「彼女と先輩」(『スクリフェッド』)⑭
* * *
冬が始まる頃になっても、ユーフォリナは部屋に戻ってはこなかった。以前と同じようにHMEも通じず、だが私は以前のように「勉強が忙しいのだな」などと呑気な解釈をする訳にもいかず、今度は直接彼女のゼミに顔を出した。
だが、そこで私は思いも寄らなかった待遇をされた。
「ユーフォリナは居ません。お引き取り下さい」
入口で、魔法コーディネート学科の学生から棒読みでそう言われた。見るからに私を軽蔑し、追い払おうとしているかのようなその態度に、私は唖然とした。
「居ないって……」
「ここずっと、彼女は顔を見せていません。多分、あなたにニーカさんとの仲介をされるのが嫌なんじゃないですか? 日和見主義の二股膏薬みたいで」
「私は、別に……」
「あんな阿婆擦れ女の災難に真面に付き合おうとする人を、私たちはユーフォリナに会わせたくはありません。彼女が何やってるのかは知らないけど、あなたが彼女に説教する気なら、私たちは探す気もないね」
私は苛立ちをぐっと堪え、ゼミを覗き込んだ。ぐるりと見たところ、ユーフォリナが居ないというのは事実のようだった。学生は「満足ですか?」と口調を変えずに言うと、いきなり私の鼻先でドアをぴしゃりと閉めた。反射的に目を瞑ると、続いてドアが蹴られる鈍い音が響いた。
私は、彼女たちがニーカを責める理由は、ユーフォリナともアガサとも同じではないような気がした。ニュースで、不祥事が明らかになった会社役員や政治家を責める世論と同じだ。噂の中心に居る者たちの尻馬に乗り、そこに自分たちの感情を上乗せして集中砲火する。誰かがあの人を責めているから、私たちも攻撃していいんだ、というように。
ニーカの場合、彼女に向けられた世論の個人的感情とは「嫉妬」だろう。学園のプリンス、クリード先輩。その先輩自身も被害者なのだ、という事も、彼女へのバッシングに拍車を掛けている。ユーフォリナだったら、彼女の責められるべきところはそこではないと、口に出せるのだろうか。それとも、ユーフォリナは彼女を先輩から引き剝がす為、便乗者たちの感情をも計算に含めているのだろうか。
少なくとも私は、事実無根の事でニーカが攻撃されたら、彼女が如何にユーフォリナの言う通り先輩を身勝手に縛っていたとしても、ざまを見ろと溜飲が下がる気持ちにはなれなかった。
* * *
ニーカにHMEで連絡を取り、まさかとは思ったが、ユーフォリナが彼女にメッセージを入れたりしていないか尋ねてみた。その返事もまた、HMEの着信が私と同じく拒否されている、という事だった。彼女も一応、ユーフォリナへの連絡を試みているのだな、と思うと、私は増々落ち込んだ。私はユーフォリナとニーカに仲直りをして欲しいと思っているのに、共感も反感も、彼女たちのどちらにも同程度に抱いている。
『ハミィちゃんがヴィンセンシアに説明してくれるって言っていた件、駄目になりました。詳しく話すから、放課後あたしの寮に来て。 Neyka』
ニーカのメッセージの最後には、そう付け加えられていた。それは、彼女がヴィンセンシア家に召喚されてから丁度二週間後の事だった。あれから、私は彼女にユーフォリナの事をどう話せばいいのか分からず、なかなか口を開けずにいたのだが、それに対してニーカが痺れを切らしたのか、とも一瞬思った。
それにしては「駄目になりました」と意味深長な一言を付け加えてきた理由が分からず、私は言われた通りに彼女の部屋に向かった。
インターホンを押すと彼女が顔を覗かせ、目が合った瞬間わっと泣き出した。私は慌てて、彼女の肩を押して一緒に部屋の中に入った。
「ハミィちゃん、あのね……一週間前、先輩のお兄さんから連絡が来たの。ハミィちゃんを呼ぶのは、もうしなくていいって。先輩がリードベルテ症候群になったみたいで、ずっと意識朦朧状態が続いているって。だから、あたしがもうこれ以上何を言っても、弁明にはならないって……」
「リードベルテ症候群!?」
有り得ない。ニーカとクリード先輩の間に、性交渉はなかった。だが、マイセン理事が偽りを言うはずがない。そんな事をすれば、根も葉もない醜聞を揉み消すどころか、助長する事になる。
「マイセン理事、あたしに、先輩と別れろって言ったの。これはもう、スキャンダルで済む話じゃないって」
「それは、検査されての事なの?」
「違う。でも、あたしとああいう噂が立った後で、急に意識が弱くなったから……昏睡もしないで夢現になるなんて、他にそんな病気……」
ニーカが言った時、私の脳回路に稲妻が走った。
意識……朦朧……?
「何で……」私は、ニーカの両肩を掴む手に力を込めた。「何で、それが分かってすぐに私に言わなかったの!?」
──ハーミィに作って貰ったヒプドラールの実験、まだ終わっていないの。
最悪の事態になってしまったかもしれない。私はユーフォリナを信じたかったけれど、それは感情だった。対してユーフォリナは、何処までも理性の人だ。先輩への思慕という感情の中でも、それを盲目と履き違えたりはしない。
「ハミィちゃんは……」
ニーカの答えは、
「……もう、あたしの味方じゃなくなっちゃったんでしょう?」
私の心に対する、手酷い裏切りの一言だった。
「神様にでも何でも誓う! 嘘だったら、ハミィちゃんとユーフィちゃんに殺されてもいい! あたしと先輩の間には、本当にそういう関係はなかったの! それなのに先輩、あんな病気に感染したの!? 酷いよそんなの……先輩はあたしの事、愛していないんだ……! もう嫌だよ、いっそあたしも彼も死ねばいい……先輩を愛したままで、あたしは……!」
乾いた鋭い音が部屋に響き、私の右手に痺れにも似た痛みが走った。
ニーカの台詞が途切れ、私は自分の掌を見つめた。ニーカが頰を押さえているのを見ても、自分が手を上げたのだと気付くまで時間が掛かった。
「ハミィちゃん……?」
彼女の涙は、流れるのをやめていた。
私はそこで、咄嗟の事だった、と言い訳する事も出来たはずだった。だが、私は謝りそうになった口をゆっくりと閉じた。
そして、理性を感情に委ねよう、と決めた。
「自分一人を可哀想な被害者だって思うの、いい加減にして!」
「なん……で……?」
「愛とか友達とか、簡単に言葉使いすぎ! 私だって……私だって、我慢出来ない事くらいあるよ!!」
吐き出したはずの言葉が、いつまでも喉に絡み付くような感じがした。私の剣幕に固まったまま、ニーカは唇を微かに戦慄かせていたが、やがて拳をぐっと握り締めて涙を拭った。
「ユーフィちゃんみたいな事、言うんだね……」
心臓に注射前の消毒綿を当てられたような、不吉な顫動が背中に走った。
部屋の四方の壁が倒れ、その向こうから闇が押し寄せてくるような幻視があった。
私はそれに、今日の日が暮れたらもう永久に夜が明けないような想像を抱いた。