「舞台転生」(『スクリフェッド』)④
* * *
翌日、僕は努めていつも通りに振舞おうとした。たまたま通学路が一緒で、一緒に登校するようになっていた彼に「おはよう」と言う時から。心の中で、「まだ学校に来て大丈夫なんだな」と安堵した事を、顔に出さないようにしながら。
だが、人気のない裏道に差し掛かった時、彼はあっさりと言ってきた。
「一芽さ、昨日、俺の面談の話聞いてたよね?」
いつもと何ら変わらない、あっけらかんとした口調。嫌味でも糾弾でもないようなその声に、僕は思わず足を止め、隣を歩いていた彼の目を真っ直ぐに見据えた。
聞いてない、と言うのは容易い。だが、彼の言葉には確信が含まれており、それを無理矢理ごまかすのも不自然だし、何より申し訳ない気がした。
「誠人……心臓、悪いのか?」
「そうだよ」
彼は、恐る恐る尋ねた僕の因循な態度を一吹きで飛ばすかと思われる程、爽やかすぎると言っても過言ではないくらいにあっさりと肯定した。あまりの呆気なさに、それこそ冗談じゃないかと思える程。
「検査して治療しないと、それこそ死ぬくらいにね」
「そう……なんだ……」
僕は、何と言ったらいいのか分からなかった。
「……どうして、言わなかったんだよ?」
「あんまり、他人には言いたくないんだ。ここに、爆弾を抱えているなんて。一歩間違えたら死ぬかもしれないなんてさ」
爆弾。
それは、昨日僕が思った事と全く同じだった。だが、本人の口から聞くそれは、単なる形容ではない程の重みを持っているように感じた。
「俺たちは……他人じゃないだろ。友達になったばっかりじゃないか。それも、誠人にとってはほぼ最初の」
「だから一芽には、特に言いたくなかったんだよな。一芽はきっと、俺よりも怖がるだろ? 俺っていう人間が消えるのを。クラスメイトの、いちばんの友達って言えるくらいの奴が居なくなるのをさ」
彼は言い、少し寂しそうに呟いた。
「死は、珍しい事じゃないんだよな。自分がこの病気だって分かってそう思った。人間の体は凄く精密でさ、どれか一つでも狂ったらそれだけで危なくなる。生きている方が不思議なくらいだ」
「そういう問題じゃないだろう……それなら逆に、それこそ、皆にちゃんと言うべきじゃないのか? 俺にだって、もっと早く話して欲しかったよ。そりゃ俺もびっくりするし、怖くなるけどさ……そんな冷静で居られないよ」
僕は、強張った声で言った。強張っている理由が、喉の奥から悲哀が音となって零れ出すのを無理矢理堰き止めているからだ、と自覚するのを、無意識に避けようともしていた。
「誠人は……怖くないのか?」
途端に、彼は申し訳なさそうに微笑んだ。
何処までも優しそうな笑みだった。
こちらが泣きたくなるくらいに、悲しい程優しかった。
「怖いよ」
彼は言った。
「死ぬ時が苦しいのかどうか、とかじゃなくてさ。前はそうだったけど、今は苦しくはなくなった。俺も少しは大人になったのかな。そのせいで、もっと怖くなった。一芽と、もう会えなくなるんだな、って」
「……この馬鹿!」
僕は、耐えられなくなって彼の背に手を回し、夢中で自分に引き寄せていた。急に抱き締められて戸惑ったのか、彼は躊躇うように僕の肩に両手を回してくる。
触れ合うこの体温が消える事が、信じられなかった。
重なった心臓の脈動が、彼から僕に伝わってくる。
それが”残り僅か”を物語っている事を、僕は感じ取れない。
* * *
彼は確かに、時折苦しそうな顔を見せる事はあった。僕は心臓発作というものが、その場ですぐに救急車を呼ぶようなものだと思っていたので、彼が時々青褪めて冷や汗をかきながら座り込む行動が”発作”なのだとは気付いていなかった。
彼自身も無理をしている事があったのだろう。一度、中学二年の夏の終わり頃短期間入院した事もあった。その時僕は不安になったが、いざ見舞いに行くと彼は思いの外元気で「退屈だよ」と愚痴ってきた。
初めて彼の見舞いに行った時は夏休みの真っ最中だったので、僕は自分の知らない間に彼に何か大事が起こったのではないかと不安になり、話を聞くや否や真っ先に国立病院へと少ない小遣いを叩いて向かった。病室で彼と対面すると、無事だったという安堵で感極まって少々泣いてしまった。
彼は「大袈裟だ」と笑い、それが少し切なかった。
「一芽、お前そんなに俺の事気になる?」
僕は休日、彼自身にも揶われるくらい頻繁に彼の元を訪ねた。中学校時代は携帯電話を持っていなかったので、彼と話すには直接会うしかなかったのだ。そうして病室を訪れては、暇だと愚痴る彼の相手をした。
「学校、今どんな感じ?」
「一学期期末考査の勉強期間。それから秋になってすぐ体育祭があるからその準備とかもあって忙しいよ」
「そっかー。俺は色々行事あっても出来ないからな。入院がもう暫らく続きそうだから、試験やらずに済むのはまあ儲けものとでも言うのかな」
「笑えないからそういう冗談はよせって。それに誠人、合唱コンクールには出られたじゃないか」
* * *
彼が唯一参加出来た行事が、校内合唱コンクールだった。彼は激しい運動をしない分、音楽など芸術的分野に力を注いでおり、特に歌声は中学生とは思えない程の完成度の美しさだった。
中学校一年生の時は変声期の真っ盛りで声が不安定だったが、二年生になってからの合唱でその完成された声が解禁された時、クラスメイトは男女問わず耳と意識を奪われた。クラスの中では大人しく、比較的目立たない位置に存在する彼の隠れた長所に皆が驚いた。声のみならず、抑揚も伸ばしも強弱の付け方も完璧だった。
聞いたところ、彼はボイストレーニングなどをしていた訳でもなく、まさにそれは天賦の才とも言えるものだった。当初から同じクラスだった御子柴などは、彼が居れば金賞間違いなしと息巻くくらいに。
だが、実際の合唱コンクールはそれ程上手くは行かない。二年生の時は僕がピアノで伴奏者賞を獲ったのみでクラスで入賞はせず、三年生の時も賞なしだった。まあ、三年生の時の落選の責任は完全に僕にあるのだが。
* * *
中学校三年生で僕が伴奏を担当した自由曲は「生命の還る海」という、何処かの高校生の作った詩に有名な作曲家が曲を付けたマイナーなものだった。自由曲の候補になったのはその年が初で、今までの先輩方は誰も合唱した事のない曲という訳だ。
「あるかもしれない奇跡を書きました」
作詞を行った高校生はコンセプトとしてそう述べているが、この曲が巻き起こしたのは奇跡とは正反対の最悪の結末だった。
中学校最後のそのコンクールの事を思うと、僕は愧赧の念に駆られる。
練習は、上手く行っていた。学年で行ったリハーサルでも、四クラス中最も良い評価を受け、改善点の発見や細かい表現方法の模索なども順調に進んでいた。今回ばかりは、金賞、それが叶わずとも入賞するまでは行くと思われた。
だが、本番で僕がミスをした。
気負うあまり楽譜を読み違えたのだ。繰り返しの部分で、戻り損ねた。結果として各パートは混乱し、直そうとして余計に崩れた。
表彰と閉会の後は皆何も言わなかったが、あの時の気まずさと白けようは今思い出すだけでも恥ずかしくなる。以来、僕は卒業式での伴奏者が季節外れのインフルエンザで練習出来なくなり、ピンチヒッターとして登用されるまでピアノを弾く事が出来なかった。
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ここで、話は現在、二〇一七年の高校三年生に戻る。
クラスにピアノ伴奏の出来る人が居ない為、僕は高校入学から合唱コンクールでは毎年課題曲、自由曲共に伴奏を担当してきた。そして今年、因縁の合唱曲「生命の還る海」と再会した。
決定したのは、多数決による全くの偶然だった。僕や誠人、御子柴といった中学校時代の、この曲と僕の黒歴史とも言える”やらかし”を知るクラスメイトはこれだけは選ばれないでくれと思っていたのだが、決定した以上は仕方なかった。
「でも、よく考えたら良かったかもな」
先月上旬、最終決定の際は反対していた誠人だったが、僕が楽譜を渡されて気が抜けたように席に座っていると矢庭にそう言ってきた。
「良くないって……」
「だって、あの時のミスは緊張して起きたたまたまの事だろ? 練習の時はちゃんと弾けてたし、あの時弾いた事のある曲だからすぐにピアノ伴奏で歌えるじゃないか」
「分かってるけどさ、またミスしたらどうしようって思うのは理屈とかじゃないんだよな。本能っていうか、感覚的っていうか……しかも今回はさ、あの時とは少し違うんだよ。編曲者が違う」
「難しくなってるって事?」
「弾いてみないと分からない。でも、見たところ前より難しそうだ」
「じゃあ、もっといいじゃん。あの時とは別曲のつもりで、リセットして練習出来る」
彼はいつも楽観的だ。そこが良いところでもあるのだけれど。
「そういうものかな?」
「そうだよ」