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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

密室

作者: 室岡 勇実
掲載日:2026/03/20

 ナイフを腹に突き立ててみる。彼は震えている。なぜかはわからない。いずれにせよ人間は死んでしまうというのに、いざ死の際に立つと足がすくんでしまう。非常に情けない話だ。

 柔らかい肉感がナイフを伝い、私の手を介して全身に流れ込んでくる。ひどく高揚する体、覚醒する脳みそ、乾いていく口内。すべての感覚器官が冴えていくこの瞬間がたまらなく好きだ。これが私なんだ。今この瞬間から、このナイフが皮膚を割いてその内側に隠れる肉に埋もれていく。ザクロに似たその鮮血はあまりにも美しく、どこか幻想的で非日常的な、でもより鮮明に実際的で、一言では表せないそれは芸術品に等しい。

「あなたを愛しているわ」本心だ。

「今の君はどんな時より美しいよ」

 彼の言葉もまた本心なのだ。私にはそれがわかる。この密室の、私たちだけの閉鎖病棟で、愛を育んでいるのだ。私たちはこうして愛し合うべくして愛し合い、私は彼を殺すことになる。でもこれは、この世界が、私たちに、望んでいる形であり、私たちもまた、この愛の形を望んで生を受けたのだ。


 私は二十一歳、彼は二十四歳だ。この山奥にある精神病棟には私たち二人しかいない。私は連続殺人犯だ。四人をこの世から消した。それは、私がそうあるべきだと望んだからだ、この世界に望まれたという方が表現として好ましいとさえ思える。

 その四人は全員私の恋人だった。皆がみんな私に殺され、この世からいなくなることを望んだのだ。彼もまた、これからその一人になる。

 なぜ私がそのようなことを繰り返したにもかかわらず、刑務所ではなくこのような辺境にある閉鎖病棟に送られたかといえば、端的に言って、私が尋常ならざる精神状態だと判断されたということだ。事情聴取の時の検察官の顔は、まるでゲテモノ料理を口に放り込まれたかのような、まあ、苦虫を嚙み潰したような、そんな顔だった。

「なぜ、あのような事件を起こしたんだ」

「そうやってと世界が私に望んだの、それに彼らは私を、自分を殺してくれる天使と言ったわ。一人残らず全員がそう言って私にナイフを渡したの」確かめるように検察官は取り調べ資料を睨んで、私には視線を合わさずに取り調べを続けた。

「たしかに、現場では全員が全員、抵抗をしたような痕跡を残さず亡くなっていたよ」

「私と彼らはそういう因果の下に生まれたの。最初からそうなるべくして出会ってるのよ」

「好きな人とは一緒に居たいというのが普通だと思うのだけれど」

「好きとか、そんな簡単な話では終わらないのよ、これは。愛し合っていたのよ、私たち。この先も私は彼らを愛しているの。だから殺すのよ。私という人間はそのような造りになっているの。正確に言えば、私たちというべきだけれど」

「君は、君という人間は、普通ではない。この世界においてその存在はバグと言っていいだろう。正直私の立場からそのような言葉を投げかけるのはよろしくないのだが、異常だよ、はっきり言って」

 そうして、私は、私には理解の及ばないところではあるけれど、不本意ながらこの閉鎖病棟に送られた。ここには何もない。毎朝、トラックのブレーキ音で目が覚め、玄関にわずかながらの食料が鎮座しているだけだ。水も通っていないし、電気もない、ガスもないため火も起こせない。


 彼がここに来たのはその二か月後とかだった気がする。彼の場合は私とは違い、何度死のうとしても、どのようなやり方でも死ねず、最終手段としてここに送致されたらしかった。首を吊ろうにも親に見つかり、密林に入っては捜索隊と出くわし、川に身を投じてもなぜか船がそこを通りがかる。そんなことの繰り返しと聞いた。

 目が合った時、私は確信していた。そして彼もまた、そのような確信めいたものを感じ取った。

『愛している』

 それが私たちの第一声だった。それから私たちは三日三晩愛し合った。玄関に届く食事すらも目に留まらなかった。そして、私たちは互いの名前すら知らなかった。でも愛していた。愛という言葉以外に私たちの関係を簡潔にまとめ上げる言葉はこの世には存在していなかった。

 この愛の形は、他の人がいう愛、いわば普通の愛と何がどう違うというのか。少なくとも私には理解の埒外にあり、感知することはできない。

 彼が来てから四日目の朝、私たちは抱き合った状態で目が覚めた。気絶していたのだ。人生で最も情熱的な三日間だと言っていい。断言できる。生を極限まで感じたそれらをもって、私たちは最後の愛を確かめる段階へと移行する。つまり、私が彼を殺すことだ。これは誰も遮ることができない運命だし、この世界と私たちが望む私たちの愛の形なのだ。そして私は食事用のナイフを手に取る。通常、このような場所では食事用のナイフすら用意されないのだが、世界はそれを望んだのだ。


 真紅を滲ませたような彼の艶やかな唇は、徐々にその生を希薄化させ、薄紅色、赤紫、青紫へと変色していく。彼の心臓の灯は消えかかり、息も絶え絶えになっていく。

「ああ、愛おしくてたまらないわ」口角が上がる。

「ああ、僕もだよ、もっとその顔を近づけてくれないか」

 唇が触れ合う。凍えるようなその口づけは内側に燃え上がるような情愛を孕んでいて、口の中で溶け合い、ほぐれ、瓦解していく。呂律が回らなくなってくる。

「僕を食べてくれ」

「あなたの声を食べたいわ」

「ならこの喉を嚙みちぎるといい、君の中に僕の声が永遠に響き続けるように」

 彼はゆっくりとそれを口にすると、私の右耳にその冷ややかで大きい手をかけ、喉元に私の口を当てがった。涙がこぼれた。愛おしくて、殺したくて、涙が溢れて止まらない。


『愛している』


 私の喉に滞留する彼の血と声帯は、私の声帯と共鳴して脳に彼の声を響かせる。その食感、精錬された私の遺伝子に彼の人生が流れ込んでくる。なんて美しいのだろうかこの愛は。感涙は一晩中溢れ、私の中の水分は彼の血と私だけになってしまったみたいだった。

 彼の体に肌を寄せ、明け方の鳥のさえずりの中で微睡んでいく。この閉鎖病棟の中にいるのは私と、震えが止まり硬直した彼だけだ。私たちだけの密室の中で確かな愛を感じた私は思ってしまった。

「死にたいな」

「彼らに会いたいわ」

「私の中に彼らがいるのに」

 沈黙を破るその言葉の端々には、私の中に眠る彼らへの郷愁、愛が溢れていた。


 ナイフを腹に突き立てる。震えた。私は死を恐れていた。そこからは笑いと涙と愛が止まらなかった。ほとばしる血しぶきを全身に浴びながら、何度も腹に血で錆びたナイフを突き刺した。私の血は彼らのものとは違い、そこには艶やかさも、美しさも欠けていた。やはり運命だと確信した。私が彼らに求めた愛は、この血の対比から生まれるものであったということに。

 もう手は動かない。息も苦しい。でも自然と笑顔はこぼれ、涙は流れ続けている。笑い声は虚空に吸い込まれその響きを無くし、ぬるくなった体温を芯で感じて、天に向かって吠えた。世界に吠えた。この他人には理解できない愛を私と彼らだけが享受できるこの世界に感謝を込めて。


「愛している」

 狂った愛と表現されることのあるものは、世の中に溢れる愛とどのような違いがあるのだろうか。実際的なところでいってしまえば、互いを求め必要とし、育んでいくものという点で相違はない。と言ってしまっていい。結論、その結末が違うだけなのだ。本来人間は個人主義として自己だけを感知すれば足りる。その中で他を求める矛盾は美しいものがある。しかし、綺麗だ華麗だと表現されるその美しさは、実のところ社会通念上の愛の理想を押し付けている。この理想は他の視点が入り込みすぎている。

 重要なことは、”僕・私ならそうするというのに”という視点ではなく、ただそれをあるがままに受け入れていくという姿勢である。

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