韜晦した反論文。あるいはただの愚痴。
こう言うのを送りつけていることが多い。
智慧者というのはいつもそうだ。紛う方なき粉飾で、後から来たくせに澄まし顔で垂れている。実際、不老不死の末路を見れば、生と死を桜になぞらえ語彙を弄する。
これはそっくりそのまま反対にしたっていいんだ。つまり、智慧者が不老不死の成就を見たら、雨垂れ石を穿つだとか、あの人こそまさに常盤木であったとかいっちまえるんだ。彼等は後から来るんだから、ひっくり返るに違いない。桜も松に早変わりさ。
桜が僕らの生死と同じだと言うならば、いたずらに散り乱れて泥まみれになるだけさ。
いくらやっても反映されないから仕方ない。こうやって喚き立てるしかない。
こう言う智慧は言葉感触が綺麗だが、ただそれだけだ。桜は松に翻すことができる。智慧の持つものは必ず後からやってくる。その身のこなしはまさに桜の散り乱れていくようである。
このような賢者を装った連中の決定的な欠陥はなんだろうか。それは、言葉に殉じない点である。彼らの言葉がなぜこんなにも漂白なのか?それは全てこのためである。
吟ずるな、殉じよ。
1
fashion fashion言うけれど、
君達、ムッソリーニに倣っている。fabricでfàscio¡fàscio¡と来たものだ。
独裁、全体、軍国、なんでもござれ、
屍、されこうべのニヤけずらを見よ!
fabulous!fabulous! 可愛い服ね!
2
fashion, fashionと君は歌うけれど
ムッソリーニの影に気づいているか?
fabricで束ねたfascio、束ねた夢だ。
独裁も、全体も、軍靴の響き、
見よ、屍たちの笑顔が浮かぶ。
fabulous, fabulous!可愛い服ね?
その袖に血の色が滲んでいるのに。
愚痴を吐くのも、悪態つくのも、必死である。