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紗月の言葉が空気に溶けるように消えていったあと、店内はしばらく静まり返っていた。
クロノの掛け時計はいつも通り時を刻んでいる。
だけど春樹と紗月にとっては――別の時間が動き始めていた。
紗月は席に座ったまま、手を胸元に当てていた。
その指先は震えていて、しかしその瞳は迷っていなかった。
「ねえ、春樹さん」
「うん」
「私……ひとつ、変な夢を見たんです。
最近ずっと、同じ夢」
春樹は身じろぎする。胸の奥が緊張にざわつく。
「どんな夢?」
「夜の街の広場……石畳の道。
私は白い服を着ていて……
あなたは、黒いコートだった」
春樹の心臓が跳ねた。
(……覚えている)
それは夢じゃない。
紗月が失った“前の人生”の記憶。
「そして私は……あなたに背を向けた。
本当は行きたくなかったのに。
なのに、振り向けなくて」
紗月は苦しそうに続ける。
「最後に聞こえた声があるの。
『待ってる』って。
でも……その声を聞いた瞬間、胸がつぶれたみたいに苦しくなった」
春樹はそっと言った。
「それは、現実だよ。
君が生きた時間だ」
紗月は目を見開く。
「……夢じゃなくて?」
「うん。俺たちは……何度も出会って、何度も別れた」
紗月の瞳に光が戻る。
「じゃあ……私はやっぱり……!」
「君は同じ魂で、違う時間を生きてる。
そして俺は、君を追いかけるように生きてきた」
その言葉は、運命の告白だった。
紗月は涙をこぼしながら笑った。
「……やだ。なんでそんな顔するの」
「どんな顔だ?」
「私より先に全部思い出してる顔」
春樹も少し笑ってしまう。
「ずっと探してたから。
名前が変わっても、生き方が変わっても。
君が誰かになっても……君だってわかった」
紗月は震える声で呟く。
「そんなふうに言われたら……私、もう逃げられない」
そこでクロエが静かに口を開いた。
「逃げなくていいのよ、紗月さん。
だって今回は……“繋がるために会った時間”なんだから」
紗月が振り返る。
「クロエさん……私……」
「怖いでしょう?
覚えてないのに、心だけが知っている。
でもね、それは罰じゃなく……願いよ」
「願い……?」
「ええ。
恋は終わるものじゃなく、続きがあるもの。
あなたたちは“やり直し”じゃない。
……続きを生きる恋人たちなの」
その言葉は、確かな未来を示す灯りのようだった。
春樹はそっと手を伸ばす。
「紗月。俺はもう戻らない。
今日からは未来の話をする」
紗月はゆっくり手を重ねた。
「じゃあ……ひとつだけ言わせて」
息を吸い、震えるまつ毛の奥で意志が灯る。
「……私も、あなたを探してた」
その瞬間。
胸の奥にあった痛みがほどけていく。
言えなかった言葉、交わしきれなかった想い、
すれ違い続けた時間が――ようやく繋がった。
紗月は微笑む。
涙ではなく、希望を宿した笑顔で。
「たとえまた時間が変わっても、違う私になっても……」
その声は澄みきっていた。
「必ずあなたに恋をする。」
春樹は答えた。
「その時は、また言うよ。
……『会えてよかった』って。」
窓の外、夜空に星がひとつ瞬いた。
まるで二人の魂が、
ようやく再び並んだことを祝福するように。
「別れなければ、気づけなかった。
何度生まれ変わっても――私はあなたに恋をする。」




