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春樹の指先は、最後のクロノブレンドに触れる直前で止まっていた。
店内に集まった“違う時間の紗月たち”は、
誰一人として声を発しない――ただ、祈るように見つめていた。
少女の紗月は泣きじゃくりながら、
学生の紗月は震える手で胸を押さえながら、
大人の紗月は唇を噛み、
老いた紗月は静かに涙をこぼした。
どの人生でも、どの時間でも、
彼女は春樹を愛していた。
その事実が春樹の胸に、鋭く、深く突き刺さる。
クロエの声が静かに落ちる。
「戻るなら、ここで全てが終わる。
進むなら――未来に繋がる」
「……未来」
「ええ。“今からふたりが選ぶ未来”です」
春樹は拳をぎゅっと握った。
(俺は……何を望んでいた?)
過去をやり直すために飲んだコーヒー。
間違えないため、後悔しないため。
怖かったから、逃げていたから。
でも――
紗月はもう逃げていない。
どの時間でも、どの人生でも、春樹に向き合ってくれていた。
少女の紗月が泣きながら叫ぶ。
「やり直しなんていらないよ……!
“つづき”を、いっしょに生きたいよ……!」
学生の紗月が涙を袖で拭いながら続ける。
「昨日の私にも、今日の私にも……
いまの春樹さんが必要なの……!」
大人の紗月は震える声で。
「もう……あんな別れ方、いや。
伝えたい言葉が、たくさんあるの……!」
老いた紗月は穏やかに微笑んだ。
「あなたとなら……未来が見たい。
最後に、そう思えたのです。」
春樹の喉が熱くなる。
(――答えはもう出てる)
春樹はゆっくりとカップから手を離した。
「……俺は、飲まない。」
店内が静寂に包まれる。
「過去には戻らない。
君と“未来”を生きる。
足りなかった言葉も、伝えられなかった想いも……
これから全部、伝えていく」
その言葉を聞いた瞬間、
全ての紗月が泣きながら笑った。
クロエは静かに微笑んだ。
「いい答えです。
これでようやく……あなたたちは“同じ時間”に立てる」
次の瞬間。
クロノの店内に、柔らかい光が満ちた。
風が逆巻き、時間がほぐれ、世界が溶ける。
紗月たちの姿が一人、また一人と光の粒となって消えていく。
「さよならじゃないよね……?」
少女の紗月が泣きながら手を振る。
「ええ。また会えるわ。
……一つの時間で、ひとつの“私”として」
老いた紗月の声が、静かに溶けていく。
学生の紗月は春樹に微笑んだ。
「待っててくれて……ありがとう」
最後に残った大人の紗月が、そっと春樹の胸に触れた。
「次に会うときは……同じ年の“私”になってるから」
そして光が弾けた。
眩しい閃光の中で、春樹は目を閉じる。
聞こえたのは、懐かしくて新しい声。
――「約束ね、春樹さん。」
光が収束し、静寂が戻る。
気がつくと、店には春樹とクロエしか残っていなかった。
紗月の姿はなく。
カップもなく。
ただ、温かな光の余韻だけが残っている。
春樹は胸に手を当てる。
「……彼女は?」
クロエは、どこか誇らしげに微笑んだ。
「今、ひとつの人生として“生まれ直している”わ。
もう時間は混じらない。
あなたと同じ世界、同じ瞬間で生きるために」
「会える……?」
「もちろん。
ただし、彼女が気づくまで待つこと。
今度はやり直しではなく、“出会い直し”になるのだから」
春樹の胸にじんわりと熱が広がった。
(大丈夫だ。どれだけ時間がかかっても――)
「何度でも、恋に落ちるさ」
クロエは満足そうに頷いた。
「ええ。恋は必ず“続き”があるから。」
その瞬間、扉のベルが――静かに、柔らかく鳴った。
春樹とクロエが振り返る。
そこには――
ひとりの女性が立っていた。
ふわりと肩までの髪。
やわらかな瞳。
息を呑むほど自然で、
なのに胸が焼けるほど懐かしい笑顔。
「ここ……初めてのお店なんですけど。
コーヒー、飲めますか?」
紗月だった。
ただの“ひとりの紗月”。
どの時代とも違う――春樹と同じ時間を生きる紗月。
春樹はゆっくりと――微笑んだ。
「ようこそ。
出会ってくれて、ありがとう。」
紗月は少し照れて笑う。
「え……?なんでお礼なんて……」
「なんとなく。
こうして会えたことが、すごく嬉しくて」
紗月は胸に手を当て、不思議そうに言う。
「変なの。初めてなのに……落ち着く。
あなたに会ったの、今日が初めてなのに」
「うん。……初めてだよ」
言いながら春樹は思った。
(これは“初めて”で、“続き”なんだ)
長い時を越え、ようやく並び合えたふたりの第一歩。
クロエの声が柔らかく響く。
「おめでとうございます。
ようやく同じ時間が始まりましたね。」
紗月は照れたように笑って言う。
「えっと……隣、座っていいですか?」
「もちろん。」
二人の席に、新しい時間が流れ始めた。
「恋は終わらない。“続き”が始まるだけ。」




