「彼女と先輩」(『スクリフェッド』)⑩
* * *
「ねえ、ハーミィ。霊薬療法学科で、ヒプドラールの調合ってもうやった?」
ニーカとクリード先輩が出掛けた当日、ユーフォリナが私にそんな事を聞いた。私は、次の実技試験の霊薬調合手順の復習をしていたのだが、危うく借りてきたポリゴン映像シミュレーターを壊すところだった。
「ヒプドラールって……指定薬物じゃない」
私は、ユーフォリナが何か勘違いしているのではないか、と思った。彼女が口に出した霊薬は、服用した者の意識を混濁させ、夢現の状態にする劇薬だった。比較的安全な方ではあり、連続して摂取し続け、急にそれを停止しない限り禁断症状は出ない。霊薬療法学科で取り扱う麻薬級の霊薬の中ではいちばん最初に登場するものではあるが、軽々しく調合していいものではない。
「ユーフォリナ、欲しいの?」
「まあ、ちょっとね」彼女はベッドの上で本を広げており、そこまで深刻そうではない。
「あれは睡眠薬じゃないんだよ。勉強とかで疲れているなら、スレプテラなんかを作ってあげるけど……」
「違うの。学科で実験をする事になって、『幻覚効果のある魔法が動物に最もよく作用する時の状態』を調べなきゃならないんだけど、眠らせずに意識混濁状態を作り出すのって、自生魔法じゃ難しくって」
「また、難しそうな実験テーマを……」
てっきり、彼女の眠りが浅いという話だと思った。何だか最近、そんな気がするのだ。以前は私が徹夜で勉強しようという時でもさっさとベッドに入り、電球が眩しくて眠れないなどと言っていた彼女だが、最近では、というよりゼミでの泊まり込みから帰ってきた頃から、どうも就寝時間が遅くなっている。
無論、部屋に帰ってきた日から間もない頃は前のように「ハーミィと寝るの久しぶりだなあ」などと言いながら一緒のベッドに入ったりしてきたし、最近でもそのような事は往々にしてよくあるが、寝息を立て始めるのが明らかに遅い。
寝不足なのは分かっているのだ。普段メイクをあまりしない彼女が、ここ数日目の下の隈を消す為に毎朝洗面台と向き合う時間が増えている。勉強熱心なのは彼女のいいところだが、この前の事と言い、あまり心配を掛けさせないで欲しい、というのが私の正直な気持ちだ。
「そういう事なら、うちの研究室に公的に頼めば貸して貰えるよ。わざわざ私が調合しなくても」
「そうすると、色々書類とか用意しないといけないし、先生も実験に立ち会わせなきゃいけなくなるし、面倒臭いでしょ? 私、そういうの嫌なんだよね。一部ルールを悪用する人が居るせいで、そのルールに関わるプロセスがどんどん複雑化して、面倒臭くなっていくの。私は別に、劇薬を貰っても悪用とかする人じゃないって、ハーミィも分かってるでしょ?」
「そりゃ、ユーフォリナが薬物で悪い事するなんて思ってないけどさ。実験で使ったら記録調べられて、研究室から貸し出されたものじゃないって分かっちゃうよ。そしたら……」
「大丈夫、皆には動物にヒプドラールを投与する瞬間は見せないで、自生魔法の振りするから。そうすれば、研究室に貸し出しデータは残らない訳だし、残った薬品だけ処分すれば疑われる余地がない」
「私の気持ちにもなってみてよ。ユーフォリナはそれで大丈夫でも、私が調合した事バレたら、責めは私に来るんだから」
「その時は、私が正直に謝る。理由さえちゃんと言えば、そんなに危険もない霊薬なんだし、そこまで厳しいお咎めはないよ。生徒指導の数も、私だけ追加にして下さいって先生にお願いする。だから、お願い。実験の期限も近いし、本当に研究室に交渉する時間はないの」
いつの間にかユーフォリナは、広げていた本を閉じ、ベッドの端まで来て正座し、頭を下げて両手を合わせていた。普段私と二人で居る時には見せないような切実な態度に、私はついびくりと身を引いてしまった。
「お願い! 絶対大丈夫だから! 信じてくれない……かな?」
「わ、分かったよ、ユーフォリナ」
彼女の圧に押され、私はそう返事をした。ポリゴン映像シミュレーションを操作する手元が狂い、投影魔法で構築されていたホログラムの仮想物質が机の上に散らばった。
「休みの間なら研究室も自由だし、明日の午前中までに調合するから。それで大丈夫そう?」
「ありがとうハーミィ! この恩は忘れないよ!」
ユーフォリナはぱっと顔を輝かせ、いつものような元気さを取り戻してスプリングの反発力を借り、私に抱き付いてこようとした。ので、椅子のキャスターを転がして回避した。
* * *
翌日の午前中、私は約束通りこっそりヒプドラールを調合し、小瓶に詰めてユーフォリナに納品した。その際、授業で教わる通り、継続して使用しない事、使用量は添付した説明書の通りに従う事を言い含めた。
ユーフォリナは「ありがとう」と言い、小瓶を押し抱くようにした。
「ハーミィの為にも、絶対に成功させなきゃ」
汚れ役を引き受けたみたいな言い方、と私が指摘すると、彼女は「そうかもね」と微かに笑った。
* * *
同日、ニーカに連絡をする事も忘れなかった。昨夜はユーフォリナからの依頼で頭が一杯になってしまっていたが、ニーカとクリード先輩が王都で一晩を共にする予定だったなら、翌日の今日、事は済んでしまったはずだ。成功だったのか失敗だったのか、考えると不安になった。カフェでの時、ニーカがあからさまに不安がっていたからかもしれない。
そう考えるとユーフォリナの要望は、私が昨夜ニーカたちの事を考えて眠れなくなるのを防いだ訳だが、それは図らずしてだったのだろうか。ユーフォリナの事だ、あらかじめ私の心情を考えての措置だったと後から打ち明けられたりしたら、私はさもありなんと納得してしまうかもしれない。まあ、彼女の様子だと実験は本当のようなので、考えすぎというものだろうが。
私は、ニーカにどのように聞けばいいか、HMEの文章を何度も推敲した。
「先輩とのお泊まりどうだった?」から始めるのは無難でいい。だがその後、何を書くべきだろうか。「良かったね」では何だか失敗していた時に悪いし、「羨ましいな」ではまた彼女から邪推を受ける事になるだろうし、「おめでとう」では何処となく皮肉っぽい。
考えた末、そのまま何も付け加えずに送信した。
結果、彼女からの返信はなかった。