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「穏やかな昼休み」(『スクリフェッド』)

 学年が上がった時、鬱勃と心を浮き立たせるはずの春の空気が、重々しく僕の頭上に伸し掛かっていた。花曇りの空が、そのまま質量を持って落ちてきたようだった。

 高校に進学した時から、世間には、日本史の教科書に書かれている末法の世とはこのようなものだったのではないか、と思えるような情調が漂っていた。未知の感染症の世界的流行、それに伴うデフレの更なる増進。時代の趨勢は、その上に生きる個人の胸間や皮相にも否応なく影響する。

 青春とは、人生に於ける区切りの一節を表す言葉だと思っていた。だが、自分が定義していたその知識が、如何に僅少な創作物から摂取した空疎で、浮泛(ふはん)なものだったのかという事を思い知らされた。

 始業の遅滞、長引く蟄居、PCの画面越しに名前だけが表示される、顔の分からないクラスメイトたち。半年近く登校出来ない日が続き、当然オンラインという環境では授業に於ける障礙も多く、やっと登校が再開出来ても単位取得の為の試験は際限なく増殖し、一年目はほぼ忽々たる繁忙のうちに過去になった。

 二年生は、比較的穏やかに過ぎた気がする。何事も、長引けば慣れが生じる。危機感が薄れた訳ではないが、何もかもが手探りの、試験的、日和見的な状態から、現象が類型化され、ケースに応じた対応という事が行われるようになる。

 クラスには馴染めた。皆、市内から辺陬の地域まで至るところの中学校から集まった、(ほとん)ど全員初対面という状態ではあったが、各々(おのおの)が他者と関わりを持ち、能動的に学級内に〝輪〟を作ろうとするような印象があった。クラスの連絡用のチャットも自主的に作られたし、試験でも、なけなしの行事でも、互いに切磋琢磨して向上し、研鑽に励もうという空気があった。

 高校の三年間は早いぞ、という事は昔から言われ続けてきた事だ。進路が具体性を持つに連れて、しなければならない事、大学や専門学校へ進学する者は、受験に於いての書類審査で有利になるような教科の単位を取る事などが截然と分かってくるようになる。物理や、演習や基礎と付く教科よりも高度な数学を学ぶ、コース内に更に作られたコースは、入学当初から高等教育機関へと進学する蓋然性はありながらも、具体的な校名が浮かばない学生たちが、主に一般受験への安全を採る為に所属するもので、僕もそこに所属していた。僕が入学したコース自体は理数系だが、その中でも特に「理系コース」と呼ばれるクラスだった。

 だが二年生が後半になり、僕は自分の進学したい大学が文系寄りであり、取得してきた資格を武器に自己推薦で受験する事を決めた時、三年次に受講する教科の取捨選択で、今までとは異なる方法を選ばざるを得なくなった。

 数学Ⅲという教科を採った場合、文理選択は「理系」と扱われる。他方、数学を演習や基礎に留め、国語総合、現代文とは別に国語の演習、政治経済や社会科の地歴公民を採った場合は「文系」となる。前者の場合、一週間毎日のように数学の授業があり、文系の大学に進む予定なのにわざわざ自分を苦しめる事はないだろう、と思ったので、僕は後者を選択した。

「クラスが変更になってしまうかもしれないよ?」

 そう忠告はされた。だが、同時にその可能性は微々たるものだとも告げられた。

 僕は、自分の所属していたクラスが好きだった。皆、青春という青年期の権利を世情による剝奪から死守し、出来る事が限られた中で、可能な限りそれを紡ごうとしていた。クラスに、誰一人取り残さないという結束があった。

 だから、春期休業が終わり、三年生としての初の登校日、昇降口付近に張り出された名簿に、今までのクラスに自分の名前がなく、別のクラスを見た際にそれを見つけた時の落胆は筆舌に尽くし難いものだった。文系教科の選択者は多く、また必ずしもそうではなく、数合わせの為に他クラスに移されている人も居るので、僕が去年まで居たクラス以外が全て文系を集めたクラス、という訳ではない。だからそれだけに、仕方がない、と割り切れない思いはあった。

 割り切れないものを無理にでも割り切って、自分を納得させて生きるのは誰でも同じ事だ。だから、僕も大人しくクラスを移り、最後の一年になって別クラスに紛れ込んだ異物感に苛まれながらも、心機一転、新たな友人でも作る気持ちで高校生活最後を楽しむつもりだった。

 だがそこで、昨年度は僕の味方となっていた「慣れ」、慣性と言うべき日常の空気の延長が、悪い方向に働いた。僕の中の、渡る世間に鬼はない、という考え方が、寸善尺魔へとコペルニクス的転回を遂げた。

 以下、そのつもりで読んで頂きたい。


          *   *   *


 このクラスには、取り敢えず楽しければ空気が良くなるだろう、という通念が揺蕩(ようとう)していた。蔓延、と言いたいところだが、今のご時世、伝染病を彷彿とさせるこの語句をいたずらに使って誤解を招いては堪らないので、敢えて避ける。

 人間の性格を陽性、陰性と分ける風潮がいつから生まれたのかは知らないが、俗に陽キャと呼ばれる者たちはクラス内のその空気を主導し、陰キャと呼ばれる一派は彼らで集まるでもなく、その空気の持つ好尚や潮流に取り残されるかのように孤立を続けていた。団結した向上心とも無縁で、先日の試験では、僕が去年まで居たクラスでは考えられない程に赤点が続出、グループ活動でもそれぞれに積極性がないし、授業中は配布された電子タブレットを、朝に回収されるスマホの代用品のような扱い方をするか、惰眠を貪っている者が多数。

 英語の授業など惨憺たるもので、皆で声を揃えて音読すべき箇所を、読んでいるのは僕一人。視界に入る七割が睡眠学習に入っており、残り三割は内職をしている。今年から変更になった教師は事勿(なか)れ主義のようで、僕が一人でも読んでいるのをいい事に授業を進める。

 この「空気」を理解して貰うには、昼休みに目を向けるのが最もいい。

 どんな人格が集まればこのような「空気」が生まれるのか、理解して頂けるはずだ。


          *   *   *


 時間通りに皆が席に着かない授業の開始だが、片付けるのは異様に早い。

 時勢柄、購買は混雑を避ける為テイクアウトのみを行っており、午前中の授業が終了して僕が持参した弁当を広げ、五分程経つと、授業が終わるや否や信号が青に変わったかの如く廊下に飛び出していった生徒たちが教室に戻ってくる。

「……でさ、昨日俺朝まで隼人(ハヤト)のLINEに付き合ってた訳よ。あいつも面倒臭せえ奴でさ、先日彼女と別れたとか言って俺に誰か紹介してとか言ってきた癖に、いざ紹介してやると数日であの有様だろ? もうさ、手当たり次第に『付き合って下さい』って言ってヒットしたところで止めれば良くね? ってなるわ」

 陰キャ組が、葬式の方がまだ賑やかだと思う程緘黙(かんもく)しながら作り出していた一種の空気の領域を、飯倉(イイクラ)という男子生徒が堂々と引き裂きながら教室に入ってきた。何の話をしているのか全く読めないが、僕はふっと呼気を机上に叩き付けた。

 彼は、間違った方向に進んだ陽キャ組だ。無駄に広い交友網を持っているが、周辺には常に同じようなメンバーばかり集まっている。発育急進期に顔の変化が早かったせいで周囲から美形だと持て囃され、そのせいで自分を美形だと思い込んでしまったような節があり、やたらマスクは外したがるし、周囲の女性を全て自分のものだと思い込んでいるのではないか、と疑いたくなる。

 美化した言い方をすれば面倒見が良く、実態はお節介で、主に他人の恋愛状況に介入したがる。所有欲の狂奔に歯止めの掛からない間違い男子諸君に知り合いの女子を斡旋し、色恋沙汰のスペシャリストになった気で居る。

 隼人という奴は知らないが、口振りから恐らく他クラスの似たような生徒なのだろう。聞く限りろくな奴とは思えない。青春を、まず彼女──別に「恋人」でなくてもいいのだろう──を”所有”する事が初歩だと勘違いしているのではないか。

 段々教室に人が戻ってきた。空気の塗り替えは進み、昨今推奨されている通り、適切な換気が出来ていますね、と皮肉の一つも言いたくなる。

 ああ、うるさい。黙食に努めろなど殺生な事は最早言われなくなったが、良くも悪くも慣れが横行した結果だ。イヤホンを耳に嵌め、耳栓代わりにする。何処にも繋がっていない事をわざと見せつけるべく、端子を机の上に置く。

 が、音も出していないイヤホンで外界の音を遮断しきれる訳がない。

「……お前さ、昨日観た?」

 聴覚の集中を一点から移行させれば、別の声が耳に入ってくる。今の声の主は小山(オヤマ)といい、これも男子生徒で、陰でも陽でもない珍しいタイプだ。だがそれは中性として他人と良い距離感を保っているという訳ではなく、常に決まった友人たちとつるんでおり、饒舌な割に「俺陰キャだから」と公言し、クラス活動に於ける消極性を正当化しようとしている奴である。そして、誰もがそれを黙認している。彼のような人が居るから、僕のような中性までもが陰性と一括りにまとめられてしまうのだ。

 そして、やたら偏った衒学志向だ。アニメやゲーム、俗にサブカルチャーと呼ばれるものに精通しようとしているらしいが、焦ったせいかそれがやたら広範にして浅薄、ミーハー精神の露呈に留まっている。経験者になろうとして失敗した感じ、と言えば分かるだろうか。

 教師が生徒を指名する事のない授業中、後ろの席から窺えば(くだん)のタブレット端末でアニメや実況動画を観ている。僕は趣味として、比較的そちらの方面にも通じているとは言えるが、だからこそ彼の付け焼き刃の知識の誤謬にいちいち突っ込みを入れたくなる。にわかは黙っていろ、というような気持ちの悪い事を殊更(ことさら)に言うつもりはないが、授業を放置し、突貫工事で取り入れた知識を衒学に使われては、聖域を土足で侵されたような不快感は否めない。

 先程の台詞にしても何なのだろう、主語をわざと省いて、自分が言うのだから分かるだろう、といたずらに誇示したがるような言い振りは。また何かアニメに登場したあれこれについて「フィギュア出たら買うわ」などと言っているが、毎度毎度それを有言実行しているなら大した財力だ。

 つい、耳に嵌め込んでいたイヤーピースを密封するように押し込んでしまい、ぐにゃりという嫌な感触があった。慌てて少し緩める。

 緩めると、今度は後方の一画に集まった女子生徒たちの声が入ってきた。

「……それでね、駅裏のカラオケ店の駐車場で大学生くらいの男に声掛けられたんだけど、『○○って店ここで合ってますか』って、見りゃ分かるだろって!」

「それでそれで?」

「そうですよって答えたら、『良かった、せっかくだし一緒にどうですか?』って」

「うわー、キショっ!」

「『彼氏とか居ますか、俺怒られたりしませんか』とか言ってきて、はあ、とか、ええ、とか適当に相槌打ってたら『そんなに可愛いのに居ないんですね』とか言われて、急いでるんでって離れたら、そいつ今度別の通り掛かった女の子に同じ事やってたんだよ。有り得なくない?」

 話の主導権を握っているのは志摩(シマ)という女子だが、彼女の口からこの手の話は飛び出しすぎて、最早何処までが本当なのかよく分からない。彼女はある意味飯倉と逆転した存在で、男って馬鹿だよね、というような話を通じて結果的に自分は好かれる女なんだよ、という事をアピールしたがる。証拠に、男子との距離感はそれこそ一般的な同年代の女子から乖離した思考を持っているのか、と思う程バグっており、リボンやヘアゴムを平気で間違い男子衆に貸したり膝の上に乗ったり、それがその通り思考の特殊性であればまだいいものの、意図的に男を惹こうとする魂胆が冷静な者からは見え透いているので、見ていて鬱陶しくてならない。

 飯倉とは特にそれが顕著だが、別に付き合っている訳ではないというのはどちらも理解しているようだ。最終目標と思想的な意味で類型と考えれば二人とも似た者同士だし、お似合いだ、勝手にやってろ、とは思うが、公共の福祉に鑑みて(のり)を越えるような事はさすがに控えて欲しい。まあ、このクラスでは何をしようと各々(おのおの)の勝手らしいので、別段気にする事もないのだろうが。

 視線を前方に向けると、聴覚も前方に向く。

 左斜め前、窓際の一画に視線を向ければ、別の二人が目に入る。男子生徒、大門(ダイモン)安宅(アタカ)という二人組で、仲が良いのかどうかは分からないが、席が近くなってから昼食を共に食べるようになったようだ。

「もうすぐ三回目の考査だけどさ、お前勉強してる?」

「やる気が出ねえんだよな……専門学校の指定校募集は早いし、もう入試用評定出てるから次の試験頑張ってもあんま意味ねえし」

「いいよなあお前は。俺は次の考査以降に入試だから、ここで成績下がると入試用評定も書き直しになるんだわ」

「対策プリントだけやっとけば赤点回避出来るっしょ。どうせ先生たち、欠席しなきゃ平常点三十点入れるんだし。俺英語とか毎時間寝てんのに前回の評価5になってたぜ?」

「考査ってさ、受けなかったら前の試験の点数そのまま入るんだっけ?」

「でも、試験の日休んだって記録は残るぜ。そこで病欠一つ作って内申点下がったら、指定校推薦貰えなくなるんじゃね?」

「それはマズいんだよなあ……俺休めるだけ休んじまったし、もう有給みたいな扱いにならないって。いっそ考査なくなんねえかなあ」

「ってかさ、もうすぐ色んな部活地区大会じゃん? 他校との交流あるからまた感染者一気に増えて、それで全校自宅オンラインになって考査なくなったりとかありそうじゃね?」

「それいいな。全員公欠になるし、そうなったら前の点数そのままコピーになるし」

 会話の初めは大門からだが、彼は大っぴらに言いはしないものの、他の生徒たちと同じで、どれくらいコストを払わずにサボれるかという事を常々考えている。出席日数は単位が落ちるギリギリまで欠席して、落ちなければそれでいい。試験は、評定が指定校を望めるギリギリラインの点数を取れればいい。授業での平常点は、どうせ平常点が赤点を補う最後の砦だと教師たちも思っているし、その付け方にはかなり先生たち個人個人の恣意的な解釈が含まれるのだから、教師たちも生徒たちに赤点が出すぎると問題になるので無闇に下げたりはしないだろう、だからサボってても別に問題ない。このような思想を持っているようだった。

 当て推量ではない。授業中ちらりとでも彼の背後から見れば分かる。大抵皆寝ているか内職しているかなのでよく見えるが、タブレットで漫画を読んでいるか、勝手にインストールしたゲームをしているかのどちらかだ。これは別に彼に限った事ではなく、小山なども似たものではあるが。

 受験をゴールだと思っているのだ。それさえ抜ければ後は全部サボっていいと思っている。大学に行きたいのも、社会に出ずにあと何年か遊べるからという理由が最大だろう。仮に指定校など貰って合格してしまったらどんな腐敗した思考を広言するのか、想像するだに恐ろしい。

 安宅は、大門の損得勘定癖を増長させ、そこに自己中心的思想を加味したような奴だ。土曜日に授業がある日など、前日に平気で「電車が脱線しないかな」などと言うし、愉快犯による学校を対象にした爆破予告などが役所に入れば「本当に爆破してくれないかな」などと気怠い口調で言う。それが冗談交じりではなく本心から出たような言葉なので性質(たち)が悪い。入学と時期を同じくして世界的感染が起こり始めた目下の伝染病についても、「一、二年の時は学校が休めてラッキーだったわ」などと言うのだ。

 オンライン授業ではなく、休み呼ばわりだ。彼自身が勝手にサボりたいだけであるのに、それに伴う他人の不幸を全く鑑みようとしない。先程の台詞を地区大会の出場者に聴かせてやったらどのような反応がされるだろう。多分、袋叩きでは済まないだろうに。彼のような生徒に、対象の専門学校の募集定員が多かったとは言え、指定校推薦をやってしまうこの学校も如何なものだろうか。

 坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、という訳ではないが、同じような頭の彼ら二人が一箇所に密集するようになってから、彼らの姿勢の悪さや貧乏揺すりがやたら目に付くようになった。放っている有害な空気が教室の空気に混ざり、苛立った環境を作り出してしまっているのでは、と錯覚する程に。僕だけの錯覚であればいいのだが、このクラスの人々では錯覚でなくても気付かなそうだ。

 全方向をそれぞれの空気で塞がれたので、僕は机上の弁当に集中する。だが、彼らが騒ぎ出す前から食べ始めていたそれはたちまち片付いてしまい、水筒に入れてきた氷の解けかかった麦茶を嚥下したところで手持ち無沙汰となった。溜め息を()く。食べた気がしなかった。こんな事を始業式以来、否、僕がこのクラスの空気に気付いたのはそれより少し後だったが、半年近く続けてきて、未だ慢性的な消化不良になっていない事が驚きだ。あと半年も続けばそうなるのかな、と思うと、憂鬱な気分にさせられる。

 何にも繋がっていないイヤホンを耳に嵌めたまま、弁当箱を包んで手提げバッグにしまい込み、ロッカーに収納すべく廊下へ出る。途中にあるゴミ箱をちらりと見て、ここ一週間の購買の弁当や定食の使い捨てトレイが、分別もされず燃えるゴミとプラゴミの箱に溢れる程詰め込まれている様子が目に入り、スラム街の路地裏でも通ったような不快感の熱が体から舞ったように感じた。


          *   *   *


 席に戻った後は、けたたましいというより(かしま)しい騒音をシャットアウトする手段は本しかない。ここに居る同級生たちは絶対に読まないであろう文学に没入すれば、少しは残りの時間で心を落ち着ける事が出来る。

 だが、席替えの後からそうは行かなくなった。更に五分程して、購買組が食べ終わってくると、真ん前の席、小山たちのすぐ後ろに座っている笹垣(ササガキ)という奴がやたらと絡んでくるのだ。

「なあなあ、今暇?」

 いや、何処からどう見ても読書をしているのだから、暇ではないに決まっているだろう。そう言い返したくなるが、それを正論と思えるような状況判断能力を、この笹垣は持っていない。

 シマウマは視野が広いが視力がそれ程いい訳ではなく、ライオンは視野が狭いが目標を遠くからでも精密に目視する事が出来るらしい。草食でも肉食でも、陰性でも陽性でもない彼には見合った視野の狭さと観察眼の悪さではないか。

「何で何も聴いてないのにイヤホンしているの?」

 僕が返事をする前に、彼は再び尋ねてきた。君のような空気を読まない奴に話し掛けられたくないからだよ、と口に出したいが、本当に出す程僕は嫌味ではないし、そもそも読めるような空気はろくに教室に残っていない。

 そして彼は、僕の返事も待たず更に話し始める。

「俺昨日駅裏の方のゲーセン行ってさ、()()()()()()()()()()のカードで()()にまた挑戦してさ、三回連続で()()()()()()()()()でさ、『はあ~?』って思って危うく機械壊すところだったわ」

 彼は早口で話す上に、自分の趣味になると相手の興味関心などお構いなしに喋る。身内でしか分からないような専門用語を平気で使ってくるので、僕にはこのように半分近くが解読不能である。最初の頃は「何々って分かる?」などと聞いてくるくらいの気配りはあったが、僕が面倒臭くて「ああ」と肯定し続けていたら遂にそんな質問もなくなった。

「でも今月出た()()()()()のカードが中古だと五百円以下にまで下がると思うから、上手く行けば×月×日までにはそれ使って挑戦出来るよ。出たばっかりだと皆買いたがるから値段高いけど、傷とかあれば下がるからさ。専門のサイトだと()()とか()()とかもあったけどやっぱ高いんだよね。メルカリとかAmazonはそれより大分安くなるけど、誰でも出品出来るからちょっと信用出来ない部分がある。ついこの間、欲しいやつがあって安かったんだけど、写真だとコラ画像の可能性もあるし、()()して云々……」

 僕は「ああ」と時折適当に相槌を打つ。声に苛立ちが混じらないように意識はするが、これでは苛立ち成分をゼロパーセントにしろという方が無理な話だ。

 僕もクラスに一人で編入される事になった時は、皆二年間のうちにそれぞれ確固とした交友網を成立させているだろうし、友達が誰も出来ないのではないか、と不安だったので、彼が話し掛けてきてくれるのをありがたいとは思っていたのだ。だが最近になり、別の人と廊下で話していても一言コメントを入れてきて話を自分の方に引っ張っていくし、授業中も振り返ってそれをするし、少しその口数の多さにいちいち付き合う事に疲れてきた。しかも僕が何か返事をし、話を自分の話したい事にも繋げようとすると、「そうなんだ。それでね」とまた自分に主導権を強制移動させる。他人の話を聴く気がまるでないのだ。

 彼とクラスでいちばん仲がいいなどと思われていたら、などと考えると、時々暗晦たる気持ちになる。

 彼もまた自己中心の人物の一人だが、それを如何に(こじ)らせているのかは話し始めてすぐに分かった。帰りの列車が一分でも遅延すれば「ふざけるな」を数十回ねちねちと繰り返し、その列車が混んでいればまた繰り返し、その列車が混んでいる上空席があればそれが数百回になり、移動教室から帰ってきて開錠係が少しでも遅くなれば失格だ失格だと呟き、それも本人に言わず僕に愚痴り、僕は彼と同類のように扱われるのが嫌なので相槌も打たないが、次の時間までそれを言う。

 本当に嫌気が差したのは先日の体育の時間だった。雨天などではなく外が使える日にはテニスやサッカーなども出来、種目を選んでそれぞれ行うのが我が校の体育のシステムだが、テニスを選んだ彼僕が教室に戻った後、またもや愚痴った。

 曰く、体育の度ごとに一緒にプレイする数人の友人のうち、一人慣れていない人が居たそうだ。その人があらぬ方向にボールを飛ばすせいでラリーは続かないしボール回収の為に走らねばならないし、彼が居た為に楽しめなかった、などと笹垣は言うのだ。その人は去年まで僕と同じクラスだったのだが、どんな人だったのか、という事をあたかも親の仇を探すかのように僕に尋ねてきた。

 僕が彼の名誉の為、(ほとん)ど交流がなかったから詳しい事は分からない、と言うと、笹垣は「そろそろ彼とも潮時かな」などと口に出した。僕も、そろそろ君とは潮時かな、と言いたくなった。「潮時」の意味が若干違うが。

 体育といえば、以前このような事もあった。

 雨が降って外が使えない日だった。屋内では普段バドミントンかバスケか卓球が行われているのだが、前の二種目が体育館で、卓球のみは別室で行われる。体育館を使う二種目は、どうしても場所を使うので、体育の授業ごとに交互に実施され、その日は雨天の為室内で、卓球かバドのどちらかが選択出来る予定だった。

 が、卓球台のある部屋の鍵が壊れて業者が入っており、バドしか行えないと告げられた。笹垣の愚痴は早速始まった。また、コースの学年全員が行う為、スペースの都合上人数を四等分し、六分ごとに交替という形で行われたが、単純計算で待機時間が十八分になり、これもまた彼の欲求不満を助長した。

 笹垣は「こんな事になるんだったら体操着を忘れてくるんだった」などと言った。今度の「ふざけるな」「有り得ない」は数千回レベルだったので、さすがに僕も腹が立って「仕方ねえだろそれくらい!」と強い口調で言ったのだが、彼はそれが強い口調だと認識出来る脳を持っていなかった。

 挙句、担当教諭に「暇なので空いているスペース使ってやっていいですか」などと聞き出す始末で、僕はそれを見ながら、世界はお前を中心に回っていると思うなよ、と胸の内で罵声を浴びせ続けていた。


          *   *   *


 思い出したら、吐き気がしてきた。

「……()()屋は家の近くにある店なんだけど、そこのラーメンが」

 いつの間にか勝手に話題を変えていた彼に、僕は「ごめん」と断り、嘔気を解消すべくトイレに行こうと席を立った。まさか彼も、僕が吐き出す現場まで着いて来ようとはしないだろう。しないと信じたいが、一般常識的に考えて信用しきれないのが笹垣なのだ。

 イヤホンは、最早意味を成さなくなったので外した。


          *   *   *


 靉靆(あいたい)とし、瘴気と化す一歩手前の教室の空気から抜け出すと、僕は思い切り息を吐き出した。無意識のうちに呼吸を止めていたらしい。体が、有害な空気を吸い込んではいけないと警鐘を鳴らしていたのだ。

 廊下で、景浦(カゲウラ)という男子生徒と鉢合わせた。

 彼は陰キャ組の一人だが、答えるという事をしない人物だ。先生からの質問も、学級活動での問い掛けも、それが「はい」か「いいえ」かで答えられるものだったとしても、首を傾げるだけで答えようとしない。進路希望に関する書類の提出の有無を尋ねられた時ですらそうだった。

 要するに、自分の意見、選択というものを全く持たないようなのだ。甘やかされて育ったのだろうか。それで進路選択は大丈夫か、と不安になる事があるが、僕が不安になってどうするのだろう。

 やあ、と、僕はおざなりに手を挙げて挨拶した。彼は微かに頭を下げたが、その後で珍しく彼から口を開いた。

「君の問題点はね」

 何を言われるのか、と僕は若干緊張した。

「自分以外の人を見下している事だよ」



(穏やかな昼休み・終)

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