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それからの数日、春樹の時間は少しずつ変わっていった。
たった5分戻れるだけの魔法。
それでも、その5分をどう使うかで、
未来の表情も、空気も、言葉の温度も変わる。
職場では、余裕が生まれた。
小さなミスも、気まずい空気も、
やり直せると思うだけで、心が軽くなる。
だが、春樹が時間を使う一番の理由は――
紗月だった。
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ある夜のクロノ。
春樹が入ると、窓際で紗月が手帳に何かを書いていた。
今日は、白いワンピースに淡いストール。
柔らかな大人びた雰囲気。
――昨日の制服姿とはまるで違う。
「こんばんは、春樹さん」
紗月は微笑む。
大人の声色なのに、やはり昨日と同じ仕草。
「こんばんは。……今日も会えましたね」
「ええ。不思議です。
来るたび違う夜、違う時間なのに……
あなたとは、必ず何かが繋がっていく」
その言葉は、運命の糸を指で触れたような感覚を残した。
「ねえ、春樹さん」
ふと、紗月は問いかけるように視線を向けた。
「あなたは……後悔したこと、ありますか?」
その問いには、昨日までとは違う重さがあった。
単なる会話ではなく、心の奥底に触れるもの。
「……あります。
誰かを傷つけたこともあるし、
本当の気持ちを言えなかったこともあります」
「言えなかったことの方が苦しいよね」
紗月は小さく微笑した。
だがその笑みには、影があった。
「“間に合わなかった言葉”ほど、胸に残るものはない」
春樹は問い返す。
「紗月さんは……誰に伝えたかったんですか?」
紗月は視線を落とし、しばらく沈黙したあと震える声で答えた。
「……名前は思い出せません。
でも……大切だった人です」
覚えていないはずの人を、
忘れた時間の中でも
心だけが探し続けている。
その光景は美しく、残酷だった。
春樹は思わず手を伸ばす。
「いつか、思い出せますよ」
その言葉は、慰めではなかった。
未来への宣言のように、まっすぐだった。
紗月は驚いたように目を瞬かせ、やがて微笑んだ。
「……そう言う顔、前にも見た気がします」
胸が締め付けられる。
昨日とは違う世界線の彼女が、
同じ感情を抱いている。
(……やっぱり、俺たちは繋がってる)
その時、クロエがカウンターから歩いてきた。
「今日は、話が進んでいますね」
クロエは微笑んだあと、ゆっくり春樹の前にカップを置く。
「そろそろお話しします。
……時間遡行のルールを」
空気が変わった。
「クロノブレンドで戻れるのは5分。
ただし、使用回数には上限があります」
「……上限?」
「ええ。コーヒーは“あなたの時間”を削って効果を発揮する。
飲むたびに、あなたの未来は少しずつ欠けていく」
春樹の手が止まる。
(俺は……未来を削ってる?)
クロエは続ける。
「それでも飲む人は……必ず一つの理由を持っている。
“どうしても叶えたい何か”を」
静かに、しかし確信を持って言った。
「春樹さん……あなたの理由は、彼女なんでしょう?」
春樹は答えなかった。
けれど沈黙こそが答えだった。
紗月は、ただ静かに二人のやり取りを見つめていた。
その表情はどこか切なく、苦しげで……それでも、目を背けなかった。
クロエは最後に言う。
「覚悟しておいてください。
恋のために時間を使う人は
必ず“試される瞬間”が来る。」
その言葉は、未来の予告のようだった。
そして。
紗月がそっと春樹の手の上に、自分の手を重ねた。
「……ねえ。春樹さん」
声は震えていたが、まっすぐだった。
「もし……私の時間が変わっても、
名前も記憶も違っても――」
その瞳は、迷いも恐れも抱えながら、それでも希望だけを灯していた。
「また私を見つけてくれますか?」
胸が熱くなる。
言葉が込み上げる。
「もちろん。何度でも」
答えた瞬間……
紗月は泣きそうに笑った。
その笑顔は、昨日とも今日とも違う。
未来に触れた笑顔だった。




