クロノの窓辺
春樹と紗月が「同じ時間」を歩き始めてから、三年が経った。
クロノは相変わらず街外れに佇み、
木の看板は少し色あせ、古時計はゆっくりと時を刻み、
店の空気には、やわらかな午後の光が満ちている。
――ただ一つ違うのは。
ここは、魔法のカフェではなくなっていた。
クロノブレンドの力は失われ、
時間は巻き戻らず、未来は覗けず、
どんな客もただのコーヒーを飲む。
それでも、クロノを訪れる人々は口をそろえて言う。
「落ち着く」「優しい気持ちになる」「帰ってきたくなる」
魔法が消えても、店はどこまでも温かかった。
⸻
午後三時。
窓際の席で、春樹は仕事帰りの書類を広げていた。
当時より役職が上がり、忙しさも増えたが、
不思議と疲れ方は違った。
なぜなら――
紗月がいつもこの席に来ることを知っているからだ。
カップの縁を指でなぞりながら、窓の外を眺める。
(今日も、来るのかな)
そう思って微笑んでいると――
カラン。
ドアベルが鳴る。
春樹は振り返る前にわかっていた。
心臓が、なんの前触れもなく跳ねる。
「お待たせ、春樹さん」
紗月が、赤いマフラーを外しながら微笑む。
相変わらず、柔らかくて、優しくて、
“今”に寄り添うような声だった。
「今日も絵を描いてきたんだ」
そう言ってスケッチブックを抱えて座る。
「見てもいい?」
「まだ途中だけど……いいよ」
春樹はページをめくり、思わず息を呑む。
そこには――
夕暮れのクロノ、窓辺の席、
笑い合う男女の姿が一枚のスケッチになっていた。
その人物は他でもなく、自分たちだ。
「……これ、いつ?」
「昨日の景色。
私たち、話してたでしょう? あのケーキのこと」
「覚えてるよ。
あのケーキ、食べ過ぎてたよね」
「ふふ。美味しかったもん」
二人は同時に笑った。
⸻
紗月は手帳にさらさらと文字を書きながら言う。
「ねえ、春樹さん」
「うん?」
「最近ね、思うの。
“永遠”って、止まってることじゃないなって」
「ほう」
「例えばさ、昨日笑って、今日喧嘩して、明日仲直りして。
そんな日々が続いていくのって、永遠に似てるんだよ」
春樹は目を細める。
「それは……本当にそうだと思うよ」
「だよね。
魔法なんてなくても、ちゃんと永遠は生きてるんだよね。
時間が流れるってことは、終わりじゃなくて、続いている証拠なんだよ」
その言葉に胸が温かくなる。
(あの日、俺たちが“永遠より未来”を選んだ意味は……今も生きてる)
⸻
紗月はスケッチブックを閉じ、春樹に微笑みかけた。
「春樹さん。ひとつお願いがあるんだけど」
「なんでも言って」
「今度さ、私の友達の個展に一緒に行ってほしいの」
「もちろん。楽しそうだ」
「ありがとう。
……それからね」
紗月は胸の奥から言葉を掘り出すように、静かに続けた。
「いつか、私の作品展を開きたいなって思うの。
まだちゃんと描けてないけど……夢になったらいいなって」
春樹は迷わず答えた。
「必ず実現するよ。
絵のうまさもあるけど、いおも紗月が描く景色が好きだから」
「……ありがと。
そんなふうに言ってくれる気がしてた」
紗月は照れながら笑った。
春樹は、そっと彼女の手を握る。
「俺も言いたいんだけど」
「なに?」
「いつか、君と家を持ちたい。
庭でコーヒー淹れて、休日にぼんやりして……
そんな日を過ごしたい」
紗月は目を潤ませた。
「……素敵だね。
そういう普通が、いちばん幸せだと思う」
その時、クロエが静かに近づいてきた。
「新しいクロノブレンドです」
春樹と紗月は驚く。
「え? 魔法はもう――」
「魔法ではありません。
ただのコーヒーです。
けれど……」
クロエはいたずらっぽく笑う。
「ふたりが飲めば、少しだけ世界が柔らかくなるでしょう」
紗月が嬉しそうに声を弾ませた。
「そういう魔法なら、ずっとあっていいね」
「ええ。
“優しさが伝染する魔法”なら、永遠に失われません」
春樹と紗月は顔を見合わせ、ゆっくり頷いた。
クロエはコーヒーを置き、そっと祝福する。
「おふたりが選んだ未来が、どうか穏やかに流れますように。
涙の日も、笑顔の日も、
全てが“美しい現在”になりますように。」
⸻
夕暮れが店を朱色に染める。
古時計は静かに針を進め、
スケッチブックには今日の景色が刻まれる。
春樹と紗月は、肩を寄せ合った。
「ねえ、春樹さん」
「うん?」
「魔法なんてなくてもいいね」
「うん。
魔法がなくても、十分幸せだよ」
「“今”が続いていくって、こんなに優しいんだね」
「俺もずっとそう思ってた」
紗月は小さく笑い、春樹に囁く。
「ありがとう。
今日も“今”を一緒に過ごしてくれて」
「こちらこそ」
窓の外、街の灯りがひとつ、またひとつ灯る。
それは、世界が次の瞬間へ進む合図。
ふたりの物語も――
今日からまた、新しい“続き”へ進む。
止まらない。
戻らない。
どこへでも、ゆっくりと。
恋は永遠ではなく、
“永遠に続く現在”を生きること。
春樹と紗月は、そっと手を繋いだ。
そして――
穏やかな今を、静かに深く、愛し続けた。
今も未来も、
春樹と紗月は “やり直し”ではなく “続き”を生きている。
物語は終わりではなく、
いつまでも続く現在――その中に。




