「彼女と先輩」(『スクリフェッド』)⑧
* * *
「えー、まだ書くんですか?」
「ごめん。でも仕方ないんだよ、作ったのはアガサさんたちなんだからさ」
クリード先輩が次々にバインダーに閉じ換える書類を前に、アガサがげんなりした声を出す。私とニーカは後ろで、先輩の兄であるルムートの運用執行理事、マイセン氏と顔を見合わせた。彼は、ややきまり悪そうに手刀を切った。
特許申請の手続きはルムートに引き継がれ、アガサと私は庁舎に呼び出されて最後の署名捺印作業を行う事になった。本当は研究室の代表は二年生なのだが、五摂家というコネクションでルムートと何かと融通が利くだろう、と事がアガサに任され、その彼女から半ば強制連行される形で私も来る事になった。ニーカは、どさくさに紛れて着いてきた。
「……よし、これで終わり。お疲れ様、アガサさん」
「良かったあ……じゃあ、もう帰って大丈夫ですね?」
「いや、本当に申し訳ないんだけど、今度は僕がこれを上に報告しないといけない。その間、ここで少し待ってて欲しいんだ」
書類の山の間で、燃え尽きたように落とされるアガサの頭の角度が、更に大きくなる。先輩は、「ごめん」と言いながらもついついというように笑い、彼女の肩を軽く叩いた。
「庁舎の中にカフェバーもあるから、ゆっくりしてていいよ。でも、なるべく早く終わるようにするから」
「……はーい」
アガサは立ち上がり、「ハーミィ」と私の名前を呼んだ。
「あんた、ここで待っててよ。あとで私の事、呼びに来て」
「ええっ? ……あー、まあ、了解」
大量の書類の記入を行ったのはアガサなのだ、私も少し我慢しなくては。
私は肯くと、マイセン理事の方をちらりと窺う。先輩のように一目で女性を魅了するようではないが、経験を積んで錬成された深みのある顔立ちの彼は、微かに表情を和らげた。
「座ろうか。ハーミィさんたちも疲れただろう」
彼は、壁際のベンチの方に歩み寄って腰を下ろすと、私とニーカにも座るように手招きしてくる。先輩とアガサが去ってから、私たちも「失礼します」と断ってからそこに掛けた。
「……緊張しているよね、君たち?」
問われ、ニーカはこくこくと肯く。初めて上流階級の世界に踏み込んだ、という認識、今まで遠くから見るだけだったルムートの会員と話をしている、という客観的な分析が、私たちの体を強張らせていた。中でも、人見知りの激しいニーカはもう少しで青褪める程に顔色を変えていた。
マイセン理事はなるべく穏やかに、そんな私たちの緊張を解こうとしてくれているようだった。
「私は、今はエアルサミアの運営母体の重役ではなくて、クリードの兄だ。恋人の家族の男に会う時、男なら殴られるのが当然みたいな風習はあったけど、さすがに女の子にそんな事はしないよ。五摂家に会っているって考えるより、そっちの方がいいだろう?」
仕事をしている間は厳しそうに見えたが、ユーモアのある人のようだ。私は少し安心し、肩の力を抜いた。
「二人の事は、クリードから毎日のように聞いているよ。あと一人、ユーフォリナって子の事もね」
「先輩が……」ニーカは、意外そうに眉を上げた。
「これくらいの歳になると、あんまり恋愛について身内に話したりはしたがらないみたいだけど、あいつは違うんだ」
「その……いいんですか、庶民とそういう事……?」
ニーカが恐る恐る口を開くと、マイセン理事はくすりと笑った。
「それが困るなら、最初から庶民の学校に通わせたりしないよ。確かに五摂家は政略結婚が多いし、跡継ぎだと幼い頃から許婚が決まっていたりする。ジェラルド家なんかは特に厳しい。でも、今のところ家を継ぐのは私になりそうだし、それなら彼には自由な交際をして欲しい。あんまり、貴族として見られるのが好きじゃないんだ、あいつも」
「マイセン様にも、婚約者が居られるんですか?」
「イーベル家の、アガサさんの従姉がね。昔からの仲だし不足はないけど、やっぱりクリードを見ると羨ましいな、っては思うな」
「えっと……こんなあたしですけど、改めて宜しくお願いします」
ニーカがぺこりと頭を下げ、私も釣られてお辞儀した。
「浮名を流さない事と、あいつをリードベルテ症候群にしない事だけ約束してくれたら、何でも大丈夫だよ」
意識朦朧状態が続く、あの男女間の行為で感染する病名に、何を言われているのか理解したニーカは顔を赤らめる。私がフォローに困っていると、マイセン理事は再び言葉を紡いだ。
「次男は、桎梏が少なくていいよ。体裁とか外聞とか、陛下に仕える為の教育とか、長男は全部こなさなきゃいけないし、ちょっとでも不始末があれば気分的には公開処刑みたいなものだしな。でも、私がそうだからこそ、クリードもあんなに無意識に完璧が実践出来るようになったのかもしれない。学校生活はあいつにとって、本当に心の解放なんだよ」
「サークルでの先輩、生き生きしていますよ。経営法学科に居る時よりも」
「ニーカさんたちのお陰だ。君たちには本当にお世話になっている。……この間の流星祭でクリードを手伝ってくれたのは、ニーカさんだっていったっけ?」
「あ、いえ。あれは、ユーフィちゃんが……」
「そうか……是非彼女にも会ってみたいものだね」
マイセン理事は、まだ見た事のないユーフォリナの姿を想像するかのように、やや顔を仰向けた。
そういえば、財閥は基本的に能力主義なので、エアルサミアの各学科の課程を首席で卒業すればルムートに取り立てられ、出自に囚われる事なく貴族と付き合えるのだよな、と、私は不意に何の脈絡もなく考えた。
「ユーフィちゃんみたいな子が、模範生って呼ばれるんですよね」
ニーカは、しみじみという副詞が最適な口調で呟いた。
「彼女、男の人にとっては、ちょっと強い感じがするって思われそうな子なんですよ」
「性格がキツめって事?」
「何というか……あたしは友達だからこうも言えるんですけど」
彼女のいつになく真剣な口振りに、私はつい引き込まれるような気がした。
「ユーフィちゃんは、彼女みたいな人が居ると、周りの人たちを狂わせるような女の子なんです」