用を可能とする工場が、北海道に出来ていたのである。ゴミが宝物になることを知ると、色々な問題が発生してくる。産業廃棄物や粗大ゴミなど中古品として貿易していた業者、ゴミなど扱う業者は、裏世界の者がいる世界でもあった。北海道のビジネスモデルは、注目された。すでに北海道には4か所にリサイクル工場が出来ていた。かつて炭鉱の町だったところ、過疎が進み市、町の財政が破たんしているところに造られた。工場を経営している業者は違っていたが、民主会の会員が経営者であった。注目され始めると全国から業者や市、県、国など関係者の視察が多くなった。視察後の感想は、皆共通して是非取り入れていきたいとの感想であった。政治家や焼却装置を造っているメーカは動いていた。産業廃棄物など扱う業者も動いていた。国や県は、過疎化対策、環境対策の観点で助成金をだしていたが、ビジネスモデルや、過疎化対策、環境対策が注目されるだけで、ゴミを全て再利用できる技術、CO2を出さない技術、運営する人達の質、トータルマネージメントに注目する人達はいなかった。このリサイクル工場モデルは、瀬戸内海の島、長崎の島でも構築されていたが、誰も気付かなかった。世界でも、デンマーク、アフリカ、フィリッピン、中南米の島で構築されていた。この工場の設備技術は隠されていた。日日新聞の平井は、北海道新報の館川から、このリサイクル工場の情報を聞き取材にきた、同行者に調査団で一緒だった北里カメラマンをさそったのである。平井は、この事業を進めたのが民主会の岩垣だと館川から聞いた。
四
共和国は、日本政府が記者会見しているテレビ放送を見ていた。皆冷静であった。自治権を認め敵対行為を執らない表明に安堵していた。一番恐れたのは、アメリカや中国と連携して、経済封鎖や外交的な圧力をかけてくる事だった。それが無くなった事に安堵したのである。
共和国政府は、声明を出した。
「日本政府が、独立を承認しないことは残念である。しかし、自治を認め、貿易や交流を進めると表明した点は、歓迎する」と共和国青明をインターネットで流した。さらに、独立を承認、支持を表明した各国に対して、平和と友好を進めるための外交交渉を開始するとの声明を出した。
五
共和国は、真っ先に支持を表明した北朝鮮に交渉団を派遣することを表明し外交交渉が
始まった。
アフリカ、中南米の独立を支持してくれた国々へ感謝の意を表すとともに、共和国外務省のメンバを派遣することを決め、各国に連絡を取っていった。
共和国は、すでに国連への加盟申請やASEANなどの協力、さらに春に予定されている核軍縮会議への参加申請を出していた。いずれも相手が決めることであり認められるかどうかは判らない状況であった。
この様に世界の動向や準備手配が、弱小国の島で行われていることは、まだあまり知られていなかった。
六
アメリカ政府は、共和国の反応に注目していた。日本政府の方針の表明後に素早く対応した共和国の動きに、驚きを感じていた。取り分け北朝鮮に派遣すると表明した共和国の
考え方が判らなかった。また、アフリカ、中南米を先に訪問する動きも判らなかった。アメリカ中央情報局は、監視衛星含めて分析していたが、共和国の島がいつできて、その島に輸送している物資などの船舶や、航空機の存在を見つける事が出来なかった。しかし、大量に物資を運び人工の島を造った事は事実である。アメリカ国民が関与していたかどうかも確認が出来なかった。この点については日本の情報機関と連携する必要があると感じていた。しかし、首相の張が、ロサンゼルスのチャイナタウンで、チャイナマフィアに関与していた事を掴んでいた。現在首相として存在している張がいつ、どこで、共和国に関与していったかについて追跡調査をしていた。当時の名前は、元と名乗っていた。1990年ごろまでロサンゼルスに居たようだ。結婚もしていたが子供はいなかった。当時で40歳だから現在60歳になっているはずである。マフィアから足を洗ったのか判らなかった。忽然と張夫妻と彼を慕っていたメンバが消えた。殺されたのでないかとの噂だったが、生きていたのである。同一人物かどうかの確認はとれていない。似ている人物としての情報がロサンゼルスの中国人たちから提供されていた。
七
フランスの情報機関は、孫がフランスに居た事をつかんでいた。華僑の中で金融事業を手掛けていた。金融ビジネスでは成功していた。当時の名前は、楊と名乗っていた。投資ビジネスも成功しており、90年代に突然第一線から退いた。その後の消息は、今日の共和国副主席で収まっているまで不明である。数字に強く、人望もあり、若手の実業家であった。あまり前面には出なかったが華僑の長老は可愛がっていたようだ。楊が立ち上げた事業は、現在も引き継がれ継続していた。中国の情報機関から身元照会があり、楊が現在孫と名前を変え、共和国の副主席となっている事を掴んだのである。身元照会では、もう一名いた、それが朴である。朴は、中国の情報機関が北朝鮮にも内密で亡命させた人間である。当時の中国は、毛沢東の基で社会主義建設が営まれていた。北朝鮮は金日成の基で社会主義建設が営まれていた。日本と中国は、国交が結ばれていなかった。韓国も軍事政権の時代であった。東西ドイツも存在し、ロシアはまだソビエト連邦であった。この時代に朴の家族は、密かに北朝鮮から脱出した。中国の情報機関が、偽装工作を行い脱出の援助した綱渡りの脱出劇であった。北朝鮮は、朴の家族は、脱出に失敗して自爆死したとみなした。朴の家族は、パリから東ドイツに移ったところまで消息を把握していたが、朴の父親が死去した所で関係を絶った。朴の子息が共和国の副主席として存在しているとは思わなかった。念のためにフランスの情報機関に確認を依頼したが、まだ朴の息子だとは確認は取れていなかった。フランス当局も判らなかった。
共和国の島は、活発な動きが始まった。いつの間にか航空機が、空港に止まっていた。
見慣れない航空機である。南国特有の陽射しが照りつけていた。