「彼女と先輩」(『スクリフェッド』)⑬
* * *
「ユーフォリナとニーカ、今何してるの?」
あの後、活動する気はなかったが念の為サークルに顔を出すと、今日もユーフォリナは来ないとの連絡があった事が分かった。私は不審がるメンバーたちに軽く謝り、すぐに部屋に戻ったのだが、そこにもユーフォリナは帰っていなかった。
どうせ帰ってくるのだし、と思いながら、宿題などをして待っていたが、彼女が部屋に戻ってきた時刻は午後七時半を過ぎていた。私がカフェテリアにも行かずに待っている事を見越していたのか、彼女は買い物袋から弁当を取り出して「食べる?」と渡してきた。
その仕草が普段と何も変わらない事に、私は何とも言えない気持ちになった。噂を広めた張本人なのかどうかは措くとしても──そしてそれが違ったとしても──、彼女もまた、ニーカの件を知らない訳ではないだろうに。
私は「はっきり教えて」と言い、彼女に先程の問いを放った。
「何してる、って?」ユーフォリナは、ごく自然に反応した。
「私が何を聞きたいのか、ユーフォリナには分かるでしょ?」
詰問口調にならないようにせねば、と思っていたが、出来なかった。私が焦っている事に気付いているのかいないのか、彼女はそれをさらりと受け流すように歩みを進め、洗面所で手を洗い、上着をハンガーに掛けながら黙り続けた。
「ねえ、ユーフォリナ」
「私が、今思っている事を言うね」
彼女は足を肩幅に開き、腕を組んだ。彼女の纏っている空気が急に温度を下げたような気がして、私ははっと顔を上げた。
「この間の旅行の事、ニーカから聞いた?」
「えっ? ……それは、まあ」
「ああいう擦れ違いがこれからも一杯起こって、ニーカとクリード先輩の仲がどんどん悪くなって、断絶して欲しい。私は今、そう望んでいる」
直接宣言された時の衝撃は、数秒前にはっとした時の衝撃よりも軽かった。それが予感によるものなのか、内心で分からない振りをしている自分が居た。今の自分は、そんな自分を客観的に見ているようだった。
分かっていただけに、湧き上がった気持ちは、怒りでも、悲しみでもなかったような気がする。
ユーフォリナは続けた。「嫉妬じゃないよ」
「ユーフォリナ……」
「恋愛は奇跡の産物なの。そう思う気持ちは変わってない。だから……今の私には、ニーカがその奇跡を我儘に歪めているように見える。彼女は自分の恋が、私やハーミィの犠牲の上に成り立っている事を忘れている。自分を中心に世界が回っていると思っている」
私は絶句した。自分が必死に目を逸らしていた事を、思い切り突き付けられたような気がした。けれど──果たしてニーカのそれは、彼女が今受けようとしている制裁に値する事だろうか。
「……ユーフォリナ、ごめん。私、あなたに隠していた事がある」
何とか声を振り絞ると、彼女は「へえ」というように眉を上げた。
「あの夜……ニーカが旅行から帰ってきた日の夜、私は起きていたんだよ。ユーフォリナとニーカが話しているの、全部聞こえてた。ニーカがクリード先輩と、上手く行かなかった事も。確かにあんな事、未だに先輩の事が好きなユーフォリナには聞かせるべき話じゃないよ。でも……」
「ハーミィも同じでしょ? 先輩を好きなのは」
「ごまかさないで聴いて。……そうだよ、私もきっと、まだ先輩への恋心に区切りを付けられてはいない。ニーカが先輩を独り占めしながらああいう事を言うの、我儘だと思うし、腹も立つけど……」
「ニーカと別れなきゃ、先輩はどんどん磨り減っていくよ」
ユーフォリナの口振りは、それが予測ではない、現在進行形の観測なのだと強調して言うかのようだった。私はその言葉の後に、「だから」という語られない一文があるような気がした。
──だから、どんな事をしてでも私は、先輩を解放しないといけないの。
「ユーフォリナは、二人を貶めるような噂を立てたの? 先輩の名誉を失墜させても、ニーカから解放する為に?」
私がその事を口に出すのには、時間は掛からなかった。だがその転瞬には、普段の私が半ば惰性で過ごす時間の何倍もの思考が凝縮されていた。
ユーフォリナは、不意にぐっと口を噤んだ。普通、このような沈黙は肯定と受け止めざるを得ないのだが、私はそれを否定したくて、次の一言をなかなか口に出せなかった。
やがて、彼女はハンガーに掛けた上着をまた着直した。
「私、また暫らく留守にするから。ハーミィに作って貰ったヒプドラールの実験、まだ終わっていないの」
机の脇に投げ出した鞄を拾い、そのままくるりと向きを変える。
「待って、ユーフォリナ」
「心配しないで。お金はまだあるし、コスメも歯ブラシも下着も全部買うから。服は制服があれば十分だし。ハーミィ、私はあんたの事好きよ。ただ私はちゃんと、切り捨てるべきものは切り捨てられる人間だって事を、ちゃんと覚えておいて」
歩き出しながらそう言ったユーフォリナは、バタン! とドアを閉めて部屋を出ていった。私は追おうとしたが、踏み出そうとした足を後ろに戻し、椅子の上に腰を落ち着けた。そのまま座面に三角座りをして、膝と体の間に額を押し当てる。
以前私はユーフォリナの事を、真っ直ぐすぎて、自分の歪みに気付かない人間が彼女を見ると歪んで見える、と評価した事があった。
だが今の私は、この日常に生じた歪みが自分の歪みなのか、彼女の歪みなのか、分からなかった。