事故は、二度起きる
赤信号だった。
横断歩道の白線がやけに眩しくて、俺は目を細めていた。
隣には彼女がいた。白いワンピース。夏の匂い。小さな手が、俺の袖を握っていた。
「大きくなったら結婚しよ」
そう言ったのは、どっちだったか覚えていない。
クラクションが鳴った。
振り向いたときには、もう遅かった。
強い衝撃。
俺の身体が後ろに引かれる。
視界が回転する。
アスファルトに背中を打ちつけた。
痛みよりも先に、音が届いた。
鈍い音。
肉が潰れるような、湿った衝突音。
立ち上がる。
数メートル先に、赤が広がっている。
白いワンピースが、赤に染まっていた。
彼女は動かなかった。
目を閉じたまま。
人形みたいに。
周囲が騒がしい。
誰かが叫んでいる。
救急車を呼べ、と。
俺はただ見ていた。
泣けなかった。
理解だけがあった。
ああ、死んだんだ。
胸の奥に、空洞ができる。
冷たい穴。
その穴に、何かが落ちた。
――行かないで。
その瞬間、世界の音が消えた。
俺の隣に、彼女が立っていた。
さっきまで道路に倒れていたはずの姿。
血はついていない。
無表情で、ただ俺を見ている。
五歳の俺は、それを疑問に思わなかった。
ただ、安心した。
いなくならなかった。
それでよかった。
救急車のサイレンが、遠くで鳴っていた。
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十年後。
異能というものは、表向き存在しない。
ニュースにもならない。教科書にも載らない。
だが、確実にある。
才能のある、ごく一部の人間にだけ発現する力。
俺は普通の高校生だ。
成績は中の上。部活は帰宅部。
友人はいるが、深くは関わらない。
彼女は、今も隣にいる。
誰にも見えない。
触れられない。
俺だけの存在。
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その日は帰りが遅くなった。
日直の雑務を押し付けられ、校門を出たのは日が沈んだ後だった。
裏路地を抜ければ近道になる。
足を踏み入れた瞬間、空気が震えた。
爆音。
コンクリートの壁が弾け飛ぶ。
粉塵が舞う。
視界の奥で、二人の男が向かい合っていた。
一人は腕から黒い刃を伸ばしている。
もう一人は、空間そのものを歪ませていた。背景が波打っている。
異能者。
理解は一瞬だった。
空間を歪ませていた男が、こちらに気づく。
視線が合った。
歪みが、俺へ向く。
空気が軋む。
周囲の景色が波打つ。
逃げ場はない。
足が動く距離ではない。
死ぬ。
そう判断した。
恐怖は、なかった。
彼女が一歩、前に出る。
白いワンピース。
無表情。
歪みが押し寄せる。
内臓が潰れそうになる。
骨が軋む。
その寸前。
彼女が、手を伸ばした。
触れたわけではない。
ただ、そこに“在った”。
空間が反転する。
歪みが弾けた。
次の瞬間、空間を操っていた男の身体が横に吹き飛ぶ。
見えない何かに轢かれたように。
肋骨が砕ける音。
肉が裂ける音。
壁に叩きつけられた男は、崩れ落ちたまま動かない。
血がゆっくりと広がる。
静止した時間の中で、刃を生やした男だけが立っていた。
目が細められる。
「……人型の異能か」
刃が伸びる。
金属が擦れるような音。
次の瞬間、地面を蹴った。
一瞬で間合いを詰められる。
速い。
俺の喉元へ、黒い刃が振り抜かれる。
避けられない。
彼女が、俺の前に立つ。
白いワンピースが揺れる。
刃が、彼女を通過する。
手応えはない。
男の瞳が揺れる。
「……は?」
彼女が、男の胸に触れた。
軽く。
本当に、触れただけだった。
次の瞬間。
衝突音。
男の身体が真横に吹き飛ぶ。
大型車両に撥ねられたように。
骨が砕ける音が、遅れて響く。
壁に叩きつけられ、コンクリートが陥没する。
内臓が潰れたのか、口から赤い液体が溢れる。
それでも、まだ生きていた。
指が痙攣する。
刃が消えかける。
彼女が、一歩踏み出す。
もう一度、触れる。
今度は、胸の中心。
鈍い圧縮音。
胸郭が内側に沈む。
肺が潰れ、血が噴き出す。
悲鳴は短い。
二度目はなかった。
身体が崩れ落ちる。
動かない。
路地には、二つの死体。
粉塵が、ゆっくりと落ちてくる。
俺は息を整える。
巻き込まれただけだ。
判断は間違っていない。
彼女が隣に戻る。
何も言わない。
最初から、こうなると決まっていたみたいに。
そのとき。
遠くから、微かな視線を感じた。
監視されているような感覚。
だが姿は見えない。
数分後。
サイレンの鳴らない黒い車が路地に滑り込んできた。
制服ではない男たちが降りてくる。
死体を確認。
周囲を封鎖。
俺を見る。
彼女を、見てはいない。
「対象確保」
短い命令。
俺は抵抗しない。
手首に冷たい金属が嵌められる。
彼女は、俺の隣に立ったまま。
消えない。
いなくならない。
事故は、二度起きた。
どちらも、俺だけが生き残った。
車に押し込まれ、扉が閉まる。
窓越しに夜の街が遠ざかる。
彼女が、俺を見ている。
無表情。
それでも、そこにいる。
俺は目を閉じた。
胸の空洞は、まだ冷たいままだった。




