「舞台転生」(『スクリフェッド』)⑤
* * *
僕が奏でるピアノの音。五線譜の上を目が泳ぐ。
一番終了、間奏に突入。ここまでは順調……一箇所ミスをした。だが気付かれない程度だし修正も可能。何とか弾き終えて、二番へ。御子柴の指揮を見る為、ちらりと横目で生徒たちの方を窺う。
クラスメイトたちが歌い出す。パート分けにより、ソプラノ、アルト、続いてテノール、バス。離れて聞いている僕からは一人一人の声にフォーカス出来るが、やはり誠人の声は群を抜いて美しい。それで居て、他の人の声を損なわず上手く融け合っている。
ひとまず合唱におかしな様子はないと判断し、ピアノに集中。ここからが難しくなる、中学三年の時とは異なる編曲の部分だった。楽譜に視線を戻し、暗記はしているが進行を再確認しようとした時、僕は異変を感じた。
彼の声が、少し弱い。というより、何処か苦しい。
また発作だろうか? と思い、僕は思わず視線を彼に戻した。指は無意識的に旋律を奏で続ける。彼は僕の視線に気付いたのか、微かに目を細めて「大丈夫」と合図してきた。「バレた?」と、例の無邪気さで聞いてくるようにも思える。
無理はしないで欲しいけど、と僕は思う。
ミスした。一音大きく外し、閊えてしまった。
* * *
放課後、僕は教室に残って貸し出された鍵盤を叩いていた。かれこれ三回目。ようやくノーミスで弾けた。自分でも満足が行ったのは、練習を始めてから初だ。
ふうっと息を吐き出す。重要なのはここからだ。意識的に行っている鍵盤上での指の運動を、呼吸や自転車の運転のように無意識的に行えるようにする。これが不十分だと、緊張した際中三の時のような失敗をする事になる。
苦手な箇所は矯正を意識しながら、しかし全体としては無意識的に。これがかなり難しい。出来る、と、得意、は違うのだから不思議だ。
僕もまだまだ未熟者だな、と思う。
「お、今日もやってるな」
不意に、教室の入口から声を掛けられた。没入しかけていたところを急に現実に引き戻され、僕はぎょっとして声のした方を見た。
誠人が、鞄を持って教室に入ってくるところだった。
「あれ、帰ってなかったのかよ?」
「野暮用。図書室で資料の返却して、ノート整理してた。そしたら忘れ物してた事に気付いてさ。一芽は今日も練習?」
彼は僕の隣まで来ると、横に椅子を持ってきて腰を下ろす。やけに顔を接近させて楽譜を覗き込んでくるので、僕は少し居心地の悪い気がした。
「まあね。合唱が完成に近づいているのに、俺ばっかりいつまでも完成しないのもあれだし、ピアノだけじゃ全体練習の時に個人的な練習時間取れないし。それより誠人、さっき『今日も』って言ってたよな? 毎日見に来てたのか? 早く帰らないと駄目じゃないか」
「一芽にバレたらそう言われると思ったし、それに邪魔しちゃ悪いなって思ったから昨日まではちょっと見たらすぐ帰ってたんだけどな。真剣な顔でピアノ弾いてるの、離れて見ると結構格好良いぞ」
彼は僕の肩を指でつつくようにしてくる。僕は苦笑し、つつき返した。
「先生に教室開けて貰ってるのか?」
「鍵借りて自分で開けてる。五時過ぎになったら執務室に返してくれってさ」
「へえ……毎日五時までか」
時計を見ると、まだ四時半を少し過ぎたくらいだった。日の長い夏の、まだ傾いていない太陽光が教室に差し込んで机や僕たちの影を伸ばしている。
「どうかな、一芽? 俺歌うから、合わせてみないか? お前も、歌があった方が弾きやすいだろ?」
彼は言うと、鞄を置いて僕の横に立ち上がった。
「お前が頑張ってるの見たら、付き合いたくなった。それに終わったら一緒に帰れるだろ? 一芽は寂しがり屋さんだから」
「……真面目にやってくれよ?」
「はいはい。じゃあ、伴奏宜しく」
彼に言われ、僕は鍵盤を叩き始める。
聴いている人が彼だけというのも少し緊張したが、これは練習だしいつまでもそんな事も言っていられないし、僕は心を無にするよう努めた。
彼が歌い始める。音楽室より狭い教室に、彼の声が響くのは聴いていて心地いい。
不思議と、段々とミスをしないようにという考えから来る心身の強張りが解けていくのを感じた。ピアノとは何の関係もないが、彼が近くに居るから大丈夫だという安心感が指先までに伝わり、流れるように自然な演奏が出来た。
ここまでノーミス。間奏の時、彼が僕に見えるように親指を立てて「その調子」と合図をくれた。それが、何だか嬉しかった。
* * *
曲が終わると、彼は疲れたように椅子に座り込んだ。
「いいじゃん、一芽。中学校の時より難しいはずなのに、あの時より上手くなってるよ」
「そうか? それならいいんだけど……誠人の声もちゃんと響くようになってる」
「順調だな」
彼は言い、荒い息を吐きながらもこちらにグッドサインをしてきた。だが、その顔には今までにないくらい憔悴の色が見える。
「誠人、あのさ……」
僕は意を決して、という程大袈裟ではないが、彼に尋ねた。
「無理、してないか? 今日の練習だって何処か苦しい感じだったし、今までは一回歌っただけでここまで疲れなかったよな?」
「えっ? まさか。そんな訳ないじゃないか」
彼は冗談めかしたように笑う。だが、僕が真剣な表情で見つめるとすぐに肩を竦めて言いづらそうに答えた。
「時々、空気が強張るって言うのかな、上手く息が吸えない事があるんだ。いや、息が吸えないって言うより、心臓が疲れるのが早くなったって言うべきかも。落ち着いてきたと思ったらこれって、全く厄介な体だよ」
嫌でも、意識せざるを得なくなる。
彼の命を繋いでいるのは、大量の薬と頻繁に行う検診なのだ。彼は元気そうに見えても、その身の内に確かに爆弾を抱えている。発達した医療がなければ、その存在は泡沫の如く脆い。
分かっているはずだ。いや、分かっていたはずだった。
「先週の検診で、また休んだ方がいいって先生に言われたんだ。だけど、そろそろ合唱コンクール本番も近づいてるし、もう少しだけ頑張らせて欲しいって頼んだ」
「本当に大丈夫なのか?」
「薬を少し変えて貰った。お陰でまだ酷くならずに済んでるよ。でもなあ……薬飲むと眠くなるんだよな……」
彼は言うと、苦笑する。その表情に、一瞬だがはっきりと辛そうな色が浮かんだ。
「どうしてそこまでして……? 確かに金賞は悲願だけどさ、こんな事言っちゃ身も蓋もないのかもしれないけど、合唱コンクールは校内イベントの一つに過ぎないじゃないか。命の方が大事だし、その為にお前が苦しい思いをしなくたって……」
「ストップ、一芽。そんな事は、俺にも分かってるよ」
彼は椅子を引き、僕のすぐ隣まで来る。
「でもさ、俺は、お前の弾くピアノで皆と合唱して、金賞を獲りたいんだ。お前と一緒にだよ。一芽は凄く頑張ってる。俺も頑張りたいんだ」
「俺と?」
「最後の合唱コンクールだ。絶対にお前の居る舞台に立ちたい。一緒に、届けたいじゃないか。俺たちが頑張ってきた事とか、この一唱に掛ける思いとか。俺はこんな体で、体を使っては何も出来ないけど、声はステージ越えるから」
「届ける……か」
「ああ。届けような、絶対! ……それに、一芽と会えたの、何だか奇跡みたいな感じがするんだ」
「えっ?」
「何でもない」
最後に彼が何を言ったのかはよく分からなかった。だが、彼のその”強がり”のような言葉を聞いているうちに、何だか怖くなくなってきた。
何を「怖い」と思ったのかは、自分でもよく分からない。
また合唱コンクールで失敗をする事か、または彼がいつか消えてしまうのだという事か。
* * *
夜、奇妙な夢を見た。
街が燃えている。空を何かが飛び交い、ひっきりなしに悲鳴や爆発音が轟く。
僕は時任一芽ではなくなっており、炎の中で倒れる誰かを抱き起こし、必死に何かを呼び掛けている。涙のせいか、その誰かの顔ははっきりとは見えなかった。
やがて誰かは僕に「じゃあな」と言い残し、息を引き取る。僕は激しく慟哭するが、その声も辺りの騒音に搔き消されていく。
不自然な程鮮明な夢で、翌朝目を覚ますと僕の頰は涙で濡れていた。