「西階段」(『スクリフェッド』)⑥
* * *
それから二日くらい経った日の事。その日も千歳ちゃんと出会った日のように、梅雨が戻ってきたような雨が降っていた。
むしむし暑くて、湿気がべとべとして、あたしは何だか胸の底がわくわく震えるような、イライラするような気持ちで、部屋でごろごろしながら漫画を読んでいた。お父さんはいつも通り仕事で、お母さんも近くのコンビニに買い物に行っていたのだけれど、そんなタイミングで家の固定電話が鳴った。
一人だったから下着だけで過ごしていたけど、ロンTを被ってリビングに降りて、テレビの横にある電話を取った。「はい、鈴木です」
「………」
電話の向こうで、びゅうびゅうという風の音が聞こえた。相手は無言で、息を殺しているのか、受話器の奥に人が居るらしい気配はない。もしもし、と声を掛けたら、そこで息を詰めているのが限界になったのか、微かに鼻息のような呼吸音が聞こえてきた。ふう……ふう……という。言葉は一切ない。何か、こっちから言い出すのを待ってみるみたいだった。
そしていきなり、がちゃん、と切れてしまった。
間違い電話だった? あたしは、うちの電話が相手の番号を見れないものである事を悔いた。何でか、単なる間違いじゃないような気がしたのだ。
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謎の無言電話は、それから何日間か続いた。掛かってくる時間は疎らだったけど、大抵両親ともリビングに居ない時だった。一度だけ、夕食の後で掛かってきた事があって、洗い物をしていたお母さんに代わってお父さんが取った事があった。
あたしは同じリビングでテレビを見ていたからその様子を覚えているのだけれど、お父さんは暫らく「はい、はい」と答え、それからあたしの方を向いた。
「美久麗にだってよ」
「え、あたし?」
「同級生です、って。女の子の声だった。友達か?」
固定電話の番号なんて教えた人居たっけ? と首を捻った。スマホを持っていなかった小学生の時に一緒に遊んでいたゆうちゃんとかはるちゃんとかには教えていたけど、中学校でクラスが変わってから段々音信不通になったし、そもそも今は同じ学校の同級生ではない。
読者の皆さんのお察しの通り、それは無言電話だった。あたしが受話器を耳に当てて「美久麗だけど」って言った時から、また例の息遣いだけが聞こえて切れた。
無言電話の二回目が掛かってきた時から、あたしもちょっと怖くって両親には相談していた。だけど、今までは決まって二人の居ない時に掛かってきたし、特に直接的な被害を受けていた訳でもないから、あんまり大事とは考えて貰えなかったし、あたしもそれでいいって思ってた。
この電話の時、お父さんには「同級生だって言った子は、名前言わなかったの?」って聞いた。お父さんは、失敗したな、聞けば良かった、と言っていたが、それ以降両親が居る時には掛かってこなかったし、後悔しても遅い。
ここでやっと、あたしは一連の異変を「異変」として認識し始めた。お父さんにはちゃんと声を出したっていうから、悪戯とか嫌がらせだったら、悪意を向けられている対象はあたしだって事になる。名前まで知られていたんだから、怖かったよ。それからは固定電話が鳴る度無視しようと思った。だけどそうすると、コールがいつまでも続くから取るしかなくなる。お母さんには「留守電にしておく?」って言われたけど、それで変な言葉とか録音されたら嫌だから断った。
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数えてなかったけど、多分七回目くらいだったと思う。
その日、また固定電話が鳴って、あたしは受話器を取った。勿論一人。怖かったけど、危機感とはまた違った。相手は女の子の声だったってお父さんは言うし、別にストーカーとかじゃないだろうし、あたしはストーキングされる程可愛い訳でも、悪い性癖に刺さりそうな見た目でもなかったし。
息遣いが聞こえたらすぐに切ろうって思っていた。で、その息遣いが聞こえたから受話器を置こうとしたら、
「ギャ─────────────────ッ!!!!!!!!」
凄い声がした。鼓膜、破れたんじゃないかなって思った。
あたしは受話器を落として、というか放り投げて、耳を塞いでテレビの下に小さく蹲った。耳の中がぐわんぐわんして、心臓は口から出るんじゃないかってくらい大きく速く鳴っていた。
怖かった。涙が出るくらい怖かった。声は、路上で絶叫する小学生のようなレベルじゃなかった。幼児や猫が悪意を持って殺される時みたいな、断末魔に近い悲鳴──そう、あれは悲鳴だった。
プーッ、プーッ、プーッ、と鳴る回線エラー音の中、あたしは静かに泣いた。
誰かからのSOSだったのかな、なんて、一瞬だけ思った。