「西階段」(『スクリフェッド』)⑤
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その日以降、立ち入り禁止の始まる一週間弱、あたしと千歳ちゃんは毎日会う事にした。文化部の人たちは、自分たちの部室となっている各第二教室から機材を移動させ、かなり慌ただしい作業を行っていた。彼らが撤収してしまった最後の日、人の居なくなった西校舎はしーんとしていた。
「ねえ、ピアノ弾こうよ」
工事現場の人が居ない間、あたしは千歳ちゃんにそう提案した。
「いいよ」
彼女の返事は即座で、あたしたちは吹奏楽部や合唱部の居なくなった第二音楽室へと移動した。こちらもまだ窓の外に足場は見えず、薄いレースのカーテン越しに日光が差し込んで、それが磨き上げられた床に反射して、部屋全体が光り輝いているみたいだった。
……文学的表現じゃありませんよ。あたしが見たまま書いているんです。でもあんな事があって、未だにこんなに綺麗な情景が思い浮かぶって事は、やっぱりあたし、この夏の出来事が忘れられない、忘れちゃいけないんだって、無意識レベルで思ってるって事なのかな。
「美久麗ちゃん、あのパイレーツ・オブ・カリビアンの曲以外だったら、何弾けるの?」
千歳ちゃんはそう尋ねてきた。前はあたし、この一曲を口に出すだけでも精一杯だったのに、この時はそんな緊張もなかった。
「何でもいいよ。あたし、千歳ちゃんになら着いて行ける。前に弾いた時、分かったの。段々楽しくなって、指で叩いた鍵盤が思った通りの音を返してくれる。出鱈目にはなるけど……千歳ちゃんが主メロを弾いてくれれば、きっと」
「美久麗ちゃん、きっと才能あるよ」
彼女はにっこりと笑った。
出会った時も「田園」を弾いていた彼女だったが、どうやら家にベートーヴェンのピアノ曲全集があったらしく、この時もあたしと連弾した曲は三十二曲のピアノソナタのうち「悲愴」「月光」「田園」「熱情」など有名な曲に加え、「エリーゼのために」や「大公」などだった。
前と同じように、あたしは殆ど見様見真似だった。以前はあたしが主メロを弾き、それに千歳ちゃんが合わせ、あたしが段々それを真似てアレンジして、という流れだったが、今回は逆だった。
よくそれで出来たな、なんて、本当にピアノが弾ける人なら言うかもしれない。あたしの弾いている様子をそういう人に見せたら、演奏はそんなに甘いものじゃない、なんて言われるかもしれない。だけど、あたしは楽しかった。千歳ちゃんと時間を共有出来た事、彼女と調和を生み出せた事。
もう一度やってみろって言われても、多分無理だと思う。
あの演奏は、本当に奇跡の塊だった。
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と、ここまで書いてきたけど、これでは2.8 chanに立てるべきスレッドではないのではないか、と思われるかもしれない。だから、ここから異変が起こるまでの事は端折ります。
読者の皆さんは、稲波千歳という人物が今まで話してきたような、明るく、あったかく、可愛い女の子だった事をちゃんと覚えていて下さい。
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事実を知った今では、何処からが異変と言える事だったのか、はっきり言う事は出来ない。けれど、考えてみれば、この帰り道から異変は始まっていたんだろう。
この夏最後になると思って、あたしは学校を出た後、西校舎を振り返った。そしたら、校舎全体が足場とネットで覆われていた。なら、さっきまであたしたちが居た、窓の外にそれらが見えない西階段や音楽室は、何だったのだろう。
千歳ちゃん! と、あたしは校舎に向かって叫んでみた。
工事現場の鉄板にその声が反射して、ぐわああああん、という音になって返ってきたけど、当然彼女の返事はなかった。