1
それから数日、春樹は仕事帰りになると自然と「クロノ」へ向かうようになった。
入り口のベルが鳴るたび、ほんの少し胸が高鳴る。
最初の驚きは薄れてきたけれど、あの不思議な体験は夢じゃなかった。
そして何より――あの窓際に座る女性の姿が、心のどこかをそっと引き寄せるのだ。
「今日もいらっしゃい。春樹さん」
クロエの微笑みは相変わらず落ち着いていて、どこか見守るような優しさがある。
「こんばんは。……その、今日も例のを」
「ええ、『特製クロノブレンド』ですね」
春樹は苦笑しながら席についた。
噂なら笑い話で終わる。
だが実際に体験すると、それは――
小さな魔法だった。
やり直せるのは、ほんの5分。
だけど、その5分で取り戻せるものが意外と多いことに春樹は気づき始めていた。
⸻
「……すみません!」
職場でのミスに気づいた春樹は、コーヒーを飲んで5分前に戻り、
言い過ぎてしまった後輩に頭を下げた。
「俺が悪かった。あの言い方はよくなかった。ごめん」
「え……春樹さんが謝るなんて……!」
相手は驚き、空気はやわらぎ、仕事はスムーズに進んだ。
ほんの数分、言葉を少し変えるだけで、世界はこんなにも違って見えるのだと知った。
――たった5分の魔法。
されど、5分の魔法。
⸻
そしてその夜。
クロノブレンドの湯気が上がるカップを前に、春樹は気づいた。
窓際の席。
いつもの――紗月がいる。
今日は、白いニットに淡いベージュのスカート。
大人びた上品さと、どこかあどけなさが同居している。
彼女はノートに何かを書き込みながら、ときどき微笑んでいた。
その笑みを見るたび、胸がきゅうっと温かくなる。
まるで昔から知っているかのような、懐かしさを伴う感情だった。
――会ったことなんてないはずなのに。
気づけば春樹の視線は自然と彼女へ吸い寄せられていた。
そんな春樹の気持ちを、クロエは察しているのかいないのか、静かに声をかける。
「話しかけてみては?」
「えっ……!」
春樹はむせ返り、思わず声が裏返った。
「い、いやいやいや、そんな……!突然話しかけたら怪しいでしょう」
「“突然”?」
クロエはくすりと笑う。
「不思議な言い方ね。まるで、もう何度も話したことがあるみたい」
「……なんでそうなるんですか」
「顔に書いてありますよ。“ようやく会えた”って」
春樹は言葉を詰まらせた。
否定しようとして、できなかった。
その時だった。
「――あの、すみません」
ふわりとした声が近くから届いた。
驚いて振り返ると、そこに紗月が立っていた。
春樹の心臓は一瞬止まり、次に脈打つ音が自分でも聞こえるんじゃないかと思うほど大きく響いた。
「席、隣……いいですか?」
柔らかく首を傾けながら笑う紗月。
その笑顔は、初対面なのに胸の奥が懐かしさに震えるほど愛おしかった。
「……っ、あ、は、はい。もちろん」
自分でも情けないほど慌てた返事をしてしまい、苦笑する。
紗月は椅子に座りながら、春樹を見て小さく笑う。
「なんだか緊張してますね」
「そ、そんなことないです。普通です。完全に通常運転です」
「ふふ。じゃあ、そういうことにします」
コーヒーの香りが二人の間をゆっくりと流れた。
一瞬だけ沈黙が訪れ――そのあと、紗月はぽつりと言葉を落とす。
「ここに来るの、二回目ですか?」
「え?」
「なんとなく……そんな気がして」
春樹は息を飲んだ。
嘘でも冗談でもなく、彼女は本気で言っている表情だった。
そして――
「変ですね。初めてなのに、懐かしい気がするんです」
「まるで……前にも、あなたと話したことがあるみたい」
その言葉は、心の奥底に眠っていた記憶を、そっと揺らすようだった。
春樹の胸の中で、静かに何かが動き出す。
それは恋に似て、運命に似て、
まだ名前のつかない感情だった。
――紗月に出会ったその夜。
春樹は初めて「やり直すため」ではなく、
「もう一度話すため」に、コーヒーを飲みたいと思った。




