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その夜、春樹と紗月は他愛のない会話を重ねた。
好きなコーヒーの味、読んだ本の話、今日の天気のこと。
どれも特別な話題ではないのに、会話は途切れず、言葉は自然に重なっていく。
不思議と、沈黙すら心地いい。
まるで――
何度もこうして過ごしてきた二人みたいに。
⸻
「春樹さん」
名前を呼ばれるたび、胸が跳ねる。
「ここに来る理由って……ありますか?」
紗月はコーヒーを両手で包みながら、視線を落とした。
静かに、けれどどこか寂しげに。
「私はね……少し後悔してるんです。
――『ちゃんと伝えなかったこと』を」
「伝えなかった……?」
「ええ。言葉って、言わなきゃ届かないものなんだなって。
“わかってくれるはず”なんて思い込みで、結局、大切な人に何も言えなかった」
その声は、過去のどこか遠い場所を見つめているようだった。
春樹は思わず聞いた。
「その人、今も……?」
紗月はゆっくり首を振った。
「もう会えません。でも……ここに来ると、時々思うんです。
『もし時間が戻ったら、きっと伝えられる』って」
その言葉が胸に刺さる。
――クロノブレンドの噂。
――5分だけ戻れる魔法のコーヒー。
彼女は知らない。けれどなぜか、心が同じ方向を向いている気がした。
喉の奥に言葉が溜まっていく。
その感情が名前を持たないまま、春樹は口を開いた。
「もし……もし、やり直せたら」
「はい」
「その人に、何て言うんですか?」
紗月は一瞬だけ目を見開き、そして微笑んだ。
「――『会えてよかった』って」
その笑顔は柔らかくて、胸の奥が痛いくらいに美しかった。
沈黙。
だけど苦しくない。
むしろ、二人の間に温かい空気が流れた。
そんなとき、カウンターからクロエが声をかけてきた。
「そろそろ閉店です。名残惜しいなら、また明日も来てくださいね」
紗月は笑いながらコートを手に取る。
「ねえ、春樹さん」
「……はい?」
「また話せますか?」
――鼓動が跳ねた。
「もちろん。俺も……また会いたいです」
紗月の瞳がほんの少し揺れて、そして嬉しそうに細められる。
「よかった。……そう言ってくれる気がしたんです」
店のドアが開く音。
夜風がふわりと吹き込み、彼女の髪を揺らす。
「じゃあ――また、ね」
そう言って手を振る紗月の姿が消えるまで、春樹は見送った。
扉が閉じたあと、クロエが近づいてきた。
「幸せそうですね。いい出会いだった?」
「……はい。なんか……信じられないくらい」
「そう。なら――気をつけてください」
クロエは意味深に言葉を落とす。
「時間は優しいけれど、同時に残酷です。
“やり直すため”ばかり飲み続ける人は、
いつか“進む未来”を失うことがある」
その声は、まるで未来を知っているようだった。
春樹は息を飲んだ。
「……でも」
カップを見つめながら、呟く。
「もし、たった5分であの人に近づけるなら。
5分で、もう一度笑わせられるなら。
――俺は、それでもいいと思うんです」
クロエは微笑んだ。
それは、どこか切なく、あたたかくて――祝福にも似ていた。
「ええ。恋に落ちた人は、みんなそう言うわ」
静かに、丁寧に、クロエは言った。
「でも覚えておいて。
恋は“戻るため”じゃなく、“進むため”にあるのよ。」
その夜、春樹は初めて思った。
――5分じゃ足りない。もっと知りたい。もっと話したい。
もっと、もっと――彼女に触れたい。
空を見上げると、月がゆっくりと浮かんでいた。
未来の形はまだわからない。
けれど胸の高鳴りが、答えを知っているかのように脈打つ。
これは、偶然じゃない。
そう確信できる夜だった。




