公園にいて思ったこと。
きっと、不愉快だったのだろう。そして、そればかりに包まれて少しうんざりしていたのだろう。
広めの公園にいて、思ったことがある。
石の腰掛けにシャクトリムシがいた。彼は私に自然をしっかりと思い出させてくれた。それはつまり、私は生きていると言うこと。私は生きており、他を殺しているということ。
何かのライブの物販などの準備をしているのを見た。競技場の方から音漏れが聞こえた。彼らだけでは到底、人間を救うことなどできない。あんな過激なもので(ある人はある一面だけでそれを見て、幼稚というかもしれない。私もそれに加担気味であることを隠さず書いておく)、静謐たる自然の恍惚的な救済を補えれるはずがない。歌詞をみても当然の如く、帰結できる。
彼らに出来るのは精神の一時的な高揚だ。それは第九に似ている。デュオニソス的で、燃え尽きるまで熱狂させて、とどまることをしらない。おおよそ、自然の純乎たる解脱とは対極であることがうかがえよう。
私は、自然の大いなる垂教により直観した。しかし、同時に現代のデュオニソス的で、破滅的で、ポストトゥースで、短絡な社会に、如何ともし難い懸念と危機をおぼえた。
ただし、私は精神を燃焼させ人を行動に駆り立てる、デュオニソス的なるものの力をよく知っている。彼らに罪のないことも弁えている。
ああそうですか。