「西階段」(『スクリフェッド』)②
* * *
千歳ちゃんと最初に出会った日、あたしは夏休みに忘れ物をしていた。
彫刻刀のセットだった。美術の版画の課題が、休み前の授業までに終わらなかった人は夏休みの間に終わらせてくるように、と先生に言われていたのだ。他の宿題が休み明けの実力考査の為のベネッセのワークブックだけだったから、中学生の時のように夏休みが始まったから宿題やらなきゃ、というような切迫感もなく、受験勉強を終えた翌年だったのでやる気も起きず、日が経てば経つ程それがずるずる重くなるような気がして、このままじゃ駄目だ、頑張れあたし、と気合いを入れてまず版画の仕上げに取り組もうとしたところでこの忘れ物に気付いた。
その日は日曜日で、雨が降っていた。近年の何事も緩くしようぜ、という悪い緩和政策の影響で、学校は夏休み中、原則日曜日の部活動を全部休みにした。ただ、高総体なども時期が重なるので、練習が必要な運動部などは活動許可願を法人局なんかに出して実施を認められている。だけど、雨の日はさすがにそんな事もない。
それでも学校が開いている事を願って、傘を差して家を出たのは、あたしの意地だった。ここで「明日でいいか」なんて考えたら、またずるずるしてしまうと思ったから。でもまあ、学校が市内で、歩いても行ける場所だった、って事は大きかったと思う。普通、雨の日曜日にわざわざ学校になんか行きたくないもん。
版木や完成用の紙は持ち帰ったのに、何で彫刻刀だけ忘れてきたのかな、と不思議な気持ちで学校まで行き、門が開いている事が分かった時はほっとした。門を潜って閉じられた昇降口に行って、またドキッとしたけど、幸いそこの鍵も開いていた。
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開いている以上無人な訳がないから、あたしは迷わず職員室に行って
「普通科一年二組の鈴木美久麗です、教室の鍵を貸して下さい」
と断った。担任の先生もちゃんと居て、水守先生っていう五十代くらいの女の先生だけど、「あら鈴木さん、どうしたの?」なんて尋ねられた。あたしは部活動には所属していなかったのだ。どれも嫌だったって訳じゃなくて、あれこれ悩んでいる間に考査とか始まって、決定の時期を先延ばしにしたまま流れてしまったのだ。
忘れ物の事を話すと、水守先生は「あなたたちも大変ねえ」と言った。
「私は特進科の子たちにも教えているけど、あっちの子たちは教科ごとに課題が凄く出されるのよ。私も読解とか小論文ドリルとか一杯出したけど、本当は可哀想だなって思っているのよ」
「でも、山毘古はそういう学校ですよね? 皆難関大学に進学したいって気持ちはあるんですし、望んで学校に入った訳ですから」
「偉いわね。そういう考え方が出来る人、そうそう居ないわよ」
水守先生は山毘古のOBで、三十年近くここに勤めている。彼女の記憶にある山毘古の印象は、やっぱり荒れていた時代の事が強いんじゃないかなー、ってあたしは思っている。だから、今の子たちがいい子に見えるのだ。
あたしはそう思われて、まんざらでもないけれどね。
それで先生から鍵を借りて、教室に入った。大掃除の後でワックスが掛けられたみたいだから、床はてらてらしていた。空気が籠っていたからか、糊のツンとする匂いがまだ残っていた。
室内ロッカーを見てみたけれど、彫刻刀セットはそこになかった。混乱するよりも納得する気持ちが強かった。版木と紙を持って帰ったのに彫刻刀だけ忘れる訳がないよね、なんて思っていたけど、彫刻刀は最後の授業で美術室に置き忘れてしまっていたのだ。
もう一回職員室に行って、今度は美術室の鍵を借りて西校舎に行った。
最初見た時こそ怖い場所だなあ、なんて思ったけど、慣れると大した事はない。毎日のように美術部や吹奏楽部、合唱部や科学部は使っているし、見た目程陰気な場所でもなかったのだ。
渡り廊下を通って西校舎に移動した時、あたしは微かにピアノの音を聞いた。最初は空耳かな、なんて思ったけど、奥に進めば進む程はっきり聞こえてくるようになったから、気のせいじゃないって分かった。
美術室は、西階段を使って三階まで上がり、踊り場に立って首を左右に動かすと、右が第一、左が第二とある。音楽室は四階に同じ配置であった。授業で使う第一美術室に入り、指定席の机の中を探って彫刻刀の箱があったのを確認して、ほっと胸を撫で下ろしてから、あたしは四階に行った。
吹奏楽部や合唱部だったらもっと大きな音や声がするだろうし、誰なんだろう、って思いながら音のする方を目指した。第二音楽室、普段は吹奏楽部が使っている、コンサートホールのステージのような高い場所がある部屋だった。
当然だけど、扉に鍵は掛かっていなかった。そっと覗くと、あたしは一瞬わっと面喰らった。いつの間にか外は晴れていて、窓が開け放たれた部屋の中は思っていた以上に眩しかった。
あたしの声に気付いたのか、ピアノの音が止んだ。弾いていたのは制服姿の女の子で、恥ずかしがるようにピアノの陰に顔を隠した。あたしは、申し訳ない事しちゃったな、と思った。
「素敵な曲。何ていうの?」
あたしはそう声を掛けた。彼女は、あたかも穴から顔を出す鼠のように、恐る恐るといった感じに顔を覗かせた。
「……ベートーヴェン、ピアノ・ソナタ第十五番『田園』」
名前は知っていた。あたしはクラシックを自主的に聴いたりしないから、鑑賞の授業で聴いた事もあるだろうけど、よく覚えていなかった。
「上手じゃないの。何かのコンクールの練習?」
「そうじゃないよ。ただ、弾くのが好きだから……昔はピアノ教室に通っていて、うちにもヤマハのピアノがあったんだけど、弾けなくなっちゃったから。夏休みの間だったら、ここで弾けるからさ」
彼女は幾分か緊張が解けたのか、顔を上げ、背中を伸ばした。手招きしてくるので、あたしは壇上のピアノの傍に行った。
「ねえ、鍵盤に触った事ある?」尋ねられ、あたしは少し躊躇った。
「小学校の頃、鍵盤ハーモニカをちょっと弾いたくらい。指使いもそんなに覚えていないし、こんなに本格的なピアノは……」
「なら大丈夫だね。連弾しようよ」
彼女が平然と言ってくるので、今度はあたしの方が緊張した。
「鍵盤ハーモニカで、何弾いた?」
「えっと……パイレーツ・オブ・カリビアンの『彼こそが海賊』……が、小学校六年生の学習発表会で最後に合奏した曲かな?」
あたしは主メロだったが、楽譜を読むなんて器用な事は出来ず、ドレミを紙に書いてひたすらに暗記した。ミソララ、ラシドド、ドレミミ、ラソソラ、散々弾いたので今でも覚えている。弾ける、と言えるようなものはこれくらいしかないし、そもそもそれすら自慢出来るという程ではない。
だけど千歳ちゃんは──ああ、それが千歳ちゃんだったんだけど、名前が分かったのはこの後だ──大きく肯いた。
「片手でいいから弾いてみてよ。コードとかは私が弾くから」
「……あたし、下手だよ?」
「いいの。誰かに聞かせる訳でもないんだから」
彼女に押され、あたしは隣に座った。元々一人用の席なので、お尻をくっつけて座ってもかなり狭かったが、その時あたしが感じたのは妙な安心感だった。何故だろう、先程までの居心地の悪さが一瞬で蒸発してしまったかのような。
気付けば、すっと指を伸ばして鍵盤を叩いていた。あたしの調子が出てくるのを見て、彼女もそれに合わせて弾き始める。最初は一本指で弾いていたあたしは、次第に右手の指全部を使うようになった。彼女の見様見真似で左手も使い、彼女に合わせて別パートも思い出し、奏でる。
ピアノ演奏がこんなに楽しいものだとは思わなかった。
* * *
稲波千歳、と彼女は名乗った。あたしより何処か幼い顔立ちをしていたが、中等部ではなく高校一年生だと言った。永遠の一年生、と冗談めかして言うので、あたしは笑ってしまった。所属は総合学科らしい。
あたしは基本的に同級生の女子は呼び捨てだったが、彼女には何だか「ちゃん」を付けたくなる雰囲気があったので、千歳ちゃん、と呼ぶ事にした。彼女もあたしの事を美久麗ちゃん、と呼んだ。
音楽室を出てから、二人で西階段を屋上に続く規制線の近くまで登った。天窓からの日差しが、夏の刺すような暴力的なものではなく、ぽかぽかとあったかくて心地良かった。あたしが彼女に花の香りを感じたのもそこだ。
踊り場の折り返し地点の、下からは見えない場所に、谷崎潤一郎の『細雪』や山尾悠子の『ラピスラズリ』、『源氏物語』の訳本といった書籍類、スケッチブックと色鉛筆なんかが置いてあって、ちょっとした彼女の秘密基地みたいだった。彼女は五教科の成績はあたしと同じく平均的だったが、美術や音楽といった芸術方面の才能はピカイチで、絵も見せて貰ったが、とても綺麗だった。
夢中になって色々な事をお喋りしてしまったが、千歳ちゃんに「ところでその箱は何?」と言われ、あたしは彫刻刀の事を思い出し、今日は版画の仕上げをするんだった、と我に返った。
帰らなきゃ、と言うと、千歳ちゃんは寂しそうに「また来てくれる?」と聞いた。
「あたし、千歳ちゃんの事大好きになっちゃった。また来たいけど、あなたはいつでもここに居るの?」
「夏休みの間はずっと。校門が開いてからすぐに来ても居るから、いつでも遊びに来ていいよ」
本当にここが好きなんだな、と思って「夜でも?」と冗談半分で尋ねると、「夜じゃ閉まってるでしょ」と笑いながら返された。
帰り、西校舎から帰る渡り廊下に出た時、また雨が降っている事に気付いたので、雨が上がって傘を忘れる、というようなポカをしなくて済んだ。でも、忘れた方が明日も来れたのかなあ、なんて思ったりもした。
忘れてなくても、来る予定だったんだけど。