「舞台転生」(『スクリフェッド』)①
前半 部隊転生(1945年 3月)
「おめでとうございます、由貴一夫さん」
配達員が渡してきた一枚の淡紅色の紙を見た時、世界から色が飛んだ。視界から世界の輪郭が消えていき、何もない白濁色の空間に一人立っているような心地になる。
一切の消えた世界の中で、召集令状の文字列だけが哄笑するかの如くこちらを見つめているように思われた。
* * *
どうして、ここに来てしまったのだろう?
自問しながら、僕はふらふらと歩いていた足を止めた。顔を上げると、門柱に掛けられた「飛鳥井」という表札に目が留まる。親友の名字だった。
彼に会ったら、何を言えばいいのだろう。どう切り出せばいいのだろう。彼は何と言うだろうか。僕は、弱みを見せたりしないだろうか。怖い、と言ってしまいそうな事が、何より怖かった。
暫し逡巡し、腹を決めて冠木門を潜る。いつもそうしてきたように、僕はぐるりと庭の方へ回り、縁側の戸を叩く。この向こうの座敷が、彼の部屋だった。以前は、彼はこの真上の二階の部屋に居り、僕は声を掛け手を振って彼を呼んでいたのだが、空襲警報が多くなり家々が夜間窓を閉めるようになった為、それが出来なくなった。彼は僕に呼ばれてすぐ気付くように、両親に訴えて部屋をこちらに替えて貰ったのだという。
「誠吉、居るか?」
声を掛けると、僅かに戸が開いて優し気な顔の青年が顔を見せた。
「カズ? どうしたんだよ、こんな夕方に?」
昨日も軍需工場で顔を合わせたはずの彼──飛鳥井誠吉の顔を見ただけで、僕の中で何かが決壊してしまった。赤紙を受け取ってからずっと白濁色に濁っていた視界が滲み出し、彼と過ごした十九年間の思い出が、川面に晒した布の下から水が染み出すように次々に浮かび上がり、また記憶の奥底に消えていく。
僕は嗚咽を堪えようと歯を食い縛ったが、彼の名を呼ぼうと口を開いた瞬間咳き込むように震えた声が漏れてしまった。
「誠吉……ごめん。少し話したい事があるんだ。外、歩かないか?」
自分でも笑いたくなる程弱々しい声。今までは何をする時でも自分が前に立って彼を先導していた。彼はいつかこんな事を言った。
「不思議なんだよな。一人じゃ怖くて出来ない事でも、カズが居れば何でか出来るように思うんだ」
今まで僕は彼にとって縁になっていた。それなのに、今その僕がこれ程情けない姿を晒している。自分がこれでは、彼はもっと不安になるだろうに。
これじゃあ、僕の門出を晴れがましく見守る事も出来ないよな、と自己嫌悪の念に駆られていると、彼が声を掛けてきた。
「……何かあったんだね。いいよ、少し歩きながら話そう。今日は俺が先を歩く日だ」
滲んだ目から溢れないよう上を向いて堪えていた涙が、遂に溢れ出して目尻から頰に伝い始めた。
* * *
誠吉は僕の幼馴染である。幼少期、僕は入学と同時にこの街に引っ越して来た。それ以前から親しい友人が居た同級生たちの輪の中に入る事は難しく、最初の頃は彼らに声を掛ける事も出来ず、一人で皆が遊ぶ様子を傍観している事が多かった。
そんなある日、校庭の隅に居た僕が、同じように皆から少し離れて座っている少年を見つけ声を掛ける。それが誠吉だった。
誠吉の家・飛鳥井家は地主で、ごく普通の子供たちとは何処か生きる世界、見ている景色が違うと思われているらしかった。彼自身は幼さ故かそんな事は意識した事がなかったらしいが、他の同級生たちは敏感だった。
近寄りがたい雰囲気を感じ取っていたのか、彼は入学以前から他の子供たちから避けられていた。仲間外れにされているという訳ではないが、変に近寄って問題を起こし、飛鳥井家に目を付けられたくないと思っていたのか、それとも親たちからそう教えられていたのか。本当のところは分からないが、彼はその出自に彼自身の引っ込み思案とも言える大人しさも相俟って、友人と呼べる存在は居ないと言った。
「じゃあ、俺が友達になるよ」
僕は彼と話していきなり、そんな事を言った。
それが嚆矢となり、僕と彼はよく一緒に遊ぶようになった。当然僕には時が経つに連れ他の友人も出来たし、子供たちも成長して彼の事を理解したのか、彼にも僕以外の友達は出来た。だが、あれから十年以上経った今でも僕と彼はいちばんの親友で在り続けた。
戦争が始まった一九四一年からは不安の連続だった。国家総動員法と人手不足により慣れない軍需工場で働く事になった時も、徴兵検査で二人揃って甲種合格となった時も、そして先日、東京で大空襲があったと知った時も。
都度都度僕たちは不安に駆られ、その度二人で励まし合った。二人で居れば、根拠もなく安心だと確信出来た。親も教師も、周りの大人たちは何度も「国民が一丸となり戦えば神風が吹く」と神国である日本の勝利を教え込んできたが、大人たちのどんな言葉より、お互いの存在自体が僕たちにとっての精神的支柱だった。
二人なら、この戦時下でも挫ける事はないだろう。そう信じていたのだが、もう僕たちは一緒に居られない。
「誠吉……落ち着いて聞いてくれるか?」
飛鳥井家の屋敷を出て横町を歩きながら、僕は切り出した。
「俺に、赤紙が来たんだ……明後日、俺は駐屯地に行く。分かるか、俺はもうすぐ戦地に行く事になるんだよ……」
「………!」
誠吉ははっとしたように足を止め、僕を振り返ってきた。表情が目まぐるしく変化する。驚愕、困惑、逡巡、そして悲哀。彼は痛みを堪えるかのように口元に力を込めると、俯いた。僕も、彼と同じ──いや、もっと酷い顔をしているだろう。
「俺はもうすぐ……死ぬんだよ……!」
こんな台詞を、こんな悲愴な声で叫んでいるのを聞かれたら「それでもお前は日本男児か」と罵倒され、意気地なし呼ばわりされるだろう。周囲の建物の中に声が聞こえないよう押し殺した声で零したが、噛み殺したせいで余計に歪んだ声になってしまった。
彼は暫しこちらを戸惑うように見ていたが、やがて一言だけ口にした。
「……そっか。それは……寂しくなるな」
「『おめでとう』って、言ってくれないのか?」
「だってカズ……怖いだろ?」
彼は、僕の心の臆病な部分を、正確に突いてきた。彼の言葉を放った声が、揶うようではなく何処までも深い悲しみを湛えていたのが、余計に辛かった。
「怖くなんかないよ!」
僕は今度こそ叫ぶ。願わくば、その叫びで迷いが吹っ切れるように。
「怖いなんて思わない! 光栄じゃないか、お国の為に死ねるんだったら……しっかり戦って、それで死ぬとしても靖国で……」
「……誰にも言わないでくれるかな?」
彼は、僕の言葉を遮るように口を挟み、不意に近づいてきて耳元で囁いた。
「俺は、凄く怖い。天利も、大鷹も、俺たちの同級生で戦地に行った奴は皆死んじゃったじゃないか。しかも、帰ってきたのはお骨じゃない、紙切れ一枚だけだ。こんな事、これから出征する奴に言う事じゃないかもしれないけど……俺、君がそうなったらって思うと……もう、カズには会えないんだなって思うと、それだけで怖い」
「誠吉?」
僕は、思考が停止する。すぐ近くにある彼の顔は、先程までの僕以上にぐしゃぐしゃに濡れていた。目は真っ赤で、止め処なく涙が溢れている。
突然、肩に両腕が回された。
「靖国で天利たちに会えるとか、関係ないんだよ。君が居なくなるって事だけが嫌なんだよ……何で、一緒じゃなかったんだろうな。一緒に合格だったのに……あの時一緒に即時入営だったら、俺だけ残される事もなかったのに」
僕は恐る恐る、彼の背に手を回す。体温が伝わった時、僕は何故自分がこれ程までに怖がっているのかに気付いた。
──天皇の寿ぐ神国日本。神風の吹く国。負ける事はない。お国の為に命を捧げなければならない。戦争で死ぬのなら光栄な事だ。
大人たちに言われた事は最早疑う事の出来ない観念になっていたはずだった。それでも自分が恐れる理由。それは、彼に会う事がもう出来なくなるという事に対する怯えだった。
幼い頃からずっと傍に居た彼。出征すれば、多分二度と会えない。当たり前だったもの、それでいて大切だったものが消えるという事が、僕をこれ程までに怖がらせているのだ。
「帰って来て……って言っちゃいけないよね。でも、俺の気持ちとしては、帰って来て欲しい。その時俺がこの街に居るのかどうかは分からないけど……」
僕ははっとする。僕に来たという事は、彼にももうじき赤紙が来るだろう。僕が生きても死んでも、彼が生きても死んでも、二人でまた生きて会える可能性は皆無に近い。それでも、願わずにはいられなかった。
「またいつか……会えるといいな。靖国でじゃなくて、生きて、この街で」
ぽつりと漏らすと、彼は体を離し、無理矢理口元を動かした。最初の何度かは戦慄いて上手く出来ていなかったが、やがてそれは今までと同じような笑みに変わった。
「出発は明後日、だよね。だからまだ、さよならは言わないでおくよ。明日は準備が忙しいだろうけど、少し俺の家にも来てよ。一緒に話そう、今までと同じようにな」
「ああ、暫らく……お暇だからな」
俺は目を拭うと、微笑み返し、「帰ろう」と彼に言って元来た道を引き返し始めた。
彼が隣に並んで、歩調を合わせてくる。家々の間から零れてきた夕暮れの、燃えるような鉛丹色の光が、涙でしとどに濡れた彼の横顔に映えていた。