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紗月の手が春樹の手の上にある。
その温度は確かなのに、どこか危うい。
触れていないと消えてしまう“夢”のような感覚。
春樹は言った。
「何度時間が変わっても、俺は君を……」
言い終えようとしたその瞬間、
紗月が小さく震えた。
「……怖い」
「……え?」
「覚えてないのに、心だけが知ってる。
そんなこと、普通じゃない」
紗月の声は震えていたけれど、逃げてはいなかった。
「春樹さんの声を聞くたび胸があったかくなるのに、
頭では『知らない人』って言ってる」
手を重ねたまま、紗月はじっと春樹を見つめる。
「私の心は……どうしてあなたを探してるの?」
その問いに、返す言葉はなかった。
けれど答えは胸の奥深くにある。
(……もう何度も、君と出会ってきたからだ)
紗月が覚えていなくても、
春樹の魂は知っている。
彼女が泣いた夜も、笑った春も、
誓った約束も、果たせなかった別れも。
クロエが静かに口を開く。
「心は、時を越えるわ。
記憶が消えても、魂は知っている。
“誰を愛したか”だけはね」
それは慰めでも説明でもなく、
真実の宣告のようだった。
ふと、紗月が小さく息を吸い、言う。
「春樹さん。質問してもいい?」
「……うん」
「もし……もし私が明日、“昨日の私じゃなくても”、
それでもあなたは私に話しかけてくれる?」
その言葉には、祈りがあった。
確認ではなくーー願い。
(そんなの、答えは一つだ)
春樹は微笑んだ。
「話しかけるよ。
忘れていてもいい。
……俺が覚えてるから」
その瞬間。
紗月は表情を崩し、涙をこぼした。
「……ずるい。そんな言い方……」
「ごめん。でも本音だ」
涙を拭いながら、紗月は笑った。
泣きながら笑うその顔は、痛いほど愛しい。
「ありがとう。
そう言ってくれる気がしてた」
その言葉はデジャヴのようで、
同時に初めて聞く言葉だった。
春樹が立ち上がろうとしたとき。
「……春樹さん」
クロエの声が止めた。
「今日だけは、戻らないで」
春樹はハッとする。
ポケットにはすでに温もりを残すクロノブレンドの余韻。
「戻らない時間で生まれた言葉は、
未来を変える力を持つわ」
紗月も春樹を見て、そっと笑う。
「うん。今日の私、ちゃんと覚えてたい」
時間を戻せば、紗月の記憶は曖昧になる。
この会話は、魂の奥底に沈むだけになる。
でも……戻らなければ。
今日の紗月は“明日の紗月”に繋がる。
春樹は深く息を吸った。
「じゃあ……今日は戻らない」
そう言って、クロノブレンドの残りに触れず、席から立つ。
紗月は笑い、手を伸ばす。
「じゃあ、また……明日」
「うん。明日」
二人の手が触れ、離れる。
ドアを開けると、夜風が頬をくすぐった。
その空気すら、昨日までとは違う。
(戻らない選択も……悪くない)
背後でドアベルが鳴る。
「……春樹さん」
振り返ると、紗月が立っていた。
月明かりの中、彼女は言う。
「会えてよかった」
胸に落ちるその言葉は、
昨日の言葉と同じで、でも違う意味を持っていた。
今度は――未来へ向けた言葉。
春樹は深く頷いた。
「俺もだよ。会えてよかった」
その夜、空はどこまでも澄んでいた。
そして春樹は気づいた。
恋はやり直すものじゃない。
重ねるものなんだ。
その気づきは、心に灯りをともす灯火となった。
「戻る恋から、進む恋へ。」




