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カフェ クロノス  作者: July
第3章 未練の味とクロノブレンド
7/13

2

 紗月の手が春樹の手の上にある。

 その温度は確かなのに、どこか危うい。

 触れていないと消えてしまう“夢”のような感覚。


 


 春樹は言った。


「何度時間が変わっても、俺は君を……」


 言い終えようとしたその瞬間、

 紗月が小さく震えた。


 


「……怖い」


「……え?」


「覚えてないのに、心だけが知ってる。

 そんなこと、普通じゃない」


 紗月の声は震えていたけれど、逃げてはいなかった。


「春樹さんの声を聞くたび胸があったかくなるのに、

 頭では『知らない人』って言ってる」


 


 手を重ねたまま、紗月はじっと春樹を見つめる。


 


「私の心は……どうしてあなたを探してるの?」


 


 その問いに、返す言葉はなかった。

 けれど答えは胸の奥深くにある。


(……もう何度も、君と出会ってきたからだ)


 紗月が覚えていなくても、

 春樹の魂は知っている。


 彼女が泣いた夜も、笑った春も、

 誓った約束も、果たせなかった別れも。


 


 クロエが静かに口を開く。


「心は、時を越えるわ。

 記憶が消えても、魂は知っている。

 “誰を愛したか”だけはね」


 


 それは慰めでも説明でもなく、

 真実の宣告のようだった。


 


 ふと、紗月が小さく息を吸い、言う。


 


「春樹さん。質問してもいい?」


「……うん」


 


「もし……もし私が明日、“昨日の私じゃなくても”、

 それでもあなたは私に話しかけてくれる?」


 


 その言葉には、祈りがあった。

 確認ではなくーー願い。


(そんなの、答えは一つだ)


 


 春樹は微笑んだ。


 


「話しかけるよ。

 忘れていてもいい。

 ……俺が覚えてるから」


 


 その瞬間。


 紗月は表情を崩し、涙をこぼした。


「……ずるい。そんな言い方……」


「ごめん。でも本音だ」


 


 涙を拭いながら、紗月は笑った。

 泣きながら笑うその顔は、痛いほど愛しい。


 


「ありがとう。

 そう言ってくれる気がしてた」


 


 その言葉はデジャヴのようで、

 同時に初めて聞く言葉だった。


 


 春樹が立ち上がろうとしたとき。


 


「……春樹さん」


 クロエの声が止めた。


 


「今日だけは、戻らないで」


 


 春樹はハッとする。

 ポケットにはすでに温もりを残すクロノブレンドの余韻。


 


「戻らない時間で生まれた言葉は、

 未来を変える力を持つわ」


 


 紗月も春樹を見て、そっと笑う。


 


「うん。今日の私、ちゃんと覚えてたい」


 


 時間を戻せば、紗月の記憶は曖昧になる。

 この会話は、魂の奥底に沈むだけになる。


 でも……戻らなければ。


 


今日の紗月は“明日の紗月”に繋がる。


 


 春樹は深く息を吸った。


 


「じゃあ……今日は戻らない」


 


 そう言って、クロノブレンドの残りに触れず、席から立つ。


 


 紗月は笑い、手を伸ばす。


「じゃあ、また……明日」


 


「うん。明日」


 


 二人の手が触れ、離れる。


 


 ドアを開けると、夜風が頬をくすぐった。

 その空気すら、昨日までとは違う。


(戻らない選択も……悪くない)


 


 背後でドアベルが鳴る。


 


「……春樹さん」


 振り返ると、紗月が立っていた。


 月明かりの中、彼女は言う。


 


「会えてよかった」


 


 胸に落ちるその言葉は、

 昨日の言葉と同じで、でも違う意味を持っていた。


 


 今度は――未来へ向けた言葉。


 


 春樹は深く頷いた。


「俺もだよ。会えてよかった」


 


 その夜、空はどこまでも澄んでいた。


 


 そして春樹は気づいた。


 


恋はやり直すものじゃない。

重ねるものなんだ。


 


その気づきは、心に灯りをともす灯火となった。

「戻る恋から、進む恋へ。」

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