「彼女と先輩」(『スクリフェッド』)⑨
* * *
その数日後、ユーフォリナが部屋に帰ってきた。インターホンを聞いた私がドアを開けると、久しぶり、と軽い口調で言いながら入ってきた。何の前触れもない彼女の復帰に、私は暫し電柱のようになった。
「ユ、ユーフォリナ、何で連絡に答えてくれなかったのよ!」
寂しかったんだよ。心配したんだから。何があったの? 資格は取れたの?
口を開くと、言葉が怒涛の如く溢れ出しそうだった。だが、ユーフォリナは挨拶の次に何を言うでもなく、ベッドにどかりと座った。
何だか、彼女はやつれたように見えた。彼女のメイクはしているのかしていないのか分からず、その血色が本物なのかどうなのか見て取る事は出来なかった。
「……告られた」
彼女は、先程の「久しぶり」と同様さらりと言った。
「えっ?」
「ゼミの男の子から。事実なのに、友達に報告すると自慢みたいで嫌だね」
「それで……ユーフォリナはどうしたの?」
私は、得体の知れない焦燥感を感じた。私たち三人の中で、恋人の居ないのは私だけになってしまうのではないか、という考えが一瞬頭を擡げた。
だが、ユーフォリナは首を振った。
「断った。私は、恋愛には絶対妥協して相手を決める事はしないから。その子にもそう言ったよ。そしたら、クリード先輩の事を今でも想っているのか、って。何だか、バレてるみたいだね」
「そ、それで?」
「『相手に恋人が居るからといってその想いを諦めてしまうのは、本当に好きって事なの?』って返したよ。失恋ソングってさ、泣きながら、もう断ち切らなきゃって思っているけど諦めきれないよ、ごめんね、みたいな歌が多いけどさ、それが普通だっつうの。逆にそれじゃあ、今だけ酔ったみたいに歌って、時が経てばすぐに忘れちゃうんでしょ、って思っちゃう。私、捻くれ者だよね」
──違う、と私は思った。
ユーフォリナは真っ直ぐすぎて、自分が歪んでいる事に気付かない人たちが彼女を見ると、逆に歪んで見えるのだ。
* * *
翌週、また私たちはニーカに呼び出された。ユーフォリナが帰ってきた事をHMEで話した時はそれを喜ぶような返信を送ってきたものの、久しぶりにサークルで三人で顔を合わせた時、ユーフォリナが普段のように元気に挨拶した時のニーカの表情は複雑そうだった。
カフェ『ドライ・リーベ』でいつものテラス席に座った時、彼女から切り出された話で、私はその理由を納得した。
アイビーの葉は、何だか以前よりも斑が増えているような気がした。
「経営法学科の、同級生の女の子から噂を聞いたんだけどね、ユーフィちゃんがクリード先輩の事、あたしから奪おうとしているんじゃないかって言うの。……ユーフィちゃんを疑っている訳じゃないのよ。でもね、ちょっと心配で……」
ニーカから聴き、その噂については初めて知った。ユーフォリナに対してもそんな噂が立つ事があるというのは、若者の情報発信に於ける無責任さの表出のような気がして怖かった。それだけに、「ユーフォリナの略奪愛」とは根も葉もない噂を意味する一種のことわざになりそうな異様さを秘めていた。
ニーカは疑っている訳ではない、と言ったが、それを疑いと言うんだよ、と私は口を挟みたくなった。だが、当のユーフォリナは面倒臭そうに息を吐き出し、やれやれというように頭を揺らした。
「噂の出所は、私に告ってきたあの男の子ね。私の言った言葉を意味を一歩踏み込んで解釈しちゃったのか、私に振られた腹いせに私を貶めようとしているのか、どっちかだね。後者ならあんまりにも馬鹿馬鹿しいけど、そうする事で他の男が私に近づかないようにして次のチャンスを見計らっているなら、まあ可愛いプレイなんじゃないの?」
「えっ、ユーフィちゃん、男の子から告白されたの?」
ニーカが、目を丸くした。だが、その眦は段々下がっていく。
「まあ、そうだよね……自分から告白したあたしとは違うもんね。あたしには先輩しか居ないけど、ユーフィちゃんなら……」
「あらかじめそういう噂を立てちゃえば、私とクリード先輩が付き合えなくなるからって事なんでしょ。そんな事しなくても、私は別にニーカたちに割り込もうなんて考えていないから安心してよ」ユーフォリナは言う。
「……本当に? あたし、ちょっとだけ怖いの。先輩、ユーフィちゃんの事を結構褒めるんだよ。あたしは告白してOKされただけだし、あたしが彼女になったから、悪いところが目に付くようになっちゃったんだとしたらって思うと」
「本当よ。第一、先輩は浮気なんてするような男じゃないでしょ。噂の当人の私が言ってもって感じだけど、ニーカも彼女なら、彼の事をもっと信じてあげなよ。私の為だけじゃなくってさ」
「分かってる。でも、ユーフィちゃんの事だってあたしは好きよ。だから……あたしたち三人、ずっと友達だよね?」
「友達だよ、当然。でも、恋についてああだこうだって事で、友達だとか友達じゃないとかの指標にはして欲しくないかな」
ユーフォリナの言葉が、そこで若干尖った気がした。私は驚き、思わず彼女を見つめたが、彼女の目は何処かつまらなそうで、特に深い事を言ったという自覚はないようだった。
ニーカの、カフェオレのカップの取手を握る指が一瞬白っぽくなった。
「そんな事、ないよ……あたし、本当ユーフィちゃんと友達で居たいって思ってるもん。ハミィちゃんとも」
「だから、それを恋に絡めないでっていうだけだってば。私たち三人の友情が不変的なものだって思っているのは、私もハーミィも同じよ」
分かる? と、ユーフォリナが彼女の指に自分の指を添えると、やっとニーカはこくりと肯いた。手を温めるように、どんぐりを抱える栗鼠のように両手でカップを包み、寝息のような可愛らしい音を立てて一口啜る。それから、「ここからが本題なんだけど」と言うので、私はつい「えっ?」と言ってしまった。
「今のが本題じゃなかったの?」
「これだけの事で、わざわざ二人だけ呼び出したりしないよ」
そういう割には、随分深刻そうだったではないか。だが、彼女が本題というからには、これからの方が間違いなく重要な事なのだろう。
「……あたしね、超勇気出したんだよ。今度のお休みの日、王都中央の方に一晩お泊まりで旅行に行きませんか、って先輩を誘ってみたの」
ニーカは、躊躇うように忙しなく指でテーブルクロスの端を弄っていたが、やがて出すべきものを出しきるように早口で言った。「先輩、いいよって言ってくれた」
「おおー……」
私は、音を立てないように指先で小さく拍手をした。
「それでそれで?」
「二人でお泊まりするなんて、ムードがムードだけに……あれでしょ。夜とか、その……暗黙の了解というか、お約束というか……ね? どうすればいいのかな?」
「どうすればって?」「何で、私たちに聞くの?」
口を開くタイミングが、私とユーフォリナで重なった。私のは単に、かなりデリケートな問題で、掛けるべき言葉を探すのに時間が必要だった為にした質問だったのだが、ユーフォリナは、
「先輩とそういう事になった時の事? それとも、ニーカがそうしたい時の事?」
言った上で、たちまち顔の紅潮を引いたニーカに
「何で、それを私たちに聞く必要があるの?」
と、もう一度聞き返した。
「だって、分かんないから……ユーフィちゃんなら、そういう経験があってもおかしくないのかな、って」
ちょっとニーカ、と私はつい口調が強くなった。今のは、ユーフォリナの潔白性を疑うような台詞だ。友達だよね、などと確認した相手に、その直後に言うような言葉ではない。
意図的に穏やかさを保とうとしていたようなユーフォリナの表情が、そこであからさまに固まった。不機嫌そうに眉を潜め、言葉を探すように唇をわなわなと震わせていたが、やがて「そっか」と口を開いた。
「私の言葉が悪かったね。友情と恋を絡めないで、なんて言ったのが間違いだった。恋になったら、私が何をするか分からないもんね」
「ユーフィちゃん……?」
この期に及んで、ニーカは自分の失言に気付いていないらしい。何処まで能天気なのか、と思ったが、このまま彼女が続く発言をすれば本当にユーフォリナが怒り出しかねない。私は何かを言わねば、と思ったが、咄嗟に口を突いたのは
「そういう場の主導権は、男性側に任せてしまっていいんじゃないかな?」
これだけだった。
「任せる?」
「別にニーカから擦り寄って行かなくても、クリード先輩はニーカに恥をかかせたりしないよ。ニーカは、先輩にされるがままにすればいいの。落ち着いて身を任せて、ただ受け入れる。別に、何もする事はないって」
また、それだけで大丈夫かな、などと言い出すのではないか、と不安になったが、彼女は大人しく肯いた。ちらりとユーフォリナの方を窺うと、彼女は短く「まあ、それでいいんじゃないの?」と言った。
私は心の中で、ニーカと先輩は本当にそこまで行くんだろうか、と思った。もし本当にそうなった時、私は何を思うだろう。ニーカに対しては、喜べるだろうか。それとも、嫉妬が表に現れるようになるだろうか。
私は、先日先輩を見る目がいつの間にか”片想いの相手”ではなくなっていたのを意識した事を思い出す。私は先輩に、今でも恋しているのだろうか。