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ハッチ

作者: 音渕 実沙

 海へと続く坂道沿いに建つその空き家は、ふらりと町へ現れた白黒色の猫には、理想的な住処に見えました。

 雨や風は軒下で避けられるし、庭の桜の幹は爪を研ぐのにちょうどいい硬さだし、石燈篭の中はひんやりしていて、お昼寝するのにちょうどよさそうです。

 庭は板塀で囲まれているので、通行人や散歩途中の犬に煩わされることもなく、もちろん自動車も入ってきません。この理想的な住処を、猫はとても気に入りました。


 半年ほど経ったある日、家の前に大きなトラックがやって来て、沢山の段ボール箱と少しの家具、そして人間ひとりと犬一匹を置いて、行ってしまいました。

 引っ越しトラックが到着したのは、ちょうど猫が縄張りをパトロールに出かけていた時だったので、帰ってきた猫は、いつも静かな家の周りが騒がしく、人やモノでいっぱいだったのに驚いてしまいました。

 驚きはしたものの、自分の縄張りで起こっていることにはやっぱり気になります。

 猫は道路向かいのバス停横にあるベンチの下に潜り込んで、何が起こっているのかを把握しようと、人や犬の動きを目で追っていました。

 海水浴シーズンが過ぎて、利用客がめっきり減ったバス停のベンチの下は、まだ暑い太陽の光を遮ることができ、また海から吹くいつもより少し強い風が気持ちよくて、様子をうかがっていた猫は、いつのまにか居眠ってしまっていました。

 どのくらい眠っていたでしょうか。猫は不思議な感触で目を覚ましました。

 それは言葉にするなら、こんな感じでしょうか。

 うとうと…ふわふわ…なめなめ…なめなめ?

 「びっくーーん!」猫は一気に覚醒しました。

 目の前には、今日やって来た茶色い犬が、大きな尻尾を振って猫を見つめています。

 猫が目を覚ましたのが分かると、犬はうれしそうにわんわんと吠え、再び猫の顔をペロペロと舐めだしました。

 猫には犬が言っている言葉がひとつも分かりませんでしたが、どうやら悪い犬ではなさそうです。でもだからと言って、怖くないというわけではありません。

 今は猫の顔や体を舐めている大きな口から見える歯は尖っていて、その気になれば小さな猫の体など嚙み砕けそうですし、力強そうな足で踏まれたら、とっても痛そうです。

 本来毛繕いは、気持ちがよくてリラックスできるものなのですが、今の猫は緊張と心配から、カチコチに固まったようになってしまいました。


 『ナナーー、どこだーーい?』

 その時、家の方から声が聞こえました。もちろん猫には意味は分かりません。ただの音、人の声が聞こえたな、と思っただけでした。

 犬は一旦声の方を向き、そしてまた猫に向き直って「わおん」と鳴くと、声の方へ走って行きました。

 『にゃんだか分からないけど、助かった…』猫は思いました。

 ですが、今度は自分の住処のことが気になりだしました。気にはなる…でも、人間と犬がいる…すごく気になっている…でも会いたくない…でもでも、やっぱり気になる!

 猫は犬に続いて、家に向かって小走りしました。

 いつものように板塀の割れ目から庭に入り、辺りをうかがうと、ずっと閉まっていた庭に面した掃き出し窓の雨戸が開いています。

何か見えないかと、猫はガラス越しに覗いてみましたが、部屋には本棚と積まれた段ボール箱があるだけで、誰もいませんでした。

 『ひょっとしたら、人も犬もこの家にちょっと寄っただけで、ずっといるわけじゃないのかもしれない…』

 そんな猫の甘い希望はすぐに打ち砕かれてしまいました。

 奥の襖が突然開いて、部屋に入ってきたひとりと一匹と、ばっちり目が合ってしまったのです。

 「びっくーーん!」

 本日二度目のびっくりです。猫は毛が逆立つほど驚きました。

 人間…眼鏡をかけた、白いシャツとジーンズを履いた男の人が、にこにこしながら猫に向かってやってきました。

 『近い、近い!近い!!』

 緊急事態発生とばかりに、猫は大急ぎで、庭の桜の木に登って避難しました。

 男の人は縁側から猫を驚かさないように、出来るだけやさしい声で話しかけました。

 「ごめん、ごめん。驚かせちゃったね。君のことは大家さんから聞いてるよ。このままここに住んでくれて構わないからね」

 やさしい人間のようですが、油断は出来ません。

 猫は木の上から用心深く男の人を見つめるだけで、挨拶に降りてくる気配もありません。男の人はそれでも構わず続けました。

 「僕は久和。きゅうって覚えて。それでこっちがナナ」

 彼は茶色い犬の頭に軽く手を乗せました。犬はくりくりした目で猫を見ています。

 大きな尻尾がゆらゆら揺れて、猫はそれを見ていると、なんだかムズムズした気分になりました。

 『なんだ?何を言っているのにゃ?こっちを見て喋っているから、僕に向かって話てるのかにゃ??』

 人も犬も猫に敵意は無さそうですが、何を言っているのか猫にはちんぷんかんぷんだったので、用心するに越したことはないと思いました。

 「そうだ、ちょっと待ってて」

 きゅうさんは縁側からさっき出てきた襖の向こうへ引っ込んだかと思うと、青い少し深めのお皿と、大きなビニール袋を持って、すぐに戻ってきました。

 「仲良くなるには、先ずは胃袋を掴むことが大事だよね。さあどうぞ」

 そう言って袋から中身を白いスコップですくって、お皿にカラカラと移し入れて、桜の木の下に置きました。風に乗ってとてもいい匂いがします。

 『あれは!』

 猫はそれが何か知っていました。

 海水浴に来た人間がくれたことがある、カリカリとした食感が楽しい、とても美味しいアレです。

 『ごっくん…』

 猫は唾を飲み込みました。今日は朝ごはんを食べただけで、今はもうすぐ夕方になろうかという時間でした。

 「ナナのはこっち」

 やはり少し深い赤いお皿に、猫のカリカリよりもう少し大きい粒のものを入れて、縁側のすぐ前に置くと、ナナはさっそくそれを美味しそうに食べ始めました。

 きゅるるるる…。猫のお腹が小さく鳴りました。

 けれども、木から下りる決心はつきません。

 迷っている間に、ナナはお皿の中身をすっかりたいらげていました。

 「じゃあ、僕たちはあっちに行ってるから、後で下りておいで」

 そう言ってきゅうさんとナナは、桜の木の下にお皿を置いたまま行ってしまいました。

 猫と青いお皿とお皿に入ったカリカリだけが、お庭に残されました。

 キョロキョロと見渡して、辺りに誰もいないことを確認すると、猫は木からスルスルと下り来て、お皿を覗き込みました。やはり以前食べたことがあるカリカリです。

 なんていい匂いなんでしょう。猫はヨダレが垂れそうになりました。

 カリ…。こわごわ、ひとくち食べてみました。なんて楽しい食感なのでしょう!

 カリカリ…。もうひとくち食べてみました。そしてなんて美味しいのでしょう!

 猫は夢中になって食べ続け、気が付くとお皿の中はもう空っぽになっていました。

 『…こほん』

 猫はひとつ咳払いをして、今日あったことを思い返しました。そして、あの人間と犬はいつまでここにいるのだろう。自分の平和な日々はまた取り戻せるのだろうか、とも。

 でもカリカリは美味しかったし、また食べてもいいにゃ…。とも、ほんの少し、ちらっとだけ思いました。

 今日は色んなことがあり過ぎたのと、お腹がいっぱいになったことも手伝って、猫は桜の木の下でうとうとしだしました。

 「ナナ、僕らはいい家族になれると思うかい?」

 返事の代わりに、ナナはきゅうさんの顔をペロリと舐めました。

 「さあ、明日から忙しくなるぞ」

 丸くなって眠っている猫を二階の窓から眺めながら、きゅうさんとナナがそんな話をしていたことを、猫は知る由もありませんでした。

 翌朝、庭の夏草の間で目覚めた猫は、大きく伸びをして、いつもの通り食べ物を探しに出かけようとして…昨日あったこと思い出しました。そうだ、昨日から人間ひとりと犬一匹が増えたんだったけ。

 ぼんやりした頭でそう考えていると、ザリザリとゴム草履が庭の土と夏草を踏む音が聞こえました。

 「おはよう。昨夜はよく眠れたかい?」

 猫は慌てて、桜の木に登りました

 『またアイツだ!』

 「そうだよなぁ。一日で馴れるわけないよなぁ。分かってたつもりなんだけど、少しせっかちだったかな」

 きゅうさんは、少し残念そうに言いました。猫はきゅうさんの言葉は分かりませんでしたが、特に何かに、自分に怒っているわけではないというのは分かりました。

 「気長にいくしかないのかな。あ、これ朝ごはんね」

 そう言って、昨夜と同じカリカリが入った青いお皿を、やはり昨日と同じように桜の木の下に置きました。

 「今日も人の出入りが沢山あるけれど、驚いてどこかへ行っちゃわないようにね」

 猫はきゅうさんの姿が見えなくなってから木から下りてきました。

 人も犬も、自分に意地悪をしたわけではありませんし、しそうな雰囲気もありません。むしろ美味しいカリカリを二回もくれました。でも、それだけで彼らを信用することは出来ません。

 『まだ分からないぞ。僕を油断させているのかもしれないしにゃ』

 猫はこれまでの暮らしで、用心深くなっていました。だから、今まで生き残れたのかもしれません。

 朝食が終わったら、毛繕いの時間です。 猫は、朝の毛繕いをしながら、その日の大まかなスケジュールを決めたり、考え事をするのが日課になっていました。

 今日は、ご近所の猫への挨拶と情報収集、そしてパトロールかにゃ…。

 そんなことを考えていると、表通りにトラックが停まる音が聞こえました。

 『今日はなんだろう。また人が増えるのかにゃ?』

 折角見つけた静かで安全なこの庭と家に、これ以上人や犬が増えたら居心地が悪くなって、またどこか落ち着く場所を探しに行かなくてはならないかもしれない…猫は不安になりました。

  そんな猫の気持ちを知ってか知らずか、家の建物を挟んで、庭と反対にあるバス通りの方が騒がしくなりました。

 大きな音は大嫌いでしたが、自分の縄張りで何が起こっているのか確かめずにはいられません。猫は毛繕いもそこそこに、昨日と同じバス停のベンチの下から偵察することにしました。

 昨日はナナに見つかってしまいましたが、海水浴客を見なくなってからひと月くらい経つので、木製のところどころペンキが剥げた白いベンチの近くに人はおらず、またそこを注視している人もいませんでした。

 『よし、ここならよく見えるぞ』

 確かにベンチの下からは、家の様子がよく見えましたが、家の中からもベンチの下にいる猫のことがよく見えました。猫は気付いていないみたいでしたが。


 猫がベンチの下に陣取ると、ちょうどトラックが走り去るところでした。

 ひとりと一匹が来るまで、ずっと閉まっていたバス停正面のシャッターが今日も開いていて、今日運ばれてきた、新しい段ボールが見えました。

 『あの箱の山のてっぺんに登ったら、きっと遠くまで見渡せていい気分なんだろうにゃ』

 でも残念なことに、段ボール箱はきゅうさんの手で次々と開けられ、中から色々な大きさの四角いものが出てきました。あれば確か「本」というものだと猫は思い出しました。

 まだ猫が小さくてお母さんや兄弟たちと一緒に暮らしていた頃、その家にいたやさしい手…猫たちをいつも撫でてくれた「やさしい手」の人間が教えてくれたものでした。

 あの頃は、人間の言葉も少しだけ分かったのに、迷子になってひとりぼっちになってからは、猫語以外は分からなくなっちゃったな。

 昨日だって、さっきだって、ひとことも分からなかった。

 昨夜のことを思い出して、猫はなんだか鼻の奥がつんとしたような、変な感覚がしましたが、なんでこんな気持ちになるのかは分かりませんでした。

 『それにしてもずいぶん沢山あるんだにゃ…』

 猫はきゅうさんが段ボールから本を出すのを、しばらくおとなしく眺めていましたが、段々と退屈になってきました。

 『そうだ、今日はまだご近所への挨拶も、パトロールへも行っていない』

 そう思い出した猫は、急にそわそわしだしました。

 『ここが見飽きたからじゃないもん。つまらなさ過ぎて、眠くなるとかじゃないもん。パトロールに行かなきゃいけないだけだもん』

 ひとりブツブツ言い訳めいたことを言いながら、なだらかな坂を海の方へ歩いて行きました。

 歩き出してすぐに、豆腐屋のシロネコに会いました。シロネコはここいらの猫の間では、ちょっとした情報通として知られています。

 『アンタ、本屋のシロクロになるんだって?』

 ホンヤノシロクロ…?猫は、何のことかすぐには分かりませんでした。このシロネコはいつもこんな調子です。

 『ワタシも魚屋のサバトラも、いつまでもアンタがふらふらしてるから心配してたのよ。でも、これで安心ね』

 何が安心なものか。昨日からびっくりさせられることばっかりだったのに。彼女が情報通だなんて、一体だれが言い出したのか。全くもって分かっていない…と猫は思いましたが、口には出しませんでした。思ったことをすぐに口に出さない…以前、薬屋の三毛猫に新しい土地で上手くやっていく心得だと教わったことがあったからです。

 そもそも、あの家に先に住んでいたのは自分なのだから、『本屋の猫』ではなく『猫の家の本屋』なんじゃないかと、言い返したいくらいでした。

 でもちょっと…ほんのちょっとだけ『本屋の猫』という響きに魅力を感じました。自分の居場所が出来たみたいで、ちょっとうれしい気持ちになったのです。

 ん?本屋??だからあんなに沢山本があったのか。猫は我に返りました。目の前にはまだシロネコが何か言いたげな顔をしています。

 『ワタシやサバトラはマスター…あ、マスターっていうのは、私たちが住んでいる家…豆腐屋や魚屋の主人のことなんだけど、自分のマスターが話す言葉だけは、不思議と分かるよね、他の人間が言うことは分からないのにね…っていつも言ってるんだけど、アナタもそうなの?本屋の人間が何を言ってるか分かる?犬はどう?』

 そう聞かれて、猫は心臓を冷たい手で触られたような、心がひやっと冷たくなるような感覚に襲われました。ゼンゼン、ワカラナイ…。人の言葉も犬の言葉も…。

 あのひとりと一匹は、お互いの言葉が分かるのだろうか。だからいつもあんなに笑顔で楽しそうなんだろうか。そんな考えが頭の中をぐるぐる回っています。

 『本屋の犬』がもういるから、きっと『本屋の猫』はいらないんだにゃ…。

 昔は「やさしい手」の人間の言葉は、分かっていたような気がするのですが、まだ赤ちゃんの頃だったので、喋っていたのが人間だったのか、お母さんだったのか、それとも兄弟だったのか、はっきり思い出せませんでした。

 何で分からなくなったんだろう。どうして自分はシロネコやサバトラと違って、ひとりぼっちにゃんだろう。

 そう思うと、猫の心はしゅるるる…と音を出して空気が抜けていく風船のように萎んでいくようでした。

 シロネコと別れた後、商店街をパトロールして、顔馴染みの猫に挨拶したり、海岸通りの松の下でお昼寝したりしましたが、いつまで経っても、もやもやした気分は晴れません。

そうしているうちに、商店街からアナウンスが聞こえてきました。もちろん、猫には何を言っているのか分かりませんでしたが、流れてくる曲は、いつも商店街のお店が店じまいをする時間に流れているものでした。

 『あれ?もうそんな時間なのかにゃ?いつもより早い気がするにゃ?』

 どのお店もシャッターを下ろし始めました。店のシャッターが閉まりだしたら、すぐに暗くなるので、猫は普段からそのくらいの時間には、住処の近くへ戻るようにしていました。

 猫はさっきとは反対に、今度は坂を上って家の前まで帰ってきました。

 本屋のシャッターはまだ開いています。

 壁際に本棚がいくつも設置され、朝きゅうさんが段ボールから取り出していた本が、全部ではありませんでしたが、そこに収まっていました。

 『ふーん。本当に本屋なんだ』猫はまだ準備中のお店に足を踏み入れてみました。

 店の中央には、段ボール箱も本も積まれていない机がぽつんとひとつ置かれており、猫はそこに飛び乗って周りをぐるりと見まわしてみました。いつもより目線が高くなった分、周りがよく見えて、なんだか少しいい気分がしました。

 その時、店の奥からきゅうさんとナナが顔を出したので、猫はすばやく机から下りて本箱の片隅に隠れるように身を固くしました。きゅうさんは特に驚いたり、怒ったりせず、猫に向かって、驚かさないようにやさしい口調でゆっくりと言いました。

 「おかえり。台風が来るらしいから、今日はここで過ごしたらどうだい?」

 やっぱりきゅうさんが何を言っているのか、猫にはさっぱり分かりません。

 きゅうさんは、カリカリが入った青いお皿と、お水が入ったそれより少し深い白い器のふたつを見せの三和土に置いて、一旦奥へ戻ったと思ったら、すぐに段ボール箱をふたつ持って現れました。

 ひとつ目の段ボールには、中に何枚かタオルを敷いて、カリカリの入ったお皿の横に置きました。ふたつ目はさっきの箱より少し浅く、内側をビニール袋で覆って、中には砂が入っていました。庭の土が少し混じっていることも、匂いで分かりました。

 「急だったから、簡易のものを作ってみたんだけど、気に入ってくれるかなぁ」

 きゅうさんは、ちょっと不安そうな表情をしていましたが、猫はもうカリカリが入っている青いお皿に目が釘付けになってしまいました。

 きゅうさんにカリカリを貰うのは3度目だったので、少し油断していたのかもしれません。青いお皿は、昨夜と今朝は庭の桜の下に置かれていましたが、今日は庭ではなく多分近い将来本屋になる場所…建物の中に置かれていました。

 きゅうさんとナナがいなくなって、ひとりになったら、本棚の後ろから出てカリカリを食べよう…猫はそう思っていました。

 きゅうさんはすぐに店の奥に引っ込んだのですが、何故かナナは近くで伏せの態勢のまま動きません。お腹が空いた猫は、だんだん腹が立ってきました。

 ナナにしてみれば、早く猫と仲良くなりたかったのと、猫が初めて建物の中で食事をするのは不安なんじゃないかという気遣いから、そこに留まっていたのですが、残念ながらナナの気遣いは1ミリも猫には伝わっていませんでした。

 「ナナ、こっちにおいで。ずっとそこで見てたら、その子がご飯食べにくいだろう?」

 きゅうさんに呼ばれたナナはちらりと猫を見ると、尻尾を振って声がする方へ歩いていきました。

 邪魔者はいなくなりました。ご飯の時間です。

 猫はすぐに青いに近づくと思われましたが、お昼間のシロネコの話を思い出して、何だか浮かない気分のままでした。ひとりと一匹が来てから、変な気分になってばかりだ。猫は思いました。

 『なんだい、なんだい。いつも僕には分からない言葉で、ふたりだけ話しして』

まるで八つ当たりです。お腹が空いていると、なんでも悪い方に考えてしまうのかもしれません。

 吹き込んでくる風が、強さを増し、湿気を帯びてきました。この様子では、夜は雨になりそうです。海岸近くの商店街で早仕舞いをするお店が多かったのは、そのせいかもしれません。

 きゅうさんは、まだ開店準備中の本屋のシャッターを下ろすことにしました。大切な売り物の本が、吹き込んだ風や雨で傷まないようにするのと、まだあまり人慣れしていない猫が、嵐の間もここで安心・安全に過ごせるようにするためです。

 仕舞い支度を始めたきゅうさんを見て、猫はきゅうさんとナナが自分をここに閉じ込めて、猫の縄張りの家と庭を乗っ取ろうとしているのではないかと思いました。

 さっき、犬が奥に呼ばれたのは、きっとその計画を練っていたに違いと思ったのです。なんて勘違いなのでしょう。でも、猫は必死です。

 『捕まるものか!閉じ込められるものか!』

 あと数センチでシャッターが閉まる、という瞬間に、猫は外へ飛び出したのでした。

 後ろできゅうさんが何かを言っているのが聞こえましたが、猫は振り向かずに必死に走りました。

 『なにが本屋の猫だ!犬がいるから、猫は、言葉の分からない猫なんてきっと要らないんだ!』

 猫はもう何に怒っているのか、何かを悲しんでいるのか、自分でも分からなくなってしまいました。

 走って走って走って…海岸までたどり着いた時、猫の額にぽつりと雨が落ちました。


 ざああああああ。雨は一気に本降りになりました。松の林も雨に曇って見えません。

 どのくらいそうしていたでしょうか。猫はどこへ行ったらいいか分からず、しばらく砂浜の中央に設置された見張り台の下で、身を固くして、ひとり寒さと恐怖に震えていました。

 海はいつもと違って灰色で、波も高く、猫がいる見張り台まで迫ってくる勢いです。

 砂浜もどんどん雨を吸って、坂の上からまるで川のように水が流れてきます。

 これ以上ここにいるのは危険です。でも、どこへも行くところがありません。

 仕方なく猫はずぶ濡れになってまた坂をのぼり、いつものバス停のベンチの下にしゃがみ込みました。  

 とても寒くてお腹が空いていました。

 ベンチの下でも、雨や風を大して避けることは出来ません。どこかのお店の看板が風に煽られて坂道を転げ落ちていくのが見えました。猫はもう怖くて目も開けていられません。

 お腹が空いて、雨に濡れて寒くって…猫は意識がぼんやりとしてきました。

 ナナの声が聞こえたような気がしました。すぐその後、地面から浮いたような感覚と温かさを感じたような気がしました。

 ああ、温かいにゃ、気持ちいいにゃ。いっぴきとひとりの声が聞こえる気がする。こんな日にひとりぼっちじゃないっていいにゃ。にんげんと犬と仲良くなりたかったにゃ。

夢うつつの中で、猫はそんなことを思っていました。猫は今までずっと寂しかったのかもしれません。


 猫は、自分が温かくてふさふさ、ふわふわした茶色い何かに包まれていことに気が付きました。

 『このふさふわ?にゃんだか見たことあるような…でも、温かくって、やわらかくって、気持ちいいにゃ』

 猫は茶色のふさふわに、無意識に頬釣りしました。まだ意識ははっきりとしていません。

 茶色いふさふわは、猫が目を覚ましたのに気づくと、一瞬だけはっとしましたが、すぐに猫の体を自分の体と尻尾でしっかりと包み込んで温め、毛繕いを始めました。

 「どっきーーん!」

 猫は、目覚めたら目の前にナナの大きな口があってびっくりしました。

 茶色い犬だ!猫がそう思った瞬間、声が聞こえました。

 「きゅうさん!起きて、起きて!ハッチが目を覚ましたよ!」

 ん?きゅうさん?ハッチ??

 猫がきょとんとしていると、今度は細い黒ぶち眼鏡をかけた人間が現れました。新しい本屋の主人です。

 「ハッチ!よかった!」

 ハッチ?それナニ?

 猫はもう何がどうなっているのか全然分かりません。

 「台風の雨の中、どこかへ行っちゃうんだから!ナナが見つけてくわえて戻ってきた時は、ずぶ濡れでずいぶん冷たくなってたんだよ!」

 あれは夢ではなかったようです。

 でもハッチって、ナニ?

 猫は何も言いませんでしたが、きっと「?」が顔に出ていたのでしょう。

 きゅうさんは尚も続けました。

 「ハッチ、君の名前だよ。獣医さんで診てもらうのに、名前が要るからね。ナナと僕がきゅうで、君はハチワレ猫だから、ハッチ!いい名だろう?」

 きゅうさんは、とっても嬉しそうな顔をしています。

 「ハッチ、少し食べたらお薬飲もうね。早くよくなって一緒に遊ぼう。きゅうさんが、ここで三人で暮らそうって言ってるから、もう僕たち家族だね」

 上を見ると、ニコニコしながらナナがそう言いました。

 猫は自分がハッチと呼ばれていることを、ようやく理解しました。

 ハッチが、なぜきゅうさんやナナの言葉が分かるようになったのかは分かりませんが、お互いを大事に思う心、信じあう心が奇跡を起こしたのかもしれません。

 猫はもう、ひとりぼっちのシロクロでも、空き家に住み着いた新参猫でもありません。

 これからは、きゅうさんとナナと暮らす、本屋のハッチなのです。

 「ハチワレ猫のハッチ」

 ハッチは、昔『やさしい手』をした人間が、自分をそう呼んでいたのを、おぼろげながら思い出しました。

 きゅうさん、名前を付けてくれてありがとう、思い出させてくれてありがとう。

 ハッチは、迷子がようやく自分の家を見つけて帰って来たような、安心した温かい気持ちになりました。


 海へ続く坂道の途中に、一軒の本屋さんがあります。

 お揃いの赤い首輪をした、看板猫のハッチと看板犬のナナは、今日も揃ってお店の横にある、大きなクスノキの木陰でお昼寝しています。最近は、近所の商店街のシロネコやサバトラ猫が遊びに来ることが増えました。

 もうすぐ昼と夜の長さが同じになる頃なのに、ちっとも涼しくなりません。

 今年は三人で、庭で月見でもしようかな、きゅうさんはそう考えて、楽しそうに微笑むのでした。


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