「彼女と先輩」(『スクリフェッド』)⑫
* * *
翌々日、私は講堂に出てまたアガサに詰め寄られた。さてはユーフォリナに頼まれて、ヒプドラールを申請なく調合した事が露見したか、と思い、以前と同じく咄嗟に逃亡しかけたのだが、今回のアガサは「逃げるな!」と強く一喝してきた。
「あんた、ニーカと昨日か一昨日、話した?」
「ニーカと? 彼女、何かしたの?」
「何かしたも何も、知らないならおめでたい話だよ、ハーミィ。あの子、クリード様と男女の関係になったって言うじゃない。その噂は本当なの?」
「ええっ!?」
私は大声を上げ、集まりつつある生徒たちからの視線に四方から貫かれた。アガサはマズいと思ったのか、私の袖を引っ張って講堂のすぐ外の廊下に出る。
「何で、あの子はあんたに話さなかったのよ。正直、真っ先にハーミィに伝えてしかるべきだって思っていたんだけど」
「その噂がガセだからに決まっているでしょ! ニーカと、クリード先輩が、そんな事になるって事は、絶対にない!」
聞いたんだから、と言おうとし、私は歯が痛くなる程の勢いで口を閉じた。そうだった、私はニーカのデートの結末について知らないはずなのだった、と思い直す。代わりに、冷静さを取り戻す為咳払いし、アガサに聞き返した。
「そんな事、誰が言ってるの?」
「ユーフォリナ。昨日、私に直接HME送ってきたの」
アガサの一言は、鋭く私の耳を刺し、そのまま鼓膜を破ったかのように、周囲から音を刹那に奪った。
「何で……? そんな事、あるはずない……だって、ユーフォリナは……」
「私、ユーフォリナは危ない子だと思っていた。だけど、今はニーカの方が危ない。あの子が最初に私に連絡してきたのは、この一件でクリード様が被る被害を最小限に抑える為だと思う。ヴィンセンシア家と繋がりの強いイーベル家が連携すれば、噂に尾鰭が付いて拡散するのをある程度抑え込めるから。でも、それもいつまで持つか分からないけどね。クリード様とニーカの旅行の事は知れ渡っているんだし、学生たちのネットワークと憶測と、偶然が働けば」
「聴いてよアガサ! ユーフォリナは、そんな嘘を吐くような子じゃない!」
私は、途方に暮れて叫んだ。言葉の通じない異邦人に訴え続けているような、空虚な焦燥を感じながら。
「嘘? クリード様は、私が噂を抑え込む為にやむを得ず家に伝えた事で、今マイセン理事から自宅謹慎を言いつかっているのよ。ニーカにも事情を聴かないといけないし、彼女を慮って話の出所がユーフォリナだって事は隠してあるし。昨日一日でここまで拡大した事態を、全部ユーフォリナの嘘だって言うの? それじゃあの子が、クリード様を陥れた事になるじゃない」
「だから、ユーフォリナはそんな事しないって……」
「じゃあ、私が嘘を吐いているって?」
アガサの表情は真剣そのもので、私は増々混乱した。
そうだ、アガサがこの一件に関して嘘を吐く事はおかしい。如何に彼女がニーカと先輩の仲を良く思っていなかったとしても、それは彼女自身が先輩を慕っているからなのだ。その彼女が、ヴィンセンシア家に汚名を着せるような策略を弄するはずがない。彼女は、イーベル家を担う貴族の一人なのだ。その時その時の感情で、無分別な学生が後先を考えず行うような軽挙に出れば、社交界全体を動乱させてしまう事にもなりかねない。
だが、それを言えばユーフォリナもそうではないか。彼女とて先輩を愛している。恋愛に対して人一倍の哲学を持ち、真摯に向き合おうとする彼女が先輩を好きになった気持ちは、ミーハーでも色欲でも所有欲でもない。それに、ニーカもユーフォリナにとって大切な友達なのだ。彼女が策略を弄した場合、愛する人と親友を同時に貶める事になる。
──親友?
そこまで考え、私は胸がぎゅっと締め付けられた。
ここ最近、ずっとニーカとユーフォリナの仲はぎこちない。これが、ユーフォリナの中で友情と恋愛感情がアンビバレントの状態に在るせいだとしたら。また、ニーカのあの性格が先輩を苦しめているのだと、ユーフォリナが判断したら。
私は、自分たちが暗いトンネルに入りつつあるような、目の前に虚無的な闇が広がっている恐ろしさを感じて身震いした。その「自分たち」というのが、自分から誰までを指しているのか、自覚しないままに。
* * *
私はニーカに、放課後一人で体育館の裏に来るようにHMEを送信した。一昨日のメッセージが無視された事を思い出し、今度も駄目ではないか、などと悲観的な事を思ったが、その時は彼女の部屋に突入しようとまで考えた。
幸いその心配はなく、彼女からは「分かった」という簡潔な返事が送られてきた。その後に、何時何分に授業が終わる、というような事も箇条書きのように単語だけ並んでおり、彼女らしからぬ文面に、私は別の不安を感じた。
約束の五分前に待ち合わせ場所へ行き、待っている間、私はそわそわと落ち着かなかった。中で体育会系サークルが活動に励んでいるのを聞いたり、靴の爪先で雑草を掘り返したりしながら、一昔前、告白の為に相手を体育館裏に呼び出すという事が主流だった時代、そのカップルの片割れはこのような落ち着かなさを感じていたのだろうか、などと思ったりした。私がそうした彼らと違うのは、そのそわそわの原因が高揚感ではない事だけだった。
約束の時間から五分程遅れて、ニーカが現れた。
「ニーカ……」
「……用件は書いてなかったけど、ハミィちゃんがあたしを呼んだ理由、何となく分かったよ。あたしもその件で、これからヴィンセンシアのお家に行かないといけないの。アガサさんが送ってくれるって言うから、時間はそんなにない」
彼女の声は、今にも嗚咽が零れそうなのを必死で堪えている、というようで痛々しかった。だが、その件でクリード先輩は学校にも来られなくなったのだという事を思い出すと、彼女のその仕草が酷く忌々しいものにも感じられてしまった。
「噂の事、聞いたよ。出所についてはアガサから聞いた通りで、ニーカも多分同じような事を聞かされていると思うけど……」
私が切り出すと、ニーカは更に俯いた。
「アガサさんからじゃない。あたしは、同じ科の生徒から質問された。本当に先輩と……って。あれ、絶対に本当に聞こうとしていたんじゃない。皆、あたしに意地悪しようとして……」
「何で、あの旅行の後で私の連絡を拒んだの? 結局あの時、先輩とはどうなったの? ニーカの口から聴かせて」
私は、自分が残酷な事をしていると思いながらも、尋ねずにはいられなかった。尋ねなければいけなかったのだ。結果を知ったのが盗み聞きだった以上、彼女の口から聞かない限りは、私は誰かを庇う事も出来ない。
「あたし……あたしね、先輩の事、心から愛しているんだよ。好きで、好きで、もう彼以外愛せないってくらい好きで、彼に拒絶されるくらいなら死んだ方がいいってくらい。そう思ってるのに……それが本当なら、本当にあった出来事なら、こんな噂とだって、面と向かって争っていけるのに……!」ニーカは言った。「ハミィちゃんも、ユーフィちゃんと同じなの?」
「同じって……?」
尋ねようとして、私は途中でやめた。彼女も、噂の出所がユーフォリナだと聞かされているのだ。
「あたしたちは、友達じゃないの? あたし、ユーフィちゃんの事だって大好き。ユーフィちゃんを友達として愛してる。やっぱりあたし、クリード先輩を好きになっちゃいけなかったって、ユーフィちゃんは言うのかな? 好きになっちゃったものはしょうがないじゃん、どうしようもないじゃん……!」
「ニーカ、落ち着いて」
「もし恋人が出来ても、同じ人を好きになったとしても、あたしはユーフィちゃんとずっと友達で居たいよ。なのに……」
ニーカは、私の襟元に顔を押し当ててくる。堪えきれなくなったように肩を震わせ、声を漏らす彼女の背中に、私はおずおずと手を回した。涙だろうか、彼女の顔を当てている胸が温かく濡れたのを感じ、再び口を開く。
「友達だと思っているなら、何でユーフォリナを信じられないの?」
口から出た言葉が、私自身でも信じられないくらい空々しい事に、私は背筋の粟立ちを覚えた。その台詞は、私が、自分に向けたものでもあった。
「私も、ニーカとユーフォリナの事が大事。友達、いえ、親友だって思ってる。だからさ、『友達じゃないの?』なんて質問を、『ユーフォリナと同じなの?』なんて……そんな事、言っちゃいけない」
「でも、事実が分からないんだもん……」
「分かっている事は、ニーカが先輩を穢したなんて事は、絶対にないって事だけ。この噂の出所についてはまだ何も分かっていない。分かっていないからこそ、不用意な言動は慎まなきゃ」
「このままじゃ先輩、あたしから離れて行っちゃう。ハミィちゃん、HMEの先輩のアドレス消してくれる?」
「なっ……何でそんな事言うの?」
「ハミィちゃんもユーフィちゃんも、まだ先輩の事、好きなんでしょ? それでもあたしに信じてって言うなら……それしか、あたしと皆の愛が切れないって、誰もが安心出来る方法はないって思うの」
「そんなの……」
ニーカの自己満足じゃない、と言いかけ、ぐっと唇を噛んだ。今の彼女には、何を言っても逆効果のような気がした。
「……とにかく、私は私なりに、事実と嘘をちゃんと区別していく。ユーフォリナにも直接確認する。だから、ニーカはマイセン理事から何か説明を求められたら、事実だけをちゃんと伝えて。信じて貰えないかもしれないけど、そしたら私が、噂を広めたのはユーフォリナじゃないって、私の口から彼らに証言する。皆、悪くないんだってちゃんと言う。口頭で信じられないんだったら、ここで私がHMEにメッセージを吹き込んでもいい」
私はそっとニーカから体を離すと、HMEを取り出して同じ事を繰り返した。音声認識が間違っているところなどがないかを確認し、送信する。一瞬の後、ニーカのスカートから着信音が鳴った。
「それをマイセン理事に見せれば大丈夫。私と、ユーフォリナと、絶対にヴィンセンシア家に行くから」
私は、もう何も言うな、という意思を込めてニーカの瞳を真っ直ぐに見据えた。彼女はまだ何か言いたそうにしていたが、そっと私のHMEを覗き込み、時刻を確認すると、無言で身を翻した。
夏はとっくに終わり、方角の変わりつつある風が狭い体育館裏の通路に吹き込んできた。その風の冷たさに、私は先程まで胸に残っていたニーカの温かさが吹き散らされていくのを感じた。