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次の日、春樹はいつもより早く仕事を切り上げた。
気づけば足は迷わず、クロノへ向かっていた。
扉を開けると、コーヒーの香りが迎えてくれる。
その香りは、昨日までと同じなのに――胸の奥が期待でざわついた。
「いらっしゃい、春樹さん」
クロエはいつもの柔らかな笑みを浮かべていた。
しかし、春樹の視線は自然と窓際へ向かう。
――いない。
昨日確かに話した紗月の姿はなかった。
思った以上に胸が寂しさで締め付けられ、春樹は自分に苦笑した。
(……会って、数時間話しただけなのに)
たったそれだけの会話だったのに、
もう「また会いたい」と思ってしまっている。
「……今日はいないみたいですね」
クロエが小声で言う。まるで心を読んでいるようだった。
「え、いや……別に、誰のことだとか……」
「その言い訳、昨日のあなたの表情にそっくりですよ?」
春樹は完全に言葉を失った。
クロエは静かにコーヒーを淹れる。
ポタ、ポタ、と規則的に豆から落ちるしずくの音。
それだけが静かに響いていた。
「焦らなくていいんですよ」
「……焦ってるつもりはないですが」
「いいえ、焦ってます」
クロエは楽しそうに微笑む。
「“運命の相手に気づいた人”は、必ず焦るものです」
「また、そういうことを……」
そう苦笑したとき――
扉のベルが鳴った。
振り返ると、そこには――
「…………っ!」
紗月がいた。
しかし昨日とはまるで違う。
今日は学生の姿だった。
短めの制服スカート、リュック、無造作に結んだ髪。
昨日の上品な大人びた雰囲気とはまるで違う、
年相応の明るさと幼さが混ざった姿。
「こんばんはっ、クロエさん!」
「いらっしゃい、紗月ちゃん」
――紗月。
間違いない。声も仕草も同じ。
けれど、彼女は春樹を見ても、表情に戸惑いはなかった。
何も知らない人を見るような、真っ直ぐな目。
「こんばんは。初めまして?」
紗月は首を傾げ、にこりと笑った。
胸が一瞬、ひやりとした。
――覚えていない?
昨日の会話も、笑った時間も、あの寂しげな言葉も。
まるで、一夜で別の人生に変わってしまったように。
春樹は困ったように笑い返す。
「……初めまして。春樹です」
「私は紗月!よろしくね!」
その笑顔は、昨日とは違う種類のまぶしさを持っていた。
席に座った紗月は、スマホをいじりながらスイーツメニューを見ていた。
「あっ、前から気になってたチーズケーキ!今日こそ食べる~!」
「はいはい。ゆっくり味わうんですよ?」
「はーい!」
クロエとのやりとりは、まるで昔からの常連のようだった。
明るい声。弾む言葉。
昨日の彼女とは違う。
でも――
笑う仕草だけは、同じだった。
「……不思議ですか?」
隣に立ったクロエが囁くように言った。
「気づいてしまったんですね。
“同じ人物なのに、違う時間を生きている”って」
春樹は息を呑んだ。
「どういうことなんですか。昨日の彼女も、今の彼女も紗月なんですよね?」
「ええ。でも彼女は……一つの時間に縛られていない人なの」
「縛られて……いない?」
「簡単に言うなら、彼女は『違う人生を同時に歩いている』のです。ある時代では大人で、ある時代では学生で……別の時間では、絵を描いていたり、旅をしていたり」
クロエの声は静かだったが、どこか遠くを思わせる響きを帯びていた。
「でも……どの時間の彼女も、あの笑い方だけは変わらないの」
そう言われ、春樹は改めて紗月を見る。
チーズケーキを一口食べ、目を輝かせる。
「しあわせ~~……!」
その瞬間――
昨日と同じ仕草で、同じ表情で、同じ声で、彼女は笑った。
胸が強く、痛いほど脈打つ。
(……時間が違っても、彼女は彼女なんだ)
その気づきは、恐ろしくて美しくて、抗えない。
紗月が気づき、手を振った。
「春樹さん、ここ座っていいよー!」
その言葉に応えるように春樹は立ち上がる。
――そして思う。
「もっと知りたい。
昨日の君も、今の君も。
全部……紗月だから。」
彼の指が、そっとコーヒーカップへ触れる。
5分だけ戻れる魔法。
恋を進めるためなら、迷う理由なんてどこにもなかった。




