没。筋書きだけで、物語にならなかったもの
理屈ばかりが先行して、具体的な描写などの案が出てこなかった。完全なる没である。
無用な連想で、今書いているものの展開を助けてくれるかと、期待したが、あまり良いものは引き出せなかった。
「あるものに、先に答えを与えられている」我々がこの構造に乗れるのは、意味論的或いは認識論的な蚊帳に遮られて、存在論的な空虚という蚊に晒されずに済むからである。その点において、ある人が人生を仕事で埋め尽くすことの効力を皮層を、体得できるだろう。
ここで前提にしていることは、人は「存在の意味」やら、「存在の価値」やらを論理的に詰問することは、かえってより深いニヒリズムを招き入れることになり、回避する方が良いということだ。平たくいえば「なぜ生きながらえているのか」「どうして生まれてきたのか」「なぜ宇宙からすれば刹那にも満たない持続を以て、消滅していくのか」という問いに真っ正面に向き合うことは、論理を幾ら積み重ねても完成しないという点で、退屈で恣意的な無限後退を招き、その主体に終ぞ「生にも死にも意味はない」という、無気力の内に流され沈みゆく運命を歩かせてしまうということである。
そうならば、世界を仕事や意味で埋め尽くして、その様な至極無駄な問い掛けを黙殺すれば良いという発想になるだろう。しかし、その安心拠点の企みは、空理空論であり、簡単に破壊されてしまう。それは構造が絶えず揺らいでいるのを無視しているからだ(いや寧ろ、構造のこの性質はここから来ているとすら思う)。
存在論的な空虚は、熱意や根性だけで乗り切れるものでは決してない。むしろそのような熱意が反対の効能を与えることもある。
潔癖な人間は、何か、無用に益することを望むくせに、実質として益することを嫌う。現実にはそのような美しい二分は存在しないのにも関わらずだ。そして、無用を敢えてする自由を絶えず求めている。
もし、この観点から見るならば、その人はこれを許さない。つまり、教育の名目上、相手の世界を開くことを半ば強引に且つ技術的に実行することである。とりわけ、「強制的」である嫌いからここを詰るだろう。そして、懐疑の道に開かれていくのだ。
では、同じことを別の角度から。一方でこの人は、人間的や人間性という言葉にとても敏感で、穢れや偽物或いは工学的な操作、はたまた方程式そのものに対して嫌悪する。このような美学家風味の者の観点からは、どうだろう。この人はおそらく、「技術的」であることを憎むだろう。そしてそれだけで、懐疑主義化するだろう。
ここに国語の授業と、一つの書物を置こう。さて、鋭敏で常に狂瀾たる大海の持ち主である彼は、とても国語が好きで、学校で学ぶことが好きである。しかし、どうにも読書は好きではない。そんな中、国語で取り上げられた内容を本で読んだのだ。私には、ひょっとすると、ここに懐疑の種が仕込まれているのではないかと思うのだ。
なぜなら、まず彼は真面目に授業を受けているだろう。そして、副読本として元の書物を読む。しかし、教科書はその「技術的」な紙幅の関係から、引用を絞るし、国語の問題の特徴から、文脈から切り離されても成立するように作られる。そして、それが正解だと少なくともペーパーテストの上では「強制」される。
だが、彼はしかし、元の書物の文脈も知り、より豊富な情報であることを知るのだ。もしかすると、テスト上での「筆者の主張」と、原本から読み取れる主張も変わってきてしまうかもしれない。そうなると、認識が分裂してしまう。そして、精神の均衡がなかなか保てない時期にこれを受けてしまうと、この違和を正常に処理するのは難しい。
もし、彼が授業を素直に受けており、先生というものを素朴に尊敬しているならば、その傷は大きくならざるを得ないだろう。ただし、普通ならば、国語と読書はゲームがそもそも違うのだとすれば、すぐに認識は安寧に戻る話であるのだが、このような認識は焼ける熱が喉元過ぎた後の懐古であり、過剰な飛躍を免れないだろう(もとより、そこに掣肘し知恵を説くのが、家族や社会の役割であるのだが、破綻しているのかもしれない)。
それはつまり、存在論的懐疑に晒されてしまうことだ。
こうなると、親身な教師と、にこやかなハリボテの区別が、認識からして出来なくなる。その人はこう邪推するだろう。その教師の裏に、彼が見ているのはこちらでなく、こちらを近似した値であり、ただ自身と似た属性をデータベースから自動的に割り出し、振る舞っているに過ぎず、こちらを励ましているが、その内実が全てのAIがそうだあるように、全く空疎であると。
しかし、だからといって、孤独に自己探求の道へ進むのはかなり難しい。その道筋はやはり二つに分かれる。幼稚に盲目に先人の道をなぞるか、天才すら敵わない様子を指を咥えて見ているかのどちらかだ。孤独であることは、探究するためのリソースも貧弱になりやすい。孤独のうちに腫瘍のように体系化した理屈で、尺度を気付き上げていったその先にあるのは、カルト的な何かであるし、真理に漸近したと思い込む陶酔感と、迷走と瞑想を誤認する鈍さと、陰謀という「万能の方程式」とが得られるだけた。そして、不安は払拭できずにそれが残るだろう。
この残酷と無効力を前に、人は無気力の大洋をただ潮の流れにしたがい、泡沫としての人生の時間を、ただ受動的に消費していくのみであるのを受け入れ、むしろ何故今まで分かろうと無駄骨を折っていたのか不思議に思い、体をただ横たえるのである。それでも、不安は消えず、無気力な気分がメインストリームになる。当然、そこにあるのは気分だけであるため、無気力が苛立ちや陶酔や全能感に変わることはあり得る。
比較的健康な精神の持ち主ならば、このような馬鹿げた存在論的懐疑からくる空虚などに囚われないし、構うはずもない。しかし、精神の健康は果たして保たれているだろうか。
荒れた精神は決して「私の在り様」や「反省して思い直し」程度では、安らがない。我々の意識がないといけないし、帰属できるところもいる。そこもなしに、単に根性や馬鹿げた自己外化をいうのは愚かであるし、自己受容だとかあり得ないことだ。
そも、懐疑を深めていれば、自身を肯定してくれる存在すら、信用に値するところはない。何故ならば、彼は過去の自分に類似した者との対話から理に適った、潤滑油を目的とした手段としてその振る舞いをしているに過ぎないとまで、歪められるからだ。なぜその歪みが正しさを帯びで出てくるか。つまり、その人の信用の基準とは、全て均衡を欠いた上での理想の歪んだ均衡上にしかないからだ。
ここまで、深刻にすると、かえって肉体があることが信用ならない証左になる。肉体の持つ連続的な浮き沈みは鋭い撞着として感ぜられ、一方、ハリボテの場当たりの巧言は、一貫した響きを与える。ただし、くだらない理論家と、社会派に被れた者達は、身体に無自覚に自信を持った上で、法整備や体制を宣うのである。そのような営みが逆説的に、身体と精神の動揺即ち不均衡をもたらす遠因になることは、蛸壺の中で知りもしない。
テーマ自体にはそこそこ深いものがありそうなのだが、それを探っていけるだけの言葉がなかなか出てこない。