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その夜から、春樹と紗月の間には言葉にできない確かな“絆”が生まれていた。
会えば安心し、触れれば未来が形を持って動き出す。
過去の記憶を完全には分かち合えなくても、心は同じ方向を向いていた。
だが――その温かさが深まるほど、
クロノに漂う空気には、少しずつ緊張が混ざり始めていた。
春樹が店に入ると、クロエが珍しくカウンターから動かず、静かにこちらを見つめていた。
「春樹さん」
「……何かありました?」
クロエはふわりと微笑んだが、その笑みはいつもの柔らかいものではなかった。
「座ってください。伝えなくてはいけないことがあります」
春樹の心臓が強く鳴る。
予感があった。
わかっていた。
この恋はいつか試される。
紗月はすでに窓際で待っていた。
今日の彼女は昨日と同じ大人の姿。だがその瞳は……静かに覚悟を滲ませていた。
「……聞くね、クロエさん。私も」
「ええ。あなたにも関係することだから」
クロエは二人の前にひとつのカップを置いた。
白い陶器。
緩やかなカーブ。
いつもと同じ――のはずなのに、どこか重い存在感を持っていた。
「これは……最後のクロノブレンドです。」
空気が止まった。
春樹は息を詰める。
「最後……?」
「ええ。春樹さんが使える“時間”は、もうほとんど残っていません」
クロエは淡々と、けれど優しく説明する。
「あなたがこのコーヒーを飲むたびに削ってきたのは、
“未来の可能性”。
それはもう、限界に近い」
心臓が冷たくなる。
(……そんなに使ったのか)
たかが5分。
されど5分。
恋のために、後悔を消すために。
春樹は何度も“巻き戻す”選択をしてきた。
「最後の一杯を飲めば、もう戻ることはできません」
クロエは続ける。
「飲まずにいれば……春樹さんの時間は普通に流れ、未来へ繋がる。
飲めば――最後の5分に戻れますが……」
言葉が区切られ、沈黙が落ちた。
「――あなたの“時間”はそこで止まります。」
春樹の呼吸が一瞬止まる。
「時間が止まる……?」
「ええ。世界は動き続けても、あなたは“その瞬間”に固定されるの。
ただし……恋が叶わない形で」
クロエの瞳は悲しみを含んでいた。
「止まった時間に恋は実らない。
進むからこそ触れられ、形になる。
だから……これは代償です」
春樹は唇を噛む。
(選ばなきゃいけないのか――)
最後の1杯。
戻るためか、進むためか。
すると隣で、紗月がそっと春樹の袖を掴んだ。
「ねえ……春樹さん」
「……うん」
彼女の瞳は、まっすぐで、揺れていて、でも逃げなかった。
「飲まないで。
“やり直す恋”じゃなく、続きの恋がしたい。」
その言葉は優しく、切なく、とても強かった。
「私はもう逃げない。
だから……あなたも逃げないで」
春樹は息を吸い、拳を握る。
けれど――その瞬間。
店の扉が突然開いた。
強い風が吹き込み、ベルが乱暴に鳴る。
そこに立っていたのは――
別の時代の紗月。
学生姿。
息を切らし、涙を流していた。
「だめ……!飲んじゃだめ……!」
次の瞬間。
背後からもうひとり。
幼い少女の紗月。
「まって……まって……っ!そのコーヒー飲んだら……消えちゃう……!」
そして――
最後にゆっくりと入ってきたのは。
白髪の老いた紗月。
杖をつきながら、それでもまっすぐ春樹を見た。
「……お願い。未来へ行きなさい。
私たち全員の願いを――叶えて」
声は震え、涙を浮かべながら。
「“私”は、あなたと生きたかったんです。」
春樹の胸に、熱いものが込み上げた。
(……ああ)
理解した。
これは試練じゃない。
“選ばせるための道”だったんだ。
クロエがそっと言う。
「答えを。
――春樹さん。」
春樹は最後のカップを見つめる。
過去へ戻るための道。
それとも――
紗月と未来へ進む道。
そして、春樹はゆっくりと――手を伸ばした。




