この瞬間を、永遠に
クロノの時計が再び時を刻み始めてから、数週間が過ぎた。
店内の空気はすっかり変わった。
深い沈黙は消え、代わりに温かな日常が流れている。
クロエはいつものようにカウンターで豆を挽き、
窓の外の光が静かに差し込んでいた。
そして、クロノブレンドの粉が入っていた棚は――
もう空だった。
魔法は終わったのだ。
けれど、店は消えない。
ただのカフェとして、静かに息をしている。
それで十分だった。
⸻
春樹と紗月は、毎日のようにクロノで待ち合わせをするようになった。
最初はぎこちなく座っていた距離も、
今では自然に隣に座るようになった。
紗月はスケッチブックを開き、
春樹はコーヒーを飲みながら、その横顔を眺める。
「もう絵、見せてくれないの?」
「まだ秘密。
ちゃんと一枚、完成させたいの」
「期待してるよ」
春樹が言うと、紗月は頬を染めて笑った。
「プレッシャーかけないでね」
そんな何気ないやりとりが嬉しかった。
時間は流れる。
春樹も紗月も変わる。
未来は形を変えていく。
その全部が、幸せだった。
⸻
ある日、クロエがふたりのテーブルにコーヒーを運んできた。
「本日のおすすめ、サービスです」
「いいんですか?」
「いいんです。
あなたたちが店に来てくれるだけで、十分に嬉しいので」
紗月は笑って言う。
「クロエさん、相変わらず優しいですね」
「私は店主ですから。
あなたたちを見送るまでが役目です」
「見送る……?」
「ええ。
といっても、どこか遠くへ行くわけではありません。
おふたりの“心”が、ようやく安住できたという意味です」
春樹は深く頷いた。
「クロノがあったから、俺たちはここまで来れた」
「いいえ。
魔法が導いたのではありません。
あなたたちの選択が導いたのです。」
クロエの声は静かで、揺るぎなかった。
「どれほど時間が揺らいでも、
どれほど魂が離れても、
“会った瞬間に恋をする人”がいる。
それは魔法ではありません。
それは――意志と心の結びつきです」
紗月は春樹の指をそっと握った。
「……そうだね。選んできたんだね」
「選んだんだよ。何度でも」
⸻
ある午後。
「できた」
紗月はスケッチブックを閉じ、春樹に差し出した。
春樹がページを開く。
描かれていたのは――
クロノのカウンターに座る自分と紗月。
並んで笑っている。
窓の外は夕焼けで、
テーブルの上にはコーヒーとケーキ。
ただの一枚の絵なのに、春樹は胸が熱くなる。
「……綺麗だ」
「ありがとう」
春樹は指で絵を撫でる。
「これ、いつの景色?」
「今日。
でも“過去でも未来でもない時間”を描いたんだ」
「……?」
紗月は微笑む。
「“今”って、すごく短い時間だと思ってた。
でもね、春樹さんといると……“今”が長く続く気がするんだ」
春樹は静かに頷いた。
「それは、永遠とは違う?」
「違う。
止まっているんじゃなくて、ゆっくり進んでいるの。
呼吸をするように、時間が流れていくの」
紗月は指で春樹の手を包む。
「それが……私の“幸せの形”」
春樹は微笑んだ。
「俺もだ。
過去はもう必要ない。
未来も、焦らなくていい。
ただ“今”を一緒に過ごしたい」
夜、ふたりは窓際の席に並んで座り、
コーヒーをゆっくり飲んでいた。
外の街は、それぞれの時間を生きている。
どこかで笑い声がして、遠くで車の音がして、
人々は未来に向かって歩いている。
春樹は紗月に囁く。
「紗月」
「うん?」
「君を見つけてよかった」
紗月は微笑み、春樹の肩に頭を預ける。
「うん。私も。
あなたを見つけてよかった」
そして、紗月は静かに言った。
「私はもう、時の狭間に迷わない。
どんな人生になっても、どんな未来になっても……
ずっと今を生きていく」
「俺も。
君となら、どんな明日でも大丈夫だ」
クロエがカウンターから優しく声をかける。
「おめでとうございます。
恋は“やり直し”ではなく、
“続き”を生きる力です」
春樹と紗月は顔を見合わせ、優しく笑った。
時間は止まらない。
未来は変わっていく。
幸せも、涙も、出会いも、別れも――全部流れていく。
でもそれこそが、恋の物語。
紗月は春樹の手に自分の手を重ねる。
「これからも、一緒に“今”を更新していこうね」
「ああ。
永遠じゃなくて、“ずっと続く現在”を。」
窓の外、街の灯りが柔らかく滲んだ。
そして――
「今」を抱きしめるふたりの時間が、静かに流れていった。
過去でも未来でもなく、
“ここにある一瞬”を愛し続ける。
それが、ふたりの恋の物語。




