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紗月と春樹が“同じ時間”を歩み始めてから、数日が経った。
ある夜、春樹がクロノの扉を開けた瞬間――
胸の奥がざわりと揺れた。
店内の空気が、いつもと違う。
静寂。
深い呼吸のような気配。
そして――どこか“終わり”に似た空気。
「……クロエさん?」
「こんばんは、春樹さん。紗月さんも」
クロエはいつもの場所に立っていたが、微笑み方がわずかに違っていた。
それはまるで、別れを含んだ優しさのようだった。
紗月が不安そうに尋ねる。
「クロエさん……お店、なんだか静かすぎませんか?」
「ええ。今日は“特別な日”ですから」
「特別な……?」
クロエはカウンター奥の棚に手を伸ばし、
ひとつの小さな瓶――最後のクロノブレンドの粉を取り出した。
その瞬間、春樹と紗月は同時に息を呑む。
「……それ」
「最後の一杯に使うはずだった粉です。
春樹さんがそれを選ばなかったから……残っています」
クロエは静かに瓶を見つめる。
「けれど……もう役目を終えようとしています」
「役目……?」
「クロノという店は、“未練を抱えた旅人”を導くための場所。
あなたたちが未来へ進む決意をした時点で、
この店は、本来の存在理由を失い始めるのです」
紗月は驚き、春樹の袖を握った。
「じゃあ……クロノは、なくなっちゃうの?」
「消えるわけではありません。
ただ、“普通のカフェ”に戻るだけ」
その言葉に、春樹は深く胸を打たれる。
(クロノは……俺と紗月の“再会の場所”だった)
魔法のカフェ。
過去に戻れるコーヒー。
違う人生の紗月と何度も出会った場所。
だが――
(戻らないと決めた以上、俺たちにはもう必要ない)
紗月は唇を噛んだ。
「……でも、なんだか寂しい」
「寂しさは、“未来に向かう準備”そのものですよ」
クロエは優しく微笑んだ。
そのときだった。
カウンター上の古時計が、
コチ、コチ……と刻んでいた針を突然止めた。
店内の空気がふっと波打つ。
風もないのにランプの炎が揺れた。
「な、なに……?」
紗月が春樹の腕にしがみつく。
クロエは落ち着いたまま説明した。
「クロノという店は、あなたたちの“時間の乱れ”に反応する場所。
あなたたちの魂がようやく同じ線に揃った今、
歪んでいた時間を元に戻そうとしているのです」
「元に……?」
「ええ。“普通の時間”へ。
過去へ戻る道も、未来を覗く道も……閉じる準備を始めました」
それはつまり、“魔法の終わり”。
紗月は春樹の手を握りしめた。
「……怖い。
魔法がなくなったら……私たち、本当に大丈夫?」
春樹はそっと彼女の髪を撫でる。
「大丈夫。
魔法がなくても、俺たちは出会えたんだ。
もう離れたりしないよ」
紗月は涙ぐみながら頷いた。
そのとき――
ふっと視界の端を光がよぎった。
春樹が振り返ると、
紗月が“二重”に見えた。
ひとりは今の紗月。
もうひとりは――学生時代の紗月。
「え……っ!?」
紗月自身も驚き、春樹の腕を掴む。
クロエは落ち着いて説明した。
「大丈夫。これは“時間の揺れ”。
これまで存在した紗月さんの時間が、最後に揃おうとしているのです」
「揃う……?」
「あなたが生きた“全ての人生”が、一つの線に収束する。
その過程で、かつてのあなたの姿が混じって見えるだけ」
春樹は息を呑んだ。
(つまり……
紗月はようやく“紗月としての人生”を歩み始めるってことか)
紗月は胸に手を当て、不安げに言う。
「これって……痛くはないのかな」
「痛みはありません。ただ――」
クロエはすこし寂しそうに微笑む。
「運命が、もう一度あなたたちを試すかもしれません」
「試す……?」
春樹が問い返すと、クロエは静かに頷いた。
「ふたりが“本当に未来へ進む覚悟があるか”。
最後に、その想いが確かかどうか――
時間が問いかけてくるでしょう」
紗月は春樹の手をぎゅっと握った。
「私……答えられるよ。
どんな試練が来ても、春樹さんとなら……大丈夫」
春樹も紗月の手を握り返した。
「俺も。
未来へ行くって決めたんだ。
もう逃げたりしない」
二人の“決意”が、静かに空気を震わせた。
しかし次の瞬間――
クロエは最後の言葉を静かに落とした。
「ふたりが選ばなければいけない最後の道は――
未来へ行くか、“今”に留まるか。」
その言葉は、
静かな夜に落ちる雷のように響いた。




