クロノに吹く風
街の喧騒が遠ざかるにつれ、夜の空気はしんと静まり返っていった。
春樹は、仕事帰りの重たい足取りのまま、ふと横道に逸れていた。理由は自分でもわからない。ただ、胸の奥にざらりとした後悔の感触が広がって、そのまま真っすぐ帰る気になれなかっただけだ。
――あの時、あんな言い方をしなければよかった。
上司への返し方、会議での判断、同僚への気遣い。
小さな“やらかし”が積み重なって、心が少しだけ疲れていた。
そんな時だった。
路地の先に、見知らぬ看板が柔らかな灯りを漏らしていることに気づいたのは。
《Cafe Chrono》
レンガの壁に古びた木の看板、アンティークなランプ。
見たことがない店なのに、どこか懐かしい佇まいだった。
春樹は、胸の奥をそっと指先でつつかれたような感覚を覚えた。
――寄ってみても、いいか。
ドアを押した瞬間、カラン、と小さなベルが鳴った。
それと同時に、濃く深いコーヒーの香りがふわりと流れてきた。
「いらっしゃいませ」
静かで、耳に心地よい声だった。
カウンターの向こうで、栗色の髪をふわりと結んだ女性が微笑んでいる。
クロエ――そう名乗った店主は、年齢がわからない不思議な雰囲気を纏っていた。
優しいようで、どこか寂しげで、それでも包み込むような柔らかい笑み。
「初めてのお客様ですね。今日は、どんな気分で?」
春樹は少し驚きながらも、言葉をにごした。
「仕事で、まあ……ちょっとした後悔がありまして」
「後悔の種類にもよりますが……」
クロエは穏やかに目を細める。
「“少しだけ”やり直したいなら、うちのコーヒーがおすすめですよ」
「やり直す……?」
「ええ。“数分だけ過去に戻れる”って噂のコーヒーですから」
冗談めかして笑っているのに、声には妙な説得力があった。
春樹は思わず吹き出した。
「そんな魔法みたいな……」
「魔法なんて、案外どこにでもあるものですよ」
そう言うとクロエは、蒸気の立ち上るカップをそっと差し出した。
「特製クロノブレンド。今夜は、よく効くと思います」
冗談半分で、春樹はカップを口に運んだ。
深い苦味の奥にほんのわずかな甘さが混ざり、飲んだ瞬間、胸の奥がすっと軽くなる。
――同時に、視界が揺らいだ。
「え……?」
店内の時計の針が逆回転し、音も光も、フィルムを巻き戻すように後ろへ流れていく。
春樹の心臓が跳ねた。
次に目を開けたとき、彼は確かに“さっきの5分前”に立っていた。
まだ店に入る前の路地。
仕事の後悔で溜息をついた、あの瞬間。
「……戻ってる?」
自分の声が震えていた。
――本当に戻ったのか?
――いや、そんなはず……。
再び店の前に立つと、見覚えの記憶が胸を刺した。
恐る恐る扉を開ける。
「いらっしゃいませ、春樹さん」
クロエは、まるで全部知っているように微笑んだ。
「……戻れた、んですか?」
「ええ。おめでとうございます。“最初の一杯”は成功です」
春樹は言葉を失って立ち尽くした。
混乱と興奮の中、ふと窓際に視線を向けると、そこに――
一人の女性が静かにコーヒーを飲んでいた。
光の粒が、彼女の横顔に落ちる。
その横顔を見た瞬間、春樹は胸の奥をきゅっと掴まれた。
紗月。
その名前はまだ知らない。
けれど“会ったことがある”ような、懐かしくてあたたかい感覚だけが、はっきりとあった。
彼女がゆっくり振り返る。
柔らかな笑み。
どこか寂しげな瞳。
そして、初対面なのに“再会”のような胸の鼓動。
――この瞬間から、春樹の時間は動き始めた。




