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翌日。
春樹はいつもより落ち着かない心で仕事を終え、クロノの扉を開けた。
ベルが鳴る。
「こんばんは、春樹さん」
クロエはいつもの微笑みで迎えた。
しかし……窓際には紗月の姿がない。
「……まだ来てませんか?」
「ええ。でも、来ますよ。今日は“そういう日”です」
「そういう日?」
問い返す春樹に、クロエは静かにコーヒーを淹れる。
「魂が揺れる日。
“思い出そうとしている人”がいる日です」
意味はまだ理解できなかったが――
その言葉は予感のように胸に残った。
クロノブレンドが差し出された瞬間。
ベルが再び、柔らかく鳴った。
春樹が振り返る。
そこにいたのは――
昨日の彼女でも、学生の彼女でもなかった。
髪は長く、編み下ろし。
古いデザインの落ち着いたワンピース。
穏やかな佇まい。
まるで昔物語の中から出てきたような……時代の違う姿。
けれどその瞳だけは、迷わなかった。
紗月だった。
一歩、また一歩と近づくたび、
彼女の視線はまっすぐ春樹を捉えている。
「……春樹さん」
名前を呼ばれただけで、胸が震えた。
「会える気がしていました」
その声は落ち着いていて、柔らかくて、
過去でも未来でもなく――
永い時間を越えてきた証のようだった。
春樹は席をすすめる。
「どうぞ」
「ありがとう」
紗月は静かに腰を下ろすと、手帳もスマホも出さず、まっすぐ春樹を見た。
「私、昨日の私とも、学生だった私とも……違います」
「……知ってます」
「でも、心は覚えてます。
あなたと話したときの安心感も……胸の痛みも」
紗月は胸元にそっと触れる。
「そして……“失った言葉の重さ”も」
春樹は息を呑む。
彼女は続ける。
「私はずっと、誰かに言えなかった言葉があるんです。
……ありがとう
……ごめんなさい
……好き
たったそれだけなのに、どうしても言えなくて」
紗月の声は震えながらも、まっすぐだった。
「その人は待っていたのに。
それでも、私は言わなかった。
そして……言えないまま別れてしまった」
悲しみではなく、悔しさを帯びた声だった。
「ずっと後悔してるの。
“伝えられた未来”がどんなものだったのか」
……その瞬間。
春樹の胸の奥で、何かが強く響いた。
(知っている。この感情を)
紗月の言葉。
その痛み。
その後悔。
(俺も……)
クロエが静かに言葉を落とす。
「春樹さん。あなたも思い出しているでしょう?」
ゆっくり振り返ると、クロエの瞳はどこまでも透明だった。
「彼女に伝えられなかった言葉を。
“最後に言うべきだった言葉”を」
胸が締め付けられる。
紗月が、怯えるように、けれど逃げずに尋ねる。
「春樹さん。
あなたは……私に、何を伝えたかったんですか?」
春樹は息を吸う。
思い出したい。
ずっと忘れていたはずの感情。
魂に刻まれた痛み。
未来を変えられる言葉。
そして……静かに答えた。
「……“待ってる”って。
たとえ別れても、時間が変わっても。
俺は君を待つ。
君が辿り着くその未来で、また会おうって。」
紗月の瞳から涙が溢れた。
「……そう。そうだ。
私、言われた……その言葉」
泣きながら、紗月は思い出すように笑う。
「そして私は答えなかった。
怖くて……言わせたままにした。
あなたを置いていった」
春樹は首を振る。
「置いていったんじゃない。
未来へ進んだんだよ。
俺が追いつくために……」
その瞬間。
紗月はそっと春樹に手を伸ばし、触れた。
ゆっくり、確かめるように。
「じゃあ今……言わせてください」
春樹は息を飲む。
紗月は涙を拭い、微笑んで言った。
「……待っててくれてありがとう。」
その言葉は、千年遅れの答えだった。




