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紗月が“ひとつの時間の中”で生まれ直してから数日。
春樹は、毎日のようにクロノへ通っていた。
不思議なことに、彼女は必ずと言っていいほど姿を現す。
まるでコーヒーに導かれるように、自然と店の扉を開いてしまうらしい。
紗月自身も首をかしげていた。
「なんでだろう。コーヒーがそんなに好きだったわけじゃないのに……気づいたらここに来ちゃうの」
「来るたび、落ち着くんだろうね」
「うん。それもあるけど……」
紗月は春樹の横を見る。
「……あなたがいる気がするから?」
そう言って照れくさそうに笑った。
――胸が跳ねた。
(やっぱり。魂は覚えているんだ)
記憶がなくても、時間が変わっても。
彼女はまた春樹に惹かれている。
その事実が、愛おしくて仕方がなかった。
⸻
この世界の紗月は、絵を描くのが趣味らしく、スケッチブックをよく開いていた。
「この前のケーキ、描いてみたの。見てくれる?」
差し出されたページには、
ふわふわで、柔らかく甘い雰囲気のチーズケーキが描かれていた。
そこには――
あの日の笑顔も、熱も、息遣いも残っているようだった。
「……すごく、綺麗だ」
「ほんと?よかった……。
なんかね、絵を描くと、“見たことない記憶”が浮かぶの」
「記憶……?」
「うん。“描いたことある気がする景色”とか……
“誰かに見せたくて描いたスケッチ”とか……」
紗月は胸元を押さえる。
「その誰かの顔は思い出せないのに、
胸の奥が……すごくあったかくなるの」
それは――紗月の魂が思い出している証だった。
(言うべきか……?
でも、全部話したら彼女の今の時間は重くなるかもしれない)
春樹が迷っていると、クロエがそっと口を挟んだ。
「無理に全部思い出す必要はないわ。
魂が覚えているなら、それで十分よ」
「……クロエさん?」
「大切なのは、思い出すことじゃなく――
これから作る未来よ」
紗月はその言葉に小さく頷いた。
「うん。私も……そう思う。
“今”が一番大切だって」
その笑顔は、前世の苦しさを超えて、今の時間を生きようとする強さに満ちていた。
⸻
その夜、春樹はふと窓の外を見る。
紗月がスケッチブックを閉じて笑っている。
そんな何気ない光景なのに――胸がひどくざわついた。
強烈な既視感。
心臓が熱くなる。
(なんだ……これ……?)
視界の端で光が揺らめき、遠い記憶のような景色が重なる。
――古い石畳。
――満月の夜。
――白い服の紗月。
――「待ってる」と言った自分。
胸が熱く脈打ち、息が詰まる。
「春樹さん?」
紗月の声が現実に引き戻した。
「大丈夫?顔が真っ青……!」
「あ……いや、ちょっと、変な感じがして……」
紗月が心配そうに近付く。
その動きがまた別の記憶を呼び起こしそうで、胸が震えた。
(これは……前の人生の記憶?)
紗月の魂が思い出したのなら、
春樹の魂が思い出すのも当然だ。
だが――
それは“幸福な記憶”だけではなかった。
背中にまとわりつくような、重い痛み。
別れの瞬間。
守れなかった想い。
春樹の表情に影が落ちる。
紗月はそっと春樹の手を取る。
「言いたくないなら、無理しなくていい。
でも……怖いなら言って。
私は、一緒にいるから」
その言葉は、過去にはなかった“救い”だった。
(紗月……強くなったな……)
春樹はかすかに微笑んだ。
「大丈夫。君がいるから」
その瞬間――胸の痛みは温かなものに変わっていった。
⸻
閉店間近、紗月が帰ったあと。
クロエは静かに春樹に言った。
「記憶が戻り始めましたね」
「……あの光景。全部、俺の……?」
「ええ。あなたが彼女を“追いかけ続けた魂”である証よ」
クロエの表情はどこか寂しげだった。
「ただの偶然じゃない。
あなたと彼女は――“時を越えてしまった恋人”なの」
「時を越えて……」
「そう。何度生まれ変わっても、互いに惹かれる。
それは、運命が用意した奇跡でもあり……呪いでもある」
「呪い……?」
「ええ。だって、ふたりは“必ず別れを経験する宿命”でもあるから」
春樹の胸が冷たくなる。
「別れ……?」
「この世界では、ね。
でも――今回は違う。
あなたは“戻らない”選択をした」
クロエの声に、やわらかな光が宿る。
「だからこそ、未来が変わる。
ふたりはようやく、同じ時間で恋を始められるのよ」
春樹は静かに目を閉じた。
(同じ時間を……一緒に生きられる)
そう思っただけで、胸が熱くなる。
⸻
次の日。
紗月は店に入るなり、まっすぐ春樹のもとへ歩いてきた。
「春樹さん。今日ね……夢を見たの」
「どんな?」
「あなたが、私の名前を呼ぶ夢」
紗月は胸に手を当てる。
「名前は言ってくれなかったのに……
呼ばれた瞬間、胸が痛くなるほど嬉しかった」
春樹は息を呑む。
(間違いない。魂の記憶が……完全に戻り始めている)
紗月は照れながら笑った。
「変だよね。理由はわからないのに……
私ね、あなたのことが好きなんだと思う。
会うたび、どんどん好きになっていくの」
それは、前世でも言えなかった“本当の言葉”。
胸が熱くなり、涙がにじみそうになる。
「……俺もだ。何度でも恋に落ちるよ。君に。」
紗月は照れながら笑い、そして――
春樹の肩にそっと頭を預けた。
「また明日も会える?」
「もちろん。明日も、明後日も、その先も」
紗月は安心したように微笑む。
「よかった……。
やっと“同じ時間”にいられるんだね」
その言葉は、春樹の魂を深く包み込んだ。




