「彼女と先輩」(『スクリフェッド』)⑤
* * *
「その……浴衣の事は、ごめん」
幸い大した事はなく、すぐに水洗いしたらカフェオレは染みを残さず落ちた。だが濡らしたままでは居られないので、私たちは裾を掴んで絞りながら、暫し洗面所に佇んだ。
「あの……二人とも、怒ってない?」
ニーカが心配そうに尋ねてくる。ユーフォリナは、首を傾げた。
「浴衣の事だったら大丈夫よ」
「そうじゃなくて……あたしが、抜け駆けした事」
「クリード先輩の事?」
「そう。実を言うとね、お祭りの間、ずっと不安だったの」
彼女は、指先で忙しく帯の手を弄りながら言う。
「ほら、毎年花火大会に行くって事を切り出すのはユーフィちゃんでしょ? 今年はお誘いが来なかったから、最初はハミィちゃんとユーフィちゃんが気を遣ってくれたのかな、って思ってた。でも、二人が一緒にあの丘に来た時、ちょっとびっくりしたの。あたしの事、わざと誘わなかったのかな、って……」
そういう事か、と私は納得する。最初に「何でここに居るの?」と尋ねてきたのも、その為だろう。
「先輩とニーカが一緒に来るだろうと思って、声を掛けなかったのは本当よ。でも、別に私たちは怒っていた訳じゃない。そうだよね、ハーミィ」
ユーフォリナに確認され、私は今度ははっきりと肯く。
「そりゃ二人が恋人になったって聞いた時複雑だったのは確かだけど、おめでとうって思う気持ちは本当だし、抜け駆けだなんて思ってないよ」
「でも……ユーフィちゃんとハミィちゃん、お祭りの間ずっと、何処かよそよそしい感じだったじゃない。無理して明るくしているみたいな……」
「気を遣っちゃうのは仕方ないでしょ。でも、それでよそよそしく見えていたんだったらごめん、誤解させるような態度取っちゃって」
「……本当に、あたしの事怒っている訳じゃないの?」
「本当よ。ちょっと、羨ましいなっては思ったけどね」
ユーフォリナは頭を下げたまま言う。彼女の殊勝な謝り方に釣られるように、私も「ごめんね」と言って頭を下げた。
「あたしたち、まだ……そういう事、してないよ。先輩をお招きする時も、トランプしたり、おやつ作ったりするだけ。寝る時だって、二段ベッドを分けて使うだけだから……服もちゃんと着るし、シャワーだって別々に使ってるし……信じてくれる?」
早口になるニーカの背を、ユーフォリナは宥めるように撫でた。
「信じるし、もし何かあったとしてもあんたたちは恋人同士なんだから、私たちが口出しする事じゃないって。さっきは私も調子に乗った。本当に深い意味があってとか、あんたに嫌がらせをしようと思って聞いたとかじゃないの」
「そう……でもあたし、あたしが先輩への想いを叶えたからってユーフィちゃんたちと距離が開くのは嫌だよ。だから、あんまり気を遣うとか、あたしたち二人の行為を話の種にするのとかは、しないで欲しいの」
「分かった。でも、私からもこれだけは言わせて。私は、いいえ、私もハーミィも、ニーカの事を友達だって思うのは変わらない。あんたも、あんまり深く考えて罪悪感を持ったりとかはしないでね」
「気を付ける。気を付けるけど……ユーフィちゃんが、あんまりにも変な話し方するんだもん……」
気を遣うような話し方だったら、どちらからという訳でもなくニーカもしていたではないか、と私は思ったが、口には出さなかった。確かに彼女の立場からだったら、あのぎこちない空気からのユーフォリナの問いは、誤解を招いても仕方なかったのかもしれない。
ユーフォリナは「本当にごめん」ともう一度謝る。ニーカはそこで、やっと安心したように表情を和らげた。
* * *
私とユーフォリナ、クリード先輩がニーカと別れたのは、先輩の宣言通り彼女の寮の前だった。先輩はこれから庁舎に戻らないといけないが、彼女が部屋の前まで行くまで見送っていた。
「先輩、今日はありがとうございました。楽しかったです」
「僕も楽しかったよ。ごめんね、仕事が入っちゃって。来年もまた一緒にね」
先輩は「おやすみ」と手を振る。ニーカも手を振り返し、部屋の中へと入って行った。
私とユーフォリナは、自分たちの部屋のある寮への帰途に就く前に、並んで先輩に向き直った。
「クリード先輩、今日はありがとうございました。コーヒーをご馳走して頂いた事も……」
「いいよいいよ、気にしないで。後輩には優しくしないとね」
先輩は言い、それから少し改まって真面目な顔になった。
「二人とも、ニーカの事宜しくね。ほら、彼女も言っていた通り、最近経営法学科は研修とか色々あって、サークルにもなかなか行けないからさ。僕と付き合う事になったのはいい変化には違いないんだけど、それで君たちとの時間がなくなっているのも事実だし……」
「ニーカが、何か言っていたんですか?」
ユーフォリナは、カフェでのやり取りもあってか、眉を潜めて尋ねた。
「いや、特には……でも彼女、何だか最近寂しそうだからさ。僕は男として、出来る限り彼女を大切にするけど、恋と友情は一緒くたに出来ないものだよ。だから君たちも、ニーカと変わらず友達で居てあげて欲しい」
「ええ。それは、そのつもりですよ」
「良かった。……じゃあ、またね。ユーフォリナちゃん、明日は宜しく」
言うと、先輩は小さく手を振った。私たちはもう一度お辞儀し、寮の方へ歩き始める。出来ればもう少しだけ先輩を見ていたかったが、それをしてはカフェでのニーカに申し訳ないような気がしたし、先輩も私たちが見えなくなるまで見送ろうとするだろう、と思ったので、大人しく踵を返した。
濡らした浴衣一枚で、祭りの熱で汗ばんだまま夜風に当たりすぎたからかもしれない。私は小さくくしゃみをした。