「舞台転生」(『スクリフェッド』)③
後半 舞台転生(2017年 7月)
「はい、じゃあ五分間休憩!」
指揮者の御子柴の声で、合唱隊形に並んでいた生徒たちがばらける。僕はピアノの前から立ち、テノールの列に居た湯浅誠人に歩み寄った。
「誠人、体調は大丈夫か?」
「今のところは大丈夫。練習前に薬も飲んでおいたしな」
「無理はするなよ」
「ああ。ありがとう、一芽」
誠人の様子にいつもと変わったところはない。僕はひとまず安堵し、彼と共に教室後方のパイプ椅子に腰を下ろした。
「合唱、出来上がってきたな」
僕は、銘々に雑談やパートごとの打ち合わせをしているクラスメイトたちを見ながら言う。ソプラノパートのパートリーダー七瀬は何やら忙しなく一人一人に意見を出している。高校ではクラスが持ち上がりなので、二年間銀賞に終わったこのメンバーで最後の合唱コンクールに挑み、金賞を取る事は僕たちの悲願だった。七瀬の熱意はその中でもダントツだ。
「一芽のピアノも上手くなってきたよな。もう『生命の還る海』も完璧じゃないか?」
「いやいや、実際に弾いている俺からするとまだまだ未完成だよ。指揮がいつも通りでも、伴奏で一箇所でも狂うと全体がズレちゃうから」
僕は、鍵盤を叩いていた自分の指の動きと五線譜の上を泳ぐ目を思い出す。先程の演奏では、五箇所程音を間違えていた。誠人たちクラスメイトの合唱におかしな点はなかったが、それ故に演奏をいちばん近くで聴いている僕本人からすれば違和感は拭えない。
「一芽は小学校からピアノやってるって言ってたっけ?」
「そうだよ。きっかけは覚えていないけど、趣味になったのは確か。合唱コンクールで伴奏者になる時は緊張するけどな」
「中学校の時伴奏者賞──言いづらいな──獲ってただろ? やっぱり頭一つ抜けたものがあるといいよな。俺、習い事は出来なかったんだよ。何せ、いつここがおかしくなるか分かんないから」
誠人は冗談めかして言い、立てた右手の親指で自分の胸の中心を指差す。
「笑えないからそういう冗談はよせって」
僕が言うと、彼は口を開けて屈託のない笑い声を上げた。僕はやれやれと首を振り、苦笑しながら彼の額を小突いた。
そうこうしていると、御子柴が声を掛けてきた。
「時任、そろそろ再開するよ。ピアノに戻って」
「了解」
* * *
誠人と僕は中学校時代からの親友同士だ。中学校は公立だったので、小学校からの同級生も殆ど皆まとめて進学したが、その中でも唯一、学年の中に同小から進学した生徒が居ないという人物が居た。
それが、彼だったのだ。
「病院が替わって、国立病院からすぐ近くの診療所で良くなったんだ。もう退院して毎日学校に通ってもいいって先生に言われたし、家から通うならこっちの方が近いから”転校”したんだよ」
中学校で仲良くなった最初の頃、彼は僕にそう言った。
僕と彼が出会った場所が丁度その診療所で、馴れ初めはそのロビーだった。僕は中学校入学から間もなく季節の変わり目に風邪を拗らせて肺炎になり、病院通いになったのだ。
「あれ、時任一芽君じゃないか。まさかこんな所で会うなんて」
同い歳くらいの少年に声を掛けられた時、僕は一瞬彼が誰だか分らなかった。戸惑いながら首を傾げていると、彼は不意に隣に座ってきた。
「分からないかな? 俺、クラスメイトだよ。○○小学校の湯浅誠人。自己紹介の時は居たと思うけどなあ。俺の方は時任君の事覚えてたし」
「湯浅……湯浅」
「酷いなあ、忘れちゃった? まあ、よく休むから印象にないのも当然だけど」
彼は隣に座ってくると、尋ねもしないうちに「俺ちょっと体弱くてさ」と言ってきた。声変わりしていない彼の声は、普段からあまり出していないのかか細い。それで思い出す。彼は、体育の授業を毎時間見学していた。
「湯浅君はさ」
「誠人、でいいよ。俺も一芽って呼んでいい?」
「あ、ああ……誠人は、前からこの病院に通ってたの? よく休むって言ってたけど、その時はこの病院?」
「………?」
「いや、ここ、俺のかかりつけ医の所でさ。俺もよく来るんだけど、誠人と会ってたら同じクラスになった時気付いたと思うんだ」
「ああ、そういう事か……実は俺、少し前まで国立病院に居たんだよね」
そんな会話をしていながら、僕はその時はまだ、彼の病気に気付かなかった。そもそも僕たちが親友になったのは、これがきっかけではない。従って、この時彼が隠していたものに気付く由もなかったのは当然と言えるだろう。
* * *
同じ小学校から進学した仲間の居ない彼は、それ以来学校でよく僕に話し掛けてくるようになった。最初の頃は雑談も長続きしない感じだったが、彼の雰囲気は心地良く、単純に一緒に居て楽しかった。
僕たちが親友になったのと、僕が彼の病気を知ったのはほぼ同じ頃だった。
きっかけは、中学校の一学期中間考査の直後の三者面談。厳密には、面談週間の時期のある日、僕が忘れ物を取りに教室に戻った事だった。僕は偶然起こる事については「仕方ない」と割り切るような性格だが、この時ばかりはそのあまりの”偶然”を呪いたくなった。
「……検査結果は?」
「異常Q波の……心筋梗塞の初見がまだ……学校での異常は……?」
「今のところは……ですが、発作が起こるかもしれない以上は……ですね」
担任の教師と、生徒の母親と思しき女性の声。ドア越しに、途切れ途切れに聞こえてきた会話の断片は穏やかならざるものだったので僕は思わず廊下で立ち止まってしまった。
「落ち着いてきたと思っていましたが、油断は出来ませんね……」
女性の声が、少し陰鬱に聞こえた。
「学校は、また暫らく休ませた方がいいでしょうか……?」
「ちょっと母さん、俺はまだ大丈夫だよ。入学してから発作も起きてないし」
生徒と思しき、声変わりの途中の掠れたような声が答える。それは間違いなく、誠人の声だった。
一瞬、何が話されているのか、どういう状況なのか分からなかった。あの時の動揺は、今でも鮮明に体に染み付いて忘れられない。
嘘だろ、やめてくれ、と思ったのは、僕の頭がそれを理解した数秒後の事だった。
中学生になったばかりの僕は、心臓病の何たるかを知らない。当然種類も分からない。だが、ただ漠然と、彼がその身の内に爆弾めいた何かを抱えているという事だけが分かった。
「小学校の時大きい発作起きたじゃないの。あの時は心室細動まで行って、救急車呼ばなかったら……」
僕は耳を塞ぐ。何も聞きたくなかった。初めて会った時、彼が「国立病院に入院していた」と言っていた事を思い出す。
忘れ物を取るのは諦め、僕は廊下を引き返した。